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テレビ
2019.2.16|facebook

テレビは相変わらず壊れている。

完全に壊れているのなら、それはそれでかまわない。元々そんなにテレビを観る方でもないからだ。だが、問題はそれが中途半端に壊れていることにある。すごく中途半端なのだ。BSしか映らない。あざやかな職人仕事に見惚れていると、その職人がここ最近どうも膝が痛むなどとおもむろに言い出しそれが健康食品のCMだったことに気づく、例のBSである。

それに、じつはこんなことは知らなかったのだが、BSではあまり日本のニュースをやらない。朝、なんとなくその日のニュースを知ろうと思いテレビをつけると、カタルーニャ問題で紛糾するスペインの国会や、いかにも「モンティ・パイソン」の餌食になりそうなメイ首相の顔が映し出されるといった具合。また、服選びの参考にと天気予報を見れば、ウランバートルの最低気温はマイナス20度だという。ああそうですかとしか反応しようがないではないか。

ちなみにけさは、ローマの地下鉄のニュースを観た。ローマの地下鉄工事現場では、掘れば掘るほど遺跡がみつかり、また場合によっては振動でコロッセウムに被害が及ぶ心配もあって着工から12年(!)経ついまも完成のメドが立っていないのだそうだ。

まあ、ひとこと言わせてもらうとすれば、なんでそもそも掘ろうと思ったかな。。

写真家にとって不可欠な才能
2019.2.19|facebook

とりたてて、写真家になろうと思ったわけではない。が、時々こんなふうにかんがえることがある。

写真家にとって不可欠な才能とは、撮りたいと思った瞬間にシャッターを切ることのできる〝心臓〟ではないか、と。

というのも、いまこの瞬間を写真として残しておきたいと思っても、ぼくの場合、被写体や周囲の目などがつい気になってしまい撮るに撮れないといったことがよく起こるからである。結果、カメラロールにはごくありきたりの風景やら料理やら、無難な写真ばかりが並ぶことになる。

たとえば、きょうもこんなことがあった。駅前のロータリーを通りがかったときの話だ。スーツ姿のふたりの中年男が、なにやら巨大な物体をワンボックスカーから苦心して引っ張りだしている。やっとこさ担架のような板の上に乗せられたそれは、見れば巨大なカニのオブジェであった。といっても、ふたりで運べるくらいだから、ざっと見積もって「かに道楽」の壁に張り付いているカニの4分の1ほどであろうか。それでもなかなかの大きさだし、なんといっても昼下がりの駅前のロータリーに似つかわしいものではない。

撮りたい! 強く思った。だが、カニを運びだそうとしている男たちの冷たく強張った表情からひしひしと感じられるのは、写真どころか、絶対見るんじゃねーぞという激しい拒絶反応のオーラである。いや、その男たちの表情からすれ、むしろ棺桶でも運んでいるほうが自然なくらいだ。しかし、であればあるほど、かえってその無表情とカニの珍妙な組み合わせがシュールで、絵心を誘われるのだ。ああ、最高に趣きのある写真ができあがりそうなのに……。ぼくは、無念に唇を噛みしめながら通り過ぎる。

こうして、きょうもカルティエ=ブレッソンになりそこねた。

奇想の系譜
2019.2.26|facebook

だいぶ疲れがたまっているのか、からだが重い。

なったことがあるわけではないのでよくわからないが、きっと水をたっぷり吸い込んだ雑巾はいつもこんな気分なのだろう。明日からは、ちょっとだけ雑巾にやさしくなれるかもしれない。

とりあえず、むりやり起き上がって、頂き物のお菓子で血糖値を上げてから上野の東京都美術館へ。『奇想の系譜』展。

長沢芦雪の「白象黒牛図屏風」。そこじゃない、のはわかっているが、

ワンコがちっちゃいのか、
はたまた牛がでっかいのか、

しばし絵の前で首をかしげる。どっちなんだ。

でも、これがもしふつうの縮尺で描かれていたとして、はたしてこの作品はそんなに人気になったであろうか。つまり、このワンコの愛らしさの秘密はまさにこの無茶苦茶な縮尺にこそあるのであって、その意味でこれぞ「正解」なのである。こういうのを、ひとは「センス」と呼ぶのだろう。

そして、伊藤若冲「海堂目白図」。メジロのおしくらまんじゅう超カワイイ!!!(画像は「部分」) 

ほかにもいろいろと観たはずだが、意識が低いというか眠くて眠くて意識が水面下すぎてこんなことしか覚えていないのだった。なんかもったいないことしたなあ。

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