今月の13日から一ヶ月にわたり、下北沢のトリウッドを会場に『海外アートアニメーション@トリウッド2008秋』がひらかれるそうです。
今回の特集の目玉は、ずばり北欧アニメーション。ノルウェー、スウェーデン、そしてもちろんフィンランドのショートアニメーション19作品が一堂に会します。特に、昨年度のアカデミー賞最優秀短編アニメーションを受賞したノルウェー出身のトーリル・コーヴェ監督による『デンマークの詩人』は本邦初の一般公開ということで見逃せません。
北欧をふくめ、ここのところ日本のアニメーションが海外で人気だという話はよく耳にします。先日来店したフィンランド人のユッカも「ハチクロが好き」などと言ってましたが(アニメっつーかコミックですね、これは)、北欧のアニメーションというとなかなか目にする機会がないというのがじつのところ。こういうチャンスにぜひその世界に触れてみたいものです。
情報提供は、関西在住なのに東京近辺の最新北欧事情にもめちゃくちゃ詳しいねこ女優/シネマスタイリストのmicさんでした。
昨日は突然のお休み、たいへん失礼いたしました。
じつは、気がついたら冷蔵庫の中がたいへんなことに・・・。こんな状態↓になっていたのでした。
気がつけば、というのはまあ、言葉のあやであって、知ってはいてもまとまった休みでもないかぎり冷蔵庫の電源を落とすわけにもゆかず、やむなく放置していたらヒマラヤ級の氷壁に成長してしまったというのが実情。
それでも一日あればなんとかなるだろうとタカを括っていたのですが、火曜日じゅう冷蔵庫とにらめっこしていたにもかかわらずラチがあかず(北極の氷はガンガン溶けているというのに)、やむなくもう一日かけて、しかも家から持参したマイナスイオンのでる飛び道具まで駆使してなんとかかんとか巨大な氷を退治したのでした。
業務用の冷蔵庫は、家庭用とちがって自動で霜取りをしてくれるわけではないので(すべてではないけれど)じぶんで営業中にマメに霜取りをしてやらなきゃならないとのこと。とりわけ外気との差が激しい夏場、頻繁に扉の開け閉めをする店でこういったトラブルは多いらしい。いちどついてしまったら、あとは電源を落として「自然の法則で溶けてなくなるまでじっと待つしかない」(サービスセンターの担当者談)。何日かかるんだ、いったい。
というわけで、いい勉強になりました。で、せっかくなのだからと猛暑の中、そのまま遅番のスタッフとともに「大掃除フェスティバル」へ突入。ずっと気になっていたものの、冷蔵庫同様手をつけられずにいた部分を徹底的におそうじしました。これで、またお客様を気持ちよくお迎えすることができます。
ぜひ足をお運びください。お待ちしております!
目とハナの先のギャラリー「feve」さんでは、6日[土]より文筆家、COW BOOKS代表にして、雑誌『暮らしの手帖』編集長でもある松浦弥太郎さんの写真展《10 essays.》がひらかれます。
展示にあわせて写真コラージュとfeve books 3の販売もあるそうです。雑誌『Coyote』に連載されていた《グッデイ!》のような、旅心をくすぐるような作品と出会えそうで楽しみです。会期は十三日[土]まで(十日はお休み)、週末には松浦さんご本人もいらっしゃる模様。
9月の13日か14日だかに、東京か名古屋に大地震がくるらしいですよ。
スタッフのひとりがそう言うのだった。そういえば、ジュセリーノとかなんとかいう予言者がそんな予言をしていると、いつだったか電車の中吊り広告で見たおぼえがある。でも、スタッフの話はさらにエスカレートしていて、それはじつはアメリカが「地震兵器」の実験をするためなのだという。どうやらそこには、同盟国を壊滅状態にしてそれをまたどこかの国のせいにして戦争を正当化しようという魂胆が働いているらしい。福田首相の唐突な辞任も、じつはこの極秘情報を知った首相が怖じ気づいたせいなのだそうだ。
心配で仕方ない。そう、スタッフは言う。もっともな話だ。
それはそうと、
わたし、きのうセミ踏んじゃいました。最悪です。
と、おなじスタッフは言ったのだった。地震を気にするのもいいが、ちょっとは足下のセミにも気をつけたほうがいいんじゃないか?言いたいのはそういうことである。
吹く風はめっきり秋らしくなってきました。それもそのはず、いま本屋さんに並んでいる雑誌はみな「10月号」なんですよね。というわけで、
まずは雑誌『LEE』2008年 10月号」から。「平澤まりこさんと歩く吉祥寺かわいいめぐり」という特集に、ちらっと登場しています。NEW OPENをふくめ吉祥寺界隈の雑貨屋さんなどすてきなお店が網羅されていますので、「吉祥寺はあんまりわかんないんだけどぜひ行ってみたい」というひとにおすすめの絶好のガイドマップです。
次に、雑誌『Lucere!』2008年 10月号」です。「自転車で行ってみたい!トーキョー女性オーナーの雑貨店ツアー」という特集の中、「ちょっとひと休み」ポイントとしてmoiが登場しています。なんといっても秋は自転車には絶好の季節ですからね。と言いつつ、ぼくはというと坂道にめげて近ごろは完全に電車通勤オンリーですが・・・
そして、雑誌『SEDA』2008年 10月号 」は吉祥寺を舞台とした映画『グーグーだって猫である』のタイアップで、「小泉今日子&上野樹里がナビする吉祥寺」という特集。残念ながら映画とはまったく関係ありませんがmoiも登場しています。よろしくお願いします。
もうひとつ、雑誌『saita』2008年 10月号」でもとりあげていただいています。こちらは「吉祥寺」からはなれて「今、話題のお店やテイストを手本に3分で自宅のテーブルを『旬カフェ』にする方法」という特集です。「旬カフェ」というのはちょっとなんかアレですが、おうちで友だちをもてなすといったときちょっと参考にはなるかもしれませんね。
街でみかけたらぜひ手にとってみてください。
ムック『北欧のあたたかい部屋づくり』(SEIBIDO MOOK)に掲載されています。
こういう仕事をしていると、ときどきインテリア雑誌などの編集をされている方から「自宅を取材させてほしい」といった依頼をうけることがあります。どうやら、自宅には北欧家具やらお宝アンティークやらがあふれていると思われているようなのですが、もちろん
そんなことはありません
よって、お断りさせていただいています。たしかに、思い出の品やほんとうに気に入ったものなどまったくなくはないのですが、基本「物欲」がないので現地に行っても見るだけで満足、買って帰ろうという気にならないのです。なので、この本に紹介されているようなおうちを見ると思わず「すげぇ」と呟いてしまうのでした。
好きな映画がまた一本ふえた。
ジャック・タチの『パラード』。いまさらながらという感じだが、じつはまだこの作品観ていなかったのだ。「ジャック・タチ晩年の作品」という以外なんの情報もないまま借りて観たのだが、この映画はいい。すごくいい。一気に作品の世界に引き込まれてしまった。
ある日のサーカス小屋を舞台に、芸人やミュージシャンたちが次々に登場しては自慢の「芸」を披露する、とまあ言ってしまえば「あらすじ」はただそれだけ。ジャック・タチはというと、「サーカス団の団長」として自慢のパントマイムをまじえつつ狂言回しの役をつとめている。でも、じつはこのいたってシンプルなつくりの中に喜劇人としてのジャック・タチの「夢」がぜんぶつまっているのだ。それは、「パフォーマンス」というのは芸人(の「芸」)だけで成り立つものではなく、その空間、舞台裏を支える職人たち、そしてなんといってもその場に居合わせる観客たちとの「協働作業」によってはじめて完璧なものになるという、劇場で育った舞台人タチならではの感覚であり、それをこの作品でタチは理想的な条件の下「実現」したといっていいかもしれない。舞台から出発したタチが、映画の世界を経てふたたび舞台へと帰ってきた。おかえりなさい、ジャック・タチ!『パラード』はそういう作品である。
芸人たちが繰り出す「芸」、そのひとつひとつが楽しいしテンポもいい。もちろんスポーツをネタにしたジャック・タチのパントマイムもほんとうにおもしろいのだが、くわえて印象的なのがこの映画全体を彩る「色」である。赤、青、黄、パラードを象徴するにぎやかな色彩が舞台に、そして客席にあふれかえっていて、観ているこちらまでなんだかワクワクと心が浮き立ってくるのだった。ジャック・タチの「粋」。そういっていい「色」の使い方である。
ここからは余談。観ている最中、観客たちの顔がどうも北欧のひとに見えてしかたない。ジャック・タチが紹介するミュージシャンの名前にもなにやらスウェーデンの匂いが。そしてエンドロール、つぎつぎに現れる名前はまぎれもなくスウェーデン人!あとになって調べてみればこの作品、スウェーデンのテレビ局からの依頼で制作されたものだそう。しかもジャック・タチの「遺作」とのこと。
ほかでもないこの映画で人生をしめくくることのできたジャック・タチは、やはり「幸せ者」と呼んでいいと思うのだ。
朝、地震で目をさました。いきなりガガガッと強い揺れがあり、ぴたりと止んだ。おかしな揺れ方の地震だった。あまり安定のよくない置物がことりと倒れたのと、いつもはけっして起きない妻が目をさましたので「震度4」と確信したのだが、気象庁の発表によると「震度3」。なんだか釈然としない。
それにしたって地震はやはりこわい。このあいだの予言騒動があったときには、これもいい機会だからと近所の安売り量販店で懐中電灯を買ってきた。AM/FMラジオつき、中国製、税込み1,880円。しかも安心のサイレンつき。おかげで毎朝仕込みのときラジオが聴けるようになった。ラジオつき懐中電灯のつもりで買ったものが、いまや懐中電灯つきラジオである。
思うに、地震というのは地球がくしゃみするようなものなんじゃないか。くしゃみの前にはたいてい鼻がむずむずしたり、大きく息を吸い込んだりするものである。なので、大地震が起きる前にもかならずそういう鼻がむずむず的な前兆現象があってしかるべきだと、ぼくは信じている。じっさい、阪神大震災の前夜に横浜でみた月の異様さはいまでもしっかり脳裏に焼き付いていて忘れることができない。ただ、そのころはまだ異様な月と地震とを結びつけてかんがえるという習慣がなかった。あの地震以降、月や雲の様子だけは気にして見るようにしている。
備えあれば憂いなし。とりあえず、懐中電灯はOK。AM/FMラジオ、安心のサイレンつき。ただ、ラジオの聴きすぎで肝心なときに電池が足りないといったことになるのではないか、それだけが気がかりなのだ。
勝手ながら、明日9月25日[木]は都合によりお休みさせていただきます。この月曜日に亡くなった叔母の「お別れの会」に参列してきます。「叔母」と書きましたが、正確には祖母の妹にあたるので「大叔母」ということになります。「大叔母」ときくと、なんだかずいぶんと遠い人物のような印象をあたえるかもしれませんが、生まれたときにはすでに父方の祖母がひとり福島に暮らしているだけで、しかもその祖母も高校生のときに喪ってしまったぼくにとっては、大叔母の存在はある意味じっさいの祖母とおなじほど親しみのある存在だったのです。
生涯独身で、身体にすこしの不自由を抱えていた叔母(大叔母)でしたが、ぼくやいとこたちをそれこそ本物の孫のようにかわいがってくれました。ぼくらもぼくらでそんな叔母のことを親しみをこめ、あえて「モトおばちゃん」とは呼ばず「もっちゃん」「もっちゃん」と呼んでいたのでした。元気に自転車を乗り回していた叔母でしたが、十年ほどまえに大きな手術をしてからは体調が戻らず、ここ数年は都内のケアハウスでの生活を余儀なくされていました。その間チャンスはありながら、忙しさにかまけて叔母を訪ねることもなく時間が過ぎていったのですが、いよいよ危険な状況との話を聞き入院先の病院を訪ねるつもりでいた前日の晩、容体が急変し叔母が帰らぬ人となってしまったことは残念でなりません。そのかわりと言ってはなんですが、ぼくの記憶の中の叔母は病に疲れ果てた姿ではなく、元気なときの姿、声、そのままなのですが。
明日は郊外にある病院の教会で、身内だけでささやかに叔母を送ります。最後に、「ありがとう」と「さようなら」を伝えるためぼくもでかけるつもりです。
お客様にはご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
あすよりギャラリーフェブ Gallery feveさんでは、「いしげまりこ 手仕事と北欧雑貨」展がはじまります。
いしげまりこさんは、モイの中にある小さなポストカードショップ「コルッティ」で扱っている雑貨のセレクションなどでたいへんお世話になっている方。作家としても刺繍など手がけられていて、オリジナルの刺繍が入ったピンクションを白樺のかごやスウェーデン製の白木の針刺しにとりあわせたものは「コルッティ」でも人気です。
今回は「家」、そして「手仕事」をテーマに手を動かすことで日々の暮らしが楽しくなる、そんな提案をしたいとのこと。会期は4日[土]となりますので、ぜひお時間をみてお出かけ下さい。
きょうは、遅い夏休みで徳島から上京中のアアルトコーヒーの庄野さんが、忙しい合間をぬって顔を出してくださいました。
のんびりと過ごされるのかと思いきや働き者の庄野さんのこと、そうはゆかない様子。というわけで、
OKAZ DESIGN(オカズデザイン)さんのアトリエ「カモシカ」でひらかれている手作り靴屋uzura(うずら)さんの展示会「うずらまめ」にあわせて、あす月曜日、あさって火曜日の二日間「喫茶イベント」でコーヒーを淹れるとのこと。佐々木美穂さんのイラストによるオリジナルコーヒー缶の販売もあるそうなので、お時間のある方はぜひ遊びにいらしてはいかがでしょう。庄野さんとお話しできるめったにないチャンスですヨ。
ひさしぶりにイタリアの映画をみた。ナンニ・モレッティが監督、脚本、主演をつとめる『ナンニ・モレッティのエイプリル』である。
タイトルからもわかるように、みずからの「私生活」をみずからが演じつづったエッセイ風ムーヴィー。いつだったか、この作品に先立って撮られた『親愛なる日記』がぼくの周りでちょっと話題になっていてずっと気にはなっていたのだが、なかなか観るチャンスに恵まれなかった。けっきょくその『親愛なる日記』はレンタルビデオ屋にはみつからず、そのかわり目に入ったのがこの『ナンニ・モレッティのエイプリル』だったというわけだ。
感想は、といえば
── やたらと台詞が多い
それに
── 無駄にジェスチュアが大きい
そのわりに、
── おかしさがいまひとつ伝わってこない
といったところか。まあ、これはぼくがアキ・カウリスマキの映画に慣れすぎてしまったせいもあるかもしれない。とりわけ「台詞」と「ジェスチュア」の過剰さについて。もちろんイタリア人にだって寡黙な人はいるだろうし、フィンランド人にだって騒々しい人はいる。にもかかわらず、『ナイト・オン・ザ・プラネット』のロベルト・ベリーニとマッテイ・ペロンパーの好対照ぶりもあって、どうもぼくのなかではこの「図式」は完璧に固定化されつつあるようだ。
ああでもない、こうでもないと考えぬいたあげく「胎教」のためにと観にいったアメリカ映画を、「とんでもない愚作を(生まれてくる赤ん坊に)観せてしまった」と頭をかかえて後悔するシーンなどあまりに無邪気すぎて笑えなくもないが、短い映画にもかかわらず、映画につきあわされたというか、振り回されたというか、なんだかちょっとイライラとさえしてくるのだった。イタリアって疲れそう、と思いきやイタリア人がみな疲れていない(ようにみえる)のは、周囲も総じてマイペースだからにちがいないとこの映画を観て再確認。
なんでも彼のことを「イタリアのウッディ・アレン」などと呼ぶひともいるらしいが、どうだろう?この作品を観た限りでは、あまり似てないな。ウッディ・アレンのほうがはるかにウィットに富んでいるし、なんといってもエレガントだもん。空騒ぎのさなかでは、おかしみも哀れみも風刺も自虐もいまひとつ冴えきらず宙に浮かんで行き場を失う(そういえば「未来派」とかもそんな感じだよなあ)。たぶん、イタリアではウッディ・アレンは生まれないってことでしょう。