ミカ・ヴァルタリ 『エジプト人 シヌヘ』〜 物語を伝えること、物語が伝えること

フィンランド文学を代表する歴史長編小説『エジプト人  シヌヘ』がこの春、みずいろブックスより出版されました。著者はミカ・ヴァルタリ。『Sinuhe egyptiläinen』という原題で1945年に出版されて以来、世界41ヵ国で翻訳されてきたベストセラー小説です。

以前の記事(世界の窓と時空の旅〜ミカ・ワルタリ『エジプト人』の翻訳について)でご紹介した通り、フィンランド語の原書から直接日本語に翻訳され、初の完訳(ノーカット版)となる待望の一冊です。翻訳はもちろんセルボ貴子さん。

セルボ貴子さんとみずいろブックスの岡村茉利奈さんに初めてお会いしたのは、ヨーロッパ文芸フェスティバル2022の会場となった九段のイタリア文化会館。セルボさんの講演を聞きながら頭の中に渦巻いていたのは、なぜフィンランド人作家がエジプトについての歴史小説を書いたのだろうかということでした。フィンランドとエジプトそれぞれのイメージがまったく異質なものに感じていたからです。

インスティトゥト・セルバンテス東京(2022年11月)

その講演会の2日後、セルボさんがトークセッションに再び登壇されるということで市ヶ谷のインスティトゥト・セルバンテス東京へ向かいました。セッション終了後、司会を担当されたスペインの方がセルボさんの持参していた『エジプト人』の原書に気づくと、胸に手をあてて「Sinuhe!」と感激の声を挙げていました。その姿を見て、どこの国とかは関係なくそれほど心に残る物語なのかと、どんどん期待がふくらんでいきました。そこで最初に読むのならばセルボさんが完訳された、みずいろブックスの『エジプト人』にしようと心に決めました。

そしていま読み終えたばかりの『エジプト人  シヌヘ』が手元にあります。

上下巻あわせて1000ページにもなる壮大な物語。息をするのも忘れていたかのように、ふぅーっと長いため息がでるほど一気に読み切りました。こうして出版されるまでセルボさんと岡村さんのやりとりを遠くから見つめ続けていたため、もっと深く味わいながら読むべきではないかと思いつつ、ページをめくる手を止めることができませんでした。

『エジプト人 シヌヘ』上下巻(みずいろブックス)

物語の舞台は今から3400年近く前の古代エジプト。主人公である医師シヌヘの回想録として書かれています。このシヌヘという名は、古代エジプトに伝わる古典文学『シヌヘの物語』にあやかって養父母が名付けたもの。その名に運命づけられたかのようにシヌヘは、時代の波に呑み込まれながら様々な冒険の旅へと誘われます。

あまりにも遠い時代の物語のため、ミカ・ヴァルタリの創作がまるで歴史の真実(ノンフィクション)であるかのようにも思えてきます。物語の行く末を見守りながら、歴史とは何か? 真実とは何か? そんな問いをずっと目の前につきつけられているように感じていました。

また物語では「死」という存在があまりにも近く、現代の感覚とは大きくかけ離れています。しかし本当は今この時もただ遠くにあるものとして忌避され、目隠しされているだけなのかもしれません。物語の中に登場する「ガザを守れ!」という言葉に胸の奥がずきんと痛みました。

物語の始まり、特製のしおりと

人間は愚かで、弱く、悲しい。理想だけでは誰も救えない。いつも失ってから大切なものに気づく。勝者も敗者もない戦争の虚しさ。世界に正しいことなんてなにひとつない。人の営みは無為なのか。死ははたして救いなのか。物語は君たちならどう生きるのかと読者に問いかけています。

愚かであるからこそ学びたいとおもう。弱さを知っているからこそ優しくできる。悲しみがあるからこそ愛おしさが生まれる。人はなぜ生きるのだろうか? そうした正解のない答えを探し続けることが生きることなのではないか?

そんな堂々巡りのなかで、「さあ、しっかりお食べ」というシヌヘの使用人ムティの言葉に救われます。難しいことはひとまず置いといて、お腹を満たすこと。そこにはどんな理屈よりも真実に近いものがあるように感じられます。そもそもなにかを口にしなければ、なにも味わうことはできません。

イタリア文化会館(2022年11月)

ヨーロッパ文芸フェスティバルで、セルボさんは「フィンランドの作品を母国の人たちに伝えたい。原書の良さを日本語にしたい」とおっしゃっていました。すぐれた海外文学を読むとき、それが翻訳されたものだと意識することはあまりありません。そうした「翻訳だと気づかせない文章を書きたい」と。

本を読み始めてすぐにセルボさんの存在は消えていました。そして著者であるミカ・ヴァルタリもいなくなりました。そこにあるのはシヌヘが見つめたエジプトの物語だけでした。物語を伝えるためには物語だけがあればいい。そして、物語が伝えることは物語だけにあればいい。

さあ、しっかり物語の世界を味わってみてください!

text + photo : harada

エジプト人 シヌヘ

ミカ・ヴァルタリ 著
セルボ 貴子 訳
菊川 匡 監修
上山 美保子 編集協力

みずいろブックス 発行

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