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すべてのカフェは「おじさん」である
2018.3.6|cafe

店をはじめてかれこれ16年になる。16年にもなるのに、いまだにすっきり答えることのできない質問がある。

── カフェとはなにか?

あるアメリカの社会学者は、それを「サード・プレイス」、つまり家庭でも職場でもない第3の「居場所」と言った。なるほど。ただ、それはかならずしもカフェにかぎった話ではなく、ひとによっては公園であったりバーであったり、あるいは映画館であったりもするだろう。

日常からの避難所(シェルター)、逃避所(アジール)といった言われ方もする。だいたいにおいて同意だが、これらの単語はあまりにも「せっぱつまった感じ」が前面に出すぎてはいないか。

それが、つい先日のことだったが、一冊の本を読んでいてこれだ! という表現に出くわしたのである。俳優にして映画監督、美食家にしてエッセイスト、伊丹十三の「ぼくのおじさん」という文章がそれだ(伊丹十三 単行本未収録エッセイ集『ぼくの伯父さん』つるとはな所収)。

伊丹は、近くて遠い、遠くて近い、そんな「おじさん」という存在の絶妙な立ち位置に目をつける。

ひとりの少年がいるとする。あたりまえすぎてふだんは気づかずに過ごしているが、ときどき親の押しつけてくる価値観や物の考え方にどうにも息苦しいような、うっとうしいような、そんな気分に見舞われる。「おじさん」はそんなところに、ある日ふらっとやってきて、たとえば、親だったら「男なら泣くな」と言うところを「人間誰だって悲しい時には泣くんだ。かなしけりゃ泣いてもいいんだよ」みたいな、親のディスクールと違ったディスクールで「親の価値観に風穴をあけてくれ」たり、あるいは「カーブの投げ方を教えてくれたり、コーヒーなんか飲ましてくれたりもする」。ふだんからべったりくっついているわけではないけれど、いつも心のどこか片隅にその存在はあって、いざというときには黙って肩を抱き寄せてくれる。そんな、その人がいてくれるというだけで、なんとなくホッとし、またなんか気が楽になるような「なんだか嬉しい存在」、それが「おじさん」である。

また、「おじさんは遊び人で、やや無責任な感じだけど、本を沢山読んでいて、若い僕の心をわかろうとしてくれ、僕と親が喧嘩したら必ず僕の側に立ってくれるだろうような、そういう存在」であり、「おじさんと話したあとは、なんだか世界が違ったふうに見えるようになっちゃった」りもするという。いやいや、なんというか、これはもう完全に日々の「カフェ」の立ち位置じゃないか。「おじさん」同様、「カフェ」もつねにみっちりくっついているような関係ではないけれど、寂しいときに会いにいけば甘やかしてくれ、うれしいことがあれば思わず報告にいく、そんな絶妙な距離感できょうもこの世界のどこか片隅にひっそり存在している。そして、ある日不意にこの世からいなくなってしまったら、なんでもっと会いにいかなかったのだろうと猛烈に後悔するのである。

世界の真ん中に家族のディスクールや仕事のディスクールがあるならば、そうしたディスクールとはまったくべつの場所にべつの種類の、むしろそうした「しがらみ」をペロッと剥がしてしまうような、いってみれば「関節はずし」のような「カフェのディスクール」だってあっていい。そしてじっさい、そういう仕方で「カフェ」は、ある。

カフェとはなにか? と問われたら、だからこんどからはこう答えよう。すべてのカフェは「おじさん」である、と。

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