なにごとも数字に置き換えてみる、これはなかなか大切なことかもしれない。数字にすることで、いま話題となっているものごとの輪郭がよりクッキリするというのはしばしば経験するところだ。
渋谷の「bar bossa」のマスターはやしさんは、よくこういう数字の置き換えをするひとである。はやしさんによれば、日本で販売されているさまざまなボサノヴァのCDの売上枚数からすると日本のボサノヴァ人口(ボサノヴァが好きと公言し、かつCDを数枚もっている人の数)は「およそ2万人」だという。よって「『bar bossa』の顧客は最大でも2万人」なのだそうである。
「ところで『フィンランド』はどうですか?」
そう尋ねられたのはいいが、わからん、そんなこと考えたこともないよ。「ムーミンが好き」というひとが10万人いるとして、そのうち「ムーミンの体型には親しみを感じるが、べつだんフィンランドには関心がない」というひとが3万人いるとするとなんて、どうしたって考えつかない。計算式からしてわからないし。
そんな折り、国がやっている「労働力調査」というものの回答用紙に記入していたところ、「あなたの一週間の就業時間は?」という項目があった。
えーと、いま月曜日と火曜日が定休日なので営業日数は「週5日」。たいてい店に来るのは朝8時半くらいで、出るのが夜の10時から10時半くらいなので一日の就業時間はおよそ「14時間」。ということは、
14時間/日×5日/週=70時間。
週70時間、かぁ。ふつうに週休5日制の会社だと8時間勤務でも週40時間だから、それに加えて毎週30時間の残業をしているということになる。つまり毎日かならず6時間残業しているのとおなじである。あらためて「数字」にしてみるといろいろと考えさせられるものがあるなぁ・・・。思わず、
ぢつと手をみる by 啄木
「これmoiのじゃない?そこの道に落ちてたよ」とフィンランド語のリーサ先生がもってきたのがこれ。
「ああ、トントゥみたいだね」
「トントゥだよ、これ」
ちなみに「トントゥ」というのは赤い衣裳を身につけたフィンランドの妖精で(下の写真を参照)、「サンタクロースの助手」ともいわれている。ただしリーサ先生によると、「あのひとはちょっとおつむが弱い」というときに、よく「あのひとは『トントゥ』だよ」とか言うらしい。
しかしこの「トントゥ」、みれば胸に「STUSSY」のロゴがはいっている。だいたい、手に「$」をもっているのもおかしいし。そこでリーサ先生に、これはアメリカのストリートファッションのブランドのマークで、トントゥのようにみえるけれど実際にはスケートボードとかやってる男の子の人形だよ、と教えてあげたのだが
「トントゥだよ、ドルじゃなくてユーロ持ってったほうがいいね」
といっこうに聞く耳をもたない。そんなに言うのならと、ためしにこの「STUSSYくん」をラップランドの景色のまえに立たせてみた。
すると、あら不思議。あっという間に「トントゥ」のできあがり!ストリートファッションのルーツって、もしかしたら「トントゥ」だったの?!(んなわけはない)。
あ゛ー、と思うときがときどきあって、それはたとえばなぜかその日にかぎって一万円札で支払われるお客様が多いというようなことだったりするのだが、
きょうはきょうでその方が以前にもいちど来てくれたお客様であることはわかったのだけれど、いったいそれがどんな方だったのかがどうしても思い出せない。ちなみに、ことお客様の顔を憶えることに関していえば、ぼくはけっこう記憶力のいいほうである。
ところが、
なぜかそのお客様が店を後にされたとたん、それがこのあいだ八王子から初めていらっしゃってくれた方で、そのとき二言三言お話しさせていただいたことを思い出した。
あ゛ー、
と思うのはまさにこんなとき、である。
On the sunnyside of the street(明るい表通りで)。ゴットフリート・フィンガーの音楽から連想するのは、なぜかよく知られるジャズナンバーのタイトル。
フィンガーという作曲家のことはほとんどといってよいほどなにも知らないのだが、「モラヴィア(現在のチェコ共和国の一部)出身でおもにイギリスで活躍したバロック期の作曲家」なのだそうだ。バロック期の音楽家たちはみな「芸術家」であると同時に、場合によってはそれ以上に、王侯貴族なり教会なり、なにがしかの「クライアント」に仕えて仕事をしていた「職人」だった。当然、その作品には「クライアントの趣味」が強く反映される。それはたとえば王侯貴族が集うパーティーミュージックであったり、宗教的な行事のための禁欲的な音楽であったり、と。フィンガーというひともまたイングランドの王様ジェームズ2世に仕えた、その意味では「職人」である。
ところがどうしたわけか、はじめてゴットフリート・フィンガーの音楽を耳にした瞬間、ぼくはそこにほかのバロック期の音楽家たちの作品とは異なる「なにか」を感じた。より快活で開放的、まさににぎやかな「明るい表通り」を闊歩しているような感覚。そう、バロック期の音楽家でありながら、どこかフィンガーのつくる曲には「市井の人々のための音楽」といった趣きがあるのだ。そしてもしその「感覚」が間違っていないとするなら、それはたぶんフィンガーがモラヴィアの出身ということと関係があるにちがいない。
世界史はぜんぜん得意ではないけれど、フィンガーの生まれたモラヴィアと接する「ボヘミア」には16世紀のおわりから17世紀のはじめにかけてあのルドルフ2世が君臨していた。アルチンボルドのパトロンで錬金術にご執心、そのうえプラハに世界中の「変な生き物」をあつめた「動物園」までつくってしまった、あのとてもクレイジーな王様。フィンガーの生まれる50年ほど前のボヘミア一帯はたいへんなことになっていたのである。
そういえば、むかし仕事でモーツァルトについてのトークショーを企画したとき、話をしていただいた高山宏さんと打ち合わせの席上盛り上がったのも、もっぱらプラハを中心とした当時のボヘミア一帯の「すごさ」についてだった。
プラハでは自分の音楽が大ヒットしていて、街角で耳にする口笛までもが自分の曲だ
といった内容の手紙を、モーツァルトは興奮気味に書いている。クライアントとの不仲によりほとんど「宮廷音楽家」としては「終わって」いたモーツァルトも、プラハでは「ポップスター」として受け入れられていたというわけだ。「ルドルフ2世のプラハ」からはすでに150年以上も経ってはいたが、そのころに培われた自由であたらしもの好きでおおらかな人々の心性はそこを「王侯貴族のヨーロッパ」とは次元の異なるエアポケットのような場所に変えてしまったのかもしれない。まるで「錬金術」みたいに。
地図をみると、ゴットフリート・フィンガーの生地オロモウツは、ちょうどウィーンとプラハというふたつの「芸術の都」を底辺にもつ正三角形の「頂点」に位置している。モラヴィアのもっとも重要な都市として、かつてはウィーンやプラハとのさまざまな交流があったとしても不思議はない。フィンガーの音楽は、そんなこの一帯がなんだかとてもすごいことになってしまっていた時代の「残り香」をたっぷりふくんだ、とても人間臭い音楽という気がしてならない。
「いま一文無しだとしても いずれロックフェラーみたいにリッチになるさ だって明るい表通りでは 足下にあるのは黄金色の埃なんだから」
1920年代のニューヨーク、高層ビルがニョキニョキと建つグレート・ギャツビーのニューヨークとゴットフリート・フィンガーが生まれ育ったバロック期のボヘミア一帯は、あるいはどこか似ていたのだろうか?
ことしも政府観光局主催のイベント、「Finland Cafe 2006」が11/1からはじまりました。そして、それと同時に表参道のスパイラルでは「finland collection フィンランド新進ファッションデザイナー展」がはじまります(11/13から19まで)。
イヴァナ・ヘルシンキ、ラストウェアー、ナオト・ニイドメら、フィンランドデザインの伝統―天然素材をつかったシンプルなもの―に実験的な要素をもちこむことで、従来の素材やカラーパターンの再構築を図ろうと試みる6組の若いフィンランド人ファッションデザイナーたちを紹介する展示です。会場構成は、ここmoiの設計者である関本竜太さん、常連のSさんも助っ人として参加するとかしないとか。ぜひ行かねば!
そしてさらに、15[水]まではおなじスパイラルのマーケットにて「和菓子展」が開催中。こちらは「和菓子」をテーマにしたアート展で、以前ここmoiで「パターンは踊る」展を開催していただいたグラフィックデザイナー柏木江里子さんも紙、布による小物で参加されています。あわせて行かねばっ!
というわけで、こちらふたつのイベントもどうぞお忘れなく。
二年ぶり三度目となるジョアン・ジルベルトの来日公演も無事終了したらしい。
まわりを見回すと、過去二度の来日では足しげく通ったけれど今回はなんとなく「パス」した、そんなひとも多いようだ。かく言うぼくもそのひとり。 そのかわり先ごろの来日公演では、いままで機会を逃していて今回がジョアン初体験というひとも少なくなかったようで、ここのところmoiでもそんなフレッシュな体験談を何人かのお客様から聞かせていただいている。
あらかじめ、ジョアンのライブに行くという話を聞いていたひとには、ついつい
「ジョアンどうでした?」
と思わず訊ねてしまうのだが、と同時にまったくなんて不毛な質問なんだろうと感じずにはいられない。
だいたい、あの濃密な時間を体験したひとに対してその感想を言葉で求めるなんていかに意味のないことか、幸運にもなんどかジョアンのライブに足を運ぶことができたぼく自身いちばんよく知っているはずなのに・・・。
というわけで、たとえばくが
「で、ジョアンどうでした?」
とか訊ねたとしても、それはあくまでも儀礼的な質問にすぎないので、どうかまじめに応えることなく適当に流しておいてくださいね!
夢か?これは。DALINDEOのデビューアルバム「Open Scenes」が、それもなんとヨーロッパでの発売とほぼ同時に国内盤としてリリースされちゃいました!これを快挙と呼ばずしてなんと言おう!!!
DALINDEOといえば、The Five Corners Quintetの仕掛人トゥオマス・カッリオとThe Ricky-Tick Recordsの周辺から続々と登場している「ヘサ(=Helsinki)系」ミュージシャンの中でもぼくにとってはとりわけお気に入りのひとつ。moiの外にも、春ごろからずっと彼らのアナログ盤がディスプレイされてます。
ギターのヴァルッテリ・ポユホネンを中心に、トランペット、フルート、ベース、パーカッション、ドラムスの六人編成のこのDALINDEOのサウンドは、ひとことでいえばラテン風味の軽快なジャズなのですが、ラテン=真夏ではなくて、落ち葉がカラカラと追い越してゆくいまの季節にこそピッタリというあたりがいかにも「ヘサ系」の彼ららしいです。なんといっても彼らのつくるサウンドは、フィンランド meets ブラジル in トーキョーなここmoiの「裏コンセプト」にもまさにぴったり、勝手にmoiのオフィシャルミュージシャンに任命です(笑)。
なお、このアルバムではストリングスやオルガンなどを加えてさらに音に厚みを増している上、3曲にボーカルも入るという新機軸を展開しています。ちなみにボーカルのmichikoは、聞いてすぐわかるとおりヘルシンキ在住の日本人ボーカリストだそう。ギターワークはときにややサルミアッキ風味!?
さあ、フィンランドから届いた「音の玉手箱」にみんなで酔いしれようではありませんか!
体感的にはまだまだ「寒い」という感じはしないのですが(個人的には)、さすがにここ2、3日、蛇口から出る水が冷たくなってきました。いよいよ冬に近づいてきたのかも。大量の洗い物をしているとけっこうきついです。でも、ガス代をケチるためまだまだ水でがんばります。
湖に柵がない。
これは、フィンランドでおどろいたことのひとつである。「国民ひとりにつきひとつの湖」と云われるほど湖の多いフィンランドのこと、たしかにフィンランドじゅうの湖という湖にいちいち柵をつくっていたらそれはもう大変なことになってしまう。兵役のように、成人男子はある一定期間かならず「湖の柵をつくる」作業に従事しなければならない、そんな「法律」までできてしまうのだろうか。が、その前にもうちょっとなにかするべきことがあるのではないか?
いや、そういう話ではなく、ぼくがおどろいたのはほかでもない、それが首都ヘルシンキの中心部からほんの数分のところに位置する「湖」だったから、である。「湖」と呼んでいるがじつはそこは「トーロ湾」という奥まった入江で、人やクルマが行き交う大きな道に面している。最初そこを訪れたのは春先のことで、水面はまだ真っ白い氷に覆われていた。「柵」がないので、そのまま氷の上を歩いて対岸まで行けそうである。というよりも、実際そうするやつが後を絶たないのだろう、岸辺には道路標識のような看板がぽつんと立っている。
「割れやすい。氷に注意!」
ならば「柵」をつければいいじゃないかと思ったが、どうやらそういう話ではないらしい。この標識を初めてフィンランドに訪れたとき目にして、ぼくは「なるほど、この国のルールは『自己責任』なのだな」、そう理解した。
対照的なのは日本である。柵はもちろん、「入るな、キケン」「遊泳禁止」「死亡事故発生」などなど、あらゆる看板のオンパレードである。キケンから遠ざけること、できうるならばキケンそのものを隠してしまうことがこの国の「ルール」といえる。
流行りの「オール電化」のCMは、「火を使わないのでお子様にも安心です」と云っている。たしかに小さな子供を抱える親にとってそれは安心にちがいない。そのいっぽうで、家庭はまた子供に「火」の「便利さ」と「恐ろしさ」を教える格好の場所ではなかったか。ときに痛い思いをしたり親にこっぴどく叱られたりしながら、子供は「火」について学んでゆく。逆に言えば、生きられていない経験は空虚である。家庭の外にもまたあたりまえのように存在している「火」と、これからの子供たちははたしてどうやってつきあってゆけばよいのだろう。
ちょっと話を広げすぎかもしれないが、ちかごろの「いじめ問題」や「子供や動物への虐待」、「殺人事件の低年齢化」などにもちょっとそんな気配が漂っている。痛みに鈍感なひとは、他人に痛みを与えることについてもまた鈍感だからである。
柵をつくる前に、もっとなにかやるべきことがあるんじゃないか?
日本人としてそう思わずにはいられないのだ。
PS.ちなみにぼくは田んぼに落ちた経験がある。できれば田んぼに柵をつくってもらえないものだろうか?
雨だ。寒い。
3時半になるまでお客さんはたったの5人だった。5組ではない。5人だ。
なんじゃこりゃあああ
平静を装いながら、内心ではそう叫んでいたのだった。
ところが4時前くらいから突然堰を切ったかのようにお客さんが来はじめ、常連さん同士相席してくれたりしたこともあって、終わってみればいつもの週末並みに取り返していた。ちなみに競馬新聞の寸評では、こういうレース展開のことを次のように表す。「直線一気」。4コーナーまでは最後方でもたついていた馬が、最後の直線だけで猛然とすべての馬を抜き去り「穴」をあけるパターンである。心臓にはよくないが、痛快でもある。
ところできょう京都では、以前ぼくが所有していた(といっても権利を20分の1持っていたというだけの話だが)「ドゥーワップ」という馬の子供が「穴」をあけた。7頭立ての5番人気という低評価をひっくり返しての見事な勝利だった。痛快である。
あまり高級な例えとはいえないかもしれないが、要はまあこういうことである。
何事もあきらめてはならない。
月刊『Real Design』2007年1月号にmoiが登場しています。
「コーヒーじゃない。味わいたいのは『深い一杯』」という「深煎りコーヒー」にこだわった11ページほどの特集で、全体は
step.1「濃いコーヒー豆はどれだ?」
step.2「深く淹れるにはペーパードリップ法を身につける!」
step.3「コーヒー本来の深みはスペシャルティコーヒーでしか味わえない」
step.4「道具にこだわるのも"味"のうち」
step.5「こんな隠れ家で味わいたい」
という5つのパートに分かれています。step.2と3には珈琲工房ホリグチの堀口俊英さんが登場。
moiはstep.5「こんな隠れ家で味わいたい ひとりで落ち着く東京喫茶案内」に、下北沢のcafe useさん、浅草の合羽橋珈琲さん、青山の月光茶房さんとともに紹介されています。
「いい加減」のひとになりたい、のである。
お客様の中に、よく「ぬるめのミルク」を注文されるかたがいるのだけれど、いつもきまって熱くなりすぎてしまい叱られる。いや、叱られてはいないけれど。
コーヒーやお茶を薄く、あるいは濃く淹れるというのはけっしてむずかしいことではない。豆や茶葉の量を加減したり、抽出に気をつければよいからだ。ところが、「ぬるめ」というのはなかなか手強い。
早く火からおろせばいいだけでしょ?
その通り。だがそれがむずかしいのだ。
「さすがにまだこれじゃぬるすぎるよねぇ」などと思っているうち、あっという間に熱くなってしまう。そういえば、母親のつくるハンバーグもこれでもかというくらいよく火の通った、表面がカリカリのハンバーグだった。「よく火を通さないと我慢ならない」、そういうDNAをぼくもまた受け継いでいるのだろうか。次回こそは「いい加減」にぬるめのミルクを出したいものだが、どうだろう?
なにせ、「石橋を叩いてもまだ渡ろうとしない」A型なのだ。
発売中の月刊『カフェ&レストラン』2006年12月号にエッセイを書かせていただきました。
特集は《名物コーヒー 1948-2006 ~世代を超えて愛され続ける喫茶店・カフェのコーヒー》。とりあげられているのは、たとえば銀座カフェ・ド・ランブルの「ブラン・エ・ノワール」、名古屋コンパルの「アイスコーヒー」、博多ブラジレイロの「クラシック」、それに亀戸の珈琲道場・侍の「水出しコーヒー」などなど。息の長い名店の「定番コーヒー」がずらり勢ぞろいです。
ぼくのエッセイは《わたしの名物コーヒー》というテーマで、ここmoiを始めるきっかけとなった「ふたつのコーヒー」について書いています。ほかには、おなじみカフェ・ヴィヴモン・ディモンシュの堀内隆志さん、ライターの山村光春さん、それに「東京カフェマニア」を主宰する川口葉子さんが、それぞれ思い出のコーヒーについて書き綴っていて読みごたえも十分。
コーヒー好き、カフェ好き、喫茶店好きにはたまらない、見どころ満載の一冊です。
上手だとか、そうでないだとかは別にして、なにか文章を書いたり、あるいはインタビューに答えて話したりすることは好きである。じぶんの感じていることや考えていることを、誰かに伝えるため「ことば」にするという作業は、ときどきじぶんの現在位置を確かめるためにも必要だからである。
なにかについて「書く」、あるいは「話す」ということは、ぼくにとってはなにかについて「思いやる」ということにほかならない。音楽でも、ひょんなことから耳にしたニュースでも、たまたま目にした光景やお客様から聴いた話でもなんでもよいのだが、ちょっと立ち止まって向かいあい、そこにみえるものに目を凝らしたり、きこえるものに耳を貸すことからしか「ことば」は生まれないからである。だから、なにかについて「書こう」とか「話そう」と思えばかならず立ち止まらなければならないし、立ち止まる余裕がじぶんにないときにはなにも「書けない」し「話せない」のである。
じっさい、このブログもまたそのようにして「書かれて」いる。はじめはただぼんやりとしているにすぎなかった「なにか」は、「書くこと」あるいは「話すこと」によってピントの合った「これ」にかわる。感じたことや思ったことを「ことば」に置き換えてみるのは、たしかに写真のピントを合わす作業に似ているかもしれない。とくに、なかなかピタリときまらないところが似ている。もちろんそれは「カメラマンの技量」によるところが大きいのだけれど・・・
さて、なぜいきなりこんな(「書くこと」「話すこと」についての)言いわけめいたことを書いているのかというと、前回ご紹介した雑誌「カフェ&レストラン」のなかでご一緒させていただいている川口葉子さんが、ご自身のブログのなかで「私はmoiのブログの大ファンです」なんて書いてくださっているのをつい目にしてしまったからにほかならない。あちゃー、である。
あらためて、「書くこと」「話すこと」の理由(わけ)についてかんがえてみれば、まあ、上のような説明になるのだろうけれど、じっさいのところは
「気楽に書いてるだけです」
ほんとうに。
ところで、その『カフェ&レストラン』2006年12月号で川口さんは表参道の「大坊珈琲店」について書かれている。川口さんが、以前ある雑誌の取材でおこなったマスター大坊さんへのインタビューを引用しながら、数年間の「蒸らし」の時間(!?)を経てゆっくりとかたちをなしていった川口さんの「コーヒーへの思い」が静かに綴られている。いつもながら心に余韻を残すすてきなエッセイなのだけれど、あまりここで褒めてしまうとちかごろ流行りの「談合」めいてくるので、ぐっとこらえておこうと思う(笑)。
じつは、この大坊さんへのインタビューが最初に掲載された雑誌をかつてぼくは目にしている。もちろん、まだぼくがmoiをオープンする前の話だ。そのときにもとても興味深く読んだのだが、あらためて「カウンターのこちら側に立つ人間」となったいま読み返してみると、ほんとうにいろいろな思いが去来してなんともいえない気分になった。その「いろいろな思い」については、いまはちょっと難しいけれど、いつか機会をみてじぶんなりに「ことば」にしてみたい、そうかんがえている。
きのう、きょうと、いつもにくらべるとかなりヒマな週末でした。
そんな週末ではありましたが、きのうは関西から、そしてきょうは鹿児島からと、遠方からわざわざ足をはこんでくださるお客様がいらっしゃたりして、またうれしい週末でもありました。ちなみに、お友達の結婚式のために上京されたという鹿児島からのお客様は、わざわざホテルを荻窪にとってまでしてご来店くださったとのこと。うれしさを通り越して、なんだか申し訳ないような気分です・・・
でも、こんなふうに、わざわざ遠くから足をはこんでくださるお客様、学校や会社の帰りに遠回りして、あるいはじぶんの暮らしている街を通り越して元気な顔をみせてくださるお客様、そしてほぼ毎日のように立ち寄ってくださるご近所のお客様・・・こうしたひとりひとりのお客様にここmoiは支えられている。そうか、moiはそんなおなじ「匂い」でつながっているひとたちがかたちづくる、まるで「わた菓子」のようなふわふわとしたコミュニュティーなのかもしれないな、最近ふっとそんなことを思ったりするのです。
日曜日のフィンランド語クラスのとき、リーサ先生がおもむろにバッグから取り出してきたのがコレ。
その名も、「よいこのびいる」。
かけつけ一杯、「とりあえず、ビール」というわけで、フィンランド語の授業に入るまえにひとまず乾杯!色、泡の感じともかなりリアルでびっくり。味は・・・生徒のSさんによれば「薄まったオロナミンC」(笑)。
もちろん(!?)、BGMは生徒のTさんがこの夏フィンランドで買ってきたCD、フィンランド版「みんなのうた」ともいうべき「10 Lasten Suosikkia」。念が入っているのだ。ちなみにぼくのフェイヴァリットは、「ヘイ!ムーミン」とはじまる子供向けにしてはあまりにも渋すぎるナンバー「ムーミン谷のブルース」。
というわけで、この後リーサ先生とその生徒さんたちは「ほろ酔い加減で」お勉強に突入したのでした。
タッシです。チョットチョット、って、それはたっちでしょ。
まるでソフトロックのミュージシャンのようなルックスですが、これでもれっきとしたクラシックの音楽家。1973年に、ピーター・ゼルキン(Pf)、アイダ・カヴァフィアン(Vn)、フレッド・シェリー(Vc)、そしてリチャード・ストルツマン(Cl)の4人によって結成されたグループです。ちなみに「タッシ」というのは、「幸福」を意味するチベット語なのだそう。ファッションはもちろん、グループ名やチベット仏教にインスパイアされたアートワークからも彼らが当時のサイケデリック・カルチャーに大きな影響を受けていることは一目瞭然です。ウィキペディアによれば、ムーブメントとしての「サイケ」は「1966年に徐々に始まり(中略)70年代中盤までには沈静化していった」とありますが、タッシもまた、60年代後半からそれぞれに活動をはじめ70年代後半にはオリジナルメンバーでの活動に終止符を打っています。
そんな彼らが、レコードデビューにあたってフランスの作曲家オリヴィエ・メシアンの作品「世の終わりのための四重奏曲」(1941)を選んだのは、むしろ当然といえば当然と言えるかもしれません。なにしろメシアンといえば、「独特の浮遊感と超現実的な音作りを基調」(Wikipediaより)とするサイケデリック・ロックよりもはるか以前から、ということはつまり「サイケデリック」という言葉が誕生するよりもはるか以前から、「独特の浮遊感と超現実的な音作り」をつづけてきた作曲家といえるからです。
じつはこのCDにはオリヴィエ・メシアン本人による楽曲解説が付されているのですが、これがすごい。たとえば第二曲「世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ」について。
第1と第3(きわめて短い)の部分がこの強い天使の力を喚起する。その髪は虹で、その衣は雲であり、かれは一方の足を海に、もう一方の足を地に置いている。(中略)ピアノはブルー=オレンジの和音でカデンツを奏し・・・(以下、略)
ブ、ブルー=オレンジの和音って、なに?
あるいは、第七曲「世の終わりを告げる天使のための虹の混乱」について。
強い天使が、特にかれを被う虹とともに現れる(虹は平和、英知、発光体と響きのすべての震動の象徴である)。(中略)そこで、この移行的段階に従ってわたくしは非現実へと進み入り、忘我的な旋回や超人間的な響きや色彩のめくらめくような浸透へ身を委ねる。これらの火のような剣、これらのブルー=オレンジの洗う河、これらの突然現れる星たち。それら群に注目せよ、虹に注目せよ!
出ました!「強い天使」。しかもまたまた「ブルー=オレンジ」ときた。どうやら「ヨハネ黙示録」から霊感を受けて作曲したためこんなことになってしまったらしいのですが、難解というよりはもはや感覚的、極彩色のサイケワールドとはいえないでしょうか?つまりこういう音楽を聴くときは、アタマで理解しようとするよりももっと感覚的に、その音響世界にトリップしてしまうほうがずっと面白いと個人的には思うわけです。
ドアーズやヴェルヴェットアンダーグラウンド、ジェファーソンエアプレインといった60年代から70年代にかけてのロックミュージック、あるいは音響系やエレクトロニカといったジャンルに興味のあるひとはぜひ、メシアンの音世界へのフラワーチルドレンからの返答ともいうべき(!?)このタッシ版「世の終わりのための四重奏曲」を騙されたと思っていちど聴いてみていただきたいのです。