6月になりました。フィンランド語では「Kesäkuu」。「kesä」イコール「夏」ということで、北欧はいよいよ短い夏の到来です。
まずは、重要なおしらせ、その1。
PCのハードディスクがクラッシュしてしまった関係で、現在moiのオフィシャルサイトの更新ができない状況になっています。ご迷惑をおかけしますが、最新情報等につきましてはぜひこのブログにてご確認ください。
つづいて、重要なおしらせ、その2。
12[日]より約一週間ほど、スウェーデン&フィンランドにいってきます。嗅覚を全開にして、おもしろいもの、すてきなもの、いろいろ掘り出してきたいと思います。「新ネタ」ふくめ、みなさんにはいろいろなかたちでご披露していきたいと思いますので、どうぞおたのしみに!
では、6月のおやすみです(営業日が少なすぎる・・・汗)。
6/6[月]
6/12[日]-22[水]
※21[火]、22[水]はカフェ営業はお休み。
イベント「旅講座」のみ開催となります。
6/27[月]
また、6/7[火]、8[水]はイベントのため18時閉店とさせていただきます。
以上、よろしくお願いいたします。
意見は分かれるところだろうけれど、個人的に「クール・ビズ」には賛成である。
以前はたらいていた会社はいわゆる「業界」だったのだが、親会社がお堅い業種だったこともあり、スーツ+ネクタイ着用は社内の暗黙の了解のようになっていた。それにならって、二年ほどのあいだぼくもそのようにしていたのだが、あるときあまりの暑苦しさに耐えかねて、「もう、やめよう」とおもった。じっさい、ぼくがついていた仕事はネクタイをはずしたところで業務になんら支障をおよぼすようなものでもなかったけれど、必要に応じて「する」ようには努めた。一応、「就業規則」を引っぱりだしてきてそこに「スーツ+ネクタイ着用」の一文が記載されてないかをたしかめたのは、A型だから、である。
こうして、ある日を境にノーネクタイで出社、仕事をこなすようになった。はじめのうちこそ、冷やかされたり嫌みを言われたりすることもあったけれど、それ以上のプレッシャーがかかることはなかった。ネクタイをしなければならない明確な理由を、だれも持ち合わせてはいなかったのだとおもう。なにせ「就業規則」にもないのだから。「いいなぁオマエは楽そうで」と言われれば、「楽ですよぉ~取っちゃえばいいじゃないすか」と返した。二年ほどすると、業務的に必要なとき以外はノーネクタイで出社するようなひともちらほら現れてきた。原則的に会社は仕事をしにゆく場所なのだから、仕事に支障をきたさない限りなにをしたってかまわないはずである。ぼくの場合、べつにつまらない反逆精神からそうしたわけではなく、ただただ暑くて苦しくて邪魔だったからにすぎない。人一倍暑がりなタチなので、暑いと如実に仕事の効率がダウンするのである。
はたして「クール・ビズ」が普及するかどうか、それはわからない。ただ、いちど普及してしまえば一過性のものに終わることなく定着するのではないだろうか。じつは案外、さしたる意味や必然性があってネクタイをしているわけではないからである。
北欧の「メガネくん」たちから、いま目がはなせなない。「いじめられっ子」風ルックスとはうらはらに、その音楽性は相当にクセもの。長い冬の間、部屋の中で孤独にたくわえられたエネルギーが、「Vappu(メーデー)」の若者たちのように一気に爆発する、そんな「オレ流」な春の到来。
ノルウェーを代表する、というよりも、いまや世界を代表する「メガネくん」といえばアーランド・オイエくん。ソロは、正統派ネオアコの「Kings of Convenience」での彼からは想像のつかないハウスサウンド。しかもミックスCD『DJ Kicks』では、リミックスした曲にのってザ・スミスや、バナナラマがカヴァーした「ヴィーナス」をじぶんで歌いまくってしまったり、曲と曲とを歌って「つなぐ」なんて荒技までやってのけてしまう暴走ぶり、らしい。まさに、北極まで突き抜ける孤高のメガネくんなのである。
かたやスウェーデンからノミネートの「メガネくん」は、ヨハン・クリステル・シュッツ(Johan Christher Schutz)くん。こちらはオイエくんのようなエキセントリックさはないものの、友だち少なそうっぽさにかぎって言えば、あるいはオイエくん以上かも。そんなシュルツくんが、しんみりギターをつまびきながらメランコリックに「So Happy」なんて歌ってしまうのだからたまらない。メガネをかけたベン・ワット。新作、期待してるよ!
かくなる上はぜひ、フィンランドのどこかに隠れ潜んでいる「メガネくん」を発掘してきたいものである。
もともとエバれるような食生活は送ってきたワケではないけれど、やはり店をやるようになってからのそれは相当にひどくなったように思えてならない。体調を崩すたび、これではさすがにマズいのではと思いつつ、けっきょく解決の糸口が見いだせない毎日である。
食事の時間がめちゃくちゃというのは、まあこれは「宿命」のようなものでやむをえないとは思うのだが、全体にやはり運動不足と野菜不足であることはいなめない。サプリメントで補給するというのがどうも好きになれないので、できるだけ「野菜ジュース」は飲むよう心がけているのだが、はたしてそのくらいで取り返せるものかというとかなりあやしい。どうしたものか。
日々こんな食生活を送っているぼくにとって「最高のごちそう」はというと、「あたたかいものをゆっくりとたべる」ということ。こんな当たり前のことが、じつはいちばんむずかしかったりするものだ。ふだん昼ごはんは、ちょっとした合間をぬってパクパクと口に放りこむ。ちいさな店内に匂いが充満してしまわないようにと「あたたかいもの」は禁物、いつお客様がいらして中断しても大丈夫なようにと「ひとくちでつまめるもの」が中心だ。だから休日には、できるだけゆっくりとあたたかいものをたべる。ささやかなしあわせ。
フィンランドへ行けば、それでもこんな食生活がいったんリセットされる。といっても、とりたてて特別なものを口にするわけではない。カフェでたべる具だくさんのスープやボリュームたっぷりのサラダ、それにさまざまな乳製品といった食物が、カラダの内側をじわじわ掃除してくれているような感覚だ。ひたすら歩きまわるのもいいのかもしれない。
いますぐ再起動しますか? OK
そんなふうに、いつもあたふたと旅にでる。
どうでもいいようなことが、やけに引っかかることがある。たとえば「おしぼり問題」がそれだ。といっても、たいがいのひとはそんなこと気になりもしないだろう。ぼくもそうだった・・・店を始めるまでは。
出されたものはぜんぶ食べる、ぜんぶ使う、そんな律儀というかセコく(?)育ったぼくにとって、出された「おしぼり」を使わないひとが案外いるという事実はちょっとした驚きだった。いやべつに、使おうが使うまいがそれはお客様の勝手だし、じっさいどちらだってかまわないのだ。ただ「素朴な疑問」のひとつとして、それを使わないワケを知りたく思う、それだけの話である。
たしかに「なんか不潔そう」という理由で、いわゆる「純喫茶」で無雑作に登場する「蒸しおしぼり」を使わないというひとはいる。ぼくもまた、使ったり使わなかったりだ。ところが、うちで出しているのは使い捨ての「ペーパーナプキン」、使ったからといってなにか支障をきたすといったたぐいのものではなさそうだ。それともなにか、ぼくの気づかないところに「なるほど、そうだったのかぁ~」という納得の理由が隠されていたりすのだろうか?比率的にいってだんぜん女性がおおいあたり、ナゾを解き明かすカギがありそうだ。
そんなある日のこと、うまい具合に(?)知り合いの女性が「おしぼり」に手をつけずにいたので、チャンス到来、ここぞとばかりそのワケを尋ねてみた。するとその女性はこんなふうに答えるのであった。
えっ?ああ、べつに今日はいいかな、って。
あ、そ、そうですか・・・終了。というわけで、どうやら「おしぼり問題」には深遠な世界はもちろん、特別これといった「理由」すらなかったようだ。
サッカー日本代表が「ドイツゆき」のチケットを手に入れたこの日、負けじとばかり(?)moiでは「旅講座*フィンランド」が開催されました。
参加者のみなさんにはメールやコメントでさまざまな感想をよせていただき、案内人ともどもとてもよろこんでおります。この「旅講座」、当初の予想を上回る反響をいただき、ここまでのところぜんぶで4クラス実施させていただいています。原則としてお話の内容は毎回おなじなのですが、それでも、参加者の顔ぶれにあわせてできるだけ満足度の高い内容になるようアタマを悩ませながら奮闘中です。
これまでフィンランドに行かれた経験のあるなし、近々行かれるご予定のあるなし、関心のある場所やモノ、コトなど、事前におしえていただいた「声」をもとに、内容を微調整しながら進めています。このあたりは、なんといっても「案内人」をつとめるみほこさんの手腕によるところが大きいです。また、みなさんからの「質問」にはできるだけていねいに、かつ具体的にお返事するよう心がけているつもりです。最初のうちちょっと緊張気味だったみなさんも、だんだん質問にも熱がこもってきて、テンポよくキャッチボールできるようになってきたところで無念の時間切れ!!!、いつもそんな感じの展開にじつはギリギリ歯ぎしりしたりしているのです。
見知らぬ土地で見知らぬ人々にかこまれて、当惑したり恥をかいたりしながらも、ちょっとずつその土地のリズムに慣れてゆく快感・・・旅の醍醐味というのはたぶんそんなところにあるのかな、と思います。でも残念なことに、ぼくらの旅はとても短い。欧米のひとのように一ヶ月かけてゆっくり旅する、悲しいかな、そんな過ごし方が許されないのがぼくら日本人です。でも、その国のことやひとびとのこと、じぶんが行きたい場所やぜひやってみたい物事など事前にすこしだけでも知っていることで、旅はずっと濃厚で印象深いものに変わるはず・・・この「旅講座」は、そんなふうな思いから誕生しました。
これからも、フィンランドを味わうひとにとっての「オードブル」、いやせめて「食前酒」くらいにはお役に立てればと願っています。
旅の支度がととのいません。いっこうに。
旅の支度といってたいへんなのが、じつはゴミの処理。大きなお店なら、業者に毎日ピックアップにきてもらうところですが、そこまで多くはないmoiの場合ゴミ出しはふつうの収集日におこないます。当然きめられた日にしか処分することはできません。ではどうするのか?というと、そうです、自宅に持ち帰るんですねー。店と自宅では収集日もすこしずつズレているので、それをうまく利用して店にゴミを残さないようにするのです。まとまった休みに入る前にはいつも、その数日前からそんなゴミお持ち帰りセレモニーがはじまります。できるだけ小分けにして(といって十分デカいんですけど)、袋を何重にもして大事そうに(?)抱えて持ち帰るわけです。
そんなときいつもかんがえるのは、いま「ひったくり」に遭ったら相当悲惨だな・・・もちろん犯人が、ということ。逃げ帰っていざ開けてみたら中身はなんと、容赦ないほどの「生ゴミ」だ。まったく昔ばなしに登場する「欲張りじいさん」のような顛末ではないか。そういえば友人のいずみちゃんはその昔、まだ学生だったころ、コインランドリーの帰り道に「ひったくり」に遭い、当時のほぼ「全財産」であった衣服数着を奪われてしまった。いずみちゃんも困っていたが、犯人もそれなりに困っていたにちがいない。そのころのいずみちゃんの格好を知るぼくは、そう断言できる。誤解のないよう言い添えておくなら、いずみちゃんは大男のようなガタイをした「いいおんな」ですよ。ぜんぜんフォローになってないか。
こんどの日曜日からmoiは10日間ほどお休みを頂戴いたしますが、まるでしめしあわせたかのように(笑)、moiにとって「家族」のような存在である国立のWill cafeさんもこの時期お休みになります。
店主のくるすさんがイギリス&スペインに行かれるためで、12日[日]~20[月]のあいだがお休み、カフェ営業の再開は21[火]からとのことです(くわしくはWill cafeさんのサイトをご確認ください)。納品の確認で打ち合わせをしたときにこの事実が判明、おたがい爆笑してしまいました・・・。みなさま、こんな愛嬌あふれる(?)店主たちをどうぞあたたかい目で見守ってやってください!・・・本当に。
というわけでWill cafeファンのみなさま、しばしご辛抱を!
と、まあそんなわけで、梅雨の日本をしばし離れ、あしたから一週間ほどスウェーデン&フィンランドへいってまいります。その間、ブログの更新はおやすみさせていただきますが、また戻ってから「旅日記」などアップできればとかんがえておりますので、どうぞよろしくお願いします。なお、同様にメールのチェック、返信などもしばしできなくなりますが、あしからず。
19日[日]に帰国しますが、20[月]は定休日、21[火]、22[水]はイベントのみの営業となりますので、カフェ営業の再開は23[木]よりとなります。
旅で得たものをなんらかのカタチでみなさんにフィードバックできるよう、五感をフル回転させて動きまわってきたいと思います。では、またお休み明けにお目にかかりましょう!moimoi!
ヘルシンキを経由して、夕方ストックホルムにたどりつく。ヘルシンキではどんよりと曇っていた空も、もうすっかり晴れあがっている。日射しは強いものの空気はまだ相当につめたい。ホテルではまずトイレをチェック。はじめてフィンランドを訪れたとき、便器が「アラビア」製なのにひどく感激(?)したものだが、案の定ここスウェーデンでは「グスタフスベリ」製なのだった(写真)。だからといって、でてきたコーヒーカップに「TOTO」のロゴがはいっていたら、うれしいというよりむしろイヤな気持ちすらおぼえるのだから、人間なんて勝手な生き物である。
とりあえず荷物をひろげると、あとは一息つこうという話になってさっそく街にでた。日曜日の夜(とはいえ、まだまだ昼間の明るさなのだが)にしては若い子たちを中心に人出が多い。少ないながら営業している店もある。このあたり、ヘルシンキとはだいぶ様子がちがうようだ。セルゲル広場の界隈をぶらぶら歩いていると、チェーン系を中心としたさまざまなカフェが目につく。さすがは「fika(お茶する)」という言葉をもつお国柄である。
飛行機の中で食べてばかりいたせいで、残念ながらあまりお腹はへっていない。そこでヒョートリエットにほどちかい「マクドナルド」でお茶を濁すことに。じぶんたちをふくめ、店内はなぜか「外国人」だらけ。さまざまな言語、さまざまな肌の色にあふれた「移民」のおおい街なのだ。出発前、いろいろなひとから聞かされていた「ストックホルムは都会だよ」という言葉の意味が、そんなところからも実感される。
コーヒーを頼むと、スティッグ・リンドベリの「アダム」をモチーフにしたカップで出てくる(写真)。そう、「便器」を、ではなくて「便器」も(笑)作っているあの「グスタフスベリ」社を代表するデザイナー、リンドベリの不朽の名作をこんな気のきいたやりかたでリメイクしているのだから感心してしまう。どうやら、ラージサイズでオーダーすると「葉っぱ」の図柄で人気の高い「ベルソ」で出てくるらしいのだが、さすがに胃がガボガボなのでやめておく。ほかにも、かなり早い時期から店舗デザインを若手のデザイナーに任せたりと、スウェーデンのマクドナルドはおもしろい試みをいろいろやっている。ただし、サラダはまるで「鳥のエサ」のようだし、店内にはやたらとゴミが目立つしで、なんか「基本」が抜けてしまっているあたりがちょっと問題のような気がしないでもないが。
まだまだ沈みそうもない夕陽のなか、ホテルへと帰る。思えば、ながいながい一日の終わりである。
よく晴れている。天気予報によると、きょうはだいぶ気温が低いらしい。「ストックホルムはデカい(もちろん「ヘルシンキ」とくらべての話だけれど)」知人たちは口をそろえて、そう言う。忠告に従って、今回はできうる限り地下鉄で移動しようときめている。歩けそうなところでも地下鉄で。旅ははじまったばかりなのだ。中央駅の窓口で、まずは乗り放題のツーリストチケットを手に入れる。旅行者向けには、美術館や博物館などでも利用できる「ストックホルム・カード」というのがあるが、移動だけのために使うのなら断然割安な「ツーリストチケット」がおすすめである。
さっそく地下鉄にのって、建築家グンナー・アスプルンドの手になる「森の火葬場」へ(この話はまたべつのところで)。ふたたび地下鉄にのり、昼過ぎ、ソーデルマルムあたり。とにかくちいさくて気のきいた店が好きなので、今回の旅は「ソーデルマルム」だけでいいや、と極端にいえばそんな感じなのだ。ただ、行きたいギャラリーやショップのいくつかは月曜日で閉まっている。そこできょうは、メインストリートの名前と位置関係をアタマに叩きこむこと、くわえておもしろそうなショップが集中していそうな通りを発見することに重点を置いて、ひたすら歩く。やっぱり、けっきょく歩くのだ。でもこうして歩いているうち、街もだんだん親しげな表情になって、やがておもしろい店のありかをこっそり教えてくれたりするものなのだ。
こうして出会ったのが、壁の赤と白のツートンがかわいいZOUK cafeである(写真)。
近所のおじさんやショップの店員たちがふらりとやってきては、慣れた様子でオーダーしてゆく。そんな気取らない空気が心地いい。そしてここでおいしかったのが、なんといっても「キャロットケーキ」(写真)。ごらんのとおり、相当に荒っぽいつくりである。ニンジンが、これでもかとばかりザクザクとはいっている。素朴だけど、「そこでしか味わえないおいしさ」と出会えるのが北欧の醍醐味かもしれない。
北欧で「キャロットケーキ」はポピュラーなのだろうか、旅の途中あちらこちらのカフェでみかけたが、この店のやんちゃなキャロットケーキの味がぼくには忘れられないのである。
そしてまたも地下鉄を乗り継ぎ、エステルマルムへ。
ソーデルマルムのカジュアルな空気とはガラリと変わり、こちらはちょっと銀座ふう。相方のたっての希望で、「スヴェンスク テン」の本店へゆく。ふと気づくと、店内に流れるのははっぴいえんど「風をあつめて」。ストックホルムで「はっぴいえんど」。なんとも不思議な取りあわせだが、おかげでストックホルム滞在中、ずっとあたまの中ではこの曲がぐるぐると・・・。でも、この曲の「テンポ」にいまの「東京」は似合わない。むしろこの街の「テンポ」のほうがよほど似合っているかも、とそんなことをかんがえながら。
夕食は旧市街「ガムラスタン」で。味はというと、いわゆる「観光地」にふさわしいレベル。スープの殺人的なしょっぱさが理解できない。食後は腹ごなしをかねて、散歩しながらホテルへともどる。きりっと引きしまった空気が、この日の《最高のデザート》だった。
きょうもまたよく晴れた。午後には船でここストックホルムを発ち、ヘルシンキへと向かわなければならない。とにかく追われるようにして、ソーデルマルムへ。
アセる原因はほかでもない。じつは、今回まだほとんどなにも仕入れられていないのだ。初めてで勝手がわからないということもあるが、目をつけていたものも実際に手にとってみるとたいしたことなかったり、また値段が見合わなかったりで結局いまひとつピンとくるものと出会えていない。午前中は雑貨屋、セレクトショップ、それに本屋などをひやかして歩く。
ソーデルマルムは庶民的な雰囲気の街だ。こじゃれたインテリアショップなどにまじって、チープな古着屋やアジアン・テイストの雑貨屋などが点在するその雰囲気は、さしずめ中目黒 meets 高円寺といったところ。
ここで案外気に入ってしまったのが、「Sodermalm Saluhall」というイケてないショッピングセンター。まあ、言ってしまえば荻窪の「タウンセブン」のようなものである。ここの1階はちょっとした市場のようになっていて、魚屋や肉屋、それにパン屋、デリカテッセンのような店がひしめいていて魅力的。次回訪れるなら、この近辺に宿をとってここで食事を調達するのも悪くないななどと思う。
それにしても、こちらにやってきてからというもの朝ゴハンをはりきって食べすぎてしまうせいで、昼になってもお腹がすかない。困ったものだ。まあ、毎度のことではあるのだけれど。そこで、さきほどの「Saluhall」の中にあるカフェ「Soder Espresso」でケーキとコーヒーで済ますことにする。ケーキはブルーベリーをつかったもので、表面にはクランブルがのっている。「ソースをかけるか?」と尋ねるのでよくわからないままうなずくと、ほとんどソースの中でケーキが溺れているような状態になっていて衝撃をうける(写真)。
おそるおそる口に運ぶと、セーフ、甘さ控えめのフワフワのカスタードソースでしつこさは感じない。むしろケーキの甘さを中和してくれるようだ。近所のビジネスマン、ベビーカーを押した若いママ、お年寄りから若者まで気楽におとずれ「fikaする」、そんな普段着感覚のカフェなのだ。その後、お目当てのギャラリーでスウェーデンの作家の作品をチェックし、本屋や文房具屋ですこしだけ仕入れをして慌ただしくこの街をあとにした。
ストックホルムから、一晩かけてヘルシンキへと向かう客船「シリヤライン」が出航する港は市内のはずれ、ちょっと不便なところにある。そこで話のタネにと、ちょっと贅沢してタクシーに乗ってみることにする。スウェーデンのタクシーは、ベンツやボルボのステーションワゴンが主流。ぼくはできれば「ボルボ」に乗りたかったのだが、ガ~ン!やってきたのはこともあろうに「三菱」・・・(笑)。炎上することもなく、無事港に到着。
午後5時30分、波ひとつない静かな海を白亜の巨大客船がゆったりとすべりだす。船上のお楽しみは、なんといってもビュッフェディナー。なかなかおいしいとの評判だったのだが、いや、確かにおいしい。昼ゴハンをパスした甲斐あってムキになって食べる。食べる、また食べる。「シリヤライン」を利用するひとは、ケチをせずにビュッフェディナーを予約しましょう。きっと元は取れます。ちなみに相席になったスウェーデンの女子高生二人組は、からかい半分に横のフィンランド人一家のマネをしながらもの凄い勢いで「ゆでエビ」の山を片づけていた。それにしても、デザートまでいった後で、さらに「ゆでエビ」を山盛りにして戻ってきたのには驚きを通り越して恐怖すらおぼえた。しかもジュースといっしょに。大丈夫か、アイツら・・・。
日付けが変わるころ、船はフィンランド領のオーランド島に寄港する。誰もいないデッキに立ち、次第にちいさくなってゆくオーランドの港の灯りをながめる。とてもきれいな眺めだった(写真)。船内に戻り「Robert's Coffee」で買ったあたたかいコーヒーを飲めば、すっかり冷たくなってしまった体も少しずつあたたまってくる。キャビンのテレビでは、船内のディスコの様子をナマ中継している。ミラーボールが廻るダンスフロアでは、生バンドが演奏するアバの調べにのってなぜかチークを踊るイケてない人々の姿・・・オレの白夜にかすむオーランド島の印象を返してくれ・・・こうして海上の夜はふけてゆく。
ただいま!フィンランド。移動に船をつかったのはほかでもない。この眺めが、欲しかったのだ。
大型客船のデッキから一望のもとに見渡すヘルシンキの街は、さながら「箱庭」のよう。飛行機が普及するまでの長いあいだ、外国からこの国を訪れるひとびとのほとんどが目にしたであろう眺めがここにある。武藤章『アルヴァ・アアルト』(鹿島出版会)によれば、この港の一角に建つビルディングを設計したアールトは、かなり工事が進むまで中に入ろうとはせず、もっぱら離れた埠頭から建物を眺め、満足げに引き返すだけだったという。この国を最初に印象づける「眺望」の完成度こそが、あるいは彼のこだわりだったのかもしれない。
昼下がりの「マーケット広場」は、すでに夏のにぎわいを見せている。いちごやプラム、鮮やかな緑色をした「エンドウマメ」を売る屋台。魚のくんせいや色とりどりの花々、さまざまなお土産物を売る屋台のなかに、なにやらちょっと風変わりな屋台を発見した(写真)。
名づけて「ヘルシンキの母」。手相を観つつ、いろいろな相談にのっている模様。友人の画家ヴィーヴィ・ケンパイネンも、夏のあいだ、ここでじぶんの描いた絵を売っている。
ちなみにmoiのプッラのレシピは、このヴィーヴィから教わったものである。そして、いつもかならず顔をだすギャラリー、それにお気に入りのガラクタ屋へと向かう。このガラクタ屋は去年、うちの母親が古布でこしらえた飾り物と交換に、無理矢理ディスカウントさせて逃げた思い出(?!)の店である。気難しげな店のおばちゃんが入るなりニヤニヤしていたところをみると、どうやらこちらの顔を覚えいたらしい。まいったなァ。
歩き疲れるときまって、ぼくは苦いコーヒーがほしくなってしまうのだ。けれどもフィンランドで苦いコーヒーにありつくのは至難のワザだ。どこに行っても酸味の強いコーヒーばかり。そこでエスプレッソがうまいと評判のカフェ、「Espresso Edge」でひとやすみすることにする。
イタリア製のマシンを巧みにあやつり、きれいなおねえさんが淹れてくれるエスプレッソがまずかろうはずもなく・・・フィンランド初日、まだまだこの足は止まることを知らないのであった。
おかげさまで、本日も晴天なり。今回滞在しているホテルの窓からは、アルヴァー・アールト設計による「フィンランディア・タロ」をのぞむことができる。ソファーで読書していてふと目を上げれば、そこに白亜のフィンランディア・タロの姿が・・・こんな贅沢、そうあるものではない。
この日、さいしょに向かったのはDESIGN MUSEO。ちょうどいま、「マリメッコをつくった」そういっても過言ではないデザイナー、マイヤ・イソラの回顧展『マイヤ・イソラ~その人生、芸術、マリメッコ』が開催されているのだ。彼女のテキスタイルから感じられるのは「手」のぬくもりにほかならない。人間の手が描くからこそうまれる、ある種の「グルーヴ」。とりわけ素描にみられる「線」の、どこまでも単純でありながら、豊かでつややかな質感。相方いわく「迷いのない線」。納得。
DESIGN MUSEOを出てしばらく南下すると、地元で人気の「Cafe Succes」にたどりつく。ここは有名な「Cafe Esplanad」の姉妹店で、名物の顔の大きさほどもあろうかという超特大シナモンロールももちろん用意されているが、今回はランチをかねて「サーモンスープ」をチョイス。
大きなサーモンのかたまりがごろごろはいったサラリとしたスープ「Lohikeitto」は、フィンランドの代表的なたべもののひとつ。たっぷりとした器にもられたスープと大きなパンで、すっかり満腹に。一見ごくふつうのカフェだけれど、おしゃれな内装のお店より、じつはこういうお店ほどウケるのが「フィンランドらしい」。
「Cafe Succes」からさらに南下をつづけると、そこはヘルシンキの古くからの高級住宅街「エイラ地区」。観光客はほとんど訪れないけれど、「建築工匠」とよばれるひとびとが設計したユニークなフォルムや装飾をほどこした個性的な住宅が建ちならぶこの一帯は海にもほどちかく、まさに絶好の「お散歩コース」である。
ふくよかな緑の木々と白や紫のリラの花、鳥のさえずりしか聴こえてこない静かな邸宅街をステッキ片手に散歩する身なりのよい老紳士・・・ここで目にした光景はまるで「白日夢」のような、ベルエポックのヘルシンキ。
あるきつかれたら、小さなヨ16dットハーバーに面したカフェで一服するのがいい。カイヴォプイストには「Cafe Ursula」が、よりエイラの近くなら「Cafe Carusel」がある。きょう立ち寄ったのは、「Carusel」のほう。
気温もぐんぐん上昇するこんな日は、まさに「海カフェ」ですごすのにうってつけの日というわけで、どこからともなくお客さんもどんどん集まってくる。店内がすいているのはほかでもない、みんな日光浴ができるテラス席に陣取ってしまうから。とにかく、日なたから日なたへと移動するのが北欧のひとびとなのである。
けっきょくまた、きょうもずいぶんと歩いてしまった。でも、まだ夕方。仕入れもようやく調子が上がってきたことだし、まだまだ歩みを止めるわけにはいかない。
いざトゥルクへ、のはずだったのだが・・・。移動にかかる往復4時間弱の時間をヘルシンキでの仕入れにあてたほうがよいだろうという話になり、残念ながら今回は断念。個人的にはあの「ビミョー」な空気がきらいではないので、またチャンスがあればぜひ行きたいものだ。
さっそくHKLの窓口でツーリストチケットを買い、まずは地下鉄でハカニエミへ。おなじ「マーケット広場」でも、港に面した「マーケット広場」とは異なり、こちらはずっと地元密着型。マーケットホールは、食料品を中心とした一階と雑貨や骨董、おみやげを扱う店がならぶ二階とにわかれていて、客層も地元のおばちゃんや「おのぼりさん」風情のフィンランド人観光客などがほとんどだ。二階のまんなかには「休憩所」といった感じのカフェがあって、地元のおばちゃん、おばあちゃんたちが話に花を咲かせている。
ふと見ると、おばあちゃんたちが食べている「カレリア風ピーラッカ」がめちゃくちゃうまそうではないか。というわけで、急きょ予定を変更、ここで早めのランチをとることにする。
ほんらい家庭料理であるため、おいしい「ピーラッカ」にありつこうと思ったらどこかの家庭でごちそうになるしかないというのが実際のところなのだけれど、ここの「ピーラッカ」はそれでもかなりイイ線をいっているのではないだろうか。おばあちゃんの味覚を信用してよかったよ。
気づけばすっかり荷物が大きくなってしまったのでホテルに引き返し、仕切り直し。トラムにのって「ヒエタラハティ」へ。ここはフリマでよく知られているのだが、うっかり入れ替えの時間帯(清掃が入るため、午後にいちど全員が撤収する)にあたってしまったため出直すことにする。事前にチェックしていた店をのぞきながら、なかばキレ気味に「おやつタイム」である。
フィンランドのケーキというと主流はやはり焼き菓子で、日本人がイメージするようないわゆる「パティシェ系ケーキ」にはめったにお目にかかれない。フィンランド人にとっての「おやつ」は、ケーキよりはむしろ「プッラ」と呼ばれる菓子パンのたぐいなので、あまりニーズがないというのが実際のところなのかもしれない。いずれにせよ、そんなヘルシンキでパティシェ系のケーキが食べたくなったら、なにがなんでも「Kakkugalleria」に行くべきだ。
このお店をはじめて訪れたのは2001年のこと。当時ヘルシンキ在住だった建築家の関本竜太さんに連れてきてもらったのだった。残念ながらそのときお店はお休みだったのだけれど、すっかり気にいってしまい、以後ヘルシンキにきたらかならず立ち寄ることにしている。
今回はケーキをテイクアウトし、フィンランド人にならい近くの公園で太陽の光をいっぱい浴びながらたべてみた。友人や恋人と、あるいはひとりでと、思い思いの時間をのんびりすごすひとびとのいる「シアワセな景色」を見やりながら、こちらもしばしゆったりとしたひとときをすごす。
一服ついたら、さあ出発。あしたはいよいよ帰途につく日、のんびりしている時間はない。さてと、買い付け買い付け。
青空はのぞいているものの、はるかかなたには入道雲がもくもくと湧きおこっているのがみえる。午前中が「勝負」だな。そこでホテルをチェックアウトするまえに、24時間有効のツーリストチケットがまだあと30分ほど使えることを確かめてトラムにのりこむ。
行き先は、この旅行中で三回目になる「ヒエタラハティ」のフリーマーケット。ここはプロとシロウトが混在して出店しているので、数やメンツも日によってまちまち、ふたをあけてみないことには実態がつかめないのである。ここまでのところはややハズレ気味。使いかけの化粧品とか壊れた携帯電話、なにに使うのかもはやわからない電気コードなどなど、シロウトが家庭に眠っている不要品をもってきて並べているといった感じ。それでも、英語の得意でないおばあちゃんとカタコトのフィンランド語でコミュニュケーションをしていると、「まあ、あなたったらフィンランド語をしゃべるのねぇ」などと言いつつ、頼みもしないのにおマケしてくれることが二度ほどあった。ラッキーなこともあるのだ。よく晴れた週末ということもあって、きょうは店も客もいままででいちばん多い。目についたものをいくつか買いこむ。
大急ぎでホテルにもどるとチェックアウトをすませ、荷物を預けたらふたたび街へ。荷物の量はかなり大変なことになっている。ワレモノもおおい。前日ポストオフィスに確認したところ、ダンボール一箱を日本まで送るとだいたい送料が9,000円ほどもかかるという。そんな無駄はとてもできないということで、とにかくかつげるだけかついで、引きずれるだけ引きずってとゆこうという話になった。
大聖堂のあたりですこしおみやげものなどを買い、最短ルートでひたすら駅へと引き返すと計ったように通り雨が降りだした。昼食は、サノマタロの「Wayne's Coffee」でソーセージのキッシュとコーヒー。軽めにすます。もともとここには「modesty」というコーヒーショップがあったのだが、「modesty」がスウェーデン資本の「Waynes」に買収されたため、いまはこんな具合になっている。
ガラス張りのビルディングの吹き抜けに位置しているため店の雰囲気が大きく変わったというほどではないのだが、なんだかちょっと寂しい。今回の旅で、ヘルシンキの街はよくもわるくも変わっていた。もちろん、その変化の度合いは東京にくらべれば微々たるものかもしれない。それでも、確かにあったはずのものがなくなっているという現実は、この街もやはり、たとえそれが東京よりはずっとゆるやかな速度であるにせよ、確実におなじ方向へむかって変化しているのだという現実をつきつけてくる。東京がもはや失ってしまった「時間」を、ここヘルシンキにもとめるということがいかにナンセンスかということくらい、もちろんぼくだって了解しているつもりだ。けれどもmoiをオープンするとき、それに力を貸してくれた誰もがみな、フィンランドで感じたあのゆるやかな時間と空気とを東京の片隅で感じられる場所をつくろう、そんな気持ちでつながっていたのもまた事実なのだ。「変わらない」ということ、それもまた強い意志に裏打ちされたひとつのスタイルにちがいない。
つぎにこの国をおとずれるとき、いったいそこはどんな表情をもってぼくらを迎えてくれるのだろう。たのしみなような、そしてすこしばかりこわいような。
Terve!
一週間ほどごぶさたしておりましたが、さきほど無事スウェーデン&フィンランドの旅から帰ってまいりました。おかげさまでことしは天候にも恵まれ、まばゆい太陽の光とさわやかな空気に満ちあふれた「北欧の夏」を満喫することができました。旅で出会った印象にのこる物や事など、またあらためてこちらでご紹介できればと思っています。
もちろんことしも、足を棒にして重い荷物を引きずって連れ帰ってきた「おみやげ」の数々、なんらかのかたちでみなさまにご披露させていただく予定です。ことしは若干アイテム数は少なめですが、写真のようなアラビア社のヴィンテージや人気のノヴェルティー雑貨などを掘り出してきましたので、どうぞお楽しみに!販売方法などは、また詳細が決定次第お知らせいたします。
なお、カフェ営業は23日[木]から再開します。みなさまのお越しを心からお待ちしております!
ストックホルムの地下鉄は揺れる。むちゃくちゃ揺れる。乗り物酔いしそうなくらいに揺れる。
さしずめ、運転のヘタなひとのクルマに乗っているようなそんな感覚だ。さいしょは、たんにヘタクソな運転手にあたってしまったのだろうくらいにかんがえていたのだ。けれど、乗った列車が列車ぜんぶがそうなのだから、問題はもうすこしべつのところにありそうである。たとえば車両だとか、レールだとか。
じっさい乗客はみな、老いも若きもかならず走行中は手すりにつかまっている。きっとみんな「地下鉄は揺れるもの」、そう思っているのだろう。
ストックホルムで地下鉄に乗ろうというかたは、そこのところ覚悟しておいてください?!
イタリア帰りの友人からもらったコレ、いったいなんだと思いますか?
一見、それは「つまようじ」のようにもみえます。箱をみると「LIQUIRIZIA」の文字が。ん?!その響き、なにかに似てない?コレはもしや・・・、そうです、あのフィンランドの黒い黒い不気味なキャンデー「サルミアッキ」の原料になる、LACRITSIの根っこそのもの、なのです。この植物、日本でも「甘草(かんぞう)」と呼ばれ、古くから生薬として使われています。一方、北欧をふくめ、ヨーロッパにおけるそれはどちらかというと薬効のある嗜好品という位置づけのようです。
じっさい、これも「たべもの」ではなくガムのような感覚で「噛むもの」なのだそう。言われるとおり、クチャクチャと根っこをかじっていると、ほのかな苦みのある甘みが口に広がってきます。さらに噛みつづけていると、甘みは次第に薄くなり、ついにはひたすら苦みだけになります。苦くなったら吐き出すものなのか、あるいは苦みをぐっとこらえて楽しむのが本来のあるべき姿なのかそれすらもわからないのですが、友人の話ではこれをトリノ郊外のひなびたドライブインで手に入れたそうです。イメージとしては、イタリア人の気の荒い長距離トラックのドライバーがこいつをクチャクチャとやりながら深夜の街道をひた走っている、ってそんな感じ?
日ごろからこんなものをクチャクチャやっていると、いつかは銀幕にでも登場しそうな苦みばしったいいオトコになれるのでしょうか?あるいは、逆に苦みばしったいいオトコを気取るため案外こんなものをクチャクチャとやったりするのかもしれませんね?!
ヘルシンキ中央駅のすぐかたわらにある「Posti(中央郵便局)」といえば、日本人観光客の多くがいちどは足をはこぶ人気のスポット。とりわけ、郵便博物館と切手やポストカードをあつかうショップは人気の的で、行けばかならず日本人と出くわす、そんな場所でもある。
その「Posti」のなかに、じつはとても使い勝手のいいカフェスペースが2カ所ある。まずは、「Kirje kahvila」。
博物館の入り口わきにあるここはスペースもちいさくつい見逃してしまいがちだが、なかなかの穴場的カフェである。とりわけ、「スープ」は気軽なランチにうってつけだ。店名どおり、ここで手紙を書いてそのまま投函する、そんな使い方もいいかもしれない。
もうひとつは、2階にある「中央郵便局のレストラン」という名前の「Ravintola Paaposti」。
ランチはサラダランチ、スープランチ、それにビュッフェスタイルのデリのランチで、月曜日~金曜日の10時半から13時半までやっている。値段はけっして安くはないが、明るく開放的なスペースが心地いい。どうやらここは「Postiの社食」を兼ねているらしく、昼時ともなると郵便局の職員たちが気ままにランチをほおばっている姿をながめることができる。
ランチといえば、北欧では「社食」や「学食」にかぎらずビュッフェ・スタイルをとっている店がすくなくない。これはなかなかよく考えられたスタイルだ。ビュッフェ・スタイルというと、日本ではホテルの「ランチビュッフェ」や「ケーキ・バイキング」のようについ食わなきゃ損、損みたいな世界になって結果「暴飲暴食」を悔やむことになりがちだが、本来はその日の体調やおなかの空き具合によってじぶんでメニューや量をコントロールできる合理的なシステムなのである。
日本でも、こんなカジュアルなビュッフェ・スタイルがもっと一般的になってもいいかもしれない。
ちょうど一週間ちがいでフィンランド&スウェーデンへ行かれていたmomokoさんから、スウェーデンみやげのチョコレートをいただいた。
ストックホルムの、コーヒー豆や紅茶の茶葉を売る店で購入されたとのこと。コーヒーといっしょに楽しむような、いわゆる「キャレ」という四角くて平べったいチョコレート。大人っぽいビターな味である。そういえば、スウェーデンでのむコーヒーは、酸味の強いフィンランドのコーヒーとは異なり苦味もほどほどにある比較的バランスのいい味が多かった。
こと「味覚」にかんするかぎり、数多くの、さまざまな人々が暮らす場所ほど「平均的になってゆく」(「おいしくなってゆく」という意味ではかならずしもない)という「仮説」を立ててみたのだけれど、はたしてどうだろう?
ヘルシンキにある古くからの住宅街「エイラ地区」の一角で、石を積み重ねた外壁を取り壊している光景に出くわした。
壊しているのかと思いきや、よくよくみると一個一個の「石」にチョークで番号がふってある(写真)。どうやらこの番号、後で元通りに修復するための手段らしい。一個一個の石を取り外しそれらをふたたび元あった場所に戻すなんて、手間、ひま、おカネ、そのどれからしても効率的な作業とは言いがたい。だいたいが、考古学の話ではない。リフォームの話である。
これがもし日本であったなら、すぐさま分厚いカタログを手にしたリフォーム会社のセールスマンがやってきて、「この機会にぜひ、丈夫で長持ち、しかも新技術で本物の御影石の光沢を再現した『エクセレント高級外壁シリーズ『みやび DX』」に変えてみてはいかがでしょう?』などと提案するにきまっている。ところがここフィンランドでは、まるでそんな選択肢ははなっから用意されていないかのように、悠長な顔でひとつひとつ外壁の石を取りはずしているのである。
ここがいわゆる「高級住宅地」だからかというと、かならずしもそういうわけでもない。じっさい、公共工事の現場でもおなじような光景を目にした。さすがに番号まではふっていなかったが、街路の石畳をわざわざはずして道路工事をしていたのだ。いっそのこと、この機会にアスファルト舗装にでもしてしまえばよいと思うのだが、まったくそんな気配すら感じられない。あったものをあったままの状態に戻す、それはこの国のひとびとにとってごくごく当たり前のことなのだろう。
よく北欧は「エコロジーの国」などといわれるが、それはなにか大がかりなプロジェクトを通じて学ばれるべきものではなく、実際にはごく自然に、日々の営みのなかで育まれてゆくものであるにちがいない。そして北欧という場所は、おそらくそういう土壌なのだ。
「森の火葬場」。今回の旅で、もっとも印象深かった場所。
広大な森となだらかな丘陵に抱かれるようにしていくつかの教会と火葬場、そして無数の墓地が点在するそこは、1940年、建築家のエリック・グンナー・アスプルンドとジーグルド・レウレンツの手によってストックホルム郊外につくられた。アスプルンドはときに「北欧近代建築の父」とも呼ばれ、アルヴァー・アールトにもたいへん大きな影響をあたえたひとである。
じつは当初、ここを訪れる予定はなかった。「森の火葬場」のことは以前から知っていたし、そのすばらしさについて何人かのひとの口から聞かされていたにもかかわらず。その理由をひとことで言えば、「『火葬場』という特殊な場所にゆくという感覚がわからなかったから」である。漠然とした恐怖心のようなものもあったし、なによりそこは「興味本位に訪れるべきではない不可侵の聖域」という印象がつよくあった。けれども北欧へと旅立つ数日前、やはりそこを訪ねるべきではないか、訪ねなければ後悔するかもしれないという思いがもくもくと湧きおこり、けっきょく予定に組み入れることにしたのだ。決断はまちがっていなかった。
さて、この旅行記を終えるためには、どうしたってこの場所について書かなければならないとずっとかんがえていた。けれども、遅々として筆が進まなかったのは、ここで受けたつよい印象、そして感じた情感は、けっして「ことば」によって語りうるものではないということがわかってしまったからだ。ここはだれかのために心静かに祈りを捧げる場所、つまり「『ことば』を必要としない場所」なのだ。
じっさい訪れた「森の火葬場」は、思いのほか殺風景でも、陰鬱でもなかった。ふくよかな木々の蒼(あお)、木立をわたる風の音、色とりどりの可憐な花々やキノコ、リスやさまざまな鳥たちの声とその姿、そしてこうした景色のなかに完全に溶け込んでしまったかのようにみえる慎ましいたたずまいの建物と無数の墓標群ーそこに立ち、たくさんの「いのち」の声が語りかけてくるものをききながら、むしろ、ぼくの心はとても平和におだやかになってゆくのを感じていた。
もうひとつ、どうしてもつけくわえたいのは、ここはアスプルンドとレウレンツというふたりの建築家によってつくられた場所にちがいないけれど、それだけではけっしてないということだ。ここを散策していた数時間に、ぼくはほんとうにたくさんのひとびとの姿を目にした。シャベルと花を手にお参りにきた老人たち、葬列に参加する老若男女、そしてこの場所ではたらく大勢のひとびとの姿だ。その姿からは、かれらがいかにこの場所を愛し、誇りに思っているかがひしひしと伝わってきた。かれらひとりひとりの思いと献身的なしごとがあってはじめて、この場所はいつまでも守られ、「特別な場所」でありつづけることができるのだ。そしてもしかしたら、そこでもっともぼくを感動させたものは、じつのところそんなさりげないかれらの「姿」であったかもしれない。
さて、お送りしてきました「旅のカフェ日記」はこれにておしまいです。ご愛読ありがとうございました。