もしも、わんこそば屋のようなコーヒー屋があったら……
お客様がカップのコーヒーを飲み干すやいなや、背後に控えたスタッフがすかさずおかわりのコーヒーを投入。もちろん「有料」。おかわりが不要なお客様はどうするのかというと、飲み干したと同時に、カップをふせる。タイミングが狂うと熱々のコーヒーが手にかかることになるので注意が必要だ。そうなると、スタッフの採用基準はまずなによりも「俊敏さ」ということになるだろうな。
と思ったのだが、お客様全員の背後にコーヒーポットをもったスタッフをスタンバイさせておくとなると一体どれだけの数のスタッフを雇わなければならないのか……
なーるほど、この世に「わんこそば屋のようなコーヒー屋」が存在しない理由がよくわかった。どんなバカげたことでも、一生懸命にかんがえる習慣は大切だな。それによってはじめて分かるってこともあるもんだ。じゃ、次、「もしもカメルーンに支店があったら」についてかんがえてみよっと!
連載中のコラム「カフェとバーのモノ語り」。5月号のテーマは
音と、音響。
バールボッサの林さんは、「機械オンチ」が悩むオーディオ装置のお話、そしてぼくは、お店のBGMについてのとらえ方と増殖してゆくCD問題について書いています。ぜひ機会がありましたらご覧下さい!
その端正なたたずまいがどこか北欧デザインにも通じる「ドーナツドリッパー」ですが、じっさいロンドンやLA以外にもスウェーデンのカフェ「da Matteo」で販売されています。
2007年に出た雑誌「北欧スタイル」には、このカフェ「ダ・マテオ」とそのオーナーであるマッツ・ヨハンソンさんのことが大きく紹介されています(No.13 60ページ)。記事によると、このマッツ・ヨハンソンさんはなんでも「スウェーデンのコーヒー業界の重鎮」とのこと。第1回世界バリスタ選手権(WBS)でも審判を務めたこの人なくしてはスウェーデンの、とりわけ実力店のひしめくヨーテボリのコーヒー文化は語れないということでした。
そしてそんなマッツさんが惚れ込んだのが、なにをかくそうこの「ドーナツドリッパー」。
デザインに対して意識の高い北欧人にして、コーヒーに対しても並々ならぬ情熱を注いできたこのマッツさんが、どんなふうにして「ドーナツドリッパー」と出会い、彼の店で扱うこととなったのか?、またスウェーデンのひとびとの反応はどうなのか? 5/4(祝)に開催するイベント「ドーナツドリッパーができるまで」では、一応「北欧」がコンセプトのカフェらしく(?)そのあたりのことを「欧米のハンドドリップ事情」なんかも含めてお聞きしてみたいとかんがえています。
みなさまのご参加、お待ちしております!
もしもモーツァルトがツイッターをやっていたら…… と想像してみることは、なかなかに楽しい。演奏旅行の道すがら、馬車に揺られながら飽きることなくiPhone片手にツイッターに興じる、神童モーツァルト。
よく知られるように、モーツァルトは三十数年の人生の中で数え切れないくらいたくさんの手紙を書いた。その当時、通信手段といえば「手紙」しかなかったわけで、もしも現代のようにさまざまなコミュニュケーションツールがあったなら、いわゆる「モーツァルトの手紙」もかなり様変わりしていたことだろう。
プラハなう。
ただ現在地をつぶやいただけとはいえ、その人生のほとんどを旅して過ごしたといわれるモーツァルトだけにその「つぶやき」は彼の人生そのものといってもいいかもしれない。
ところで、数多いモーツァルトの手紙のなかでもとりわけ後世のひとたちに強い衝撃をあたえたのは、「ベーズレちゃん」こと、いとこのマリーア・アンナ・テークラに宛てられた一連の手紙にちがいない。研究者たちのあいだでは「ベーズレ書簡」と呼ばれるそれらの手紙には、ダジャレや冗談とともに「うんこ」や「おなら」といったスカトロ的な嗜好を思わせるワードが満載となっている(「神童」モーツァルトにあまりにもふさわしくないとかんがえた後の研究者たちの多くは、これらの手紙をひたすら無視しつづけた)。
ツイッターのモーツァルトは、あるいはこんなふうにつぶやいたかもしれない。フォロワーの@ベーズレ(マリーア・アンナ・テークラ)に対する「つぶやき」だ。
@ベーズレ さて、お休みなさい。ベッドの中に、大きな音を立ててウンチしてください。ぐっすりおやすみ、お尻を口にくっつけてね……
ことによったら、「#うんこ」なんていうとんでもないハッシュタグまでこしらえてしまうのではないか。とはいえ、もしもツイッターのログがまったく保存されていないとしたら、モーツァルトの研究も現在とはちがってだいぶ精彩を欠いたものにならざるをえないかもしれない……。
なんでこんなことを書いているかというと、
「米国議会図書館は、なぜTwitterの全ログを保存するのか」という記事を読んだからである。個人情報の保護という観点からこの措置に違和感を抱くひとも少なくないだろうが、いとこ宛の「私信」が思いっきり市場に流通してしまっている現実にくらべれば、もともと「公開」されているツイッターのログが保存されたとしても驚くにはあたらない。
芸術家や政治家の素顔をより深く知りたいと思ったとき、その芸術家なり政治家なりの「日記」や「書簡集」を手に取るのはぼくらにとってふつうのことになっている。「手紙」はまずもって「私信」だし、「日記」にしてもけっして「公開されること」を前提に書かれたものではないだろう。にもかかわらず、である。
いろいろな意見はあるだろうけれど、そう遠くない将来「日記」のかわりに「ツイッターのログ」が、「書簡集」のかわりに「電子メール集」が(研究の名の下に)本人の意志とはかかわりなく「公開」される日がやってくるのではないかと思っている。逆にいえば、そうしたログがすべて消去され後世の研究者たちの目に一切触れないということになれば、その種の(ある意味、考古学的な方法にのっとった)「研究」の質はひどく劣化することになるかもしれない。
うっかりつぶやいてしまったあなたの
渋谷なう。
から、不倫の痕跡を探り出すスゴ腕の研究者がいつか出現しないとも限らないのである。将来、研究対象になる予定のひと、くれぐれも気をつけてください。まあ、この場合いつか現れるかもしれないスゴ腕の研究者を心配する前に、すでにかたわらで不敵な笑みを浮かべるスゴ腕の配偶者の存在に注意を払ったほうが賢明だろうけれど(笑)。/p>
ここのところ、5/4のイベント「ドーナツドリッパーができるまで」についてずっと考えているのですが、考えているうちますます楽しくなってきました!
中林孝之さんの「ドーナツドリッパー」(右)と梅田弘樹さんの「エクリプス」(左)
さて、いつもお世話になっている「aalto coffee」の庄野さん愛用のドリッパーはといえば「メリタ」。理由をたずねると、こんな答えが返ってきます。
── どこでも手に入り、誰にでもカンタンに扱えるから
なるほど。そして、、、
── 世界でいちばん愛情にあふれたドリッパーだから
ん? 庄野さんは、ドイツのメリタ・ベンツ夫人が夫においしいコーヒーを飲ませてあげたいと思いこのドリッパーを考案したというエピソードから、そう言っているのですね。上手いっ!
コーヒーの器具をテーマにしたイベントなんて聞くと、なかにはずいぶんマニアックな、むずかしい話なのでは? と感じる方も少なからずいらっしゃることでしょう。でも、じつは今回のイベントでぼくがぜひ中林さんにお伺いしたいと思っているのは、上のメリタ夫人のエピソードのようなお話なのです。
── いつ、どこで、だれと、どんなふうに
すべてのデザインが生まれる背後には、デザインしたひとならではの「風景」があるものです。「ドーナツドリッパー」が生まれた背後にも「こんなふうにコーヒーを飲めたらいいな」という思い、そんな「風景」がきっとあると思うのです。そしてこうしたエピソードに触れることで、またぼくらの「コーヒー時間」もより味わい深いものになるにちがいありません。なので、「ドーナツドリッパー」には興味あるけれどコーヒーについてはぜんぜん詳しくない、そんなひとにも十分楽しく聞いていただける内容にしたいと考えています。いま、メリタ夫人に「メリタ」の話を聞くことはできませんが、中林さんに「ドーナツドリッパー」のお話を聞くことはできます。そして、これは贅沢なことです。
もうひとつ、中林さんの「ドーナツドリッパー」と梅田弘樹さんにこしらえていただいた「moi」のオリジナルのうつわ「エクリプス」には、じつはひとつの「共通点」があると思うのです。当日は、そんな話も少しできればと考えています。
空席状況ですが、13時30分の回、16時の回ともかなり予約が埋まってきております。ただし、引き続き予約を受付中ですのでご興味のある方はお早めにお申し込みください。
博物館は、都市の副交感神経である。
という、ワケのわからない仮説を振りかざして上野にある国立科学博物館にいってきた。
引き続き、ここ東京は異常気象である。きのうの最高温度は前日比マイナス15℃だとか…… こうなると、ただただ呆然とするしかない。じっさい人間のからだも呆然としているらしい。鍼の先生いわく、「自律神経が昂ぶっている」とのこと。なんでも、自律神経には緊張を高める「交感神経」と、反対にそれをゆるめる「副交感神経」とがあって、状況にあわせてふたつを上手にスイッチしている。ところが、その切り換えがちゃんとはたらかないとつねに神経は「戦闘モード」に置かれることになり、やがては疲弊してさまざまな不調や病気へとつながってゆく。
そこではたと気づいたのだが、都市もやっぱり、ある種の「自律神経」なのではないか。都会というと、もっぱら「交感神経」を刺戟する場所のように思えるし、じっさいそうにちがいないのだけれど、そこが「すこやか」であるためには「副交感神経」を刺激する場所もほどよく用意されていなくちゃならない。そう書きながら、いまぼくが思い出しているのは京都だったり松江だったり、あるいはまたヘルシンキだったりといった、ぼくが大好きな街のことだ。
京都にせよ松江にせよヘルシンキにせよ、どこも立派な都会=絶えず交感神経のはたらきが必要とされる場所である。けれどもその一方で、共通してそこには川や海、湖といった静かな水辺、豊かな緑をもつ公園や神社仏閣、または森、望めばいつでもひとの目から身を隠すことのできる細い路地や暗闇といったものが、ある。いってみれば、これらはすべて都市のなかの「副交感神経」といえる。
それにくらべて、ここ東京はどうなのか? それはまるで、巨大な交感神経の束そのものである。かろうじて東京に「副交感神経」にあたるものがあるとすれば、それは
これといった目的もなく訪れるカフェ、そして博物館
ということになる。このあいだツイッターでもつぶやいたのだが、東京でこれといった目的ももたずに博物館やカフェを訪れることは、北欧のひとがことあるごとに森へゆくのにとても似ている。つまり、昂ぶった神経をクールダウンするためにはそれがどうしたって必要、という意味で。
たくさんの動物たちの剥製を見て彼らが暮らす遠い世界を想像すること。不思議な名前をつけられた鉱物やさまざま化石が整然と陳列された小部屋で、そこに刻み込まれた長い長い時間に耳を澄ましてみること。植物や穀物の標本から、その匂いや味を想像してみること。博物館でこそ体験することのできる、こうした濃密で、ある意味「無益」な時間はほんとうに贅沢だ。
ヒラコテリウム ハダカデバネズミ キバノロ ナマケグマ チビトガリネズミ しつこいミンク セーブランテロープ タナカゲンゲ ヨハンセン輝石……
これらは、博物館をのんびり散策しながら書き留めていった「お気に入り」の名前なのだが、まったく無意味で無益このうえない。あらためて見直すと、なんでメモしたのかすらわからないくらいだ。
博物館とカフェは、東京での暮らしをほどよく「ゆるめて」くれる数少ない場所なのである。
雨の中いそいそと代々木上原まで出かけていった理由(ワケ)は、5/5までピロイネンギャラリーで開催されているヘイニ・リータフフタ HEINI RIITAHUHTA の展示を観るためである。作家も迎えてのレセプションに仕事で参加できなかったのはかえすがえすも残念ではあったけれど、じっくりと展示を楽しむなら通常の開催期間に訪れたほうがずっといい。
ヘイニ・リータフフタはフィンランドの製陶会社「アラビア」のアートデパートメント(芸術部門)に所属するデザイナーで、イーッタラからは「Runo(ルノ)」というテーブルウェアが商品化されている。でも、今回の展示の目玉はなんといっても彼女のつくるアートピース。こうした作品は、フィンランドでもアラビア社の博物館にでも行かないかぎりなかなか目にすることはできないからである。
ひとめみればわかるのだけれど、ヘイニのアートピースの多くは日本や中国といった東洋の文化から影響を受けている。今回の個展を開催するにあたって尽力された田中さんのブログによると、シンプルな白いボウルの内側に満開の桜を描いた「SALAISUUS(秘密)」のイメージについて、ヘイニは「日本の桜/刺青/神秘」と答えている。大皿に点描で緻密に描かれた草花、その技法のヒントはなるほど、「刺青」だったのか!
もうひとつ感じたのは、それらの作品全体を支配する「静謐さ」。まるで波ひとつない静かな湖の水面をのぞきこんでいるかのような錯覚にとらわれること、だ。一見すると大胆な絵柄が目立つヘイニの作品だが、じつは何層にも釉薬をかけて色や絵柄が重ねてあるのだ。そのため水面から湖底を透かし見ているように、平面であるにもかかわらず「深さ」が感じられる。その、計算されたグラデーションこそが独特の「静謐さ」を生んでいるのはまちがいない。
今回のピロイネンギャラリーでの展示は5日(祝水)までとなり、その後三重県の四日市市、富山市、香川県の丸亀市などへも巡回することが決まっている。東京でもふたたび6月にビームス新宿店のギャラリースペースで展示されることになっているのだが、やはり機会があれば是が非でもここ「ピロイネンギャラリー」での展示をみていただきたいと思う。というのも、会場の構成がすばらしいからである。
会場へと下りる階段より。レンガ色と白のちいさな器で描いた花のインスタレーション。目を細めて見ると、わかりやすい。
運よく会場構成を担当した石井さんとお話しすることができたのだが、まずはヘイニさんのアートピースを手にとり、どのように見せたいか、見せるべきかを検討し、そのために最適な什器をオリジナルで製作するところから始めたのだそうだ。あえて「キメキメ」にせず「手仕事」的な余白を感じさせる仕上がりになっているのも、彼女の作品とぼくらの距離を一歩縮める重要な役割を果たしているように思う。
会期中はGWも開場しているとのことなので、ぜひお散歩がてら代々木上原まで足を伸ばしてもらえれば……。