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2004.7

ヘルシンキのとあるカフェ
2004.8.1|cafe

そのカフェは、ヘルシンキのにぎやかな大通りからほんのちょっと奥まった場所にひっそりたたずんでいる。
およそ観光客は見過ごしてしまうだろうような、そのちいさなカフェの存在をおしえてくれたのは、moiを設計したRIOTA DESIGNの関本さんだった。

moiよりもさらにちいさなその空間を切り盛りするのは、50代とおぼしき女主人が一人。関本さんの話では、この女主人、じつは「音楽家」でもあるのだとか。

小さな音量でクラシックが流れる店内には、なるほど音楽家らしいセンスを感じさせる小物が飾られているし、店名も「いかにも」といった感じだ。
お客さんはまちまちで、近所のビジネスマンが新聞に目を通しているかと思えば、OLや工事現場ではたらく若者がコーヒーをテイクアウトしていったりと、この店が近所の人々の生活になくてはならない存在になっていることを感じさせる。
そうして、その女主人がつくるクッキーは無骨で、あったかい味がした。

ちいさいけれど、手入れのゆきとどいた「庭」。その店の印象をひとことでいえば、おおよそそんな感じだ。そしてそこに満ちる空気こそは、ぼくがmoiで表現したいとかんがえる空気でもあった。

うれしかったのは、moiを設計しながら、こんな空間に育ってほしいという思いとともにつねに頭の中にあったのはまさにこのカフェだったという話を、東京にもどった後、関本さんからうかがったことだ。

一見したところ、ぜんぜん似ているところがないmoiとそのヘルシンキのカフェだけれど、ふたつの店をつつむ〈温度〉は限りなく似ている、そんなふうにぼくはかんがえている。

ムーミン谷の素敵な仲間たち展
2004.8.2|finland

フィンランドがすきで、moiをたずねてくれる方のなかには、ムーミンがすきで、その生まれ故郷であるフィンランドに興味をもつようになったという方もすくなくない。

子供のころテレビにかじりついて熱心に「ムーミン」を観ていたとはいえ、ぼく自身、ムーミンとその作者であるトーベ・ヤンソンについて知っていることはというと、あまりにもすくない。

そこで、夏休み自由研究として?!、大丸ミュージアムで開催中(~8/10まで)の「トーベ・ヤンソン ムーミン谷の素敵な仲間たち」展をみてきた。
そして、「ムーミントロール」の原画や雑誌「ガルム」に寄稿した風刺画の数々をみて、あらためて、子供のころに受けたなんだかやけに暗いという印象が、あながち「的はずれ」なものではなかったことを知ったのだった。

ムーミンの物語全体に漂う終末論的な世界観は、黒と白の原画のなかでますます強調されて、ときにおどろおどろしい印象すらあたえる。

そう思うと、たえず不安を孕んだような岸田今日子の吹き替えは、誰がなんと言おうとやはりハマリ役だったし、フィンランドでつくられたアングラの対戦ゲーム(R指定っていうか、かわいいムーミンが好きな方は絶対みないでください)の バトルロワイヤル的世界だって、あながち無茶とも言えなくなってくる。
その愛くるしさがすべてだと信じているムーミン好きに、無意識のうちに通奏低音のように響く不吉な警鐘を聞かせてしまう、トーベ・ヤンソンというひとの屈折が気になってしかたない。

juniper
2004.8.3|food & drink

ノルウェー人シェフが腕をふるう北欧スタイルのカジュアルレストランとして巷で評判のjuniper(ジュニパー)は、思っていたほどには北欧ではありませんでした。

ハンス・ウェグナーの椅子やロイヤルコペンハーゲンの食器など、要所要所は北欧デザインで占められてはいるのですが、ちょっとばかしおしゃれにすぎるのかも。

たとえていうなら、コンラン卿が提案するスカンジナヴィアン・ダイニングといった趣き?!メニューも、とりたてて北欧を意識したといった感じではないですが、盛り付けもきれいですし、ハーブの効かせ方もちょっと風変わりでおいしく食事できました。ただし残念ながら、個人的にBGMがNGでした。

まず音量が大きすぎるし、かかっているのも(なぜか)ジャミロクワイとか、こういうお店にありがちなブラジリアンハウスとか・・・

せっかく想像力を刺戟する空間なのにもったいない!ということで、勝手にトリビュート企画第一弾?!として、近いうちjuniperにふさわしいBGMを選曲をすることにしました(笑)。しょせんシャレなんで叱らないでください・・・。

胸をはる女子
2004.8.4|finland

6月に、3年ぶりにフィンランドをおとずれて印象的だった光景が、いくつかある。そのひとつが胸をはる女子の姿だ。

たとえば、カフェではたらく女子たち。やけにみんな姿勢がいい。背筋がぴんとのびている。なかにはそり返るくらいに胸をはったような女子もいて、もうみんながみんないきのいい小海老のように立ちはたらいている。

だいたいこういう光景というのは、まず見ていて気持ちがいい。仕事に誇りをもって楽しそうにはたらいている、そんな印象をあたえるものだ。

それに、フィンランドの女子のなかには小柄なひともすくなくないのだが、胸をはることでみんな実際以上に大きくみえる。この国では、さすがのデューク更家も出番がない。

なんとなく腰が低いのが美徳みたいなところがある日本では、ヘタに姿勢がいいと「エラそう」とか「不遜」とか言われかねない勢いだが、かまうものか、「女子よ、胸をはれ!」、そういいたい(なんだそりゃ?!)。

さて、ここまで女子のことばかり書いてきて、じゃあフィンランドの男子はどうなんだ?という話になるわけだが、これに関してはこう言うしかない。ゴメン、見てなかった。

無題
2004.8.5|cafe

コーヒーは、一杯一杯ていねいに、心をこめて淹れなければなりません。
あるひとにとってその一杯は、かけがえのない、たいせつな一杯であるかもしれないからです。

そしてそういうことは、たいがい、後々になってからしか知りえないのです。

だから一杯一杯ていねいに、コーヒーは心をこめて淹れなければならないのです。

光をいつくしむ
2004.8.6|art & design

清冽な、フィンランドの森の空気と水をその内部にとじこめたような、イルマ・クロネン(IRMA KURONEN)のガラスアート作品を展示しています(~8/22 販売もあり)。

イルマは、フィンランド北西部の都市オウルを拠点に制作活動をつづけるガラス作家です。
北欧といえばエコロジーに対する意識の高い国々というイメージがありますが、彼女もまた、積極的にリサイクルガラスをとりいれた作品を制作しています。
いまmoiでごらんいただいているガラス皿でも、窓ガラスや空きビンといったリサイクルガラスがとても効果的に使用されています。

ガラスの中に入りこむ光のうつくしさを感じてほしいと語るイルマ。その作品にぼくらは、かつてさまざまなべつのモノとして存在し、その役割をとおして蓄積してきた「光」が、ふたたび姿をかえてきらめき、反射するさま〈光のリヴァイヴァル〉を見ることになるのです。

光にたいする繊細な感受性に裏うちされたイルマ・クロネンの作品は、そのまま、光をいつくしむこころをぼくらに伝えるものでもあります。

本のない家
2004.8.7|book

意外そうな顔をされることもあるのだけれど、ぼくは読書家ではない。読書家ではないけれど、活字中毒者ではある。たとえば古本屋で、無造作に並んだ本の背表紙をながめてすごす時間はなかなか楽しいひとときだ。
もちろん、たまには買うことだってある。でも、たいていは拾い読みで終わってしまう。
たぶん集中力に欠ける性格が問題なのだとは思うが、ストーリーを追うことよりも、ちょっとしたセンテンスに「おおっ」と感心したりすることのほうが好きなのかもしれない。

それはともかく、世の中には本のない家というのがあるらしい。知り合いのライターさんが取材でたずねた先が、にわかには信じがたいのだが、そういう家だったというのだ。話によれば、その家にはなにかの雑誌が一冊あった以外は、見事なまでに一冊の本もなかったらしい。

本のすくない家、これはわかる。だが、本のない家となると話は別だ。ふつう生きていれば、酔った勢いで『世界の中心で、愛をさけぶ』を買ってしまうということだってないとはいえない。

活字を読むと死んでしまう奇病、はたまた一切の活字を否定するカルト宗教の信者・・・ここまで徹底された本の排斥の背後に、理解をはるかに超えたなにがしかの引力の存在を疑りたくもなるのだが、正直あまり意味があるとも思えない。

ただ、ちょっとビックリするような話を聞いてしまったのでそれについてなんとなく書いてみたい、そうかんがえただけなのだから。
そして、ひとはそれを活字中毒者の宿命、という。

京都‘楽’派
2004.8.8|music

夏に聴くべき音楽といえば、もちろんTUBEなわけですが、わずか50センチほどの幅の日陰ですらえらんで歩いてしまうぼくのような人間にとって、それは、うっかり聴いてしまうと音だけで熱中症になりかねない危険な音楽ともいえます。

そんな、できるだけおとなしく日々の暑さをやりすごしたいとかんがえるぼくが、この夏moiでパワープレイ中のCD、それがsoraというユニットによるアルバム「re.sort」です。

soraは、京都在住のアーティスト クロサワタケシのソロユニットで、世間ではラウンジ・エレクトロニカなどと称されているようですが、そんな能書きはともかく、適度な〈余白〉を感じさせるそのサウンドはデジタルでありながらオーガニック、いってみれば新鮮な酸素のような作品なのです。

毎日ずっと音楽を聴きつづけていると、だんだんと耳が抽象的な「音」ばかりを求めてゆくようになるのがわかります。人間の「声」や「旋律」ですら鬱陶しくなったり。
そうしてかんがえるのは、最上のBGMとは、波の音、梢をわたる風の音、川のせせらぎや雨音といった自然の音ではないかということ。けっして直接的に自然の音をサンプリングしているわけではないにもかかわらず、soraの音楽はかぎりなく自然にちかい、そう思えるものです。

それにしても、このsoraのクロサワタケシをはじめ、高木正勝や、そしてもちろん竹村延和など京都を拠点に活動するアーティストの作品は、ほんとうにオリジナルで良質のものが多いですね。かつて、ペンギンカフェオーケストラのサイモン・ジェフスも暮してた町ですしね。京都という「場」がもつ底力を感じずにはいられません。

cafe cactus
2004.8.9|cafe

近くて遠い、ぼくにとってそんな存在であるカフェカクタス。どうして「近くて遠い」のかというと、そこは毎週日曜日だけオープンするカフェだからです。気になっていても行けない、そんなまぼろしのカフェを経営するおふたりが、先日moiに遊びにきてくださいました!

7月にはアイルランド、スウェーデン、そしてフィンランドを旅してきたというおふたりは、笑顔がとてもすてきなご姉妹です。おいしいと評判のワッフルや手作りの(しかも本格的!な)ケーキ、それにこだわりのコーヒーなどなど、どれにしようか迷うこと必至の盛りだくさんのメニューも魅力ですが、実際おふたりにお目にかかれば、あんなさわやかな笑顔でもてなしてくれるだけでもう気分は上々、そんなふうに思えてきます。なんといっても、おいしい時間にとっての最上のスパイスは笑顔ですから。

というわけで、日曜日が休日、のみなさんはおめでとう。渋谷のカフェカクタススですてきな午後を。あ、ついでにmoiもよろしくです。そう遠くない将来、フルタイムのカフェとして再出発したいとおっしゃるおふたり。手ぐすねひいて待ってますんで、早く、ね!

真鍋博 展
2004.8.10|art & design

こどものころ、ぼくらの未来はすべて真鍋博のイラストのなかに描かれていた。ワクワクドキドキしながら、そう信じていた。そのことは、彼が挿し絵の多くを担当した星新一のストーリーとあいまって、いっそう鮮やかにぼくらの心に刻みこまれていったのだった。

気がつけば21世紀になって、ぼくらのまわりはありとあらゆる未来的なツールであふれかえっている。と同時に、いざ手にしてみると、こうしたツールのたぐいが案外味気ない代物であることもまた、しっている。携帯電話も、インターネットや衛星放送も、電気自動車や超高層ビル、あるいはまた何層にもおよぶ地下都市も、いまから40年近くも前に、真鍋博がそのイラストや著書のなかですでに予測していたものだ。にもかかわらず、いま、こうした未来とともにあるべきはずのワクワクやドキドキといった高揚感が希薄だとしたら、それはどうしてなんだろう?

たんなる憶測にすぎないが、イラストを描く真鍋博は、いつもワクワクドキドキしながら描いていたはずである。彼の原画からは、そうした高揚感がずんずん伝わってくる。ワクワクドキドキしながら未来を生きていた彼に対して、ぼくらはといえば、ただ未来を無自覚に受けとっているにすぎない。未来がどうあるべきか思い描く力、いいかえるなら想像力こそが、いまぼくらが必要としているものなのだ。つまみとった〈いま〉を〈その先〉へ、さらに〈その先〉へと縫いとり、見たこともないような〈織物〉を編み上げてしまうのはただ想像による力のみだからである。そしてそこには、ひとをワクワクドキドキさせるような高揚感であふれていることだろう。

ところで、2000年11月に亡くなった真鍋博が「21世紀」を見ずして逝ってしまったことについては残念に思わなくもないけれど、案外、いま生きていたとして彼の視線の先にあるのはきっと、22世紀やさらにその先の光景であるにちがいない。

◎ 真鍋 博展(東京ステーションギャラリーにて開催中~9/12)

ネタ帖
2004.8.11|column

こそこそとBLOGをはじめた理由は、いざとなったらいつでもやめられるという気楽さをどこかに残しておきたかったからなのですが、気がつけば日々ずいぶんとたくさんの方々がここを訪れ、あたたかいコメントを下さったり、なかにはお店で突然「いつも読んでますよ」などというドキリとするような、けれどもとてもうれしい言葉をかけてくださったりするおかげで、近ごろではそうかんたんにはやめられないかも・・・

という、ちょっとしたプレッシャーを感じつつも、いまのところ、なんとか(ときどきアップが遅れたりはするものの)一日一ネタのペースは死守しているといったあんばいです。

そんな折、先日あるひとからこんな質問を頂戴しました。いわく「ネタ帖はあるんですか?」。

お答えさせていただきます。ありません。そんな、、、芸人じゃあるまいし。

白夜の国からのおくりもの
2004.8.12|art & design

船橋東武百貨店で「フィンランド・エストニア絵画展~白夜の国からのおくりもの」がはじまりました(~8/18[水] 5階5番地美術画廊1にて)。moiのギャラリー担当、ガレリアナナの企画です。

フィンランド航空の機内誌などでおなじみのヴィーヴィ・ケンパイネン(写真)、たくさんのアーティストが暮らすラッペーンランタを代表する画家ヘリ・プッキ、日本でも絵本が出版されているタルリーサ・ワレスタといったフィンランドの作家の作品に、さらにナヴィトロッラ、マイエ・ヘルム、ミルダバーグらエストニアの作家の作品もくわえてバラエティー豊かな展示内容となっています。

ふだんは接する機会のすくない北欧のアートですが、お近くの方がいらっしゃいましたら、ぜひ足を運ばれてみてはいかがでしょう。

宝物のような音楽
2004.8.13|music

宝物のような音楽がある。

そういう音楽は、いい加減に聴くのがもったいない気がしてふだんはあまりかけないのだけど、いざ聴くとなるとエンドレスで一日中ずっとかけていたりする。

なんどもなんども飽きることなく繰り返し聴いているうち、だんだんその音楽と自分とのあいだの距離がちぢまってゆくような気がして、以前にもましてその音楽のことが大事になってしまうのだ。

「ジョアン・ジルベルトのホワイトアルバム」なんてよばれることもあるこの名盤(邦盤タイトルは「三月の水」)は、ぼくにとってまさにそういう音楽のひとつ。もしこの音楽をことばで的確に語ることができたなら、芥川賞作家になるのなんてたやすいことだろう。そしてきょうは一日、ずっとこのアルバムを聴いていた。

このアルバムでジョアンは、たとえば古いサンバのようなお気に入りの楽曲を、何コーラスも何コーラスもただひたすらに飽きることなく、繰り返しうたっている。彼もまた、繰り返しうたうことで音楽と自分とのあいだの距離を縮めてゆく、そういうタイプの音楽家なのかもしれない。

マイノリティー
2004.8.14|column

週末だというのに、夕刻前からすっかり客足が鈍ってしまったのはお盆×アテネオリンピックの相乗効果のなせるところでしょうか。

東京生まれで帰省する故郷ももたず、仏壇すらない家で育ったぼくにとっては、「お盆」といってもいまひとつピンと来ないのが実状ですし、はえぬきの文系ライフ?!をすごしてきたぼくにとってはまた、「オリンピック」も「なぜ世間がこんなに騒いでいるのか」理解しがたいイベントのひとつといえます(とはいえ、ワールドカップのときはしっかり〈にわかサッカーファン〉として盛り上がった過去があるので、案外みると熱中するのかもしれませんが)。

そういえば、TVなどで「オリンピック需要でプラズマテレビなどの売上増が見込まれる」といった報道を見かけますが、あれってホントなのでしょうか?じぶんの家族がオリンピックに出るというのならともかく、「柔ちゃんが見たくってさ、買っちゃったよプラズマ」なんてひと、そんなに世の中にいるのでしょうか?なんか理由にこじつけてひと儲けしたい家電メーカー/量販店と、GDPを伸ばしたい政府が結託して国民をあおっているとしか思えないのですが・・・。オリンピック見たさでプラズマテレビを買ってしまいましたという方、いらっしゃいましたらぜひご一報を。

話が脱線してしまいましたが、この時期「お盆」にも「オリンピック」にも無縁なじぶんは、ひどく世間から取り残された存在です。ま、大人しくコーヒーでも淹れてますよ。

ROTARY CHOCOLATE SHOP
2004.8.15|cafe

きょうはなんだか、無性にロータリー・チョコレート・ショップのアイスコーヒーが飲みたい。

その店は神田錦町にあって、レトロフューチャーなどといえば聞こえはいいが、要は時代から取り残されてしまったかのような構えの喫茶店である。客層は土地柄サラリーマンが多く、天井から吊り下げられたテレビでは高校野球の中継が映しだされている。

アイスコーヒーを注文すると、「ウェイトレス」と呼ぶにはちょっと年季のいったおばさんがクラッシュドアイスのいっぱいにつまったグラスを手にやってきて、サーバーにはいったあつあつの濃いコーヒーを手ばやくジャッとグラスに注ぎいれてくれる。すると一気にグラスの氷はとけて、かわりにひんやりした琥珀色の液体でみたされる。ロータリー・チョコレート・ショップのアイスコーヒーに、この、目の前でくりひろげられる一連の《儀式》は不可欠だ。

それはたとえば、大好きなレコードに針をおとして、音が出るまでの一瞬の「間」をたのしむのにも似て、アイスコーヒーをよりおいしく飲むために欠かすことのできないささやかな「心の準備」でもある。喉にしみわたるアイスコーヒーが、こうしてうまれる。

きのうまでの猛暑が、まるでウソのように消えた《真夏の裂け目》のような一日。ひんやりした空気といっしょにあふれだしたのは、こんな遠い夏の日の思い出。その店はもうない。

散歩者
2004.8.16|column

ビックリした表情でmoiにはいってくるお客さまが、ときどきいる。わけをきくと、荻窪にもう何年も暮らしているのにこんな店があるなんて全然しらなかった、と。灯台もと暗しとはよくいったもので、地元のことほど案外しらなかったりするものだ。

もともとが散歩好きだったぼくは、中央線沿線に暮らすようになってますます散歩好きになった。散歩者なら、いちどは中央線沿線に暮らすべきだ。

それはそうと、散歩をするとき、ぼくはよくアミダくじのようにあるく。角があったらとりあえず曲がる。またあったら、また曲がる。T字路につきあたったら適当に、曲がる。もちろん、ときには行き止まりだったり、元いた場所にもどってしまったりすることもあるけれど、こんな具合にあるいていると、いつしか思わぬところに出てしまったり、意外な場所におもしろそうなお店を発見したりと、たのしくて仕方がない。

古色蒼然とした洋館、いかにも建築家が建てたようなモダンな邸宅、飼い犬や野良猫、ちいさな畑、よく手入れされた庭、いきいきとした雑草、まちの魚屋さんや古本屋、そして喫茶店・・・。突然、どこか遠くのまちに迷いこんでしまったかのような心細い気持ちになることだってしばしば。地元のことなんて、案外なにもしらないのだ。

ところで散歩者といえば植草甚一なわけだが、彼はあるエッセイで、暮らしていた経堂の商店街を色エンピツでぬりわけてみたところ、ぜんぶで八種類にあるけることがわかった、と書いている。しかも15~20分ほどであるける商店街を、たっぷり一時間半かけて散歩していたらしい。それでもまだ「三年たっても倦きないでブラつける」なんて書いているんだから、まったく。

スローフードよりも、まずはスローウォーク。これは生き方の問題。

森 麗子さんの画文集
2004.8.17|book

糸で絵を描く、ファブリックピクチャーとよばれる技法によってすばらしい作品をつくりつづける森麗子さんの画文集『木立をすぎる時間』を手に入れました。

公私共々お世話になっているIさん(自家製バジルペースト、たいへん美味しゅうございました)から、この本の存在をおしえていただいたのはたしか去年の秋ごろのこと。

その作品を構成するモダンな感覚にまず驚き、つづいて、まさに北欧的といえる透明なリリシズム(森さんは、1960年代にスウェーデンで刺繍を学んだりもしているのです)に感銘をうけたのでした。

森さんのファブリックピクチャーは、たんなる「刺繍」にとどまらないもっと自由なもの。「筆と絵の具の代わりに、織る・刺す・布を置く等」さまざまな技法を、そのつど自由な感覚で選びとるところから作品がうまれてきます。この『木立をすぎる時間』では、森さんの心象風景が、その作品と北欧をはじめとするさまざまな国々での出来事を綴った味わいぶかいエッセイによってたおやかに表現されています。

北欧やテキスタイルに関心のある方(とくにminäのスカートを穿いたあなた)はもちろんのこと、まいにちをゆったりとした心持ちで生きたいと願うすべての方にスイセンします(いまさら「スイセン」なんておこがましい話ですが)。

追記:来月には、東京・千疋屋ギャラリーにて小品展も催されるようです。

BERG!
2004.8.18|cafe

好きなカフェは?と尋ねられることがあるのだけれど、いつも答えに窮してしまう。ただしモノサシはハッキリしていて、ちゃんとしたコーヒーがでてくること、これが大事。

どんなに凝ったスイーツやおいしいごはんが出てきても、コーヒーがいい加減だとそれだけでがっかりしてしまうのだ。それにもうひとつ、さまざまな年代、嗜好のお客さんが集まっていること。お客さんの幅がそのまま店の幅につながる、そうかんがえるからだ。そしてもちろん、このふたつの「条件」はmoiのめざすところでもあるわけだけれど。

新宿駅の地下にひとつ、その意味でぼくの好きなカフェがある。BERG!(ベルク)というのがそのカフェ。

そこに行けばいつでも、ちゃんとしたコーヒーとシンプルで味わいぶかいホットドッグにありつける、そんな安心感をあたえてくれる店だ。立地条件に恵まれた店にありがちな甘えたところは微塵も感じられず、すべてにこだわりをもって仕事をしている感じが清々しい。

いつも満員で、しかも見事なまでにバラバラな客層の店内に雑然とした印象をおぼえるひともすくなくないだろう。けれどもその店は、時間に追われたひとびとがゆきかう駅構内という特殊なロケーションにあって、そうしたひとびとにとってのいわば「とまり木カフェ」として根づくことで、唯一無二の存在感を放っている。骨太なカフェである。

本日発売
2004.8.19|publicity

本日発売の雑誌『カフェ&レストラン』9月号(旭屋出版)にmoiが掲載されています(取材時の模様はこちら)。最近、またすこし取材がおおくなってきていて、来月も2誌ほどに登場の予定です(また、追っておしらせさせていただきます)。

今回は巻頭の見開きカラーページがメインですが、もうひとつ、「お店の人気をつくる工夫集」というページでも7月に開催したイベント「北欧みやげ市」についてとりあげていただいています。いわゆる業界向けの専門誌ですが、大きめの本屋さんならたいてい常備していると思いますので、機会がありましたらぜひご覧になってみてください。

ちなみに写真は、版画家にして無類のコーヒー愛好家であった奥山儀八郎が、昭和40年代におなじ旭屋出版から上梓した名著『珈琲遍歴』。取材に訪れたおふたりも、実物を見るのははじめて、とのことでした(奥山氏本人の手になる装丁がみごとな豪華本です)。

打ち水大作戦
2004.8.20|nature

東京砂漠。そんなことばが思わず口をついてでる最近の東京。といっても、都会は人情味に欠けるとかそんなことがいいたいわけじゃありません。ほんとうにラクダが歩いてそうという意味でのリアルな砂漠・・・。そんな折り、打ち水大作戦2004というイベントの話を耳にしました。

これは、かんたんにいうと、8/18~25のあいだを「打ち水週間」として、身のまわりの路上、ベランダ、壁などに「打ち水」しましょう!というイベントで、ことしで2回目となるそうです。そして「目標」は、みんなの手で、都心の気温を2℃下げよう。なるほど!いいアイデアじゃないですか。というわけで、さっそく参戦してみました。

バケツ一杯ほどの水(このとき二次使用水をつかうのがルール)を、手でバシャバシャと路面にかけていきます。以上。

これ、水遊び気分でなかなかたのしいです。だれでも、いつでも、かんたんにできて、しかも気がつくと「習慣」になっている、こういう訴求力のあるイベントはいいですね。ただ、さすがにこの日照りでは撒いたそばから蒸発してゆくといった感じで、15分もしないうちに路面はすっかり元のカラカラ状態に戻ってしまいました・・・。

そんな光景をながめつつ思い出したのはフィンランドのサウナのこと。ストーブで熱した「石」に水をかけて、たちのぼる蒸気(ロユリュ)を小屋にみたすフィンランドサウナの「原理」とまるっきり同じじゃないですか。ということは・・・この「打ち水大作戦」って、じつは東京を巨大サウナ化しようというフィンランド人もびっくり!!!なイベントだったのですね。

ことしの夏はぜひ、束ねた白樺の枝(ヴィヒタという)でからだを叩きながら街をあるきませんか?健康になれることまちがいなし?!

ところで、moiでフィンランド語教室を開催しているフィンランド人のサンナさんはこの暑さを「サウナにはいってるみたいで気持ちいいねえ~」などと言いますが、どう考えたってそれはおかしい。なぜなら出れないサウナは地獄でしかない、ちがいます?!

出会い通り
2004.8.21|column

出会い通り、moiのある「通り」をそう呼んでいるとおしえてくれたのは荻窪育ちのある若者。といっても、地図にそう書かれているわけではないし、かといって地元のひとびとがみなそう呼んでいるというわけでも、ない。どうやらその若者と仲間たちのあいだでの「呼び名」ということらしい。

なんでも、その「通り」をあるいているとかならず誰かしらに「出会って」しまうことから、そう名づけたのだとか。たしかに、南北にまっすぐ抜ける道がほとんどない荻窪ではその「通り」の存在はけっこう貴重。そりゃあ、出会ってしまうのも無理もない話だ。

それはそれとして、個人的にはこの「出会い通り」という語感がやけに気に入っている。なので、ぼくのなかではいちおう、moiは「出会い通り」にあるということになっている。そして、その出会い通りに店をかまえてやっと2年。それでも近ごろ、多少は出会えるようになってきたことがうれしかったりする。

いつも通り
2004.8.22|music

いつも通りというシュガーベイブの名曲がある。

この曲(作詞作曲/大貫妙子)は字面どおり「いつもとおなじ」という内容なのだけれど、なぜか山下達郎をはじめとするその他のメンバーはみな、「いつも・ストリート」という響きをかけあわせたダブルミーニングだと思っていた、というエピソードがある。

なにをかくそうこのぼくも、なぜかずっと「ストリート」の方だと信じていたので、この話を知って「へぇ~」と感心する反面、なんだかちょっと残念な気分でもあった。いつも通りという語感がやけに気に入っていたのだ。だからいまでも、ぼくの中ではいちおう、このうたは「いつも通り」という「通り」を舞台にしているということになっている。聴いていて、そのほうがずっとイメージが拡がる気がするから。

それはそれとして、「いつも通り」や「出会い通り」がある「まち」はきっと、「なんとか銀座」や「純情商店街」がある「まち」よりもずっとすてきな「まち」であるにちがいない。

◎ 「いつも通り」はシュガーベイブが発表したたった一枚のアルバム『SONGS』におさめられています。余談ですが、シュガーベイブは1976年、荻窪ロフトで「解散コンサート」をおこないその活動にピリオドを打ちました。

再会
2004.8.23|publicity

絵本の雑誌『moe』(白泉社)11月号の巻頭特集「絵本のある小さな旅100」の取材がありました。

moiで原画の扱いもあるタルリーサ・ヴァルスタの『子うさぎヌップのふわふわふとん』(あかね書房・稲垣美晴訳)をはじめ、フィンランドやエストニアの絵本を数冊ご紹介しています。かわいさばかりでなく、ちょっと「哲学的」なところもあるフィンランドの絵本には大人も読めるクオリティーの高い作品が多くありますね。ぜひ機会があったら手にとってみてください。

ところできょう取材に訪れたふたり、ライターの前田さんとフォトグラファーの高村さんは、なにをかくそうかつてぼくがプライベートでいろいろなイベントをやっていた頃いっしょに動いてくれた「仲間たち」でもあります。こんなカタチでともに仕事できる日がやって来るなんてぜんぜん考えていなかっただけに、ひさしぶりの「再会」はまさにうれしさ100倍といった感じでした。粋なお膳立てをしてくれた白泉社のMさんに感謝!

Marjakerho
2004.8.24|event

フィンランドとベリーが大好きな六人組によるにぎやかな展示、「Marjakerho[ベリー展]」の開幕です。

ブルーベリー、ラズベリー、ワイルドストロベリー、リンゴベリー、クラウドベリーなどなど色とりどりのベリーを、イラストや写真、キャンドル、モビールといった思い思いの「かたち」で表現するほか、北欧織りによるハンドクラフトのバッグ、そしてテキスタイルアーティスト、福田パイビさんによる手織りのティーマットなどを展示(一部販売もあり)しています。

ベリーでいっぱいの2週間、いつもとはまたちがった表情のmoiをおたのしみください。

◎ MarjaKerho[ベリー展] 8/24[火]~9/5[日] ※月曜定休
 なお、週末は混雑が予想されるため平日のご来店をおすすめします。また週末にご来店の場合は、混雑状況を確認の上お越しになられることをおすすめします(小さなお店のため、人数、時間帯等によってはお入りいただけない場合があります)。

bon bon
2004.8.25|music

温泉がまたそうであるように、世間に「ボサノヴァ」とよばれる音楽は数あれど、ほんとうの意味で「ボサノヴァ」とよべるものはそう多くない。

たいていはボーカルがこれみよがしに歌いすぎていたり、たんにボサノヴァ風のリズムをなぞっているだけだったり・・・白く濁ってはいるけど「効能」はなし、そんな感じだろうか。「ボサノヴァをやろう」とするからそうなってしまうのだ。

それにひきかえ、naomi & goroのボサノヴァはさらりとして無色透明だがその「効能」はもりだくさん。2枚目となるCD『bon bon』も、その〈スタイル〉はいわゆる「ボサ・マナー」に忠実にのっとった「折り紙つき」のボサノヴァ・アルバムである。

けれども、また一方でこうもいえる。naomi & goroは「ボサノヴァ」だが、「ボサノヴァをやろう」としているわけではない。ホベルト・メネスカルやカルロス・リラ、ホナルド・ボスコリといった、「ボサノヴァ・ムーブメント」をつくった若者たちがまたそうであったように。かれらは、自分たちの感覚にフィットする音楽がつくりたかった。そうして「ボサノヴァ」をえらんだ。たんなる「順序」の問題とおもわれるかもしれない。けれども、それはなかなか肝心なことだ。

naomi & goroの音楽はとても良質なポップミュージックであり、そしてそれは「ボサノヴァ」という〈スタイル〉によっている。かれらの音楽はまさに〈現在進行形〉のポップミュージックとしてぼくらの耳に、とどく。ポルトガル語や英語はもちろん、日本語が、これほどまでに「フツー」にボサノヴァのリズムにのってうたわれていることがその確たる証拠である。そしてたぶん、じぶんたちにとって等身大の音楽をつくろうという〈意志〉がはたらいているかぎりにおいて、その音楽は時空を超えて「ボサノヴァ(=ニューウェーブ)」であり続ける。形式(スタイル)と内容(意志)の合致、そこにこそnaomi & goroの音楽の心地よさのヒミツがある。

それにしても、ここのところずっとこのCDばかり聴いている。切実に、「湯あたり」ならぬ「音あたり」が心配な今日このごろである。

追記:前作同様、石坂しづかさんのイラストもいい感じです。

守護神
2004.8.26|finland

見つかってしまったのでこうして書いているのですが、moiの店内にはかれこれ一年くらいムーミンが棲みついています。

お客さんやそこで起こる出来事をじっと静かに見守ってきた、それはいわばmoiの守護神。

どこにいるのかはないしょ。お茶を飲んでいてふとだれかの視線に気づいたら、それはきっとムーミンのものにちがいありません。

携帯電話
2004.8.27|column

告白すれば、ぼくは携帯電話にかんしてはひどく「封建的」な考え方の持ち主である。とかく、昨今の携帯電話の傍若無人ぶりは目にあまるものがある。だいたい、いったいだれに断って勝手に便利になろうとしているというのだ。

携帯電話は、いまや「じぶんのモノであって、じぶんのモノじゃない」、そういうものになってしまった。スパムメールや架空請求、挙げ句の果てには「じぶんのアドレス」から送られてくる迷惑メールまで、ちかごろ携帯電話のおかげで不愉快な気分にさせられることが多い。じぶんの持ち物に不愉快な思いをさせられるなんて、まったくもって耐え難い話ではないか。ひとことでいえば、「飼い犬に手をかまれる」あるいは「腹心に裏切られた主君の無念」、そんな感じである。

携帯電話は便利だ。えらいよ、まったく。でも、べつに「お財布」や「チケット」になってほしいとは全然おもわない。ぼくが携帯電話に言いたいのはこういうことだ。

── いいから黙って「電話」だけしとけ!

どうしても「便利」になりたいというのなら、それもいいだろう。では、

── 肩でも揉んどけ!

くりかえすが、こと携帯電話にかんするかぎり、ぼくはひどく「封建的」な考え方の持ち主なのである。

ハシモトくん
2004.8.28|column

ハシモトくんとぼくとは、小学校のクラスメートだった。

その時分の「男子」らしく、ハシモトくんとぼくとはクルマ好き同士すぐ仲良くなった。ぼくらのすまいはマンモス団地だったので、都合のいいことに通学路には巨大な駐車場がいくつもあり、こうした駐車場をまわってはクルマ一台一台を丹念にみるのがぼくらの「日課」だった。

とりわけ、ぼくは「いすゞ 117クーペ」、ハシモトくんは「スバル360」がお気に入りで、「おとなになったらぜったいに乗ろう」とよくふたりで話し合った。

数年後、ぼくらはそれぞれ転校することになり、いつしか自然と手紙のやりとりも途絶えた。ハシモトくんから唐突に連絡があったのは、ぼくらがともに大学生になったある日のことだ。電話口でハシモトくんは「これから遊びにいきたいのだけど」といった。

数時間後、玄関の外にやってきたのはピカピカに磨かれたワインレッドのスバル360、もちろん運転席にはハシモトくんの姿があった。あいさつもそこそこに助手席にのせてもらい、ぼくらは1時間ほどのドライブをたのしんだ。入念にメンテナンスをほどこされたスバル360の乗り心地は、予想外の快適さといえた。

ハシモトくんは運転中、このクルマを入手するまでの一部始終や上手に走らせるコツについて熱心に話した。でも、すっかりクルマに対する関心がうすれ、いまだに免許すらとっていなかったぼくはあいまいにあいづちを打つのがやっとで、ハシモトくんが失望したのはまちがいなかった。ふたたび音信は途絶え、いまに至っている。

時は過ぎて、ぼくとおなじように、ハシモトくんもきっと忙しい日々をおくっていることだろう。家族や仕事仲間にも恵まれ、充実した毎日をすごしているにちがいない。そして願わくば、彼が以前と変わらぬ情熱をもって「スバル360」を愛していてくれればよいとおもう。

10年間
2004.8.29|cafe

10年間ひとつのことをつづけたひとは、それが仕事であろうと趣味であろうと尊敬に値する人物である。だいたいじぶんの人生をふりかえったところで、10年間つづけてきたことなんてほとんど思いあたらないくらいなのだから。

と、そんなことを思ったのは、鎌倉のカフェ・ヴィヴモン・ディモンシュから「10周年記念パーティー」のお知らせが届いたからだ。カフェを10年間つづけるのが並大抵のことじゃないということは、同業者ならばだれでも知っている。順風満帆にみえるいまでも、けっして楽なことばかりではないはずだ。それだけにいっそうこの「10年」は賞賛に値する。

これは、以前ある雑誌でディモンシュのオーナー堀内サンと対談させていただいたときのエピソード。「仕事は楽しいですか?」と同席した編集者がぼくに尋ねたのに対し、すかさず堀内サンがこう返答したのだった。「そりゃあ楽しいですよ!ねぇ?」。

その通り。それがすべて、といっても言い過ぎじゃあない。堀内さんにとってこの「10年間」は「好きなこと」や「たのしいこと」をめいっぱい追いかけるうちにいつしかたどりついた、そんな「10年」なのだろうなぁと、そのやりとりをききながら強く感じた。

先だって数年ぶりにディモンシュをたずねた。平日の午後という時間のせいもあったろうけれど、はじめて訪れた8年前と変わらないおだやかな「空気」がそこに、あった。そして、好きなCDや楽しい仕事について熱心に語る堀内さんをみながら、この店が重ねてきた、そしてこれからも重ねてゆくであろう年輪について思いをはせていた。

堀内さん、そしてcafe vivement dimancheのスタッフのみなさん、10周年おめでとうございます!

STYLE'S GOOD FOOD SERVICE
2004.8.30|cafe

古本のまちにふさわしいカフェと出会った。神保町のSTYLE'S GOOD FOOD SERVICEである。

神保町はぼくにとってけっして馴染みぶかい街とはいえない。それでも、この街がここ数年でずいぶんと様変わりしたことくらいはぐるっと見まわせばすぐわかる。残念なことに、昭和初期のモダンな建造物が立ち並ぶ趣のある町並みはずいぶんと姿を消してしまった。でも、人間と同じように、街にもまた新陳代謝が必要なのかもしれない。

内装デザインをSTANDARD TRADE.が担当したSTYLE'S GOOD FOOD SERVICEは、まさに変わりつつあるこの街にふさわしいスタイリッシュなカフェである(ちなみにSTANDARD TRADE.は、イラストレーターみやまつともみさんおすすめのカフェ&ギャラリーtrayも手がけたオリジナル家具製作などで人気のショップ。"東のgraf"って感じ?!)。

じつはこのカフェ、オーナーの岩崎さんのお話によるとここで18年間(!)も営業されているとのこと。どうやら家業の喫茶店を、昨年になって岩崎さんがこのようなスタイルにリニューアルしたということらしい。

いわれてみれば、ほぼ手つかずのまま残された天井や壁からはかつて喫茶店であった当時の面影が偲ばれる。本来ならこんなスタイリッシュなお店には不似合いな大きな「水だしコーヒー」の器具や年季の入ったコーヒーポットさえも、このカフェの出自を物語る、いい意味でのアクセントになっている。時間は店にとって最高の〈養分〉にほかならない。温故知新、そんなことばがこの店にはよく似合う。そして、ぼくはこういう店がすきだ。

しっかりコシのきいたパスタ、豆から挽いて淹れてくれるコーヒー、すべてがちゃんとした店という印象。過去を味わいつつ現在を生きるそのスタンスは、やや強引だけれども、古本を愛する精神にもにている。古い喫茶店も悪くないが、ずっと欲しかった古本を手に入れたそんなときは、ぼくならあえてこんな店でこそページを繰りたい、とおもう。

情報を提供していただいたIさん、いつもながらありがとうございます!

Think different.
2004.8.31|book

いま手もとにあるのは、『アップル宣言(マニフェスト)~クレイジーな人たちへ』と題された一冊のちいさな本。かつてアメリカで「エミー賞」を受賞したCF"Think different"をまとめたものだ。

この本では、アップルコンピュータの〈企業理念〉ともいえる散文が、さまざまな分野で〈偉業〉をなしとげた唯一無二の〈天才〉たち ── アインシュタイン、ボブ・ディラン、キング牧師、、ガンジー、ジム・ヘンソン(「セサミ・ストリート」の人形作家)、ピカソなどなど ── のポートレイトとともにレイアウトされている。

「クレイジーな人たちを称えよう」という一文ではじまるその〈散文〉で、「クレイジー」とよばれるのは「自分は世界を変えることができる」と考えるような人たちのことであるが、しかし「ほんとうに世界を変える」のは実はそういう人たちなのである、と語られる。そしてアップルコンピュータは「そんな種類の人々のために道具を作っている」のであって、「クレイジーとしか見られない人々だが、私たちには天才が見える」、そう〈宣言〉するのである。

なにか「壁」のようなものにぶちあたったとき、ぼくはいつもこの短い文章を思い出す。そしてほんのすこしだけ、救われたような気分になるのだ。

モノをつくる人は、たんにモノをつくるのみならず、どんな人にどう使ってほしいのか、深く見据えたうえでモノをつくってほしいと思う。なぜといえば、明確な理念に裏うちされたプロダクトはうつくしいからだ。

2004.9
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2004.7