2011.6
> 2011.5
2011.4

谷川俊太郎『トロムソコラージュ』
2011.5.1|review

「ジャズのアドリブのような」という惹句がまさに言い得て妙の長編詩。

「私は立ち止まらないよ」という主題を、ときに軽妙に、ときに皮肉に、北緯69度のノルウェーのちいさな町で闊達に「吹き」まくる。

そしてすべてのフレーズは、マンガのような吹き出しに包まれて、北極圏の蒼い夜空をぷかぷか漂っては消えてゆく。

アンネ・ヴァスコ+福田利之 トークイベント
2011.5.3|event

5/2[月]より5/9[月]まで吉祥寺のギャラリー・フェブで、イラストレーター福田利之さんとアンネ・ヴァスコさん(フィンランド)の二人展「森」が開催されます。

この展示にあわせて、モイでも福田さん、アンネさんをお迎えして

フィンランドのこと、日本のこと、森のこと、絵本のこと

についておしゃべりしていただくことになりました。お時間のあるかた、展示とあわせてどうぞご来場下さい。


◎ アンネ・ヴァスコ+福田利之 トークイベント

・日 程 2011.5.3(火・祝)
・時 間 ①受付終了 ②受付終了
・会 場 moi[カフェ モイ]
・出 演 アンネ・ヴァスコ + 福田利之 + 森下圭子(通訳)
・参加料 1,300円(コーヒー代込)
・定 員 各回15名

【お申し込み方法】 4/14[木]正午よりメールにて受付いたします。

おかげさまをもちまして、定員に達しましたため2回とも受付を終了いたしました。多数のお申し込み、ありがとうございました。(4/14 14:05 記)

木下史青『博物館へ行こう』
2011.5.3|review

東京国立博物館で「展示デザイナー」をつとめる著者による、好奇心を刺激する博物館への誘い。

ドイツの博物館で出会った「静けさに満ちた調和の空間」に魅了され、いかにすれば来館者にストーリーある展示を体感してもらえるか、展示空間のデザインを通して試行錯誤が繰り返される毎日。

とはいえ、そこから伝わってくるのは苦悩を抱える日々ではなく、この仕事が好きで楽しくて仕方ない、そんな著者の仕事にかける熱い思いである。

博物館という空間のもつ魅力を、陳列された作品とはべつの角度から語った興味深い一冊。

藤谷治『船に乗れ!』
2011.5.4|review

最上級の「抵抗」っていうのは、声高に叫ぶことではなく、ただひたすら一心不乱に最後までなにかをやり遂げることなのかもしれない。

みんなと「ブランデンブルク」をやるくだりで、それを感じた。

ストーリーとは、ほぼ関係ないけれど、うつくしくって、泣けた。

森下圭子『ワンテーマ指さし会話 フィンランド×森』
2011.5.4|review

「自分の心に「森」と響いたら、そこは森」…… 翻訳家、コーディネーターで、映画『かもめ食堂』のアソシエートプロデューサーとしても知られる森下圭子さんが、みずからを「森の民」と称するフィンランド人にとっての「森」の存在から、季節ごとのアクティビティ、オススメの森へのアクセスなどについて懇切丁寧に語った一冊。

「指さし会話帳」のシリーズではあるけれど、語学書というよりむしろ読み物と美しい写真からなるフィンランドの森を知るためのハンドブックといったところ。

もちろん、フィンランド旅行を計画しているひと、とりわけ自然と触れ合いたいと考えているひとには必携の一冊だが、たとえ都会に暮らしていても、つねに身近な自然を日々の暮らしに上手に取り込むフィンランド人のライフスタイルは、いま価値観の転換を求められている3.11以降を生きるぼくら日本人にとっても少なからず参考になるはず。

フィンランド発のリサイクルビーズで自分だけのブレスレットをつくる
2011.5.6|event

モイの「部活」第三弾は

『フィンランド発のリサイクルビーズで自分だけのブレスレットをつくる』

です。ケアリングハンズ(Caring Hands)は、フィンランド発アフリカ生まれのリサイクルペーパーを使用したフェアトレートアクセサリー。

「援助より雇用を」との声に押されるように、ミッラ・ハッポネンがこの「ケアリング・ハンズ」というプロジェクトを起ち上げたのは2005年のこと。雑誌や新聞などのリサイクルペーパーは、アフリカ・ウガンダの女性たちの手にかかるとひとつひとつ表情の異なる、まるでイーッタラの「オリゴ」のようなかわいらしいビーズに生まれ変わりました。そして同時に、それまで「貧困層の中でももっとも貧しい人たち」と呼ばれていたウガンダの女性(おもにシングルマザーや未亡人といった)が経済的に自立し、子供に教育を受けさせることができるようになったのだそうです。素晴らしいですよね。

ちなみに、この「ケアリングハンズ」プロジェクトはフィンランドでも多くの人たちから賛同を得ており、あの、タルヤ・ハロネン大統領も身に着けていたり、ヘルシンキのデザインショップ「Bling Life」で扱われたりしているそうです。

──

というわけで、今回は自分で好きなデザインのビーズを選び、岡田牧子先生の指導のもとオリジナルのブレスレットをつくっていただきます(かんたんな作業ですので、初心者の方でも時間内に完成します)。

部活の【概要】と【参加方法】は下記の通り、ぜひお気軽にご参加ください!!

・日 時 5月18日[水] 19時30分~21時
・場 所 吉祥寺 moi[カフェ モイ]
・定 員 10名
・講 師 岡田 牧子(HANDKERTIC)
・部 費 1,500円(材料費・ドリンク代含む)

5/6 おかげさまをもちまして、定員に達しましたため受付は終了させて頂きました。どうもありがとうございました。

2011 GW期間中の営業について
2011.5.8|info

気がつけばすでにGWに突入しておりますが……

4/29[金] 正午~20時
4/30[土] 正午~20時
5/ 1[日] 正午~20時
5/ 2[月] お休み
5/ 3[火] イベントのみの営業
5/ 4[水] 正午~20時
5/ 5[木] 正午~20時
5/ 6[金] 正午~20時
5/ 7[土] 正午~20時
5/ 8[日] 正午~20時

ラストオーダーは閉店の30分前となります。

みなさまのご来店お待ちしております!!

臨時休業のお知らせなど
2011.5.10|info

ゴールデンウィークの吉祥寺は、アンネ・ヴァスコさん+福田利之さんの展示、そして関連イベントで愉しくもにぎやかな毎日でした。ご来店くださったみなさま、ありがとうございました。そして混雑のためお入りいただけなかったみなさま、大変失礼いたしました。またの機会にお立ち寄りいただけますよう、心よりお待ちしております。

モイは、明日9日[月]は「特別営業」、そして10日(火/定休日)、11日[水]は連休とさせていただきます。何卒よろしくお願い致します。

◎ 5/9[月]特別営業「moi kahvila」

アンネ・ヴァスコさんと福田利之さんの展示最終日となるこの日は、フィンランドの喫茶店をイメージした特別営業となります。フィンランド好きの方と、フィンランドの話などしつつ過ごす一日としたいです。なお、営業時間、メニューが通常と異なりますのでお気を付けください。

【メニュー】
・各種ドリンク
・フィンランド風シナモンロール(数量限定)
・スウェーデン産リンゴンベリーを添えたスコーン
・ベリーのトライフルのみ
 ★フードメニューはお休みです

【営業時間】
 正午~18時30分(ただし売り切れの場合、早めに閉店する場合がございます)。

なお、
 5/10[火] 定休日
 5/11[水] 臨時休業
とさせていただきます。よろしくお願い致します。

moi店主

「科学者」野依良治さんの卓見
2011.5.11|column

福島第一原発の事故について「"科学の危機"とどう向き合うか」というテーマの下、ノーベル化学賞受賞者の野依良治さんがテレビで話をしていた。

このような「悲劇」を繰り返さないために、「科学技術」ではなく、「科学」と「技術」とを分けてかんがえることが肝要と野依さんは、説く。中立的・客観的に真理を追究するのが「科学」であるのに対し、ひとや社会が利用することが前提の「技術」からは、当然「光と陰」が生まれる。「科学」と「技術」とをいっしょくたにしたうえで、むしろこの資本主義経済の社会にあって、「技術」が「科学」をのみこむかたちで推し進められてきたのが日本の原子力行政だったいうことだろうか。

想定外。今回の事故にかんしてたびたび登場するこの言い回しについても、その「科学」と「技術」とを分けてかんがえるという立場から野依さんは、言う。そもそも「科学」があつかう領域は「想定外」のことばかりなのだから、「科学者」はけっしてそれを逃げ口上にしてはならない、と。そうして、「技術」の暴走に対して科学者たちがそれを牽制するような積極的発言をしてこなかったことについて、「内向きだった」と反省する。

野依さんはさらに、原子力について(少なくとも現時点では)「人智を超えたエネルギー」としたうえで、将来的には太陽光などの自然エネルギーに変えてゆくことが望ましいと明言する。ノーベル化学賞受賞者の口から飛び出した、この、まるで原子力に対する敗北宣言ともとられかねない発言には思わず耳を疑った。「『科学』と『技術』とを分けてかんがえる」という野依さんの最初の指摘からこの発言を「読め」ば、こういうことになるだろうか。

「科学」としては、原子力を追究する手は弱めるべきではない。が、現時点でそれが「人智を超えた」ものである限りにおいて、「技術」はまだそれを使うべきではない。そのかわり、「技術」は再生可能な自然エネルギーにこれまで以上に積極的に取り組むべきである、と。

ダイナマイトを発明した科学者アルフレッド・ノーベルはその晩年、兵器として大量殺人にそれが使われるようになったことについて悔いていたという。まさに、「科学」と「技術」とをいっしょくたにすることによって生じる「悲劇」に苦しんだ科学者がノーベルその人なのであって、「科学者」野依良治さんの話はその名前を冠した賞の受賞者にふさわしい卓越した知見だと感じた。

森へ
2011.5.11|finland

怒濤のGW営業も終わって、きょうはひさしぶりの休日。

そこが公園の一角だろうが国立公園だろうが、「自分の心に『森』と響いたら、そこは森」(森下圭子『フィンランド×森』情報センター出版局)という一文に導かれるようにして、朝一番で鍼に行った後、その足で「阿佐ヶ谷住宅」を抜け善福寺川沿いの緑地をめざした。

このあいだのイベントでも、圭子さんは「フィンランド人と森」についてこんなことを言っていたっけ。

── フィンランドの人たちは、木が3本しか植わっていないような場所でもそこを「森」と感じれば「森」と呼ぶ。彼らにとっての「森」とは、木があって、心静かに過ごせる場所のことなんです。

都会に暮らしていると、ときどき無性に「森」が恋しくなる。とはいえ、長いこと電車やクルマにゆられて、できればお休みをとって泊まりがけででも行かないことには「森」になんて辿り着けない、そう思い込んでいたぼくにとって、フィンランド人の「森」との、そのカジュアルなつきあいかたはまさしく目からウロコといった感じで衝撃をうけた。

「『この先』のこと|生きる場所、単位と『小確幸』」という文章にも書いたけれど、あちこち駆けずり回って買い物をしたり、じぶんの脳ミソではとてもじゃないが処理できないくらい膨大な「情報」をアタマに詰め込んだりするよりも、じぶんの身の回り(徒歩や自転車で動けるくらいの範囲)の土地をどれだけ耕し、そこにたくさんの「お気に入り」をみつけられるかということこそが、「この先の幸福」のポイントになるとぼくは予感している。だから次の休日には、じぶんの身近に「じぶんの『森』」を探そう、できれば木が3本くらい植わっているような、とかんがえていた。

そうして善福寺川沿いにつづく緑地は、あらためて歩いてみると、まさに「森」としか言いようのない場所だった。

平日ということもあってか、その「森」は静けさに包まれていた。たくさんの鳥のさえずりが聞こえ、風が木々を揺らして通り過ぎてゆく。真っ黒い太っちょのトカゲも、川べりにとぐろを巻くヘビの姿も、見た。もちろんフィンランド同様、思い思いに時間を過ごす人たちも。

さすがにフィンランド名物「やかんコーヒー」は無理だろうから、こんどはちゃんと家で淹れたコーヒー持参でふらりと訪れよう。

オ・モロのフィン音楽部 #1
2011.5.13|event

フィンランドジャズを中心とした北欧音楽の紹介・販売サイト「o-moro」の代表、シオミ ユタカさんを案内役に、フィンランドの音楽をみんなで聴きつつ、ゆったりおしゃべりしようという「部活」です。

シオミさんには、前回3月に「フィンランドジャズと出会う5枚」ということでご登場いただきましたが、今回はよりカジュアルに楽しめる雰囲気をかんがえています。もちろん「初心者大歓迎」、というか、フィンランドのジャズやその他の音楽についてバリバリ詳しいひとの方が少ないと思うので(笑)、むしろ、「へぇーこんな音なんだね」と「発見」することを楽しむ感じになればいいと思っています。

そして今回のテーマは、

『"ピエニ・ムシーッキ"の楽しみ』

3人以下の編成で演奏される音楽を「ピエニ・ムシーッキ(小さな音楽)」と命名して、ご紹介してゆく予定です。さて、どんな組み合わせの、どんな音楽と出会えるのでしょうか……?

──

オ・モロのフィン音楽部「ピエニ・ムシーッキの楽しみ」

・日 時 5月25日[水] 19時30分~
・場 所 moi[カフェ モイ] 吉祥寺
・定 員 10名
・ガイド シオミ ユタカ(o-moro)
・部 費 1,000円(ドリンクつき)

お申し込みは、お名前、人数、連絡先を明記の上メールにてお願いします。なお、お手数ですがメールの件名は「フィン音楽部」として下さい。店頭でお申し付けいただいてもかまいません。

みなさまのご参加、心よりお待ち申し上げております♪

オッリペッカ・ヘイノネン『「学力世界一」がもたらすもの』
2011.5.13|review

90年代のフィンランド、空前の不況にあえぐなか弱冠29歳という若さで「教育大臣」に就任、一連の「教育改革」を断行しわずか10年あまりでフィンランド経済を立ち直らせる礎を築いたオッリ=ペッカ・ヘイノネンへのインタビューを中心にまとめた一冊。

東日本震災以後、新しい価値観をもつことを迫られているぼくら日本人にとって、ひとつの「提言」となりうるかもという淡い期待を抱きつつ手にとったのだが、読了後はただただため息ばかり……。

まず、補佐官としての経験はあったとはいえ議員経験のまったくない29歳の若者に「教育大臣」として国家存亡の危機を託してしまう大胆さ。しかも本人によれば、議会で足を引っ張られるどころか、大臣就任の決議も含めほとんど全会一致で決まったという。日本では、まずありえない話だ。

そしてさらに、大不況のまっただ中での改革が、すぐには結果の出ない「教育改革」だっという点も驚かされる。付け焼き刃の改革ではダメだという大いなる判断の下とはいえ、「そんな悠長なことをやっていたらその間にたくさんの国民が飢え死にしてしまう」といった反対意見はなかったのだろうか?

フィンランド人の「不思議さ」でもある。

しかし結果的に、産業社会からポスト産業社会への転換期ということが後押しになったとはいえ、この「教育」に始まる一連の改革は大成功をおさめ、おもにIT分野での成功というかたちで国を再生させる。

では、日本とフィンランドとの差はどこにあるか?

ひとことでいえば「機会の均等」ということへの国民全体の意識の高さ(「誇り」といってもいいかも)であり、政府の国民に寄せる「信頼」(裏を返せば、国民の政府に寄せる「信頼」の)高さである。

カタチを踏襲するのではまったく意味がない。成功する「改革」には、その足下に成功させるための地平が広がっているのだと納得させられた。

北欧のライフスタイルに関心のあるひとは、ぜひ熟読すべき一冊。

内田樹・中沢新一・平川克美『大津波と原発』
2011.5.17|review

震災以降ずっと、こういう本の登場を待っていた。

原発事故は、「原子力発電所の事故」にはちがいない。けれども、事故は事故でも、この事故の解決はただ技術の問題でなんとかなるものではない、震災以後そういう予感がずっと続いている。だからこそ、物理や経済ではなく、哲学や宗教学といった方面からの真摯な発言を聞きたかったのだ。そしてこの一冊は、まさに原発の扱いから東北の復興ヴィジョンに至るまで、現在進行形でぼくらが直面しているさまざまな問題についてきわめて示唆に富んだ提言とともに論じられている。

たとえば、地球の生態圏の外側から持ち出してきたものである原子核の中に操作を加えることで成立する原子力発電を「第七次エネルギー」としたうえで、これまでのエネルギーとまったく別次元のものであると定義する。そして、生態圏の中に存在しないという理由から原子力を「一神教的な神」に類するものだとし、思想的な理解を疎かにしたまま技術だけでコントロールしようとしてきたことにそもそもの問題があったと指摘する。

さらにそこから、東北の復興、エネルギー問題、首都機能の分散、新しい農業の提案などをふまえた中沢新一による「緑の党のようなもの」の提唱にまでつながってゆく……。

大胆でありながら、きわめて腑に落ちる発言が散りばめられた、想像力を刺激される一冊。

テクノロジーと故郷に生きるということ
2011.5.19|column

60年代の集団就職、70年代高度経済成長期の出かせぎといえばまるっきり昭和の話だが、それから4、50年、テクノロジー、とりわけ運輸交通や通信技術はめざましく発達したにもかかわらず、けっきょくそれはじぶんの故郷、あるいは愛着のある土地でひとが生きうるような環境を生み出しえなかった。

ツイッターで郷里への思いや愛情を吐露する人たちを目にするたび、テクノロジーの発達は、弱い部分を補うどころかますますアタマでっかちな国を形成してしまった、そうかんがえざるをえない。生まれ育った土地で生きてゆけることを、すくなくとも、戻ろうと思えばいつでもそこに戻って暮らせることをひとの「幸福」をなす大きな要素のひとつだとかんがえるならば、この4、50年にわたって、その点にかんするかぎりテクノロジーはまったく「幸福」に貢献してこなかったということになるのではないか。

だから、テクノロジーはこの先、ひとがじぶんの故郷であったり愛着のある土地で暮らしてゆけるような、そういう環境(インフラ)づくりのために存分に使われ、発達するべきだと思う。まずは、どこがどうなっていれば「郷里」や「じぶんにとって愛着のある土地」で暮らしてゆけるのか、その仕組みをひとりひとりがかんがえてみたらどうだろう? テクノロジーを考案するのも、はたまたそれを駆使するのもぼくら人間なのだから。問題は、テクノロジーの方向なのだ。

フィン音楽部・覚え書き
2011.5.27|event

ゆうべは【部活】、o-moroシオミさんを招いての【フィン音楽部】だった。

テーマは「ピエニ・ムシーッキの楽しみ」。ピエニ・ムシーッキ(pieni musiikki)というのはフィンランド語で「ちいさな音楽」、その名の通りソロ、デュオ、トリオといった小編成で演奏されたフィンランドの音楽(おもにジャズ)をみんなで聴き、おしゃべりに興じようという内容。そのなかで、なんとなく感じたことをメモとして書き留めておこう。

自由さ

これは、前回おなじくシオミさんに解説してもらった「フィンランドジャズと出会う5枚」という【部活】の場で話題にのぼったキーワード。

60年代に入ってから一気に「輸入」されたフィンランドのジャズは、それゆえ時系列に消化され進展するかわりに、あらゆるスタイルがごった煮的に混ぜ合わさった独特のスタイルを身にまとい進化することになる。さらに、当時ジャズを演奏していたミュージシャンたちが、ジャズにかぎらずロックやポップス、クラシック、あるいは民族音楽などのさまざまなバックボーンを持っていたため、よりいっそうその演奏はよくいえば「多種多様」、悪くいえば「つかみどころのない」ものとなっていった。フィンジャズが、いわゆるアメリカのジャズとも、その影響のもと開花したデンマークやスウェーデンなどスカンジナヴィアのジャズとも明らかに異なる印象を受けるのはそのためである。

編成という点にも、フィンランドのジャズの「自由さ」は際立っている。

たとえば、いま来日中のニクラス・ウィンターとテーム・ヴィーニカイネンは、ギター2本だけで一枚のアルバムをつくってしまったし、同じく来日中のレイヤ・ラング・トリオは女声ボーカル、ギター,それにベース(ときにヴァイオリンに持ち替えたりもする)という不思議な編成だったりする。こうあるべきという「定型」がまったく頭にないようでもある。それが彼らのルールなのだろうか? いや、もっと自然体で破綻(?)しているのが彼らのユニークさじゃないだろうか。

それは、いってみれば「DIY精神」のようなものかもしれない。北欧の人たちが大好きな「DIY」。休日に、あるいは仕事の後に、ありあわせの材料でコツコツと黙々と大工仕事に打ち込むあの感じ。いい鍵盤奏者がみつからなかったら仲間のギター弾きを連れてきてトリオを組んだり、ドラムがみつからなかったらいっそドラムレスにしてしまったり……。そんなDIY的な音作りのなかから、思いがけず新鮮なサウンドや絶妙な駆け引きが生まれてくるのだ。

アタマの中から、いちど「~はこうあるべき」という先入観を取り払ってしまうと、フィンジャズはいままでよりずっと親しげに微笑んでくれるような気がする。

萩原健太郎『北欧デザインの巨人たち』
2011.5.27|review

北欧デザインや建築を紹介する本はあまたあるけれど、この本『北欧デザインの巨人たち あしあとをたどって』は、デンマーク、スウェーデン、そしてフィンランドの「巨人」〜 すなわちヤコブセン、アスプルンド、そしてアールトの三人の「あしあと」を辿りつつ、唯一無二の北欧デザインの個性がどこから来て、どこへ行くのかを数々のエピソードから示してくれている点で興味深い。

ぼく自身は、数あるエピソードのなかから選び出されたエピソードのひとつひとつにとりわけ著者ならではのセンスの鋭さを感じたし、かならずしも作品紹介にこだわらない写真の数々も、美しくも短い北欧の秋をとらえている点でよりいっそう輝きを増している。

デザインや建築に関心があり北欧を旅するひとは、これを手に取ることで一段「深い」旅になることうけあい。

プレイタイムカフェさんの閉店を知って
2011.5.29|cafe

こればかりは、どうしても書いておかないわけにはいかない。

郡山の「プレイタイムカフェ」さんが、東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染を理由に「閉店」されるそうだ。オーナーさんが書かれたブログの記事を読み、その無念さや悔しさを思うと心が張り裂けそうだ。

「プレイタイムカフェ」のオーナーさんとは直接の面識はないとはいえ、お店の存在はもちろんずっと前から知っていたし、ツイッターでフォローさせていただいていることもあり、3.11以降かなり緊迫した状況に置かれていることは理解していた。なので、今回「閉店」を決断されたことを知ったときも、驚きよりはむしろ「ああ、やっぱり」という失望感のほうがずっと強かった。

ちいさなお店というのは、哲学者パスカルが語るところの「一本の葦」同様、か弱い存在である。それでも弱いなりに日々ちいさな努力を重ね、信頼や愛着を得ることでひとりひとりのお客様に支えられてようやく大地に根づき、少しずつ、ほんとうに少しずつ育ってゆくことができるものなのだ。たとえば大手のセルフカフェなら、その資金力やマニュアルの下、初めての土地でもすぐさまある程度の利益を上げてゆくことはできるかもしれない。でも、ちいさなお店がそれをやることはとてつもなく難しい。すくなくとも、とても時間を要することだ。そのことをよく知っているからこそ、ぼくはいま大きく憤っている。さながら仲間を通り魔に殺されたような心持ちとでもいえば、いまの心境が多少は伝わるだろうか?

ひとたび事故が起きれば、ほんの一瞬にしてひとが日々努力を重ねてようやく築き上げてきたものを打ち砕き、大切な人との思い出を奪い去り、情け容赦なくその土地から引き剥がす、そもそも「原発」とはそういうものなのだ。だからこそ、そのような人間の尊厳を奪いさるモンスターは技術として「実用化」すべきではない。少なくとも、今後の社会においてはそうした理解の下べつの方向にシフトすべきだと、強くぼくはかんがえる。

本当に、読めば読むほどつらく悲しい現実のなかにあって、それでもオーナーさんはこんな風におっしゃっている。「命が助かったからには、絶望することなく、楽観することもなく、生まれてきたからには死ぬまで生きるということを、できれば、楽しみながら、まっとうしていこうと思います」。なんて「強い」ことばなのだろう。

パスカルの「パンセ」は、それが断章ということもあってとても読みづらい。読みづらいけなりに、ぼくは読んでこんなふうに理解している。

人間はとてもか弱い「一本の葦」である。一本の葦が嵐の前ではなすすべもないように、人間も宇宙(世界とか現実とか言ってもいいかも)の前ではちっぽけな存在である。でも、とパルカルは言う。人間は「考える葦」である、と。人間は、自分がいかに弱いものであるかを「知っている存在」である。いっぽう、宇宙はなにも知らない。人間はか弱いけれど、自分がか弱い存在であるということを知っているからこそ、宇宙と向き合える。向き合うというのは、かんたんには「折れない」ということだ。一本の葦は強い風にあおられ、地面に叩きつけられそうになるけれど、またすーっと真っすぐ立ち上がる。ひとの存在はちっぽけだけれど、考え、思いめぐらすことだけは無限にゆるされている。だからこそ、考え、思いめぐらすことで、ひとはなんの感情も持たないこの殺風景な宇宙とわたりあい背筋を伸ばして生きてゆくことができるのである。

今回「プレイタイムカフェ」さんの閉店を知り、なにかオーナーさんにはお声をかけたいと思ったのだけれど、その心の痛みを思うとなにもかけることばを思いつかないままいまに至っている。でも、日々なにかを思い、知り、感じ、考えるなかで、なにかふたたびそれが「かたち」になった際には、ぜひ大きな声で祝福のことばをかけさせていただきたいと思っている。

アールトの椅子と「ツボを心得る」ということ
2011.5.31|finland

moiで使っている椅子は、フィンランドの建築家アルヴァー・アールトがデザインした通称「69番」。フィンランド人の女の子に言わせれば「子供のころ、幼稚園で見たことある」、それくらい、まあ、ありふれた椅子である。

で、萩原健太郎さんの新著『北欧デザインの巨人たち あしあとをたどって。』(BNN新社刊)を読んでいたら、こんな一節と出会った。

“高価ではない”というのは、北欧の中でもフィンランドの家具の特徴だと思う。(中略)フィンランドでは安易にビスで留めて、そのビスの頭は露出したままだったりする。

中略

家具を工芸品ではなく日用品ととらえ、誰もが求めやすい価格を目指した結果、デンマークなどとは違う家具の道を選んだのだ。そして、そのフィンランド家具の礎を築いたのが、アアルトといえる。

そうそう、たしかにそうなのだ。デザインや建築関係、あるいは椅子好きの仲間とアールトの椅子の話をするとき、実際かならずといっていいほど出るのがその話なのだ。「頭が露出したビス」にしても、シロウトのぼくなどは指摘されてはじめて「そういえばそうだね」と思う程度なのに、彼らにとってはそんなビスの始末は「美意識のカケラも感じられない」「信じがたい」「ユルい」仕事に映るようで、みな失笑まじりで話しするのだった。

でも、ぼくのように、ビスの頭が露出していてもそのことに気づいてすらいなかった人間だっているわけで、案外シロウトなんてそんなものかもしれない。けれどもアールトの家具、とりわけスツール類についていえば、まず第一義的に「安価で作って安価で売る」という絶対目標があったわけで、そのあたりの「割り切り」はむしろいかにも北欧らしい合理主義ともいえる。

たとえば日本だったら…… と想像してみる。おそらく、「安価で作って安価で売る」という目標があったとしても、高い技術力と自己犠牲に近い仕事への執着、美意識によって「安価でもビスの頭が露出していない」椅子をつくってしまったかもしれない。

── そこまでやる日本と、そこまでやらないフィンランド

どちらがいいとかわるいとか、どちらが正しいとか間違っているとか、そういう問題ではこれは、ない。もちろん、フィンランドの職人は「意識が低い」ということでも全然ない。

ぼくに言わせればフィンランドの職人たちは「ツボを心得る」のが得意なのだ。

ひとが満足する「ツボ」を読み取り、確実にそこを押さえる。その他の部分については必要最低限の手間しかかけない。「ツボを心得る」は、フィンランドの「ものづくり」のキーワードである。フィンランドに行ったときに感じる、描き込みすぎない絵画のような適度な余白の存在とそれが旅人の心にもたらす清々しさは、そんなふうに「ツボ」だけ押さえてよしとする国民性のなせるワザなのだろう。

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