2025年11月6日、 フィンランドセンター主催のトークイベント【トーヴェ・ヤンソンとスウェーデン系フィンランド人文学】が開催されました。会場は東京・南麻布のヨーロッパ・ハウス、駐日欧州連合代表部のはいる建物です。入口でサインと身分証をもとめられ、金属探知機をとおり、すこし緊張しながらロビーの中へ。

ちょうどこの日は「スウェーデン系フィンランド人の日|Svenska dagen」(1908年制定)。スウェーデン語を母語とするフィンランド人(finlandssvenskar)の歴史や文化を祝う日です。フィンランドセンターではこの日を記念して毎年、スウェーデン系フィンランド人文化ウィーク「Hallå Tokyo!」を開催しています。今回のトークイベントもその一環として行われました。
講師はスウェーデン系フィンランド人文学協会(The Society of Swedish Literature in Finland、以下SLS)のイェンス・グランデル氏とクリスタ・ルンドストロム氏。SLSの活動とトーヴェ・ヤンソンの著作・資料のアーカイヴ/デジタル化プロジェクトについての話を聞くことができました。
スウェーデン系フィンランド人文学協会
最初のテーマは、イェンス・グランデル(Jens Grandell)氏による「The Society of Swedish Literature in Finland: Past, Present, and Digital Horizons」。イェンスさんは、ヘルシンキ大学で歴史学の博士号を取得し、20年以上にわたりデジタル出版の分野で活躍されてきました。フィンランドとスウェーデンの文化遺産の中核をなす資料に関わりながら、技術的な進化をつづける分野の一端を担えることはとても名誉なことです、とイェンスさん。

そもそもなぜ「スウェーデン系フィンランド人の日」という記念日があるだろうと考えたとき、歴史的な背景といくつかの理由が思い浮かびます。フィンランドは、12世紀から1809年までスウェーデン王国に統治されており、20世紀はじめまでスウェーデン語が行政の主要言語として使用されていました。さらにスウェーデン系の著名な作家、芸術家、建築家、デザイナーなどフィンランド文化を支える多くの才能が輩出されています。また社会規模の小さな国であるフィンランドでは、より多様性を重んじる必要性があったのではないでしょうか。
その後ロシアの支配下におかれたフィンランドでは、19世紀後半フィンランド語とその文化を推進するフェノマン運動が台頭していきます。そのため少数派であるスウェーデン語話者は文化的にも政治的にも困難な状況に直面することとなりました。そこでスウェーデン系フィンランド人の文化遺産を守るため、国民的詩人ヨハン・ルドヴィグ・ルーネベリを記念して、1885年SLSが設立されました。SLSでは、知識・クオリティ・革新性・多様性を原則に、研究・出版・アーカイブ・資産管理といった活動を通じて、スウェーデン系フィンランド人文化を新しい世代へと橋渡しする使命を担っています。
スウェーデン系フィンランド人文学には、国民的ロマンティシズムのルーネベリから、モダニズム詩人のエディス・セーデルグラン、想像力あふれるトーヴェ・ヤンソンといった豊かな伝統があります。そして、スタイルの実験やアイデンティティ・帰属意識といったテーマを探究してきた、ボ・カルペラン、モニカ・ファーゲルホルムら21世紀の作家たちの活躍は、スウェーデン系フィンランド人文学がたんなる過去の遺産ではなく、現代にも生き続けていることを証明しています、とイェンスさん。

またSLSは人文・社会科学の分野で長年にわたり学術書シリーズを刊行し、フィンランドにおけるスウェーデン語文化研究の主要な発表の場となっています。デジタル出版/デジタルコレクションにも積極的で、大きな節目となったのは19世紀のフィンランドを代表する作家の包括的コレクション「ザクリス・トペリウス全集」の公開です。トペリウスの作品をデジタル化し、世界中の読者に提供していることの本質的な意味は、彼の文学や思想が北欧の国の理念や理想をどのように形作ってきたのかという文脈を理解することにあるそうです。
文学だけでなく、書簡、文化資料、民俗学、方言、地名、歴史的レシピに関する資料などもアーカイブされ、それらのデータベースはオンラインで無料公開されています。そこには学術的コメントや検索機能、デジタル画像などもあり、研究者および一般読者にとっても有用なリソースになっています。このデジタル化プロジェクトは過去の声と私たちを結びつけ、「文化とは世代を超えて交わされる生きた会話である」ことを思い出させてくれますというイェンスさんの言葉が印象に残りました。
トーヴェ・ヤンソン・プロジェクト
そしてクリスタ・ルンドストロム(Christa Lundström)氏に交代して、ふたつめのテーマ「Tove Jannson and The Moomins」へ。クリスタさんはスウェーデン系フィンランド人文学や児童文学を専門とする文学研究者で、SLSではトーヴェ・ヤンソン・プロジェクトの編集者として活動されています。まず、ムーミンの生みの親としてのトーヴェ・ヤンソンの仕事に焦点をあて、ムーミンがどのように生まれ、どのように大きな現象となっていったのかを紹介してくれました。

今回のトークイベントでいちばん聞いてみたかったのは、スウェーデン系フィンランド人であることがトーヴェ自身や作品としてのムーミンにどんな影響を与えていたのかということでした。長編7作と短編集1作、絵本3冊、そして写真絵本1冊があるムーミンシリーズ。トーヴェ・ヤンソン特有の文体とイラストレーション、個性的なキャラクター、ユーモアと深い洞察の組み合わせによって、子どもにも大人にも訴えかける作品になっています。
シリーズ1作目は、1954年に出版された『小さなトロールと大きな洪水』(ちょうど今年80周年)。この作品にはのちの作品といくつか異なる特徴があります。まず、他の小説よりもずっと短い。そしてムーミンたちの姿が丸くも柔らかそうでもない。書きはじめた当初、物語がどう展開していくのか決めておらず、また、これほど愛される存在になるとはトーヴェ自身も想像していなかったのではないかと、クリスタさん。
たった1件の書評しか得られず、人気を得ることができなかった『小さなトロールと大きな洪水』をトーヴェは恥じ、新装版がつくられる際にもこの作品だけはOKしなかったといいます。結局スウェーデン語の新装版が刊行されるまで、46年が経過していました(※やはり冨原真弓さんの存在があったからこそ、この新装版が実現したのではないかと考えています)。そして1948年の3作目『たのしいムーミン一家』でようやくトーヴェは国際的な成功をおさめました。

独自の文体を確立するようになったトーヴェは、しばらくして初期ムーミン作品の改訂にも着手しました。偶発的な要素やぎこちないセリフを取り除き、ときにはプロットの一部も書き直しました。2作目の『ムーミン谷の彗星』のスウェーデン語版には3つの版があります。1946年初版『Kometjatken|彗星追跡』、1956年第2版『Mumintrollet på kometjakt|彗星を追うムーミントロール』、1968年第3版『Kometen kommer|彗星がやってくる』)。
英語版『Comet in Moominland』は1951年に、フィンランド語版『Muumipeikko ja pyrstötähti|ムーミントロールと彗星』は1955年に刊行されています。スウェーデン版は最新版のみが再刊され、初版は非常に希少であるとのこと。英語版は初版を元に翻訳されています。このことは世界中のムーミンファンが必ずしも同じ版を読んでいるとは限らないということを意味します。

ここから話題はトーヴェ・ヤンソン・プロジェクトへ。SLSでは現在、著作権者とオーボアカデミー大学図書館との共同プロジェクトとして、トーヴェの手書き原稿のデジタル版を制作中です。クリスタさんがスライドでデジタルプラットフォームのプロトタイプを見せてくれました。そこでは世界中の研究者が実際の原稿ページを見ることができ、トーヴェの筆致がどのように改稿されているかもわかります。このデジタル版は2026年夏に公開され、まずいくつかのムーミン作品、その後数年にわたって順次資料が追加されていくそうです。
トーヴェは生前自らの資料をオーボアカデミー大学図書館へ寄贈しました。自身の原稿が研究者や読者の関心をひくことを十分理解していたためです。クリスタさんらがトーヴェのテキストをスキャンするとき、そこには驚きや興味深い発見に満ちているといいます。アーカイブ資料には読者を想定した小さなメモが見つかることもあるそうです。また原稿にイラストが描かれることは稀だったと聞いて、おもしろく感じました。トーヴェの中では作家としての人格とイラストレーターとしての人格が別々に存在していたのかもしれません。
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予定していたわけではなかったのですが、翌日7日に横浜の象の鼻テラスで行われたトークイベントにも訪れることができました。そのため、かなりくわしいレポートになったのではないかとおもいます。しかしスウェーデン系フィンランド人であることがトーヴェにどんな影響を与えたのかということははっきりとはわかりませんでした。マイノリティからの視点、トーヴェ特有の文体、両親から受け継いだスウェーデン系ならではのクリエイティヴィティ‥‥。
横浜からの帰り道、トーヴェの手書き原稿のスライドを思い出しながら、もしもスウェーデン語が読めたなら、どんなにたのしいだろうと想像していました。資料を読みこんでいけば、さまざまなトーヴェに関する疑問がとけるかもしれません。来年の公開までになんとかスウェーデン語を、笑。
参考:www.sls.fi
text + photo : harada
Jens Lekman – The Cold Swedish Winter


