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救援物資 共同購入の呼びかけ【東日本大震災】
2011.4.20|info

東日本大震災から一ヶ月がたちます。しかし、いまだに被災地では厳しい避難所生活が続いています。そのうえ、食糧や生活物資も相変わらず不足気味と聞きます。

そこで今回、「moi」としてお客様といっしょにできる支援をかんがえてみました。ご賛同いただけると大変嬉しいです。

いま避難所で必要とされる食糧(パスタ、パスタソース、トマトジュース)をみなさんと「共同購入」し、被災地である宮城県石巻市に届けます。届ける内容は、

パスタ 10キロ(およそ140人分)
パスタソース 24缶(およそ140人分)
トマトジュース 12リットル(およそ70杯分)

です。内容につきましては、保存がきくこと、電気を使わず調理が可能であること、ビタミンの補充を念頭に、石巻市HPの「必要な物資リスト」を参考に決めています。

【共同購入の方法】

上記の商品代に送料を加えた金額から逆算して、今回は

1口 500円 × 計60口

募らせていただきます。ひとり1口からお気軽に参加していただくことができます。もちろん、2口、3口の参加も大歓迎です。なお、目標の60口に達し次第、締め切らせていただきます。ご参加いただいた代金から、商品購入代金+送料実費を差し引き、おつりが出た場合は義援金として日本赤十字社に寄付させていただきます。

【募集方法】 *4/11 21時記

すでに現時点で目標60口のところ、なんと2倍の

120口

のご協力をいただきましたため、受付をいったん締め切らせていただきます。

目標を超えた60口分でさらに追加の食糧(パスタ、そうざい、レトルトカレー)その他を追加注文、発送させていただきます。

本当に本当にあたたかいお客様に恵まれてうれしく、しあわせです。また今後も可能性があれば、同様の支援を続けます。今回お気持ちが間に合わなかった方々は、どうぞそのときのために力を蓄えておいて下さい。賛同いただいたおひとりおひとりに、心から感謝いたします。

moi店主 岩間洋介


なお、今回は吉祥寺を拠点に活動する音楽レーベル「涼音堂茶補」の代表・星 憲一朗さんの協力の下、共同でおこないます。

現在、個人による宮城県石巻市への物資の輸送はできませんが、現在石巻市への支援を進めている「チュニジア新政府大使館」のご厚意により現地まで責任をもって迅速に輸送されます。

また、現地では「Coupie」のメンバーで石巻在住、現地で被災したyukkiさんが中心となって、いちはやく被災したみなさんの元に届くよう動いていただく手筈となっています。

「moi」が、お客様のなにかしたいという「気持ち」を「被災地」へと届けるちいさな「足がかり」になりますように。

ひとりでも多くのお客様がこの「共同購入」に賛同し、1口でもかまいませんのでご参加下さいますように。どうかどうか、よろしくお願いいたします。

2011年4月11日 一ヶ月後の「この日」に

moi店主 岩間 洋介

石巻市救援物資共同購入・送付物品リスト
2011.4.21|info

石巻市への支援物資の共同購入ですが、おかげさまで目標数60口に対し

計123口

のご協力をいただきました。あらためてこの場を借りて、みなさまのあたかかい気持ちに御礼を申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。

また、今回は半日ほどで目標を大きく超えてしまったため、お申し込みの意思を伝えていただきながらもご参加いただけなかったお客様も少なからずいらっしゃいます。ご希望に添えず申し訳ありません。

今回の計画で、「moi」のようなちいさな店でも、みなさまの気持ちと被災地とをつなぐ「ハブ」として機能できることが判りましたので、輸送手段さえ確保できれば今後も継続して支援をつづけていきたいと思っています。今回ご参加いただけなかったみなさまは、ぜひその折りによろしくご協力の程お願いいたします。

みなさまからの募金により購入しました商品は先ほど当店を出発し、石巻市への輸送を担当してくださる在日チュニジア大使館へと旅立ちました。あとは、無事に石巻市の避難所に届くことを祈るばかりです。

最終的に送付した品物リストは以下のとおりです:

パスタ 15kg(およそ210食分)
ミートソース缶 36個(およそ220食分)
レトルト野菜カレー(中辛) 80食
レトルトビーフカレー(甘口) 60食
トマトジュース 12リットル
インスタントコーヒー 大瓶2
クリーム 400g 2袋
スティックシュガー 3g 120本
ティーバッグ 100袋
カフェオレスティック 90本
おせんべい 1袋
クッキー24入り 3袋
柿ピー 60入り
チョコレート
ビスケット
ガーナチョコレート 28個入り 6箱
スプーン
紙皿×2種類
紙コップ 200個
ラップ 100m 3本
ZIPロック 大 2個
マスク 60入り
歯ブラシセット 5
タオル 小2 大2 ほか1

以上となりました。

☆4/17記 物資購入後の残金(当店よりチュニジア大使館への配送料含む)は904円です。なお、引き続きエントリーいただいた募金を回収中のため、回収がすべて終了次第、明細を明らかにします。もうしばらくお待ち下さい。

島村菜津『バール、コーヒー、イタリア人』
2011.4.24|review

世界進出をはかる北米発祥のコーヒーチェーンを横目に、ひたすら我が道を往くイタリアのバール。

著者はイタリア各地のバールでのエピソードはさみつつ、その歴史と発展の陰には、他人と違っていることをよしとするイタリア人ならでは価値観、そして人間力があると指摘する。

ナポリのバールに残る美しき慣習「カフェ・ソスペーゾ」、いまだに地元の樫の木による薪焙煎にこだわるロースター、誇り高きバールマン(バリスタとは異なる)など、この本を通じて知ったことがらも少なくない。

街がバールをつくりバールが街をつくる。

きょうもイタリアの街のいたるところで、ちいさなお店が胸を張って生き生きと仕事に励んでいる。なんと清々しい光景だろう。

トーベ・ヤンソン『小さなトロールと大きな洪水』
2011.4.25|review

戦争のさなか、トーヴェ・ヤンソンが書きとめたちいさな寓話。

どんな混沌にあっても、つねに「ほんもの」だけを見定めて歩みを止めないムーミンママは相変わらずの男前だ。

そしてすべてを押し流した洪水の後に、世界一「美しい」ものを手に入れるのだ。

「この先」のこと|生きる場所、単位と「小確幸」
2011.4.25|column

「この先」のことについて、かんがえている。それにもし、キーワードをあてはめるとすれば

── 小確幸(しょうかっこう)

がふさわしい。村上春樹が、『うずまき猫のみつけかた』というエッセイのなかであきらかにしている概念だ。その意味は、読んで字のとおり

── ちいさな確実なる幸福

ということらしい。これまでぼくは、おなじことを暮らしのなかの「句読点」と言ってきたのだけれど、この「小確幸」ということばには、さらに積極的に「しあわせ」という意味がこめられている点でより自分のかんがえていることに近いな、といま感じている。

フィンランドの人たちの暮らしは、ぼくらの目からみるとより慎ましく映る。モノや情報の多さを「豊かさ」と捉えるなら、日本はフィンランドよりもはるかに「豊か」だろう。でも、ぼくにはどうしたわけか逆に映る。なぜだろう? 初めてフィンランドを訪ねて以来、ずっとかんがえてきたことだ。その「答え」が、ようやく最近になってみえてきた。

フィンランドの人たちの暮らしには「小確幸」が、ある。

もっと言えば、ちょうど水泳の「息つぎ」よろしく、それを生活のリズムとして巧みに採り入れている気がしている。北に生きる人々の「知恵」だろう。たとえば、仕事の合間に緑豊かな公園で寝そべったり、陽のあたるカフェでお茶したり、仕事後には水辺の公園を散歩したり、休日には海辺や街はずれの森にでかけたり……。図書館が充実していて、どこでも借りたり返したりできたりなんていうのも、じつは「小確幸」を感じる要素のひとつかもしれないな。

個人的には、ヘルシンキ中心部くらいの広さ(東西南北なんとか徒歩や自転車移動できる程度)が人間の暮らしやすいエリアだという気がする。東京でいえば、23区のひとつ分くらいだろうか。それくらいのエリアをじぶんの「生活圏」として耕してゆき、どれだけの数の「小確幸」をみつけることができるか? 実践してみるのはなかなか面白いアイデアじゃないか、と思っている。

公園、お気に入りのカフェや食堂、図書館、散歩道、水辺や自然を感じられる空間などなど…… 仕事から早く解放された日には、じぶんの生活エリアのあまりなじみのない街に行って食事をしてバスで帰ってみたり、休日には散歩がてら徒歩や自転車でお気に入りの店や場所に行ってみるのだ。不便や不満な点があれば、区役所や市役所に進言するのもいい。それは、じぶんのエリアを耕して、さらに「小確幸」をふやすことにつながるかもしれない。

東京は単純に広い。東京に限らず、日本の都市は多かれ少なかれそうじゃないだろうか。最近あらためて気づいたのだけれど、日ごろ「京都がいい」とか「ヘルシンキはいい」とか「札幌がいい」とか思うのは、つまるところ

── 手ごろなサイズの街の中に、「小確幸」を感じられる場所がたくさんある

せいだと思う。だから、こんなふうに、自分の生活圏を意識的に「頑張れば徒歩や自転車だけでも移動できるくらいのエリア」に囲ってみて、どんどん「じぶんの地図」を拡充させてゆくのがいい。日本は、と語るのが壮大であるように、東京は、と語るのもひとりの人間にとってはひどく壮大なことなのだ。自分を都道府県で語るのでなく、せいぜい区や市の「単位」でかんがえ、行動してみてはどうだろう。杉並区のひと、吉祥寺のひと、といった感じで。

ル・コルビュジェのモデュールではないが、自分という単位があり、家という単位があり、じぶんの暮らす「街」という単位がある。その「単位」(たとえば杉並区や北区といった)が「豊か」であれば、その総体である東京という単位も「豊か」になる。ひとつひとつの都道府県が「豊か」であれば、その総体である日本という単位も「豊か」になって当然だ。最小の単位から最大の単位へ、点から面へ、豊かさを波紋のように拡げてゆくこと。

こうした波状の拡がりが世論となり、やがては企業を変え、エネルギーを変え、政治を変える。

でも、「この先」いちばん肝心なのは、やっぱり「こころ」であることに変わりはない。「小確幸」は、それを幸せと感じ取れる「こころ」の中にしか存在しえないからだ。

波多野一郎・中沢新一『イカの哲学』
2011.4.27|review

在野の思想家、波多野一郎が残したちいさなブックレット『烏賊の哲学』を地図がわりに、すべての存在が等しくもつ「実存」に立脚してより恒久不変の平和学、ひいてはエコロジーの可能性について探った意欲作。

そのカギは、そもそも人間に備わっていながら、自然を貨幣価値を生む資源とみなす資本主義経済のなかで見失ってしまった「比喩」の能力にある、と著者はいう。

比喩とは「意味と意味とを重ね合わせることによって、あたらしい意味を表現する力」であり、いわば、別のジャンルにあるもの同士をひとつにつなぐ「蝶番」なのである。

そうして、そもそもそれは人類の生命そのものにセットされた奥深い知性として、いざというときにはいつでも発動させられる状態に保たれてきた。その「奥深い知性」が発動することで、ぼくらがコンタクトできる「共感にみちた宇宙」を示したのが「神話」なのである。

戦争が終結し一応の平和が訪れたようにみえる陽光降りそそぐカリフォルニアの港町で、学費を稼ぐため捕獲された夥しい数のイカを加工していた波多野は、ある日突然イカの「実存」に気づき、その途方もない比喩の力に押し出されるようにして「世界平和のための鍵」を手に入れる。

なんとなく荒唐無稽に感じられなくもない仮説だが、使用済み核燃料を地中深くで10万年先まで保管するという壮大なプロジェクトを取り上げた映画『100,000年後の安全』で、未来の人類に危険物の存在を示すためSFまがいのアイデアを真剣に討議するフィンランドの科学者たちは、そのときたしかに、比喩の力がつなぐ神話的な宇宙にはからずも彼らは押し出されているのであり、それゆえこのプロジェクトの10万年先の完結を信じたい思いにかられたのだった。

節電の春と東京タワー
2011.4.28|column

春はあけぼの、街は「節電」、である。

渋谷のスクランブル交差点が、すれちがうひとの顔が見えないくらい暗い(ガン黒が流行っている時代じゃなくてよかったね)とか、夜の銀座がやたら物寂しいとか、いろいろなひとからそんな話を耳にする。

経済効果とか防犯とか問題はいろいろあるのだろうけれど、つねづね東京の建物も夜も明るすぎると思っていた身としては、これがデフォルトでも全然かまわないんじゃないかというのが正直なところ。

とはいえ、いくら「節電」だからってなにもかも消せばいいってもんじゃないだろう、そういう気もある。

たとえば、東京タワー。

確認したわけじゃないが、おそらくいま、東京タワーはライトアップを「自粛」しているのではないか。でも、ぼく個人の「心情」としては、やはり「東京タワー」にはあかりが灯っていて欲しいのだ。

たまにどこか西の方に出かけて新幹線で戻ってくるとき、「東京に帰ってきた」と心の底から思うのは、品川を過ぎ車窓に東京タワーの姿が飛び込んできた瞬間である。それは、「無事に帰ってきた」という安堵と「もう帰ってきてしまった」という一抹の淋しさがないまぜになったねじくれた感傷としていつも出迎えてくれる。

東京で生まれ育ったとはいえ、幾たびも東京のなかで引っ越しを重ねたぼくにとって、東京に自分自身の「郷里」と呼ぶべき特定の土地は、ない。だから、いざというときにはなんの戸惑いもなく、ぼくは東京を捨て去ることができると思う。寂しい話ではあるけれど。ただ、そのような時が訪れたとして、ぼくに唯一「郷愁」をかきたたせる存在があるとすれば、それはまちがいなく子供の時分から現在(いま)に至るまで、いつも変わらぬ姿で東京のいわば「象徴」としてぼくを迎えてくれる「東京タワー」の存在であるだろう。

「節電」は、いま東京に生きる以上避けることのできない責務だ。ただ、それと同時に、「節電」はそこに暮らす人間の「心情」を無視するものであってはいけないとも思う。すくなくとも、いつも通りあかりの灯った東京タワーの姿は、電力消費を抑えるという効果以上に、(灯っていることで)「安心」や「希望」として見るひとの心にかけがえのない効果をもたらしてくれると信じるからだ。東京に生きる者にとって東京タワーのあかりは、なにがあってもたやしてはならないオリンピックの聖火のようなものなのである。

ちょくちょくのぞかせていただいている、主人公が「東京タワー」のブログです:東京ティッシュ

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