きょうはとてもよく晴れて気持ちがいいのに、ひまだ。こんな日に外に出ないでみんないったい何をしてるの? それとも、天気がよすぎて逆にどこかに行ってしまった? 雨なら「このお天気じゃ仕方ないね」と自分に言い聞かせることもできるのだが、こう天気がよくっちゃそれもできない、ストレスはたまるばかりだ。
そしてふとアタマによぎったのは、
いっそのこと店を閉めて、どっか行っちゃう?
というアイデア。
雨でひまな日には(当然?)そんな衝動にも駆られるが、そんな天気の中わざわざ足を運んでくれるお客様のことを思うとかえって踏み切れなかったりする。でも、天気がよくてひまな日には「いやぁ、あんまりにも天気がよかったもんで、ハッハッハッ」でごまかせそう(?)な気がするのだ。まあ、じっさいのところは納品があったり、スタッフもいたりでそう実行するのはたやすくないのだが、ふだん「当たり前」と信じ切っていることをこんなふうにときおり立ち止まって
なぜこうでなくてはいけないのか?
とかんがえてみることは大切かもしれない。営業時間を遵守するのは、まあ自営業の身としては「当然」なのだが、それが「絶対」かというと、よくよく突き詰めてかんがえてゆくと案外そこまでの理由はなかったり…といったこともある。不真面目といわれるかもしれないが、ルールは「こうでなきゃダメ」というよりは、「こうしたほうが気持ちいいよね」くらいのところで止めておいた方がいいと思うのだ。最初のうちは「ちょっとユルすぎんじゃね?」と呆れていたことが、やがて「そっか、これでいいんだ」と思えてくるあの感じ、それこそが元来が「M的」といえる日本人がわざわざ外国を旅するひとつの理由だとぼくはかんがえる。
まあ、そんなわけで、もしかしたら一年に一度くらい「あんまりにも天気がよくて、しかもヒマだったんで」思わず早じまいしちゃいました、なんて日がやってくるかもしれない。そしてそんな日には、ツイッターに
不真面目バンザイ!
とつぶやくことにしようと、いまさっき決めてみた。と、ここまで書いて気づいたのだが、これってイオセリアーニ監督の『月曜日に乾杯!』の世界だな。
このあいだのこと、ようやくという感じで銀座の「皆美」へ行き、名物の「鯛めし」にありついた。
このお店は、松江の宍道湖のほとりにたたずむ老舗旅館「皆美館」が経営する郷土料理の店で、「鯛めし」はこの「皆美館」の名物料理なのである。お店のひとの話によると、茶人としても知られる松江藩の藩主・松平不昧公が考案したレシピをもとに代々受け継いできた味とのこと。
身をほぐした鯛とオランダ料理からヒントを得たというタマゴは黄身、白身に分けてそぼろにし、さらに出雲そば風の薬味とともに「だし汁」をかけていただくのだが、なんとも上品な味わいは松江の和菓子にも共通している。お米はもちろん、島根の「仁多米」。
ところで、先だってフィンランドから一時帰国されていた森下圭子さん(映画「かもめ食堂」アソシエイトプロデューサーとしてもおなじみ)は、毎夏「体験留学」でフィンランドにやってくる島根県の子供たちのお世話をしているうち大の「島根びいき」になってしまったというひとなのだが、そんな圭子さんとはおなじ「島根好き」どうしフィンランドと出雲の関係を勝手に盛り上げるべく極秘プロジェクトを遂行中(笑)。フィンランドの白夜と山陰の夕日はよく似ているなんていう、思わず「なるほどね」と頷いてしまう話も飛び出し今後の展開がますます楽しみ。って、ほんとに展開するのだろうか? いや、圭子さんが動けば確実に展開するのだろうな…きっと。
というわけで、一年おきにフィンランドと出雲を訪ねるなんていうのもすてきだよね… などと夢はふくらむいっぽうなのだった。
北欧の森林で深呼吸するイメージで…
そんな「むちゃぶり」の果てに、ウィルカフェの来栖さんからご提案いただいたのがこの、吉祥寺移転以来「定番」となっているオリジナルのシフォンケーキ。ほんのり薫るハーブの清涼感が、見事「森の空気感」を再現しています。
このシフォンケーキ、召し上がってくださったお客様からも軒並み好評なのですが、なぜかオーダーは控えめ…。なぜ? おいしいのに… と思い続けて早いもので2年半(笑)。こんなとき、ふつうなら雑誌の取材などにあわせて大プッシュするところですが、シフォンケーキのルックスが(他のメニューにくらべて)いまひとつ「地味」なためけっきょく陽の目を見ぬまま先送りになっていたのでした。
そして今回、より「森」のイメージを強化すべく、いわば
森ガール仕様
としてバージョンアップすることに成功(?)しました。というわけで、目でみても舌で味わっても「森」の感じられるとっておきのスイーツ、ぜひぜひお試しいただければと思います!
by 森オヤジ(←宮崎駿が描くキャラクターにはあらず)
ひさしぶりに、メールマガジンなど書こうと思ったのだった。いろいろお伝えしたい情報もある。メルマガの配信サイトからも「前回の発行から40日目になりましたのでご連絡いたします。何かとお忙しいとは思いますが、よろしければ、読者様に向けて簡単な近況報告やコラムなどを書いてみてはいかがでしょうか。」と、ていねいすぎる催促を受けたばかりだ。
そこでさっそく書こうと思ったのだが、まったく面白いように使い方を忘れているのだった。過去のメールからとりあえずIDとパスワードを発掘しログインしたはいいが、こんどは誤って書きかけにもかかわらず配信予約をしてしまった。仕方ないので再ログインしようと試みたのだが、なんど入力してもエラーの表示が出てしまう。いまにして思えば、どうやら入力している手のひらで無意識のうちに「caps lock」を押してしまっていたらしい。つまり、小文字のパスワードが知らないあいだに大文字で入力されていたというわけ。「あれ?おかしいなぁ」と思いつつ、再入力を繰り返していると非情にも、
ログインに5回失敗したため、ログイン機能をロックさせていただきました。ロックは毎日深夜2時頃に解除いたします。
とのメッセージが──。というわけで、ご登録いただいている皆様のもとに非常に中途半端なメルマガが送りつけられることになったのでした。ごめんなさーーーい。
ちなみにブログのタイトルは、「笑点」の歌丸師匠を彷彿とさせる(?)@bleu_et_rougeさんのツイッターでのコメントを流用させていただきました(笑)。
では、メルマガのつづきをお楽しみに~(泣)。
あさって14日[月]はお休みさせていただきます。
東京に「梅雨入り」宣言がなされるであろうこの日、梅雨のない北海道出身のひとが初めて「梅雨」を体験するかのようなフレッシュな心持ちで、あるいは、おろしたてのスポンジになった気分で、雨の水分と湿気をじゅくじゅくとたっぷり吸収して今年初の「ザ・にっぽんの梅雨」を堪能したいと思ってます。名づけて、梅雨休み。
しかし気がつけば、吉祥寺→恵比寿→六本木→渋谷とかなりタイトなスケジュール(仕事の打ち合わせ含む)になってしまった。雨降らないといいんですけど…
もんやりとした曇り空の朝、コーヒーを飲みながらゲイリー・マクファーランド+ピーター・スミスのレコード『バタースコッチ・ラム』を聴いた。
きのうは早朝、日本が決勝トーナメント行きを決めたサッカーの試合を観たおかげで、一日中「時差ボケ」並みのひどい眠気に悩まされた。そのせいもあってゆうべは早めに眠り、そのぶんいつもよりレコード一枚分、つまり45分ほど早く起きた。そしてまだ、なんとなく「時差ボケ」の残るアタマが選んだ一枚がこのレコードだったというわけだ。
ところでこのアルバム、ゲイリー・マクファーランドの遺作にして異色作である。1971年、このアルバムをリリースした数ヶ月後にゲイリー・マクファーランドは亡くなっている。38歳だった。そして「異色作」というのはほかでもない、このアルバムが全編「歌モノ」であるということにある。
たしかにゲイリー・マクファーランドの他の作品にもボーカル入りの曲はすくなくない。けれどもたいていは、みずからヴィヴラフォンを演奏しながら、そのメロディーにユニゾンでふわーっとスキャットを被せているのがほとんど、こんな風にアルバム全体が歌詞つきの歌で構成されているのは唯一の例外といえる。しかも、このアルバムではゲイリー・マクファーランドと画家で詩人でもあるピーター・スミス(ジャケットのイラストも担当)とが交互にリードボーカルをとっているのだ。歌手が「本業」ではないふたりがつくったボーカルアルバムだなんて、制作の経緯をかんがえればかんがえるほどミステリアスな作品である。そして、そんなミステリアスな作品を残してゲイリー・マクファーランドは逝ってしまった……。
針を落とし、聞こえてくる音に耳を澄ます。なんとなく頼りない(「本業」じゃないのだから当たり前だが)ふたりの歌声のせいか、全体が生暖かい靄につつまれたかのような印象である。でも、けっしてドリーミーというわけではない。そこには「甘さ」が、決定的に欠けている。むしろ、バタースコッチ・ラムの味? 味わったことないからよくわからないな。どちらかといえば、きっとそれは「ほろ苦い」のだろう。
このアルバムでは、とりわけオープニングを飾る一曲「All My Better Days」がすばらしいということになっている。じっさい、胸やけするくらいいい曲だと思う。けれども、アルバムの中から一曲だけ取り出してうんぬんするのは愚かしいとも思う。たとえばビーチボーイズの『ペットサウンズ』がそうであるように、この『バタースコッチ・ラム』もまたアルバム全体であまりにも儚く美しいひとつの世界を現前させているからだ。歌うことを「本業」としないふたりのアーティストが、あえて歌うことによって世に問いたかった世界、そのどこか危なっかしい魅力が耳をとらえて放さない。
ターンテーブルをお持ちの方はぜひレコードで、そうでない方は廃盤になってしまっているCDをぜひ中古で探してみてください。
6月もきょうでおしまい、これで一年も半分が終わってしまった。早いような、でもいつもそんなことばっかり言っているような……。
ゆうべのサッカーW杯はまさかのPK戦にまでもつれこみ、ふたたび日本全土を睡眠不足に追い込んだ。なんでも視聴率は57.3%だったとか。前半のつぶやきは、そんなサッカー観戦中のもの。倖田來未が、気づけば「倖田未來」になってしまっているのはご愛敬。
ふだん、朝は時計がわりにテレビをつけていたりするのだが(音は消している)、きょうはつけない。「敗退」のニュースをあらためて観たくなかったからというよりも、テレビの大はしゃぎにつきあわされるのが鬱陶しかったから、というのが正解。レコードをかけていた。はたして、ぼくのタイムライン上にはその後、うっかりテレビを観てしまったがために不快な思いをしてしまったひとたちの「つぶやき」が続々と……。つくづく、テレビなんてつけなくてよっかた、と。とはいえ、そんな「観なくてよかった」と言われてしまうようなメディアに、いったいどんな「未来」が待っているというのか?
にわかサッカーファン(ボクもふくめて)がほとんどといわれるここ日本ですらこうなのだから、いったいブラジルやドイツはこの時期どんなことになってしまっているのか? サッカーに興味のないブラジル人やドイツ人は、いったいどうやって過ごしているのか? そんなことをつぶやいたのは、「遊園地再生事業団」を主宰する宮沢章夫さん。じゃあ、ぼくら日本人にとってドイツ人やブラジル人の「サッカー」に匹敵するものってなんだろう? とつぶやいてみたところ、宮沢さんからは「『正月』に興味のない日本人って、ある意味すごいのでは?」との返答。それをきっかけに、しばらく宮沢さんらと「『正月』に興味のない日本人」像(!?)談義をさせていただいた。馬鹿馬鹿しいといえば、はてしなく馬鹿馬鹿しいのだが、ぼくに言わせればこれは「哲学」である。
科学は見知らぬものを見慣れたもののようにあつかい、哲学は見慣れたものを見知らぬもののようにあつかう
アメリカの哲学者ウィリアム・ジェイムズもそう言っている。誰しもが信じて疑わないことに、あえて「?」をつけてかんがえてみる、その態度こそが「哲学」なのだ。ちなみにひとつの結論は、「お年玉」を手にした「『正月』に興味のない日本人」は、そこに入っているお金に一切の有り難みがないのでものすごく無駄なことに使う。たとえば大量にレンガを買ったりする。しかも石鹸と餅を間違える、というもの。サッカーに興味のないブラジル人やドイツ人も、この時期そんなピントのずれた行動をしているのだろうか?(笑)
一日のしめくくりは、月にいちど最終水曜日の夜にNHK FMで放送されている番組『これからの人生』で。ナビゲーターは小西康陽さん。今夜も、聴いたことのない曲をたくさん聴けてしあわせ。ツイッター上の音楽好きの仲間たちも、みなよい夜を過ごした様子。
6月30日はそんな一日。