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Coffee Carawayさん、そしてバスにゆられる休日
2015.8.6|facebook

祐天寺まで、新しいお店をオープンされたばかりの「コーヒーキャラウェイ」さんをたずねる。大きな窓とやさしいグレーを基調とした気持ちのいい内装は、シンプルでいて、ありきたりではない。いかにもオーナー芦川さんらしい大人っぽい空間で落ち着く。豆だけ買うつもりが、あまりの居心地のよさに「昼下がり(アプレミディ)」と名づけられたブレンドを淹れていただき、道行く人びとを眺めつつのんびりさせてもらう。豆は、とろっとした甘みの美味しい中深煎り「アプレミディ」と、アイスコーヒーにも合いそうな「ニュイ」を購入。駅からの歩いて4分ほどと近いので、東横線沿線のコーヒー好きはぜひ立ち寄ってみてください。

祐天寺を後にして、「村野藤吾の建築」展がひらかれている目黒区美術館をめざす。ここ最近、時間のあるときの移動はもっぱら路線バスを愛用している。電車とちがい、バスはより町の暮らしに近いところを走る。車窓からぼんやり人や町並みを眺めているだけで、町それぞれの目にはみえない境目が感じられておもしろい。祐天寺駅から目黒駅への道中では、祐天寺裏の五叉路のあたりがとてもいい。ゆるゆると蛇行する細い道とところどころに残る看板建築が、戦前の「郊外」の面影をしのばせる。かつての市内と郊外の際(きわ)あたりをこうしてバスにゆられていると、まるで広瀬正の小説にでも登場しそうなタイムマシンにのっている気分になる。鉄道駅とちがい、バス停には再開発の波も無縁なので、いつまでもローカルな雰囲気をとどめているのが魅力である。そんなお手軽タイムトラベラーには、「東京バス案内」というアプリが重宝している。

コシュ・バ・コシュ〜恋はロープウェイに乗って
2015.8.12|facebook

月曜日の日中は、雨が降ったり止んだりのうっとうしいお天気。バケツをひっくり返したようなというよりも、むしろバケツごと降っていたのではあるまいか。そんななか、降ってくるバケツをたくみに避けながらご来店くださったみなさまには心より感謝の意を捧げます。

店を閉めてから、渋谷へ。ユーロスペースのレイトショーで『コシュ・バ・コシュ〜恋はロープウェイに乗って』を鑑賞する。タジキスタンの監督バフティヤル・フドイナザーロフによる1993年の作品。ちなみに、タイトルの「コシュ・バ・コシュ」の意味は…… よくわかりません。なんとなく「なせ・ば・なる」みたいな響きなので、頑張ればいいことあるヨ、きっとそんな意味なのではないだろうかと妄想しながら上映を待つ。

舞台は、内戦下のタジキスタンの首都ドゥシャンベ。絶え間なく銃声が響き、夜になると戒厳令下の街を取り締まるパトカーが不気味なサイレンを鳴らしながら通り過ぎる。ときには川を死体が流れてきたりもするが、人びとの暮らしはいつも通り、なにも変わらない。

まず、感嘆すべきは舞台となるドゥシャンベの街の眺め。小高い丘がそびえ、その急斜面には、難民や貧しい人びとの暮らす小さな家がびっちりしがみつくように建っている。銃声や爆撃音と遊ぶ子どもたちの歓声という相反するサウンドが、まるで「生活音」のように調和しているのがなんとも不思議だ。街に高低差がある場合、眺望のいい高台に裕福な人びとが住み着く都市とここドゥシャンベの丘やリオデジャネイロのファヴェーラのように貧しい人びとが住み着く都市とがあるのがおもしろい。たぶん前者は、自動車や鉄道などの交通網が早くから発達した先進国の特徴な気もするが、実際のところどうなのだろう。

その丘と下界とをつなぐ唯一の交通はといえば、乗るのも憚られるようなボロボロのロープウェイのみ。ロープウェイは人や物資を運ぶのみならず、ときにはトラックの荷台からケースごとビールをくすねる道具になったりもする。主人公の青年ダレルは、そのロープウェイの操縦士。内戦下にもかかわらず、博打と女に明け暮れてフラフラしている、ひとくちで言うと、ろくでなし。イケメンでもないが、ただ愛嬌はある。ある日、そのダレルが、賭博仲間の娘で(なにやらワケありで)モスクワから帰郷したばかりのクールな美女ミラと出会い、恋に落ちる。博打を毛嫌いするミラと、なかなか博打をやめられないダレル。ふたりの距離も、さながらロープウェイのように行ったり来たりするのだった。

映画の中では、ほとんどすべての《事件》はロープウェイのなかで起こるのだが、エンディングは穏やかな昼下がりの下界で繰り広げられるので、きっとふたりの恋はうまくゆくのだろう。でも、あるいは、うまくゆかないかもしれない。なんといっても、まだ内戦は終わっていないのだ。

それにしても、やはりこの映画の「主人公」はというとあの〝荒涼とした街並み〟と〝ロープウェイ〟、そして〝内戦〟の3点セットなのではないか。芸術家なら誰しも、なんらかのかたちで作品として描きたいと思わせるようなインスピレーションに溢れた道具立てである。もしこれが作られたセットだったなら、それはそのままウェス・アンダーソンである。観客は、安心してフィクションの世界に浸れる。けれども、現実と虚構が奇妙にねじれて存在しているところに、この『コシュ・バ・コシュ』を鑑賞した後の行く末の見えない不安やモヤモヤ感はあるのではないだろうか。とにもかくにも、〝1993年のドゥシャンベ〟が才能豊かなひとりの芸術家の手によってこうして映像として記憶されたことは、ある意味ひとつの「奇跡」といえる。

この春亡くなった監督の追悼特集として、14日まで上映中。おそらくレンタルにも出ていないし、スクリーンでの上映も今後あまり期待できないので、リアルなウェス・アンダーソン的世界に繰り広げられるラブストーリーをこの機会にぜひ。

http://www.eurospace.co.jp/works/detail.php?w_id=000019

とっさの比喩
2015.8.14|facebook

ひとはときに、とっさに口をついて出た思いがけないひとことに戦慄をおぼえることがある。それは、そこに自分の心の「闇」を見てしまうからではないだろうか。

ある日のこと、つい手がすべって落としそうになったモノをすんでのところでキャッチしたとき、ぼくの口をついて出たひとことは自分でも想像のつかないものであった。

「おー、吉川晃司並みの運動神経!」

思わず、鳥肌がたったのは言うまでもない。世の中には、もっと目立って運動神経のよい人びと、たとえばスポーツ選手などが沢山いるではないか。いや、ただ「おー、すげぇ運動神経!」でもいいわけである。なのに、なぜここでキッカワが登場するのか。だいたい、ぼくは吉川晃司がスポーツをしているところを見たことすらないのだ。わからない。ほんとうにわからない。こうなると、フロイトとかユングとか、小田晋とか美輪明宏にでも訊いてみるしかないのではないか。

そして、いまいちばん恐怖しているのは、なにかの折りに「あー水球やりてェ」と自分の内に潜むキッカワがつぶやくその瞬間(とき)のことである。

夏の終わり
2015.8.25|facebook

唐突に涼しくなったここ数日の東京である。窓を開ければ相変わらず蝉の声も聞こえてくるが、少しひんやりとした空気の中で聞くその声はなんとも場違いで、正直マヌケにさえ聞こえる。それが判っていて恥ずかしいのだろう、道ばたには少なからぬ数の蝉が横たわり身悶えしている。気の毒である。

本を返しにいったとき、大きな木の植え込みでなにやらゴソゴソとやっているおばあちゃんをみかけた。気になったので様子をうかがうと、植え込みに落ちている余命幾ばくもないといった感じの蝉をつかんでは、なんとか傍らの木の幹に止まらそうと苦心している。なんども試みるのだが、蝉は落ちる。そのたびジジジッと鳴いて、落ちる。戦中派とおぼしきおばあちゃんは、でもあきらめない。あきらめないのだ、勝つまでは。

でもね、おばあちゃん、いくらあなたの「知恵袋」をもってしてもそれは無理だと思うぞ☆

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