2004.10
> 2004.9
2004.8

いよいよ新学期
2004.9.1|info

こよみはかわって9月になりました。ということで、きょうは「9月のおしらせ」をすこしだけ。

まず、今月のおやすみはつぎの通りとなります;9/6[月]、13[月]・14[火]、20[月祝]、27[月]
※14日[火]はイレギュラーなのでご注意ください!

つぎにギャラリー展示関連のお知らせです。

開催中の「Marjakerho・ベリー展」は今週いっぱい、5日[日]までとなります。

つづいて9/15[水]から19[日]までの5日間は、雑誌『Plat-form』によるイベント〈Plat-formが見つけた北欧の日用雑貨たち〉を開催します。店内物販スペースの一部を利用して、北欧旅行を通して出会った日用雑貨の展示&販売を行います。

そして、9/21[火]からはいよいよ、この秋の目玉企画「ひらいみもイラスト展『森のカモメ』」(写真)がはじまります。これは都内の12のカフェ、ギャラリーをむすんで開催される連動企画「アートと喫茶」の一環として、ひらいみも×moiのコラボレーションのもと実現するものです。

この夏、はじめてフィンランドの地を訪ねたみもさんが、フィンランドの森を自由に羽ばたきながらまるでカモメのような視線で描いた、インスピレーションを刺戟する半抽象・半具象の新作展となります。展示にさきがけて、イラストブック&オリジナルてぬぐいも販売中です。なお、現在池袋LOFTにて、ひらいみもさんのポストカード原画展が開催中(~9/12)です。お近くの方はぜひ!

では、今月もmoiでお待ちしております!

モアリ像
2004.9.2|column

何にみえますか?、これ。そう、 世界七不思議のひとつにも数えられる巨石人像モアイです。ところでこれ、いったい何からつくられているかというと、じつは色エンピツの芯なのです。

このモアイをつくったのは、たまたまふらりとmoiに立ち寄られた大阪の造形作家Mさん。「ほな作ってみますわ」と言うとおもむろに一本の色エンピツを取りだし、ごくふつうのカッターナイフを巧みにつかいながら、ほんの15分足らずであっさり完成させてしまったのでした。すごすぎ・・・。

聞けばこのMさん、その世界(?)では有名な作家さんのようで、実際みなさんもTVなどでかれの作品を目にした経験があるかもしれません。ちなみにこのモアイ、正式名称はモアリといって、来年商品化される話も進行中とのこと。というわけで、これはご本人の承諾をいただいての独占先行公開?!となります。

デカくてすげぇなモアイを、あえてとことんちっちゃくしちゃうその逆さまなスケール感がなんとも〈脱力系〉な逸品です。記念にプレゼントしていただいたので、ぜひ実物をみてみたいという方はお気軽に声をかけて下さい。

ジャズカフェ「3」
2004.9.3|cafe

その店の名前は「3」という。「3」と書いて「トリオ」と読ませるのは、そこの若い店主がジャズを、とりわけ「ピアノトリオ」をこよなく愛しているからだ。

その店は、ひとことで表すなら〈21世紀型のジャズ喫茶〉と呼ぶのがふさわしい。ラフに白くぬられた打ちっぱなしの壁、エーロ・サーリネンの赤いファブリックの椅子がならぶ店内は、一見はやりのカフェのようにもみえるけれど、いちばんよい場所をJBLのスピーカーが占拠しているあたり、なかなか「手強い」という印象を抱かせる。

ウナギの寝床のような細長い店内の、もっともおくに位置するのはガラスのパーテーションで仕切られた私語厳禁のリスニングルーム。煙草をくゆらせながら静かにリズムに身をまかせるおじいさんの横には、ボリス・ヴィアンの古本を熱心に読むおしゃれな女の子。この店の懐の深さを象徴する光景だ。

つけくわえるなら、ここの店主が淹れるコーヒーはなかなか旨い。黒光りする深煎り豆を、ネルでじっくりドリップする姿も堂に入っている。店主には彼の定位置があって、めったにそのポジションを離れることはない。そしてちょうどその背中で隠れる位置に、彼の〈神様〉であるジョン・コルトレーンのモノクロのポートレイトがひっそり飾られていることを、ぼくは知っている。

往年のジャズ喫茶がそうであったように、この店もまたリクエストを受け付けてくれる。ぼくはベルギーのピアニストIVAN PADUARTのトリオの演奏を。

雨の降りはじめの匂いを嗅ぐと、なぜだか無性にこのCDが聴きたくなるのだ。前の曲が終わる10分前になったら、ぼくはコーヒーのおかわりを注文しリスニングルームへと移動する。それは、リクエストした演奏が淹れたてのコーヒーの香りとともにはじまるための絶妙のタイミングであり、この店に足しげく通うなかで学んだささやかな知恵でもある。

そういえば、きのう航空便で届いたばかりの写真集はよかった。ヨーロッパじゅうの、雨に濡れた「石畳」だけで一冊まるごと構成されているうつくしくて、変わった本・・・そんなことをとりとめもなくかんがえながら、ぼくは演奏がはじまるのをゆったりと待っている・・・

ところで、残念なことに、こんな店はこの世のどこにも実在しない。あるお客さんとの会話がきっかけとなって生まれた絵空事。そのひとは、ついこのあいだまで外資系CDショップのJAZZ担当としてはたらいていた。そして、将来「喫茶店」を開くという夢をもっている。ぼくは、彼がこんな〈店〉をつくってくれないものかと秘かに願っているのだ。

センスがいい
2004.9.4|column

ふと、おもってしまったのだ。

センスがいいという表現はなかなか便利なので、しばしば無意識のうちにつかってしまう。けれども、いったいひとは何をもって「センスがいい」と言うのだろう、と。

ぼくはこうかんがえる。「センスがいいひと」とは「じぶんを知っているひと」のことである。たとえば洋服を買うとき、センスのいいひとは「着たい服」よりも「似合う服」を選ぶ。ひとはじぶんの持っている以上のものを欲してしまう生き物なので、たいがい「着たい服」を選んでしまいがちだ。それを「おしゃれ」と呼ぶことはできるかもしれない。けれども、「センスのいいひと」と「おしゃれなひと」とは同義ではない。

モノトーンの服を好む北欧の女の子たちのセンスのよさは、ブロンドの髪や白い肌にそれが「似合う」ということを〈知っている〉ことからうまれる。学生時代、フランス語の先生だったムッシュウ・バロスは、けっして「おしゃれ」とはいえない小柄で禿げ上がったおじさんだった。セーターはほつれ、コーデュロイのズボンのひざは擦り切れていた。けれども、渋めの中間色のグラデーションで全身をまとめ、ポイントに鮮やかな「さし色」をほどこした着こなしはいかにも「フランス人」らしく、センスがよかった。無理のない着こなしが、その飾らない人柄によく似合っていたのだ。

とすると、「センスがいいひと」とはじぶんの身の丈にあった生き方をしていて、なおかつそのひとの最良の部分がその立ち居振る舞いに無理なくあらわれているひとのことといえるかもしれない。センスのいい音楽、センスのいい暮らし、センスのいい服・・・世の中は「センス」であふれているが、もちろんなにか「センス」という実体が存在しているわけではない。それ本来がもつ魅力そのものが「センス」なのであって、それゆえ十人十色のものである。そしてそれが、音楽なり暮らしなり洋服なりといった「メディア」を介してカタチになったとき、それを目にしたひとはきっとこう言うにちがいない;「センスがいい」。

だからどうした?といわれれば、それまでの話ですが・・・

ボサノヴァの教科書
2004.9.5|book

ブックカバーなしでよみたい〈ボサノヴァの教科書〉が出ましたよ。

B5 books編『BOSSA NOVA』(アノニマ・スタジオ)がそれです。いつもお世話になっているbar bossaのマスター林さんがテキストを、カリスマ雑貨店「5(サンク)」のオーナーでもある保里さんがアートワークを手がけた、まさにかゆいところに手がとどく一冊。

ボサノヴァのルーツであるサンバ、ショーロから、ボサノヴァ以降のポピュラーミュージック(MPB)までが、たんなる史実のられつに終わることなく、たのしいエピソードをまじえながらソフトな口調でわかりやすくつづられています。紹介される音源にはいわゆる〈隠れた名盤〉も多いので、耳の肥えたリスナーでもじゅうぶん満足できるはず。また、後半にはボサノヴァをより深く楽しむための「ポルトガル語講座」なんて章もあって、空振り三振よりも見逃し三振を狙ったニクい内容とでもいいましょうか・・・。参りました。

ところで、この本の刊行にあわせて、林さんがコンパイルしたCD『BOSSA NOVA~compiled by bar bossa』(ユニバーサル)もリリースされました。今回はじめてCD化された曲や惜しくも廃盤になってしまった名盤からの曲などが中心で、とにかく買って損はしない一枚となっています。それになんといっても、保里さんがデザインした内ジャケ、すごくいい感じに仕上がってます。音楽への愛情がひしひしと伝わってきますね。必見。

これからの季節、秋の夜長に鼻うたまじりの"お勉強"なんて、なかなかしゃれてるとは思いませんか?

mamahiza project
2004.9.6|cafe

渋谷でカフェ・アンバー、アンバー・ギャレットを経営するいとうみなこさんにお会いしました。

年末のオープンにむけていとうさんが準備中のウェブサイト「ままひざプロジェクト」のためのインタビュー取材だったのですが、カフェ好きの方、カフェの開業をめざす方を対象にカフェオーナーの側から情報を発信してゆこうというもので、カフェに関心のある方にとってはなかなか面白いサイトになるのではないでしょうか。たのしみです。

ところで、いとうさんは前出のふたつのカフェの経営者であると同時に、銀座の料亭の若女将という顔ももっていらっしゃいます。もともとカフェをオープンされたのも、若いひとたちに本物の日本料理を知ってもらいたいという「若女将」としての〈使命感〉からだとか。言葉がふさわしいかどうかはべつとして、こうした〈啓蒙〉、たいせつだとおもいます。おなじ目線にたつこともたいせつですが、お兄さんはお兄さんらしく、お姉さんはお姉さんらしく下の世代と接することも必要です。受け継ぐことと受け渡すこと、そこから「時代」はつくられるからです。

カフェなんてほんとちっぽけな「点」でしかありませんが、「点」どうしがむすばれて「面」をつくるとき、そこにはぼくらの想像をこえたパワーがうまれるってことだってあるかもしれません。ふだんカフェのオーナーどうしのヨコのつながりなんてあまりないのですが、そんな可能性を垣間みたようなひとときの出会いでもありました。

コーヒーをおいしく
2004.9.7|cafe

カフェでなにがしたいのかというと、つまるところコーヒーをおいしく飲んでもらいたいのではないか、とおもう。もちろん、この「コーヒー」の部分を「紅茶」にかえてもいいし、もっとなにかべつの飲み物の名前をあてはめたってかまわない。たいせつなのは、おいしく飲んでもらうということにある。

カフェというのは、おいしいコーヒーを飲んでもらう場所であるが、同時にコーヒーをおいしく飲んでもらう場所でもある。インテリアもBGMも、すべてはそのための手段にすぎないし、徹底的にこだわった一杯のおいしいコーヒーですらおなじである。いちばんたいせつなのは、コーヒーを飲むひとの、つまりお客さんの心持ちなのである。

「、」や「。」がない文章が読みづらいように、句読点を欠いた生活は窮屈で息苦しい。ちょっとばかり疲れたのでコーヒーをのもう、いい本をみつけたのでコーヒーをのもう、ひさしぶりのともだちと会うのでコーヒーをのもう、やけにせわしないのでコーヒーをのもう、ただなんとなく、理由なんてないけれどコーヒーをのもう・・・そんなちょっとした、「句読点」を打つ心持ちは一杯のコーヒーをぐんとおいしく変え、日々の生活に瑞々しさをとりもどす。

コーヒーをおいしく飲めるひとは暮らし上手なひとであるにちがいないと、カウンター越しにぼくはかんがえている。それはまた、暮らし上手なひとがカフェを育てるということでもある。

カフェで書く手紙
2004.9.8|cafe

カフェで書く手紙は、どんなだろう。

あて先は家族やともだち、親しみぶかい気のおけない相手がいい。「元気ですか?」「きのうはありがとう!またゴハン行きましょう」「土曜日会えるの楽しみにしてます!」・・・そんな他愛のないほんのひとこと、ふたことをさらりと伝えるなら、いちばん気がきいているのはやっぱり「手紙」だ。

わざわざメールするほどのことでもないし、かといって携帯メールじゃあんまり味気ない。それになんといっても、受けとったときのうれしさの最大瞬間風速では「手紙」の右に出るものはない。

カフェで手紙を書くって、どんなだろう?

ふだんはなかなかその気にならなくても、カフェでなら軽い気分で手紙が書ける。カフェで書く手紙は、だから、そんなリラックスした気分を相手に届ける手紙でもある。

──

写真は、moiであつかっている脇阪克二さんのポストカード(新柄も入荷しました)。マリメッコのテキスタイルデザイナーとして、また最近では雑誌「婦人之友」の表紙絵でもおなじみですね。

moiでは、手紙を書きたい方のためにペンや切手、オリジナルスタンプなどご用意しています。また、店を出た目の前にポストもあるのですぐ投函できます。手紙が書きたい、そんなときはどうぞ気軽に声をかけてください。

モノをつくるひと
2004.9.9|column

モノをつくるひとをぼくは無条件で尊敬してしまうのですが(というのもぼくにはそうした素養がゼロなので)、きょうはそんな思わず尊敬のまなざしで仰ぎ見てしまうようなひとたちがmoiを訪ねてくださいました。

まずは、以前みせていただいた手づくり写真集が印象的だったフォトグラファーの佐々木さん。じぶんで撮った写真を、ただアルバムにおさめるのではなく、カラーコピーを駆使して、レイアウトにも配慮してつくった世界で一冊だけの写真集。すごく楽しげで、いい感じに仕上がっていました。こういうやり方もあるんですね。目からウロコ。いつかぜったいマネしてやろうとたくらんでます(笑)。夏草の匂いがするような「夜明け」の写真もよかったです。

「常連」の山口くんと田代くんは大学生。大学のサークルで映画を撮っています。moiもちょっとだけ撮影協力させていただく予定。よい作品を期待してます。ちなみに荻昌弘はこういうひとです。

そして、11月にmoiで展示をしていただくことになったクジャクドウザッカテンの野口さん。万華鏡をつくったり、キャンドルをつくったり。液体をつかった万華鏡や景色が映りこむ万華鏡など、ひとくちに「万華鏡」といってもいろいろあるんですね。けっこうハマってしまいました。11月の展示は、ぜひみなさんに覗いてもらえるようなものにしたいとのことなのでお楽しみに。

ところで、野口さんはまたキャンドル(写真)もつくってらっしゃるのですが、無色透明のロウというのがあることをはじめて知りました。そこでちょっとしたアイデアがひらめいて、さっそくオーダーしてしまったのですが、展示にあわせてみなさんにもお披露目できるかと思います。お楽しみに。

それにしても、みなさん「モイぶろ」ことこのブログを読んでくださっているのですね。驚きました。みなさん見てますかぁ?

初秋の味
2004.9.10|info

まだまだ暑い日はあるものの、日射しにいっときほどの勢いはもはやなく、ようやく「秋」が近づいてきたことを実感できるようになってきました。

そしてそのことを裏づけるかのように、今週お楽しみいただいているWILL cafeのケーキは、まさに「秋」を先取りした逸品「無花果(いちじく)と紅茶のケーキ」(写真提供/WILL cafe)です。

今が旬の「無花果」のとろりとした果肉の甘味とプチプチした食感が、アールグレイの風味とともに口の中ふわりとひろがります。その印象は、上品にしてゴージャス。じつはふだん「無花果」なんてほとんど口にしないのですが、あらためて食してみるとなかなかに味わいぶかいものですね。

みなさんもぜひ、舌の上でちいさな「秋」と出会ってみませんか。

荻窪
2004.9.11|cafe

店についてたずねられるとき、よくこんな質問をうけます。なんで荻窪なの?
これはまた同時に、どういう店をめざしてるの?という「問いかけ」でもあります。

ぼくがつくりたいのはおいしいブレンドコーヒーのような店です。そしてそのためには、「荻窪」のようにさまざまなキャラクターの人々が暮らす街であることが必要でした。moiは、いってみれば、そんなブレンドのための「器」なのです。

伊藤博『コーヒー おいしさの決めて』によると、「ブレンド」とは「単品の個性を生かしかつ抑え、単味を越える味の開拓技法」のことをいい、そのめざすところは「各種の豆の巧みなブレンドによって、より豊かな味の調和と広がりを求めること」にあると書かれています。

う~む、なんだかむずかしそうですね~。お店を例にしてカンタンに言ってしまえば、いろいろな個性をもった人々がバランスよく混じりあったとき、そこにはどんな店にも負けない個性と奥深さがうまれるといったところでしょうか。

moiでもごくまれにですが、お客さんどうしの個性がとてもいい具合にブレンドされているなぁと感じる瞬間があって、そんなときには思わず、じぶんの立場も忘れて「この店、いい店だなぁ」とうっとりしてしまいます(笑)。まあ、すぐ現実に引きもどされますけど・・・。

いちどでも「荻窪」を訪れたことがある方ならばだれでも、そこがさまざまな種類のひとびとが暮らす街であることに気づかれることでしょう。あるいは雑然とした印象をうけた方もいらっしゃるかもしれませんが、それは老若男女、さまざま職業、さまざまな個性をもつ人間のあつまるところであればむしろ当然のこと、「真っ当さ」の証といえます。「団地っ子」として育ったぼくには、それがよくわかるのです。

ただ、ご想像どおり、そうした場所でビジネスをすることにはリスクがつきものです。学生街、オフィス街、ギョーカイ人の街などなど、ターゲットが明確であればあるほど商売はやりやすくなるからです。思えばむかしから、度胸も忍耐もないのに厄介なことにばかり首をつっこんできたような気がします。だからいまも、またやっちゃった!って感じなのですが、なんとか土俵際でふんばっていればいつかは相手がコケるときもくるサと、じぶんに言いきかせつつ奮闘する日々であります。

PS.お引っ越しをご検討中のみなさん、ぜひ「荻窪」も候補地のひとつにくわえてみませんか?!

サルミアッキでネタ
2004.9.12|finland

サルミアッキ(*)でネタをひとつ・・・

*サルミアッキとは、フィンランド人がたいへん好むキャンディーのこと。「塩こんぶ」をさらに過激にしたようなその「あまじょっぱい」味覚は、ときに「世界一まずいキャンディー」と形容されるほど。リコリス(甘草)のエキスや塩化アンモニウム(!)などを原料とする。フィンランド上級者たちのあいだではなかば「踏み絵」と化しており、平然とパクつけることがステータスともされる?!

以下は、「ギター侍」風にお読みください。

♪ワタシ わ~た~し フィンランド好き
I love ラブラブ フィンランド
「サルミアッキだって、わたし案外平気ですゥ」
って、言うじゃない・・・

でもアンタ、無理してサルミアッキ食べれるようになったその「根性」
シンナーに手を出すヤンキーといっしょですから!残念!!
胃の中で塩化アンモニウムと味噌汁が化学反応 斬り!

拙者、お察しの通り、きょうネタ切れですから 切腹!!

また来週~

ジョシシャシン
2004.9.14|column

よった写真がすきだ。被写体におもいっきりよった写真を、ぼくは勝手に〈ジョシシャシン〉とよんでいる。「女子」の「写真」で、「ジョシシャシン」。なぜかというと「女子」が撮った写真に、そういう写真がおおい気がするからだ。被写体へのあふれんばかりの〈愛〉が、〈彼女〉らをより近くへとかりたてる。完璧な構図や焦点よりももっと、被写体の息づかいを写しとることをもとめているかのように。

それともうひとつ、被写体の日常性も〈ジョシシャシン〉の特徴であるかもしれない。ともだち、見なれた景色、好きなものなど、男子的には「べつにそんなん撮らなくたっていいんじゃないの?」とツッコミたくなるような身のまわりのすべてが、〈彼女〉らにとっては格好の被写体となる。作為よりはリアルさこそが、〈ジョシシャシン〉のモチベーションとなる。

おもえば、それを意識したのはいまから10年近くまえのこと、雑誌「スタジオ・ボイス」がHIROMIXや蜷川実花といった若い女性フォトグラファーたちをさかんにとりあげていたころの話だ。とにかく、そのおもいっきりのよさや自由さ、そして一枚の写真からしたたりおちそうな瑞々しい情感が印象的で魅力的だった。その後、こうした側面を技法として意識化したような作品が巷にあふれるようになったが、そこには残念なことにいちばんだいじななにかが欠けていた。たぶん、被写体とむきあう〈よろこび〉が。

店をはじめて、お客さまから旅のスナップを見せていただく機会がすくなからずあるのだけれど、それはまたぼくにとっては〈ジョシシャシン〉と出会える格好のチャンスでもある。たんなる偶発的事故にすぎないのだろうけれど、そうして見せていただくスナップの数々はたいがい、〈ジョシシャシン〉とよぶに値する要件をじゅうぶんみたしている。目をキラキラさせながら街を闊歩し、ドキドキワクワクしながらシャッターを切る。こうしてうまれた写真は、なんといっても見るものをしあわせにする。

雨に洗われた木々の緑が、まるで新緑のように鮮やかに目にうつる瞬間がある。〈女子〉にとってカメラは、木々を洗うそんな雨のようにありきたりの日常をペロリと脱皮させ、たえずフレッシュに保つための本能的な〈ツール〉なのかもしれない。ぼくはそんなふうにかんがえている。

plat-formの雑貨市
2004.9.15|event

ミニコミ『Plat-form』を主宰するアイコさんが、フィンランドの旅のなかで出会った日用雑貨の数々を展示&販売するイベント、「Plat-formが見つけた北欧の日用雑貨たち」がはじまりました(19日まで)。

図柄がかわいい切手やノート、定番の日用雑貨などが大きな旅行鞄にぎっしりディスプレイされているほか、北欧関連の本をお茶をのみながら閲覧できる「Plat-formのミニライブラリー」と銘打ったボックスも用意されています。

また、このイベントのために制作されたフリーペーパーも必見です。5日間だけの小さなイベントですが、北欧が気になるという方にはまさにおあつらえむきの楽しい催し、ぜひぶらりとのぞいてみてください。


さてもうひとつ、キノイグルーの渡辺さんより次回上映会の速報がとどきました(10/16,17 読売ランド前「ザ・グリソム・ギャング」)。作品は〈日本のビリー・ワイルダー〉こと中平康監督によるコメディー「才女気質」(1959)!

じつはこの作品、昨年の特集上映で観ているのですが、ペーソスあふれるなかなかの佳作でおススメです!なつかしい京都の景色もふんだんに盛りこまれていますし、なんといってもイノダコーヒがなんども登場するのが最高です。ビデオ、DVD等には一切なっていませんので、次いつ観れるかはまったくわかりません。お見逃しなく!(詳細はまた追ってお知らせします)。

ソバ屋のマーチ
2004.9.16|column

音楽と空間との関係については、興味がつきない。BGMなどというなまやさしい次元をはるかに超えた、なんというかもっと〈暴力的〉な拘束力が音楽にはある、と気づいたからだ。

それは、上野のとあるソバ屋での出来事だった。そこはかなり広い店ではあったが、ちょうど昼どきだったこともあり、店内は近隣ではたらくサラリーマンらでごったがえしていた。相席はあたりまえ、それでもやってくる客はあとをたたない。運ばれてきたソバを半分ほどたいらげたところで、ふと店内に流れる音楽が耳についた。

── 「マーチ」だった。

いちど気づいてしまったからにはもうだめだ。やけに景気のいい「マーチ」が気になってしかたない。挙げ句の果てには、客がみんなマーチにあわせてソバをすすっているかのようにみえてくる始末・・・。

それにしたって、なんでこの珍妙な状況にずっと気づかずにいたのか。答えはかんたんだ。ソバ屋とマーチ、どうかんがえたって結びつくはずのないふたつの要素が、なぜかその空間ではごく自然に当然のごとく結びついていたからだ。せわしなくソバをすする人々とその間をいそがしく立ちはたらく女店員たち、厨房からきこえてくるおやじの怒声・・・マーチは、このランチタイムのプチ戦争状態のサウンドトラックとしては、まさに申し分のないものといえた。

おそらく数十年にわたって、客はこうして、その店で知らず知らずのうちに〈戦争〉に巻き込まれてきた。景気のいいマーチにのって、火の玉のような勢いでソバをすすり、そしてふたたび「仕事」という名の〈戦場〉へとかえってゆく。「高度経済成長時代」と変わらぬモーレツな光景が、その上野のソバ屋では今なお日常的にくりひろげられていた。一方、休日にそんな様子をのほほんと眺めているビューティフルなぼくはといえば、そこではあきらかに浮いた存在、さながら〈非国民〉であった。

くれぐれも、ソバ屋のマーチには気をつけなければならない。

architecture in helsinki
2004.9.17|music

その名もズバリ、アーキテクチャー・イン・ヘルシンキというバンドがあるよ、とおしえてくれたのはお客さまのNさん。こういうネタにはすぐさま飛びつきます。さっそく調べてみました。

このバンド名にぐぐっと身をのりだしたアナタ、おあいにくさま。残念ながらフィンランドのバンドではありません。オーストラリアのバンドです。しかも渋谷系(古いな)です。サイトのなかの" eleven things "というページでは、メンバーが思い思いの「11のこと」──「この夏にした11のこと」とか「二度と味わいたくない11のこと」とか──を挙げていて、「キミの『11のこと』もおしえてね」なんて書いています。ほほえましいですね。

ちなみにバンド名は「新聞にあったいくつかの単語をランダムに組み合わせたもの」で、「メンバーのだれもヘルシンキに行ったことはない」そうです。

サンプルを聴くかぎり、チープなギターポップをベースにエレクトロニカのスパイスをぱらぱらふりかけたといった感じのサウンドは、80年代っ子の耳には「なつかしい」といった印象。かれらはきっと80年代のネオアコやギタポが大好きで、レコード棚にはヤング・マーブル・ジャイアンツやモノクローム・セット、それにおなじくオーストラリア出身のバンドゴー・ビトゥイーンズなんかが並んでいるのではないでしょうか。この手のテイストがすきならば、反対にいま名前を挙げたようなバンドをきいてみるのもいいかもしれませんね。

余談ですが、トレンドというものは20年サイクルでやってくるという「定説」?!にしたがえば、かれらのサウンドを耳にして思わず「なつかしい」とつぶやいてしまった方は、そろそろ世間的には「惑っちゃいられないお年頃」にさしかかってきたということなんですよね(・・・ためいき)。

New Wave
2004.9.18|music

20年くらい前の話、「ニューウェーブ」はぼくらにとって音楽の趣味である以前に、生き方の問題だった。

1977年、ロンドンで火がついたパンク・ムーヴメントが引き金となって、80年代にはいるとたくさんの若者たちが楽器を手に、思い思いの音楽をプレイするようになる。たいていは歌も楽器もヘタだが、「表現したい」気持ちだけはだれにも負けない、そんな連中だった。

「売ること」を前提にしないぶん、かれらのつくる音楽はフレッシュで、自由で、そしてヘンテコだった。音楽産業を牛耳るメジャーレーベルは、そうした連中がつくる音楽を当然のように無視した。そこで彼らは、やむなくレコードを自主制作してじぶんたちで手売りしたり、その面白さに気づいた一部のひとが立ち上げたマイナーレーベル(インディーズなんて便利なことばはまだ存在しなかった)を通じて流通させたりしていた。

かつて聴いたことのない音楽をききたい、そんな欲求をもっていたリスナーたちがこうした音楽を〈発見〉するのに時間はかからなかった。マイナーレーベルのなかには、メジャー以上の影響力をもつものまで出現し、さすがのメジャーレーベルも無視できない存在になっていったのだった。「こんな〈新しいやりかた〉があったんだ」-メディアは驚きをもって、かれらのことを「New Wave」と名づけた・・・(※)

※このあたりのいきさつは「ボサノヴァ」誕生のエピソードととてもよく似ています。「ボサノヴァ」が、ポルトガル語で「ニューウェーブ」という意味であることはいうまでもありません。

ぼくがこのニューウェーブの洗礼をうけたのは、高校生のころ。それは、世にひろく出まわっているものが、必ずしも「よいもの」とはかぎらないという〈教え〉であり、「小」が「大」に勝つ、すくなくとも互角にわたりあえる、そういう世界が存在するという〈教え〉でもあった(このあたりはきのうのブログでコメントをくださったNさんなんかも同様なのではないでしょうか)。そうした〈教え〉は、いまだにぼくのなかでは息づいている。そして、なにか行動をおこすときの〈ものさし〉にもなっている。

ところで、ちいさなカフェであるmoiはそんな〈教え〉があってこそ生まれた店。ひとにぎりの良心的かつマニアックな?!お客さまに支えられているその姿にも、どことなくインディーズ(独立系)の匂いが漂っていたり・・・さしずめ20年後になつかしんでもらえるような店でありたいと、そう願うばかりである。

小咄のような
2004.9.19|column

気がつけば、ブログをスタートしてからちょうど2ヶ月がたちました。まだ2ヶ月・・・、か。その間、書いた記事の数はといえば、ぜんぶで68。ほとんどこんくらべといいますか、読むひとにも苦痛を強いる数ですね、これは。それでも日々読んでくださっている方がいるというのは、まったくもってありがたい話です。

つねひごろ、小咄(こばなし)のような文章が書きたいとぼくはおもっているのです。構成はしっかり、リズムはトントンと。ところがいざ書きあがった文章を読むと、ああ、なんてまどろっこしいんだろう、と・・・。

なぜ長くなってしまうかというと「説明」がいけないんですね。説明なんていらないような、だれもが知っているコトだけで書けば「小咄」のようにキレイにまとまるのはたしかなんですけど、そうするとこんどは「となりの家に塀ができてねぇ~」なんてコトしか書けなくなってしまうのもまた事実で、そんなブログいったいだれが読むんでしょう・・・

そんなわけで、よく、ネタさがし大変でしょう?といわれるのですが、書くからにはやっぱり読んでほしいので、むしろ「落としどころ」をさがすほうが実はけっこう大変だったりするのです。という、ちょっとした楽屋オチでお茶をにごさせていただきました。

森のカモメ
2004.9.20|event

ひらいみもイラスト展「森のカモメ」が、いよいよ明日からはじまります(9/21~10/3)。

この展示は、都内12のカフェ&ギャラリーをむすんで行われるイベント「アートと喫茶」への参加企画として開催されるものです。

今回展示されるのはイラストと、最近はじめたという「織り」。いずれも、みるひとをふわりとくるんでしまうような、やわらかい色合いがなんとも心地いい作品です。

この展示にからんでは、ちょっとしたエピソードがありました。じつは、今回の作品制作のために、みもさんはこの夏はじめてフィンランドを旅されてきたのですが、なんと偶然にも往復のフライトがぼくといっしょだったのです(!)。

フィンランドで感じた光や風、空気が今回の作品のなかに真空パッケージよろしく閉じ込められているのが、そんなわけでぼくにはよくわかります。

みもさんのイラストとmoiの空間との「出会い」が織りなすやさしいひとときを、どうぞごゆっくりお楽しみください。

※店内では、「オリジナルてぬぐい」と同名の「イラストブック」も発売中。お早めにどうぞ。

無に匹敵する音
2004.9.21|music

展示があるときのBGMには、ふだんよりいっそう気をつかう。なにより雰囲気をこわさないことが肝心だ。

開催中のひらいみもさんのイラスト展「森のカモメ」にもっともふさわしいBGMは、無音、もしくは鳥のさえずりや梢をわたる風の音じゃないかという気がしている。ただ、無音ではきっとお客さまが落ち着かないだろうし、自然の音となると集音マイク片手にどこか鬱蒼とした森の中をさまよわなければならないハメになる。

そこで、無音に匹敵する音楽ということでえらんだ一枚がこれだ。キース・ジャレットがピアノ1台で数々のスタンダードナンバーを演奏したアルバム『The Melody At Night,With You』。

これは特異なアルバムだ。

キース・ジャレットはここで、誰かのためではなく、たたじぶんのためだけにピアノを弾いているようにきこえる。おそらくは真夜中、さもなくばそろそろ空も白んでこようかという時間に、ひとりかれはピアノにむかっている。そこで奏でられる音楽は、長かった一日をゆっくりと沈静させるための音楽。あえてなにもかんがえず、指のおもむくままに耳になじんだメロディーをなぞってゆく。そのピアノはうたわない。かたまった筋肉をほぐすかのように、そこでおなじみの旋律はひとつひとつの音へとときほぐされてゆく。どこまでも純化された音がやがて行きつく先、それは無音の世界だろうか。

メロディーという意味をなすためでなく、反対に意味を「無」に帰してしまうために演奏するこのアルバムの特異性は、ありとあらゆる「演奏」というものに対する、いわばネガとして存在している。

直すひとびと
2004.9.22|finland

6月に、ひさしぶりにフィンランドをたずねて目についた光景がいくつか、ある。街のあちらこちらで出会った直すひとびとの姿も、そのうちのひとつだ。

古いアパートメントの彫刻をていねいにヤスリで磨きなおすひと、ビルディングで立て付けの悪い扉をなおすひと、閉店後のカフェで傷んだいすの脚をなおすひとなど、忙しそうに、でもいきいきと立ちはたらく直すひとびとの姿がその街ではごくふつうの眺めとして息づいていた。

ところで、近所の家具を修理してくれるおじいさんが廃業したという話をついこのあいだ耳にしたばかりなのだが、直すひとびとにまだまだ活躍の場があるフィンランドを、ぼくはつくづくすこやかな国だとおもう。

フィンランドのギャラリーで
2004.9.23|finland

そういえば、フィンランドではずいぶんとたくさんのギャラリーをまわった。まわってみて印象的だったのは、フィンランドのひとたちが「アート」とつきあうその姿が、いかにも自然で、リラックスしているように映ったことだ。

かれらはけっして高いお金を払って、高名な作家の作品を買うわけではない。ほんとうに気に入った作品を、ちょうど花瓶や一枚のスカートを買うような感覚で買っている、そんな印象だ。絵を買うという行為は、かれらにとって毎日をほんのちょっと気持ちよく生きるためのささやかな「投資」なのかもしれない。

港を見おろす丘にある、とあるちいさなギャラリーの昼下がり。絵を買うひとも買わないひとも、例外なく、飾られた作品の一枚一枚を丹念に眺め、オーナーと穏やかに会話し、そこには当然のように静かで豊かな「時間」がながれていた。そして、じぶんが好きなのはこの「時間」なのだと思った。東京ではついぞ忘れがちなこの「時間」と、ぼくはフィンランドで「再会」する。

ひとしきり絵をえらんだりした後で、オーナーに「あなたのお店にはいいお客さんがたくさんついているようですね」と話しかけると、「ええ、自分で焼いたケーキを持ってきてくれるひともいらっしゃるんですよ」と微笑みながら、ちょっと誇らしげに答えてくれた。気に入った絵を飾ること、おいしいケーキを焼くこと、そしてこのギャラリーを訪れること、そのどれもが、このお客さんにとっては等しく大切な「時間」なのだろう。

おだやかな「時間」をすごしたいからこそぼくは「絵」を飾る。そんな単純な答えにたどりついたのも、フィンランドのギャラリーですごした有意義なひとときがあったからこそ、といえる。

弱点
2004.9.24|column

大家さんは元刑事(デカ)である。そこで、かねてから気になっていたあのことを訊いてみた。

── カツ丼で自白をうながす

ほんとうだった。コントの世界だけの話ではなかったのか。しかもかなり効果があるという。たしかに、たいがいのことは喋っちゃってもいいかなと思わせてしまう〈魔力〉が、「カツ丼」には秘められている。もうひとつ訊いてみた。

── タバコで自白をうながす

またもや、ほんとうだった。これがじつは、「カツ丼」以上の破壊力をもっているというのだ。頑なな犯罪者も、一服のタバコをまえにしては思わず悔悛せずにはいられないらしい。タバコおそるべし、である。

ただし大家さんが現役だったのはもうずいぶんとむかしの話だ。自白をうながす術も、時代とともに進化しているとかんがえてしかるべきだろう。

プレステであそばせる
→ 刑事さん、オレがやりました
浜崎あゆみをきかせる
→ 刑事さん、ごめんなさい(泣きながら)

さしずめぼくなら、京都・千疋屋の欧風ビーフカツ丼に六曜社地下店の「インド」がついたなら、あることないことぜ~んぶしゃべっちゃうこと必至である。そんな「自白」に信ぴょう性があるかどうかはべつとして。

ひとはみな、なにかしら弱点をかかえている。

アートと喫茶
2004.9.25|book

品切れでご迷惑をおかけしていた小冊子『アートと喫茶』が再入荷しました(税込み315円)。

イベント〈アートと喫茶〉については、このブログでもたびたび触れてきました。この秋、都内12のカフェ/ギャラリーをリンクして行われる展覧会イベントで、moiでも参加企画として10/3(sun)までひらいみもさんのイラスト展「森のカモメ」を好評開催中です(もうご覧いただけましたでしょうか?)。

この〈アートと喫茶〉は、かつて植草甚一が暮らしていた街、経堂にあるappel(アペル)とROBA ROBA cafeというふたつのカフェ/ギャラリーの呼びかけで実現しました。

このイベントのおもしろく、意義深い点は、ここにあつまった12のカフェ/ギャラリーは、原則としてすべて個人オーナーの店であるというところにあります。家賃がべらぼうに高いうえ、すまいと職場、遊び場が完全に切りはなされてしまっている「東京」という場所は、たとえば関西とくらべて、個人でことをおこすにはあまりにも不向きな場所です。結果、街にはチェーン店や企業のアンテナショップばかりがあふれ、店の数だけは多いけれどおもしろい店、個性的な店は少ない、そんな状況になってしまうのです。

「個性的な店」といっても、なにも風変わりなコトをしている店という意味ではありません。「オーナーの『顔』がみえる店」、オーナーの人格や思いがさりげなく感じとられる店こそが「個性的」だとおもうのです。「そこに行かなければ出会えないなにか」があるからこそ、ぼくらは「そこに行く」のではないでしょうか。

そうした意味で、このイベントに参加している12のカフェ/ギャラリーはどれも、もちろんmoiもふくめて、唯一無二の個性をもった空間だとおもいますし、すくなくともそうありたいとかんがえて日々(それぞれのやりかたで)奮闘している店ばかりです。

山椒は小粒でもピリリと辛いなんていいます。「アート」とのふれあいをつうじて、この秋はそんなピリリと辛い空間を味わってみませんか?なんといっても、こういう空間を支えられるのはそこを気に入ってくれて、たびたび足を運んでくれるようなお客様だけなのですから。

小冊子『アートと喫茶』は、そんなみなさんにとっての〈航海図〉としてきっと役立ってくれることでしょう。

ピンチ!
2004.9.26|column

スリリングな体験をしました。なんと夕方の時点で、ストックしてあった牛乳がすべて底をついてしまったのです・・・いやぁ、あせりましたよ。

週末ということもあっていつもの倍ちかく仕入れてはいたものの、急な肌寒い陽気も手伝って、はいるオーダーはカフェオレやロイヤルミルクティーといったあたたかいドリンク、それにつめたいものもなぜかミルクをつかったメニューに集中し、気がついたときには残すところあとわずかといった状態に・・・。

こういう商売をつづけていると、「きょうは○○の日」といった具合におなじメニューにオーダーが集中することもけっして珍しくはないのですが、こういう激しいのは、2年ちょっとやってきてはじめてでした(←まだ修業が足りんですね)。

こんなときバイトがいてくれたら、ちょっと買いに走ってもらうとかできるんですが、ひとりではそうもいきません。また、客足が途絶えたスキをみてちょっと買いにゆこうなんてかんがえたところで、こういう日は往々にしてそんな切れ目すらないもの。「牛乳売り切れました」なんてむっちゃカッコわるいよなぁとか、言い訳どうしよう(うし君がさあ、パペットマペットに誘拐されちゃってね・・・)とか、もうオーダーがはいるたびドキドキの連続でした。

けっきょく、ぴったり最後の一杯でオーダーの嵐はやみ事なきを得たのですが、もう、ほんと、心臓にわるいです。「電話くれれば買ってきてあげたのに」という常連のおじさんのお言葉、冗談でもありがたかったです。次回、電話さしあげます・・・

スイマセン、ネタがしょぼかったですかね?

ロケ
2004.9.27|cinema

東京都立大学の映画サークル「KINO」の映画撮影に協力させていただきました。

ふだんはもろもろの事情により基本的にTV取材や撮影協力の依頼についてはお断りしているのですが、このサークルに所属しているのが常連のヤマグチくんということもあって、今回特別に(なんてエラそうに言うほどのことはないんですけど)OKさせてもらいました。

暗~い音楽がその生活の核となっていた大学時代のぼくとくらべると、ひたいをよせあって役者の演技を一心に見守るかれらのすがたはとてもひたむきで、熱いものをかんじました(って、オヤジくさい発言ですね)。そして最後には、しっかり記念撮影にもまぜてもらって撮影終了(後々「誰だよ、あれ」とかいわないように)。

出演者&スタッフのみなさん、おつかれさまでした。よい作品にしてください。

ミディ・アプレミディの...
2004.9.28|food & drink

注文からおよそ1年半(!)、京都のパティスリーミディ・アプレミディよりうわさのロールケーキ「フロール」が届きました。いえ、ほとんど注文したことすらも忘れておりましたが。

ごらんのとおり、ごくふつうの、いたってシンプルなロールケーキ。きめ細やかな、でもしっかりとした弾力性のあるスポンジ生地、こうばしい表皮、バターとフレッシュクリームの上品な香りがふわっと漂う生クリームと、いずれも最高の原料をつかってていねいにつくられていることがわかります。さすが待たせるだけのことはあります。これまでのロールケーキにたいするチープな印象はすっかり覆されました。絶品です。

最高の原料とていねいな仕事さえ心がければ、ごくシンプルなロールケーキですら、趣向を凝らした生菓子にもじゅうぶん匹敵しうる高級菓子になりうるということを、この「フロール」は身をもって証明したというわけですね。その意味では、庶民が食するべきものではないのかもしれません。いわば宮内庁御用達。

1年以上の待ち時間を費やし、1本2,800円という価格を支払ってまで食べたいものかというと、そのあたりは判断のわかれるところでしょうが、気持ちとふところに余裕のあるかたは、ぜひ話のタネにチャレンジしてみることをおすすめします(すくなくともブログのネタにはなります)。なお、送料をふくめると4,000円を超えてしまったことを、参考までつけくわえさせていただきます。

才女気質
2004.9.29|cinema

はたして中平康は、ジャック・タチの名前をしっていたのでしょうか。

ジャック・タチが傑作『ぼくの伯父さん』を撮影したのは1958年。一方、中平康は、今回キノ・イグルーがとりあげる作品『才女気質』を1959年に撮影しています。しばしば稀代のモダニストとよばれることでも共通するこのふたりが、ほぼおなじ時期にこれらの作品を残したということに、ぼくは驚かずにはいられないのです。

それぞれの作品は、古い価値観と新しい価値観との対立が引き起こす騒動をコミカルに描いているという点で共通しています。さらに、それぞれ「パリ」と「京都」という、伝統を重んじながらも、反面とびきり「新しもん好き」でもある街を舞台としているという点でも共通しています。

そしてなにより、ここが肝心なのですが、それを見守るふたりの〈まなざし〉が似ているのです。ふたりの〈まなざし〉は「古きもの」と「新しきもの」、そのどちらか一方に肩入れするということはありません。「古きもの」には慈愛をこめて、「新しきもの」には「いいぞいいぞ」という感じではっぱをかけるように、そのすがたを描いています。余分なメッセージや批評をおりこまない、そんなリベラルな〈まなざし〉があってはじめて、このさわやかな軽みはうまれるものなのかもしれません。

そんなわけで、個人的には、「ジャック・タチがすき」というひとにこそ、ぜひこの映画をおすすめしたいとおもいます。いまだビデオ化、DVD化されていない作品だけに、この貴重な機会をお見逃しなく!

◎ KINO IGLU #8
 中平康監督作品『才女気質』(1959年/日本/87mins)

10/16[土],17[日] 
CINEMA BAR「THE GRISSON GANG」(小田急線 読売ランド前)
ご予約および詳細は、KINO IGLUのHPをごらんください。

緊張感
2004.9.30|column

目前にせまった、イチローの年間最多安打記録の達成が話題になっています。

もしこれほどまでに活躍していなかったら、たんなるかわいげのないヤツで終わってしまいそうですが、あの不屈の精神力(なんて凡庸な表現!)を前にしてはどんなヘソ曲がりでも脱帽せずにはいられませんよね。あの落ち着きはらった表情をみていると、はたして彼は人並みにプレッシャーを感じたりするのだろうか?、そんな疑問さえわいてきます。

それはそうと、moiによくおみえになる96歳のおばあちゃんは「長唄」をやっていらっしゃるのですが、本番前に緊張することはないといいます。いわく「だって緊張したら声がでないでしょ、ハッハッハッ」・・・おそれいりました。

2004.10
> 2004.9
2004.8