10月になりましたが、きのうに引き続ききょうも台風一過のきもちのいい青空がひろがっています。
さて、10月のお休みは以下のとおり;10/4[月]、11[月祝]、18[月]、25[月]、そして31[日]となります。
したがって31[日]、11/1[月]は連休となりますので、どうぞお間違いのないようお願い致します。
また10/7[木]は、都合(このブログを読んでくださっているかたならもうおわかりですよね?)により17時閉店(16:30LO.)とさせていただきます。何卒よろしくお願いいたします。
さわやかな秋空の下、今月もmoiでお待ちしております。
カフェ好き、雑貨好き、古本好きのための格好の(お散歩ガイド)となりそうなのが、月刊『MOE』11月号の特集「とっておきの小さな絵本の旅100」。
取材時の模様は以前このブログでも紹介させていただきましたが、全国の「絵本と出会えるスポット」を大小新旧にかかわらず紹介した(MAPつき)、なかなか力のこもった特集で役に立ちそうです。
ちなみに、moiのある中央線沿線で紹介されているスポットはというと、こんな感じ↓
荻窪・・・・ひなぎく(カフェ)、ささま書店(古書)、moi(カフェ)
西荻窪・・・興居島屋(古書)、ハートランド(古書)
吉祥寺・・・Roundabout(雑貨)、おばあちゃんの玉手箱(書店)、カレルチャペックスウィーツ(カフェ)、トムズボックス(書店)、にじ画廊(雑貨)、Billboard SHOP(雑貨)
三鷹・・・・SANA(カフェ)、上々堂(古書)
また、荻窪在住のイラストレーター100%ORANGEさんによる「荻窪探訪」なんてページもあります。書店でみかけましたら、ぜひチェックしてみてくださいね。
またこの特集にあわせて、moiではしばらくフィンランドの絵本を閲覧できるようにしておきますので、興味のあるかたはぜひ足をお運びください。お待ちしています。
ひらいみもさんのイラスト展「森のカモメ」最終日はあいにくの土砂降り雨の一日となってしまいましたが、おかげさまをもちまして無事終了、カモメたちはmoiから旅立っていきました。
会期中は、たくさんのかたがたにご来店いただきどうもありがとうございました。また、満席でおはいりいただけなかったお客さま、ほんとうにごめんなさい。
今回のメインビジュアルとして使用したイラスト作品一点、ひらいみもさんのご厚意により引き続きmoiにて展示&販売させていただくことになりました。見逃してしまった、というかたはぜひこの機会にごらんいただければとおもいます。
さまざまな「縁」あって実現することができたこの企画、カモメたちが残していったタマゴから、また新たな、すてきな「縁」がうまれますように。
北欧を中心に、ヨーロッパのオモチャや手工芸品、生活雑貨などを紹介したムック『北欧やすらぎ雑貨』(株式会社ジャイロ)にmoiが紹介されています(p.116 "Shop Guide")。よろしければ、ぜひ本屋さんでチェックしてみてください。
ところで、北欧=おしゃれな雑貨天国、そんなイメージを抱いているひとって案外多いのではないでしょうか?でも、あくまでも個人的な意見ですけど、じつは決してそんなことはないと思っています。ただ、ごく限られたもののなかに、少ないながらもほんとうにすばらしいものが眠っている、そんな感じでしょうか。
いま街の雑貨屋さんにならんでいる北欧雑貨というのはつまり、センスあふれるバイヤーのひとたちが、「宝さがし」よろしく足を棒にしていっしょうけんめい探してきた、いわばその〈戦利品〉というわけです。
それはともかく、この本で紹介されているショップはmoiもふくめて50軒あまりあるのですが、どうしたわけかうちだけスタッフ(ってことは、まぁ、ボクなんですけど)の顔写真が掲載されています。なぜ?!
あと、表紙にちいさく刷られた「パチスロ裏技最強テクMANIAX11月増刊」というのも、そのひかえめなQ数とは裏腹に、ものすごい存在感を放ってます(笑)。
と、まぁ、いろいろな意味でみどころいっぱいの一冊といえそうです。
森麗子さんのファブリックピクチャー、つまり《糸でえがく絵》の、北欧を感じさせるモダンかつ詩的な作品については前にもいちどこのブログで触れましたが、その森さんが主宰する「ガブロム工房」の作品展が来週11日[月]よりひらかれます。
残念ながら、個展にあたる「森麗子・ファブリックピクチャー展」はすでに終了してしまいましたが、今回の展示でも森さんの作品をみることはできるようなので、お時間のある方はぜひ足を運ばれてみてはいかがでしょう。
ちなみに、先週までmoiで作品展をひらかれていたイラストレーターのひらいみもさんは、目下、森さんのアトリエで「織り」を勉強中とのこと。会場では、森さんの貴重な作品集やポストカードなどの販売もあるようです。
あと、これは「おまけ」ですが、森さんが制作につかう糸はすべて、フィンランドの糸なのだそう。なるほど、柔和な色彩の秘密はこんなところにあるのかもしれません。
なお、展示の詳細は下記をごらんください。
◎ 森麗子 ガブロム工房展
2004年10月11日[月]~16[土]
京橋・千疋屋ギャラリー
朝晩の温度差がきになるちかごろの陽気ですが、ぼくはといえば、先日リチャード・アヴェドンが亡くなったとき目にしたYahoo!ニュースの見出しに世間との温度差を感じています。
── 宇多田CD撮影の米写真家死去
もちろん宇多田ヒカルにはなんの罪もないわけですが・・・
ことしも行ってきました!ジョアン・ジルベルト来日公演。
去年は勢いあまって3公演も足をはこんでしまったわけですが、きょうのライブはそのどれともまたちがう、ひとことで表現するなら「アンビエンチな夜」、そんな印象の演奏となりました。昨年「奇跡の初来日」をはたしたジョアンは、日本の聴衆がうむ意味深い「静寂」、その「アンビエンチ(=場の空気)」に感銘をうけ、それは結果として予定になかったライブCDの発売、そして今回の再来日という前代未聞の出来事となってぼくらを驚かせてくれたのでした。
そして今夜、ジョアンは終始そんな「アンビエンチ」を慈しみながら演奏しているようにみえました。去年のようなピリッとした緊張感や思わず身をのりださずにはいられないような鬼気迫るギターワークこそ体験できなかったものの、リラックスした空気のなか一瞬一瞬を存分に味わうかのような、またべつの感動がそこには用意されていました。
冒頭の「Ligia」にはじまり、全体的に静かでゆったりとした楽曲が多くを占めていたこともそうした印象をもった一因かもしれません。また今夜は、全25曲中、半分以上の13曲を盟友アントニオ・カルロス・ジョビンの楽曲が占め、ちょっとした「ジョビン・トリビュート」といったスペシャルな(?)趣きもありました。
ゆったりとした楽曲を演奏するとき、ジョアンの声とギターはよりいっそう絶妙にブレンドされ、その穏やかであたたかな音はきくものの心をとろとろに溶かしてゆきます。それは、まるであらゆる時間が止まってしまった凪の海に浮かんでいるかのような、なんとも得がたい時間をぼくらにあたえてくれたのでした。
Obrigado Joao!
思ったよりもはやく通り過ぎていった今回の台風でしたが、ピーク時の雨といったらそれはもう猛烈なものでした。
午後3時、台風が静岡県に上陸したというニュースを確認した時点でmoiも午後4時の閉店を決定(空模様だけならまだまだやれそうな雰囲気はあったのですが)、後片づけをして家にたどりついてから30分ほどで東京は暴風雨域に突入しました。夕立ちなど強風をともなうはげしい雨の場合、moiではデッキにたまった雨水がとびらのすきまから店内にはいりこんでくるという経験をこれまでたびたび味わってきました。そしてそのたびレレレのおじさんよろしく、雨に打たれながらホウキで水をかきだす、そんな作業に追われてきました。そんなわけで、今回は早めにシャッターを閉めこうした事態を未然に防ごう、そうかんがえたのです。
ところがあくる日店にいってみると、客席より一段さがったカウンター内部の床になんと湿った形跡があります。しかもタタキのようになった床の一部には、水をこぼしたようなちいさな水たまりすらあるじゃないですか!ひょっとして、これって床下浸水?な、なんで?茫然自失とは、まさにこんな状態をさしていうのでしょう。じつは店の前の側溝が、夕立ち程度の雨でも流れづらくなってしまい、すぐさま川のようになってしまうことは以前から気づいていました。おそらく今回も、側溝が流しきれなくなった雨水が池のようにたまってしまい、シャッターのすきまから流入、そして床下のわずかなすきま(なんせ古い建物なので)から室内にしみこんでいったものとおもわれます。どうやら実害はなかったようですが、自然の猛威を思いしらされた気分です。朝からかなりヘコみました。とにかく、これ以上台風が到来しないことをただただ祈るばかりです。
という映画をみたら、むかし競馬に夢中だったころの気持ちを思い出し、なつかしくなった。
あのころは、とにかく競馬のことばかりかんがえていた。週末にはきまって競馬新聞を2紙買いこみ、当たらない予想にあきることなく興じていた。競馬場で指定席をとるためなら、早起きも行列もいっこうに苦にならなかった。
愛読書はもちろん、寺山修司(関係ないけど、バート・バカラックは馬主としても有名だ)。そうそう、たった一度だけとった万馬券でコンタックスのカメラを買ったっけ。しまいには競走馬のオーナーにまでなってしまった(といっても20人で1頭を所有するクラブ会員だったけど)。ドゥーワップという牝馬で、デビューしてからの2年間の連対率(1着2着にはいった確率)は全20戦中8回で4割、3着まで数えるとその確率はなんと6割という《馬主孝行》な馬だった。
日本一ちいさな競馬場がみたくて、島根県の益田競馬場をめざして一人旅をしたこともある。残念なことに、益田競馬は2年前に閉場となってしまったらしい。さみしい話だ。そして、その旅の途中で口にした一杯のコーヒーがぼくをいまの仕事へ導くきっかけとなったのだけれど、それについては、またべつの機会に書くこととしよう。
札幌でアンリ・マティスの素描をみたことがある。それは一筆書きで描かれたみたいなおんなの顔だった。さらっと引かれた「線」は無造作にみえて、そのじつ驚くほどに細やかで表情ゆたかだった。才能あふれるひとが肩の力をぬいてこしらえたものにはいつだって、そんな粋な軽みがあるものだ。
ヴィンス・ガラルディのピアノトリオによるアルバム『チャーリー・ブラウンという男の子』も、まさにそんな一枚。タイトルどおり、西海岸ジャズの実力派が手がけたTVアニメのための小粋なサウンドトラックだ。
これはたとえていうなら、そう、ひだまりのジャズ。「ジャズ」というと、思わず「夜」「オトナ」「酒とタバコ」という三点セットを連想せずにはいられない単純なぼくでも、これはちがう。特別だ。遠くに子供たちの歓声がきこえる昼下がりの公園でサンドイッチでもつまみながら、あるいは短編小説とビールをお供にうたたねしながら聞くのにうってつけな、そんな肩のこらないすてきなジャズアルバムなのである。
そろそろ、秋のたかい空が恋しいきょうこのごろ。
ジャック・デリダ(jacques Derrida)が亡くなったそうだ。
哲学というのはどうにもわからないものだが、その中でもデリダはきわめつけ、わからなさの権化のような存在だった。大学で哲学をかじっていた(というより「舐めて」いた)ころは、会話のなかにさりげなく脱-構築とか差異と差延とかいったデリダの哲学用語をちりばめてみたいというイタい野心もあったのだが、一生かかっても無理だと悟ってあきらめた。でも、そんなことをかんがえるヤツらはその時代、けっしてすくなくはなかったのだ。
その名もずばり、「ジャック・デリダ」という歌をうたったのはウェールズ出身のバンド スクリッティ・ポリッティ。内容はともかく、ポップソングになりうる哲学者なんてやっぱりデリダをおいてほかにない。カントやヘーゲル、西田幾太郎じゃだめなのだ。そういう点でも、デリダは偉大だった。
ここでかれの思想についてかいつまんで説明なんぞしながら追悼できたならと、そう思わずにいられないが、それどころか思っていた以上になにも書けないでいることにいま、あらためてがく然とせざるをえない・・・というよりむしろ、笑ってしまうのだった(大学時代なにやってたんだろ?!)。
フリーペーパー「Yuran(ユラン)」がなにやら楽しげなイベントの開催をたくらんでいる様子・・・
その名もYuran Aozora Cafe。きもちのいい秋空の下、芝生の上にシートをひろげ、ケータリングユニット ヤドカリズムさん特製のお弁当に舌鼓をうったり、作品集『ペレイの町まで』(新風舎)の著者で画家の西島忍さんとともに、拾った落ち葉など自然の素材をつかったポストカードを手作りしたり、たそがれ時にはManhan(マニャン)、そしてBOSSA51の小嶋佐和子&トガゼンによるアコースティックユニット、ウッフコック号によるライブまであるという、なんとも欲張りなイベントなのです。
この一日だけのイベントYuran Aozora Cafeに参加するには予約が必要とのことですので、「なんか気になる」というかたはぜひ、下記の「Yuran」のウェブサイトから早めのお申し込みを!
◎ Yuran Aozora Cafe in Autumn
と き:2004年10月31日[日]12:00~17:00
ところ:葛西臨海公園(JR京葉線「葛西臨海公園」駅から徒歩すぐ)
参加費:3,000円(要予約)
お茶をのむシーンが印象的にえがかれていればそれだけで、その映画はぼくにとって魅力的なものになる。それは、ぼくがこういう仕事についていることとも無関係ではないけれど、なによりカフェや喫茶店のもつ独特の空気がすきだから、にほかならない。
ジャック・ドゥミ監督の『ロシュフォールの恋人たち』に登場する港町のカフェは、ぜんぶがぜんぶ《白日夢》のようなこのフィルムにふさわしく、いつか夢でみたような、リアリティーを欠いたうつくしさ。ボリス・ヴィアンの小説を映画化した『うたかたの日々』で、エキセントリックな哲学者ジャン=ソール・パルトル(!)がいりびたっているのは言うまでもなく、サンジェルマン・デ・プレのカフェ。『アメリ』でも「カフェ」は重要な舞台になっていた。「カフェ」ではないけれど最高なのは、クロード・ソーテ監督の『ギャルソン!』だ。イヴ・モンタン演じるところのギャルソンがとにかくカッコいい。飲食関係の「男子」にファン多数、でも、なぜだか「女子ウケ」はわるい。「オトコの美学」だね(本当か?!)。ここまではフランス映画のお話。
イギリス映画は、「カフェ」よりも「パブ」。あまり思いうかばない。マイケル・ウィンターボトム監督の『ひかりのまち』の主人公は「カフェではたらいている」という設定。「カフェ」ではないけれど、もっとも「カフェ的」なシーンがみられるのは、マイク・リー監督の『秘密と嘘』。ぼくにとって「五本の指」にはいる映画だ。ここでの「お茶をのむ」シーンは、ピースフルで、ある意味、崇高ですらある。
『ユー・ガット・メール』というアメリカ映画にはたびたび「スタバ」が登場するけれど、なにやらコマーシャルなにおいがしてたのしい気分になれない。わがフィンランドには「コーヒー・アディクト」に捧げる最高の一本がある。アキ・カウリスマキ監督の『愛しのタチアナ』(写真)がそれだ。これほどまでにコーヒーをバカ飲みする映画を、ぼくは知らない。しかも全然おいしそうでないところが、また「らしくて」いいのだ。一人あたりのコーヒー消費量世界一を誇るこの国の、まさに面目躍如といったところ。何杯のんだか、もし数えたひとがいたらぜひおしえてほしい。
日本だったら、京都のイノダコーヒがたびたび登場する中平康監督の『才女気質』をおいてほかにない(イノダのウェブサイトにくわしい紹介があります。必見!)。ここでイノダコーヒは、いわば「おっちゃんのための『街場のシェルター』」としてえがかれている。恐妻の目をぬすんではホッとひといきつくという、まさに憩いの場。こういうのもまた、カフェにあたえられたたいせつな使命(?!)である。ちなみにこの週末、キノ・イグルーがこの作品の上映をするので、興味のあるかたはぜひごらんになってみてください。
ふぅーっ、観たことのある映画をならべただけなのにつかれちゃいました・・・みなさんがごらんになったもので、あんな映画にこんなカフェがという話がありましたらぜひおしえてください。情報お待ちしております。
ひさしぶりによく晴れたこの日の朝、店にむかう道すがらなにげなく目にした木々の緑に意外な驚きをおぼえた。というのも、たっぷり雨に洗われ、まばゆい朝の光にてらされた緑が思いのほかきたなかったからだ。
葉のふちが茶褐色に枯れかけたようになっていたり、ところどころ虫に喰われて穴があいているかとおもえば、白っぽく変色していたりと、よくみれば木々の緑はずいぶんと傷ついていた。そして、木を描けといわれたらろくすぽ考えもせず葉っぱを「みどりいろ」にぬってしまうほどに、じぶんはよく「緑」をみてこなかったのだとおもった。
傷つきながらもけなげに葉をひろげる緑を目にして、「愛おしい」なんてべつにかんがえなかったけれど、自然のなかでその一部として「生きている」というのは、たぶんきっとそういうことなのだろう。
またしても、ジョアン・ジルベルト。
2年つづけての「来日公演」も無事おわり、ライブに足をはこんだひとたちともいろいろ話をした。ジョアンのライブは、それを体験したひとそれぞれにとって《なにか特別なもの》として心に刻みこまれたようだ。そのいっぽうで、ぼくらが「ジョアン、ジョアン」と念仏のようにくりかえすことがよく理解できない、そういうひとだっているだろう。CDを聴いてはみたけれどピンとこなかった、というひともいるかもしれない。そんなひとたちにひとつだけ、ぼくは伝えたいのだ。
ジョアンの「真骨頂」はライブにある。ずいぶんたくさんボサノヴァを聴いてきたけれど、ぼくがジョアンの「すばらしさ」をほんとうに理解したのは、去年、ライブを体験してからである。単調なリズムにのってぼそぼそと呟いているように聞こえるかもしれないが、よく耳をすまして聴いてほしい。そんなかれのボーカルが、とても繊細かつ微妙なグラデーションによって成り立っていることにおどろくことだろう。それは絶えまなくゆれうごき、変化する。かれが弾くギターにもまた、おなじことがいえる。
ほんらい、たくさんの楽器がいっしょになってはじめて演奏することができる「サンバ」を、かれはたった一本のギターでやってのけてしまう(ジョアンが発明したその奏法を「バチーダ」という)。そしてそのパーカッションのようなリズムのうえに展開される、精妙かつ大胆なコード。つまり、この声とギターが織りなす独特の世界こそが「ジョアン・ジルベルト」であり、それをさしてひとは「ボサノヴァ」と言う。極論すれば、ジョアン・ジルベルトがいなくなればボサノヴァもなくなるということである。
しかもかれは、おなじ曲をおなじようには演奏しない。そこには、毎回はじめて耳にしたようなフレッシュなおどろきがあるし、聴けば聴くほどあらたな《発見》がある。だからこそぼくらは、なんどでもライブ会場に足をはこびたくなるのだし、いまや日本は、それがゆるされる世界にほんの数カ所しかない幸運な場所のひとつなのだ。
もういちどジョアン・ジルベルトをきいてみようかな、というひとには、去年の東京での演奏をおさめたすばらしいライブCDをおすすめしたい。あまたあるかれのライブCDのなかでも、かれの「スタイル」をとてもリアルに伝えているという点では「ベスト」と言い切っていいと思う。そしてこれはぜひ、ヘッドフォンできいてほしい。もちろん「ながら」もNG。
たいせつなひとがもらすかすかなことばに耳をすますように、ジョアン・ジルベルトの音楽が語りかけてくるものにぜひ耳かたむけてほしい。けっして無駄な時間にはならないと思うから。
もともとたばこは吸わないのでずっと気づかずにいたのだが、たばこの「すいがら」というのはなかなかに興味ぶかい代物なのだった。まあ、たばこを吸うとしても、他人やじぶんの「すいがら」をしげしげと眺めるひとなんてそうはいないだろうから、このことについては案外気づいていないひとのほうが多いのかもしれない。
すいがらのなにが興味ぶかいのかというと、火を消したすいがらのひとつひとつがそれぞれとても個性的なのだ。個性はふたつの点にあらわれる。ひとつは長さ、もうひとつは火の消しかた、つまり火を消したあとの先端部分のかたちである。
たとえば、おなじ人物がたばこを3本吸ったとしよう。するとその3本の「すいがら」は見事なまでに、長さ、そして火の消しかたで一致する。一本のたばこをどこまで吸うかという「長さ」ひとつとっても、そこには吸うひとそれぞれの個性があらわれる。フィルターぎりぎりまで吸うひとがいるかとおもえば、ほとんど口をつけていないんじゃないかとおもうようなたばこが3本、きれいに灰皿にならべられていたこともあった。火の消しかたも、しつように押しつけられたようにねじ曲がっているもの、先端だけを軽く押さえつけたようなものとまちまちである。残された灰皿をみれば、その場にたばこを吸うひとが何人いたのか、かなりの確度で推察できそうな気がする。
そしてなんといっても、それが(おそらくは)無意識のうちになされているところがおもしろい。「このひとは几帳面だな」とか「きっとせっかちにちがいない」とか、あるていど、吸った人物の「性格」なんかも推察できそうだが、これについてはいましばらくの研究が必要だろう。
なんて、ここまで書いたところでふと思いつきで検索してみたら、なんかすごいサイトを発見してしまった。題して、「しぐさの裏にお客様の本音!! 接客における読心術」。たばこの「すいがら」から読むお客さまの性格はもちろん、目と口が同時だったら、愛想笑いとか、肯定の「うなずき」も3回続けば否定になるなんていうコワい指摘も・・・
カフェはどうやら、研究課題の宝庫であるらしい。
自宅にほどちかいとあるビルの一角に、「MANGYOEN」とかかれたちいさな看板のある店(アトリエ?)があって、通りがかるたびなんとなく気になっていた。だいたいいつもシャッターが閉まっているので、そこがいったい何なのか、まったく見当もつかない。それでも気になってしまうのは、何かありそう、そんな匂いがプンプンするからにほかならない。
きょうはやけに「冴えて」いた。通りがかったときなぜか「ん?!」とおもい、さっそくネットで調べてみたところ「正解!」。
そこは「アーッ、うっ!」でおなじみ、東京パノラママンボボーイズのパラダイス山元氏のプライベートスタジオ兼まぼろしの餃子専門店「蔓餃苑(まんぎょえん)」なのだった。すなわち、マンボ+餃子で「まんぎょえん」(笑)。パラダイス山元氏が、「ギョーザ好き」が高じてつくってしまったというこの会員制餃子専門店(残念ながら会員募集はすでに「終了」とのこと。行っても入れませんので念のため)、以前テレビか雑誌かでみてしってはいたのだけれども、まさかこんなご近所にあったとは(!)。
それにしても、「荻窪」には「え?なんで、こんなところに?!」という場所におかしなスポットがあったりするものだ(はいはい、わかってますって、moiもそうですよ)。そんな思いがけない《発見》こそが荻窪散策の密かな楽しみといえばいえなくもないけれど。
ちなみに、さまざまな「顔」をもつパラダイス山元氏だが、そのなかにはなんとグリーンランド国際サンタクロース協会公認の「サンタクロース」なんていう「顔」もある。北欧+ラテン音楽という取り合わせからしてなにやら私淑すべき存在、それがぼくにとってのパラダイス山元氏。「北欧ラテン同盟」とかつくるときにはぜひ仲間にいれてください?!
またしても、台風。ことし日本に上陸した台風はこれで10個、年間最多上陸記録を更新したそうです。ちなみに、気象情報によるとこの台風の名前は「TOKAGE(トカゲ)」というらしんですが、「イチロー」に変えたほうがいいんじゃないですかね・・・。
それにしたって野菜が高い!レタスやキャベツなどの葉もの、それにキューリなんかがのきなみ2倍から3倍ちかくに高騰しています。相次ぐ台風で、ほとんど壊滅状態だとか。農家や八百屋さんもたいへんでしょうが、末端に位置する飲食店だってたいへんです。仕入れ値が倍になったから値上げする、なんてことできませんから。
高級寿司店のクロマグロのように時価とかいえればいいんでしょうけど、だいたい時価のサラダなんてだれが注文するんだ?という疑問がのこりますよね。社会通念って言うのでしょうか、サラダにはサラダにふさわしい値段というのがこの世にはたしかに存在していて、それを大きく逸脱するということはまずできないのですね。だから、とんかつ屋さんは「ガマン、ガマン」とぐっとこらえてキャベツを刻んでいるのです。
まちがっても、いまこの時期にとんかつ屋さんでキャベツのおかわりを連発するようなまねだけはやめましょう。いいですか、それがおもいやりってもんです。
価値観の違いをはかる《ものさし》として、ぼくの場合、音楽の趣味というのがある。たとえば、ハリケーン・スミスがうたった「Oh Babe,What Would You Say?」という曲があるのだが、ぼくはたぶん、これをキライというひととはともだちになれない気がする。
それは、ビートルズのエンジニアやピンク・フロイドの1stアルバムのプロデュースなど、いわば裏方仕事に徹してきた「ハリケーン・スミス」ことノーマン・スミスが、ひょんなことからよわい49にして発表したデビューアルバムにおさめられた一曲なのだが、そこに展開されるのは、そのあかぬけないルックスとしゃがれ声からは想像つかないドリーミーで繊細なポップソング。いや、ほんとうにポップなものとはこんなふうに、花も嵐も踏み越えて(?)はじめて辿りつくことのできるある境地からしか生まれえないものなのだろう。
ところで「台風」はどこへ行ってしまったのか。さっきまでの猛烈な雨はうそのようにやみ、真夜中の空にはちいさくまたたくオリオンがくっきり見えている。
日本を旅行中だというフィンランドの大学生が、このあいだmoiへやってきた。そこで、日本にきてびっくりしたことは?などとベタな質問をしたところ、インターネットで下調べしてきたのでびっくりしたことはあまりなかったという答えがかえってきた。ネットも善かれ悪しかれである。それでも、小さなびっくりしたことはあると言う。
日本でマクドナルドにはいったら、たばこを吸っているひとがたくさんいて驚いた。反対に、外に出たら、道路が「禁煙」なので驚いた。
日本とちがって、フィンランドのカフェやレストラン、それに公共施設などはたいてい「禁煙」である。徹底されているので、たばこを吸うひとも「そういうもの」としてその状況をごく自然に受け入れているようにみえる。ところがいったん外に出ると、「歩きたばこ」するひとの姿がよく目につくし、当然のようにすいがらが道ばたに捨てられているのを目にしたりもする。
北欧というと、どこかクリーンでエコロジーな国といったイメージがあるもので、こういった光景をまのあたりにするとすこし意外な気がする一方で、いくら北欧のひとだってそうそう禁欲的にばかりは生きられないだろうと、妙にほっとしたりもするのだった。
ちかごろ東京では、「路上禁煙」を採用する区や市がふえている。ご多聞にもれず、moiのある杉並区もそのひとつである。他方、「全面禁煙」を採用する店もわずかではあるがふえつつあるようだ。ぼくはたばこを吸わないので、それでもいっこうにかまわないというのが正直なところではあるのだけれど、まちでふつうにたばこが買える現状をなおざりにして、ただやみくもに《禁煙エリア》ばかりふやしてゆくようなやりかたがはたして「禁煙」の推進につながるのか、疑問に感じざるをえない。
週末という二文字が、ぼくの生活から消えてひさしい。週末のすべては、そのことばが呼びおこすあのときめきのようなものにあるといってもいい。だから、「週末」を失うということは、そんなときめきのようなものを失うことにひとしい。
たしかに、月曜日が定休のmoiでは、日曜日の夜が「週末」といえなくもないけれど、残念なことにあまりそこに「ときめきのようなもの」は感じられない。月曜日は、たしかに店はしまっているけれど、実際ぼくが休んでいるのかというと案外そうでもないからだ。銀行や郵便局に払い込みにいったり、店の備品やたりない食材を買いにでたり、はたまた取材がはいっていたりと、月曜は月曜でけっこう忙しかったりするものなのだ。そんなわけで、「あしたはこれやんなきゃな」なんてことをつらつらかんがえているうちに終わってしまうのが、ぼくの「週末」の現実にほかならない。
かつて、ぼくの生活にまだ「週末」があったころ、それはあまりに無為に過ぎていた。週末になったらあれをやろうとか、ここに行こうとか、いろいろ思い浮かびはするのだけれど、いざ週末になってみると結局なにもせずに終わってしまうのもいつものことだった。それでも、いまにしておもうと、そんなふうに過ごす「週末」もそれはそれで悪くなかった。だいたい、「週末」までの「ときめき」こそがほんとうの「週末」なのかもしれないからだ。
土曜の放課後の、あの高揚した開放感を思い出すとき、ぼくはなんだかちょっとだけ切ない気分になる。
土曜日だというのにきょうはやけに静かな一日で、売上をおもうとなんともアタマのイタい一日ではありましたが、そのぶんいろいろな方々といろいろな話がのんびりできてたのしい一日でもありました。おつきあいいただいたみなさま、ありがとうございます。
とりわけ、神戸からおみえの「地図が読めない女」さんには、いっしょに記念写真まで撮って(撮らせて?!)いただき、ありがとうございました。せめて旅が終わるまで「消去」されないことを祈っております。
それにしても、夕方の地震はかなり深刻な被害をもたらしているようです。ここ東京でもかなりの揺れを感じました。「余震」がなんどもあって、そのたびに火を消したりつけたりと右往左往していました。ただし、まずじぶんが避難した後で、おもいだして火を消しにゆくというじぶんの行動に、まだまだ「店主」としての自覚が足らんなと反省しております。
せめて一年にいちどくらいは、初めて口にするたべものと出会いたいものだ。見ただけで味が想像できてしまうというのではなんだかどうもわびしいし、そもそもいろいろな味覚と出会ってみたいという素朴な欲求のようなものもある。
きょうは「西瓜糖(すいかとう)」というものを口にした。もちろん、うまれて初めての経験だ。「西瓜糖」といってまっさきに思い出すのは、リチャード・ブローディガンの小説『西瓜糖の日々』であり、おそらくはそこから名前をつけたとおもわれる阿佐ヶ谷のカフェギャラリー「西瓜糖」のことである。そもそも、そういうたべものが、しかも日本に実在しているなんてことはぜんぜん知らなかった。そんな話をしたら、お客さまで「ジオライフ」という天然素材の食品をネットで販売されているKさんが、さっそくもってきてくださったのだ。
Kさんの話によると、「西瓜糖」というのはすいかの果汁を、砂糖などの甘味料を一切くわえることなく、ただひたすらことことと5時間ほど煮詰めたもので、利尿作用のある健康食品として各地で食されているのだそう。ちなみに「ホットケーキ」でやたらと有名な神田須田町のフルーツパーラー万惣では、ずいぶんむかしからこれを製造・販売しているとのこと。これも初耳。
一見したところ、「西瓜糖」は赤茶色をしたジャムのようにみえる。スプーンにすくってちょっとなめてみると、砂糖を一切使っていないとは思えないじゅうぶんな甘味がある。けれども、けっしてしつこい甘さではない。味は、・・・う~ん、すいかの味という印象はない。むしろ、キャラメルのような素朴なこうばしさがある。たしか麦芽でつくった水飴というのがこんな風味だったような気がするのだけれど・・・あまりさだかではない。Kさんにすすめられるまま、ミルクにティースプーン一杯弱ほどの西瓜糖をとかしこんで飲んでみたところ、なるほどキャラメルティーのようなまろやかな味がした。
小説を書くにあたってブローディガンが、はたしてこれとおなじものをイメージしていたかどうかはナゾだけれど、もっと奇想天外なものを想像していたぼくとしては、「あ、意外に食べれる!」なんて、まさに百聞は一見にしかずな感想をいだいたのだった。
※写真は「ジオライフ」様よりおかりしました。
ゆうべみた夢の話でお茶をにごそうなんてちょっと安易かな?とも思いはするのだけれども、あまりにも愉快な(ボク的に)夢だったもので、すぐに忘れてしまうというのもなにかもったいない気がしてこうして書いている。
その夢の中で、ぼくはある映画の「特集上映」の企画を実現すべく東奔西走しているのだった。それは、「浪花のモーツァルト」ことキダ・タロー先生が「音楽」を担当した作品ばかりをあつめた「特集上映」であった。
ぼくはあこがれのキダ・タロー先生に面会し、情熱的に説得した。そのかいあって、キダ先生はこの企画に快諾してくださったばかりか、そら色の専用リムジンでぼくをつぎの目的地まで送りとどけてくれまでした。しかも、そのリムジンを運転しているキダ先生の「付き人」というのが、なんと「力士」の高見盛なのだった。まさにセレブの嵐である。
プランナーであるぼくは次なる段階、つまり配給会社の説得へとむかう。担当者は男女2名、手応えは十分といえた。とくに女性担当者はかなりノリ気な様子で、こう言った。「だって、いま『お笑いブーム』だもんね」。「浪花のモーツァルト」をつかまえて「お笑いブームだもんね」はないだろうと思ったが、気づけばぼくもあいづちをうち、同意しているのだった(キダ先生ごめんなさい!)。
夢というのは、ふだんから気になっていることがあらわれるものだと、以前どこかで耳にしたおぼえがある。たしかにここしばらく、ぼくはキダ・タロー先生のことが気になっている。廃盤になってしまったCD『浪花のモーツァルト キダ・タローのすべて』をずっと探しているし、やはり絶版になっている著書『コーヒーの店・大阪』も欲しくてしかたない(どこかで見かけた方は、ぜひご一報を!)。だから、夢にキダ・タローがあらわれたとしてもさほど驚きはしないのだけれど、いっこうにわからないのはなぜ?高見盛???
「夢判断」にくわしい方がいたら、ぜひおしえていただきたいものである。
きょうはこのブログの、記念すべき(?)100回めのはずだったのだが・・・よくよくかぞえてみれば、きょうは第101回。どうやら単純な計算ミスをしていたようだ。と、いうことは・・・記念すべき第100回のネタが、うっ、キダ・タローだよ!しまった。
みなさんもぜひ、しっかり胸に刻み込んでいただきたい。すなわち「100回めは1回しかやってこない」。
話はかわって、マリメッコのテキスタイルでもおなじみのデザイナー脇阪克二さんは、毎日はがきに一枚絵を描き、それを自分あてに投函するのだそうだ。その日その日に感じたことをもっともうまく表現するための方法としてはじめたというその「日課」はすでに15年目にはいり、手元にかえってきたはがきもすでに6,000枚ちかくになるという(ちなみに、moiで販売している脇阪さんのポストカードは、その「6,000枚」からセレクトされたもの)。
脇阪さんをみならってというわけでもないのだけれど、このブログもいちおう「一日一ネタ」を目標としている。なにか書かなきゃという「目」をもって見れば、ただぼんやりとながめているよりも、はるかによく世界を見わたすことができるかもしれないとおもってはじめはしたのだが・・・。
ぼくについていえば、「書くこと」で、ただ「見っぱなし」だった世界はようやくじぶんの「経験」として生きられ、その一部になる、そんな実感がある。いってみれば、ぼくにとって「文字」とは、カメラマンにとってのファインダーのようなものかもしれない。カメラマンが、ファインダーによって世界を切り取るように、ぼくも文字で世界を切り取る。そしてそれは、ときにかなり恣意的ではあるけれど。
腕のわるいカメラマンのようなこのブログではあるが、「100回」に調子づいたところで、もうしばらくはつづけてみたい、そんなふうにかんがえている。
ボサノヴァを、こじゃれた音楽の代名詞のようにかんがえているひとって多いのではないでしょうか?だから、ボサノヴァはひとつの「生き方」であるなんて言ったら、ちょっとびっくりしてしまうひとだっていないとは限りません。
でも、このちいさな本『ボサノヴァ』(アノニマ・スタジオ刊)を読んで、いつ、だれが、どこで、どんなふうに「ボサノヴァ」をつくり、育てたのかということを知ると、つい気取ってそんなふうに言いたくなってしまうのです。
ボサノヴァを聴くのにぜひ知っておきたいエピソードや貴重な写真などが満載のこの本は、ボサノヴァが好き、あるいは気になるというひとにとって、まさに格好の「入門書」といえます。けれども、ぼくがこの本をおススメする理由はもっとべつのところにあるのです。ひとことで言えば、この本『ボサノヴァ』には「空気」や「匂い」があります。ボサノヴァが誕生した1950年代後半のリオの街のざわめきや、そこで暮らす若者たちの生活ぶりが活字をとおして伝わってくるようです。そして読みすすむうちぼくらは、最初ちいさなひとつの「点」でしかなかったボサノヴァが、その波紋をぐんぐんひろげて世界中を巻き込んでゆくさまを〈目撃〉するのです。
そしてもうひとつ、ボサノヴァを育てたのは「ひと」なんだというのもまたこの本から知ったことです。ボサノヴァの波紋は、「ひと」と「ひと」とをつなぎながら、それを原動力にどんどん大きくなってゆくのですね。「友情」や「恋愛」がボサノヴァを育んだ、そんなふうにも言えるかもしれません。ボサノヴァにおおらかさやある種の〈ヒューマニズム〉を感じるとしたら、それはきっとそういうことなのでしょう。
とにもかくにも、このちいさな本を手にいれれば、耳なれたはずの「ボサノヴァ」が俄然おもしろくなることまちがいなしなのです。
B5ブックス編『"BOSSA NOVA"』(アノニマ・スタジオ刊)はmoiでも好評発売中です(1,250円+税)
秋もいよいよ深まり、アートをたのしむにはますますいい季節になってきましたね。というわけで、ちょっと興味をそそられるアートイベントをふたつほどご紹介しようとおもいます。
ひとつめは、西麻布のアートスペースSuper Deluxeでひらかれるイベント『EU文学祭・西と東の出会い』(11/7 15:00-23:00)です。
これは、EU議長国であるオランダを中心に、加盟国であるイタリア、ドイツ、アイルランド、リトアニア、エストニア、そしてフィンランドの「作家」や「詩人」たちが母国語により自作をライブで朗読するとともに、それを島田雅彦、白石かずこら日本の「作家」「詩人」がその邦訳を朗読、紹介するという企画です。さらに「朗読」のあいまには「ミュージシャン」というよりは、むしろ「音響作家」といったほうがふさわしいパードン木村によるライブ演奏がはさみこまれます。
ちなみに、フィンランドからは『ウンブラ/タイナロン』、『木々は八月に何をするのか』(ともに末延弘子訳・新評論刊)など日本でもいくつかの翻訳を通して紹介されているレーナ・クルーンが参加します。個人的には、リトアニアの詩人/映像作家で『リトアニアへの旅の追憶』で知られるジョナス・メカスに興味があります。
つづいては、東陽町のティアラこうとう・小ホールでひらかれる向井山朋子ピアノリサイタル『for you』(11/9,10,11)です。
現代音楽のスペシャリストとしてオランダを拠点に活躍するひとだけに、そのリサイタルも一筋縄ではいきません。なんとそのコンサートは、たったひとりの「聴衆」のためだけに演奏されるのです。各日10名限定、ひとり15分というルールにのっとって開催されるこのリサイタルで、客席にたったひとりだけの「聴衆」は、「音楽」を介して「アーティスト」と文字通り一対一の親密な対話をおこなうことになるのです。
世界でたってひとりだけが耳にすることのできる音楽。それをいったいどんなふうに受けとめるか、それはまさに「聴衆」次第というワケです。「音楽」という時間芸術ならではの〈冒険的な試み〉といえそうです。なお、「お客さまがおすすめの江東区内の場所/空間」(!)での対話メインのワークショップという試みもあるようです・・・
次回は、「おすすめイベント・スポーツの秋」編をお送りする予定です(ウソ)。
gooブログの公式サイト『gooブログ セレクション第7回』で、「moiのブログ~日々のカフェ」を紹介していただきました。
ブログをはじめたいきさつや、「店主」として書くことのおもしろさ、むずかしさなど、いつものごとく「語って」おります・・・。ご興味のあるかたはぜひ、のぞいてみてください。
このブログは、いわばmoiの「支店」のようなものかな、とぼくはかんがえています。「支店」をおとずれた方が、「よし、こんどは『本店』にもいってみよう」とおもってくださったり、反対に「本店」をよくたずねてくださる方が「支店」にまで足をのばしてくださったり、そんなふうに行き来してもらえるようになればいいなとかんがえているのです(じっさい、そんな方も多いのはうれしいかぎりです)。
カフェにとって、「お茶をのんでいただくこと」を「あんこ」にたとえるなら、インテリアやBGMなど「雰囲気づくり」にあたる部分は、さしずめ「皮」のようなものといえるかもしれません。つまり、「あんこ」と「皮」の絶妙のバランスがあってはじめて、「カフェですごす時間」は特別な時間になれるのです。そうして願わくば、moiはそんなうまいまんじゅうのような店でありたいといつもかんがえているのです。
ショーロという音楽、ご存知でしょうか?
『ボサノヴァ』の林さんのテキストからかいつまんで紹介すると、日本でいえば明治時代、当時ポルトガル人が支配していたブラジルで突然変異的に生まれた音楽、それが「ショーロ」です。その音楽のベースとなっているのはヨーロッパの伝統的な舞踏音楽、つまりワルツやポルカといったクラシカルな音楽ですが、黒人奴隷たちが演奏することによって、そこに切れのいいリズムや即興といった要素がくわわり、いつしか独自なスタイルをもつ音楽に変身してしまったというわけです。
ちなみに「ショーロ」という名前は、ポルトガル語の「ショラール(=泣く)」を語源にもつそうで、その音楽の特徴をまとめれば、「泣きのメロディー」をもち、インストで演奏されるブラジル独自のダンスミュージックということになります。またその音楽は、その後に誕生するサンバやボサノヴァのルーツのひとつともいわれており、前出の林さんの表現をかりるなら「晴れた日のカフェのBGMとして活躍しそうな、濃いコーヒーに似合う音楽」でもあります。そういえば、ショーロの名曲をあつめたCDに「カフェ・ブラジル」なんてタイトルのもありましたっけ。moiでもときどきショーロをかけていたりするので、あるいは耳におぼえのある方もいらっしゃるかもしれません。
すっかり前置きがながくなってしまいましたが、そんなショーロをたっぷり聴くことのできるコンサートがひらかれます。その名もずばり『ショーロの祭典』(11/17 WED 三鷹市芸術文化センター「星のホール」)。
「ブラジル風バッハ」で知られるブラジルの国民的作曲家エイトール・ヴィラ=ロボス(Heitor Villa=Lobos)の没後45周年を記念しておこなわれるイベントです。国内で活躍する5つのショーロ・バンドと、この日のために特別に編成されるアンサンブル・ヴィラ・ロボスが登場します。ヴィオラォン(ガットギター)やバンドリン、カヴァキーニョといったブラジル音楽には欠かせない楽器にくわえて、フルートやヴァイオリンも活躍する「ショーロ」は、クラシックやジャズを好んで聴くひとにもじゅうぶんチャーミングなはず。チケット料金も手ごろなので、なんとなく気になったかたは足を運ばれてみてはいかがでしょう。
余談ですが、ここでちょっとプチ・トリビア?! 公式サイトにある、このイベントを企画したギタリスト阿部浩二さんのポートレイト(「アー写」ってヤツですね)は、じつはmoiで撮影されたものです。へぇ~、へぇ~、へぇ~・・・。というわけで要チェック!ちなみに阿部さんは、日本を代表するサンバ・バンド「バランサ」のギタリストとして国内はもとより、本場ブラジルなどでも演奏しているほか、ライブではバンドネオンの小松亮太やクレモンティーヌらとも共演している名プレイヤーでもあるのです。
というわけで、「ショーロ」という音楽のこと、すこし知ってもらえたらうれしいです。