サーリネンの「フィンランド時代」を一望する注目の展覧会 北欧好きの目線から徹底ガイド
東京のパナソニック汐留美術館で、いまフィンランドの建築家エリエル・サーリネン(1873-1950)の足跡をたどる展覧会「 サーリネンとフィンランドの美しい建築 」が開催中です。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、建築デザインの世界からフィンランド独立の気運を高め、その後のモダニズムへの礎を築いたサーリネン。その一方で、豊かな自然に囲まれての友人たちとの共同生活や家族との幸せな暮らしは、手仕事のぬくもりを感じさせる家具やテキスタイルなど親密でリラックスした作品も多数生み出しました。
新天地を求めアメリカへと渡る以前のサーリネンは、エネルギッシュで多忙な日々を過ごしながらも、自然の中で家族や友人たちと過ごす時間を大切にし、創作への源としていたように感じます。ここでは、そんなサーリネンの「フィンランド時代」に光をあてたこの展覧会を、3つのトピックから北欧、とりわけフィンランドが好き、興味があるというみなさんに向けて徹底ガイドします。
目次
+ 1900年パリ万国博覧会 「フィンランド館」の衝撃
+ 住宅から都市計画まで プロジェクトでたどるサーリネンの「フィンランド時代」
+ ヴィトレスク 芸術家コロニーの幸せな暮らし
1900年パリ万国博覧会 「フィンランド館」の衝撃
24歳のエリエル・サーリネンは、1900年パリ万国博覧会のための設計競技にGLS(ゲセリウス・サーリネン・リンドグレン)建築設計事務所として参加、そのパヴィリオン案で見事一等に選ばれます。GLS建築設計事務所は、彼がヘルシンキ工科大学在学中に出会ったゲセリウス、リンドグレンとともに1896年に設立したもので、3人による協働はリンドグレンが去る1905年まで続きました。
パリ万国博覧会の会場にお目見えした「フィンランド館」によって、サーリネンらは一躍世界からの脚光を集めることになります。長方形の空間と細長い塔からなるその建物は、当時流行したアール・ヌーヴォーの影響をうかがわせながらも、彫刻家エーミル・ウィークストロムによるクマの彫刻をはじめ山猫や大鹿などフィンランドの自然や神話を連想させるモチーフによって飾られた民族独自の文化的ルーツを力強く表現したものでした。
なかでも話題を集めたのは、パヴィリオンの一角を占める「イーリスの間」と呼ばれる部屋。そこには、フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』の装画で知られるアクセリ・ガレン=カレラの作品、たとえば「雷鳥」をモチーフにしたタピスリーや椅子、あるいはアルフレッド・ウィリアム・フィンチの陶磁器などフィンランドのさまざまな工芸品が展示され、訪れる人びとの目を楽しませました。
とりわけ、ガレン=カレラがデザインし「リエッキ(炎)」と名づけられた横2.5メートル縦1.75メートルにもおよぶ伝統織物ルイユ(リュイユ)のラグは圧巻です(今回の展示では、フィンランド手工芸協会によって再製作されたものを間近に観ることができます)。また、文献・資料調査をもとに新たに制作された「フィンランド館」の1/100スケールの模型も見逃せません。
フィンランドの民族性や文化的価値を独自の様式美にまで昇華したこのパヴィリオンの成功により、サーリネンらは以後「ナショナル・ロマンティシズム」の旗手と称されるようになります。ウィークストロムの彫刻作品であるクマの姿と再会できる「フィンランド国立博物館」(1910年)は、この時代を代表する作品のひとつ。また、『カレワラ』に由来する装飾をふんだんに用いた「ポホヨラ保険会社ビルディング」(1901年)は、フィンランドの民族的な誇りを表現した傑作としていまなお高い評価を得ています。
パリ万博での「フィンランド館」の成功は、帝政ロシアの圧政に苦しんできたフィンランドの人びとに自分たちにも世界に誇るべき固有の文化があることを知らしめ、愛国心を高めるのに重要な役割を果たしました。そしてそれがきっかけとなり、シベリウスの音楽やガレン=カレラの絵画とともに、サーリネンらの建築デザインはフィンランド独立運動への機運を高めてゆくことにつながるのです。
住宅から都市計画まで プロジェクトでたどるサーリネンの「フィンランド時代」
この「サーリネンとフィンランドの美しい建築」展は、友人ゲセリウス、リンドグレンとのGLS建築設計事務所時代から、協働に終止符を打ち、ロシア革命勃発にともなうフィンランド独立を経て、家族とともに渡米する1923年までの約30年弱にわたる建築家エリエル・サーリネンの「フィンランド時代」をおもに俯瞰する内容となっています。
ナショナル・ロマンティシズムによって一躍名を成したサーリネンたちでしたが、同時に、新しい自分たちならではの様式の追求にも余念がありませんでした。カレリア地方西部のヴィープリ(現ロシア共和国)につくられた「スール=メリヨキ荘」(1904年)やキルッコヌンミの森に建った「ヴィットゥールプ荘」(1904年)は、住宅建築でありながら従来のような木造のログハウスではなく、花崗岩と漆喰仕上げの壁を組み合わせたモダンなスタイルを採用することで軽やかな印象をあたえ、異彩を放っています。
ヘルシンキの中心部、アール・ヌーヴォーからの影響を受けた「ユーゲント様式」の建物が多く建ち並ぶカタヤノッカ地区には、丸い塔をもつロマンティックな「ウーロフスボリ集合住宅・商業ビルディング」(1902年)、そして煉瓦と花崗岩、漆喰の壁を組み合わせ重厚で堅固な印象をあたえる「エオル集合住宅・商業ビルディング」(1903年)などサーリネンらが手がけた美しい建築を見つけることができます。
階段の意匠や壁面装飾にもこだわり抜いた彼らは、家具や調度品といった内装をみずからデザインするのを常としていましたが、必要に応じてエーリック・O・W・エールストロム、ヴァイノ・ブロムステット、サーリネンの妻ロヤなど身の回りの優れたデザイナーや画家の協力を仰ぐこともありました。
また、この展覧会ではサーリネンが設計にともなって残した図面も出展されていますが、こちらもぜひ注目したいところ。サーリネンの描く水彩による透視図はそれじたい大変に美しい作品です。実際、これらのスケッチはGLS建築設計事務所の知名度の向上や新規顧客の獲得にも役立ったといわれています。
友人らとのパートナーシップ解消以後、サーリネンは国家の「顔」ともいえる公共建築など大規模プロジェクトに精力的に取り組むようになります。なかでも1914年に竣工した「ヘルシンキ中央駅」は、フィンランドを旅したことのある人なら一度は訪れているはずの場所。弓なりのヴォールト天井が印象的なエントランスホールは鉄筋コンクリートでつくられたフィンランドで最初の公共建築物です。
玄関の両脇にさながら門番のように立つ4体の巨大な石像は、「フィンランド館」のクマの彫像とおなじウィークストロムの手による「ランタンを持つ人」。いかめしいルックスですが、ロックバンド「KISS」のライブ公演にあわせて派手なメイクを施されたり、昨今ではマスク姿になったりとすっかり街の人気者です。1906年には、初の普通選挙が行われたのをきっかけにサーリネンは「フィンランド国会議事堂」の新築を提案しますが、そちらはあまりにも豪華すぎるとの理由からロシア皇帝の許可が下りず実現しませんでした。
さらに、サーリネンの活躍の場はヘルシンキ市全体の都市計画という、より壮大なプロジェクトへと拡がっていきます。特に、ヘルシンキ市の人口増加と過密化に対応すべく策定された「ムンキニエミ=ハーガ住宅開発計画と大ヘルシンキ計画」(1915年)は、郊外につくられる複数の衛星都市に加えトーロ湾(の干拓を伴う新たな商業地の開発というきわめて規模の大きいものでした。オスマンのパリ大改造を参照したともいわれるこの「大ヘルシンキ計画」は、そのあまりの規模の大きさゆえ各方面から物議を醸すことになり、結果的にヘルシンキ北西部に位置するムンキニエミ=ハーガの住宅建築や周辺道路を除いて実現することはありませんでした。もし実現していたら、わたしたちの知っているヘルシンキとは随分とちがったものになっていたことでしょう。
ユニークなところでは、1909年に発行されたマルッカ紙幣のデザインをサーリネンは手がけました。これは、フィンランド語がメインで使用されることになった初めての紙幣です。さらには、独立後共和国となったフィンランドの初めての紙幣も手掛けるなど、まさに独立国家としての下地づくりに奔走したのが「フィンランド時代」のサーリネンでした。
ヴィトレスク 芸術家コロニーの幸せな暮らし
フィンランド時代のサーリネンを語る上で避けて通ることができないのは、ウィリアム・モリスらが提唱したイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動からの影響です。それは、豊かな自然に囲まれた「ヴィトレスク」での共同制作という理想の芸術家コミュニティの創造として実現されます。
1903年、サーリネン、ゲセリウス、そしてリンドグレンの3人は、みずからの活動の拠点としてヘルシンキ近郊のキルッコヌンミの美しい湖畔にそれぞれの住戸と共同の仕事場を備えた木造3階建ての「ヴィトレスク」を建造します。
生活の場、仕事場であると同時に、ヘルシンキからも遠すぎず、美しい景観に囲まれた「ヴィトレスク」は芸術家たちの親密な交流の場としても格好の舞台でした。作曲家ジャン・シベリウスをはじめ、「ヴィトレスク」には毎日のように多彩な客人が訪れたといわれています。
また、「ヴィトレスク」ではくつろいだ雰囲気の中、さまざまな手仕事も楽しまれていました。椅子をはじめとする「ヴィトレスク」の家具や調度品の類、テーブルウェアや燭台などはその大半が彼ら自身によるデザインですが、必要に応じて優れた手工芸の職人との協働もなされています。今回の展示では、そうした協働から生まれた美しい家具やテキスタイルなどにも出会うことができます。
特に、ゲセリウスの妹でサーリネンの伴侶となるロヤは、パリで彫刻を学んだ芸術家としての素養を生かしシャンデリアのデザインや季節ごとに表情を変える美しい中庭づくり、さらにはテキスタイルのデザインなど存分に腕を振るいました。渡米後のロヤは、夫が校長を務めるクランブルック美術アカデミーのテキスタイル学科で後進の指導にあたります。その仕事は、アメリカにスカンジナビアン・デザインを伝える重要な役割を果たしといいます。
芸術家たちによる「ヴィトレスク」でのクリエイティブな日々は、1905年にリンドグレンが、続いて1907年にゲセリウスが去ったことにより終止符が打たれます。ヴィトレスクでの共同生活は長くは続かなかったのです。しかし、サーリネンと妻のロヤ、そしてふたりの子どもたちとの「ヴィトレスク」での暮らしは、アメリカに一家で移住する1923年まで続きました。
移住後も、サーリネンは亡くなる前年まで夏の別荘として毎年のようにそこに帰ってきていたといいます。サーリネンにとって、ここ「ヴィトレスク」での日々がいかに大切な思い出であったかをうかがい知れるエピソードです。なお、「ヴィトレスク」の一部は現在博物館として広く公開されています。
ほかにも、会場には新天地アメリカでの活動にまつわる資料や、のちに建築デザイナーとしてニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港のTWAターミナルなどミッドセンチュリー・モダンの傑作を残すことになる息子エーロ・サーリネンのチューリップ・チェアやウーム・チェアなども併せて展示されています。来場の思い出に、エーロがデザインした「カンファレンスチェア」に腰掛けての記念撮影もお忘れなく。
20世紀初頭、多岐にわたる活動を通じて建築デザインの領域で独立前後の若々しいフィンランドと伴走したエリエル・サーリネン。その「フィンランド時代」に光をあてたこの「サーリネンとフィンランドの美しい建築展」は、観る者を勇気づけてくれるような力強く爽やかな魅力に溢れていました。次はフィンランドの街角で、時代を経てもなお色褪せることのないサーリネンの建築の魅力に触れてみたい、そう思わずにはいられません。
サーリネンとフィンランドの美しい建築 展
会期 :2021年7月3日(土)~9月20日(月)
会場 :パナソニック汐留美術館
住所 :東京都港区東新橋1-5-1
パナソニック東京汐留ビル4階
電話 :050-5541-8600(NTTハローダイヤル)
開館時間:10時~18時
8月6日(金)、9月3日(金)は20時まで)
入館はいずれも閉館の30分前まで
最新情報は公式ウェブサイトにて要確認
休館日 :水曜日、8月10日~13日
料金 :一般 800円/65歳以上 700円/大学生 600円
中・高校生 400円/小学生以下無料
ウェブサイトからの日時指定予約を推奨
公式HP https://panasonic.co.jp/ls/museum/
公式FB https://www.facebook.com/shiodome.museum
公式Twitter https://twitter.com/shiodome_museum
cover photo:ポホヨラ保険会社ビルディングの中央らせん階段 © Museum of Finnish Architecture/Karina Kurz,2008
text:iwama