その名の通り、ヘルシンキの街で採集されたタイポグラフィーの数々を陳列したブログ。写真家のイルッカ・カルッカイネンがライカで撮影した写真はどれもうつくしく、ヘルシンキを散策しているような高揚した気分になることができる。
フィンランドにコスケンコルヴァというウォッカがある。
左が先日お客様からいただいたラクリッツ味、右がスタッフからもらったサルミアッキ味。ラクリッツというのは甘草(カンゾウ)というハーブのエキスからつくるドロップあるいはグミのお菓子で、それに塩化アンモニウム(!)を加えたものがサルミアッキと呼ばれる。どちらもフィンランドでは人気があり、子供からお年寄りまでむしゃむしゃ食べるが、日本人の場合、少なく見積もって3人に1人は悶死する。
それはともかく、お酒とサルミアッキという、世界でいちばん好きなものふたつを一緒に混ぜちゃったら最高にハッピーじゃね!?というフィンランド人の思考回路の単純明快さがなにより愛おしい。
つい最近になって知ったことのひとつに、ソメイヨシノはバラ科というのがある。
お前いつからバラだったの? ちょっぴり裏切られた気分で、桜の樹の前で立ち止まり思わずつぶやいた。思えば、トマトだってあんな顔してて実はナス科だったりする。もしも14歳だったら、世界の何もかもが信用できなくなって不良に走るレベルだ。歯医者のつもりでドアを開けたら産婦人科でした、それくらいの「みかけによらない」である。人間だと思ったらイヌ科とか、カタツムリだと思ってたのになんだよ意外にヒト科なの?とか、そんなことがあったらどうするんだ!!
いや、案外それはそれで楽しいね。
恩地孝四郎の「円波」。中国で出会った、池の桟橋で洗濯をする少女の姿を木版画にしている。戦後は丸や四角を思いきって配したような抽象的な作風に変化してゆくが、これが制作された昭和14(1939)年はちょうどその過渡期にあたる。
乱暴に、画面下から上へと屈折しながら延びた直線の先にはヴィヴィッドな青と黒、幾重にも重なった白い楕円…… すでに片足と言わず、抽象の沼にズブズブはまり込んでいるようにぼくには映るのだけど、みなさんにはどうだろう。じつはこの作品には元になったスナップ写真が残されていて、それを見るかぎりかなり忠実に再現されているのだが、平凡な風景も彼の目にはこんなふうに抽象化されて見えていたのかと思うととてもふしぎに面白い。
コスプレというものがあるが、その要領で、詩人になりきって詩を書いてみた。シュークリームを買った俺はえらいという詩である。
──
家は買えないが、おれはシユウクリームを買う。
家は味気ないが、シユウクリームはうまい。
シユウクリームは冷やすとさらにうまくなるが、冷やした家はただ薄ら寒いだけだ。風邪を引くゾ。
家は焼けて灰になつてしまつたりするが、こんがりキツネ色に焼けたシユウクリームはますますいい感じだ。
シユウクリームは雲のやうにふんわりしてゐるが、家は硬い。そのくせ「堅牢」だとか云つて威張りくさつてゐる。権威主義だ!
だいいち、ここが肝心なところだ、家は買えても家庭は買えないが、シユウクリイムをひとくち齧つてみろ。ほうら、しあわせな気持ちがするだらう。
勝負あり!女神の祝福はシユウクリームの頭上に!
家は買えないが、きのうオレはシユウクリームを買つたのだ。断然おれは偉い。
荒れ模様の朝。窓から眺めると、みどり色のグローブのように枝の先に葉をつけた木々がわっさわさと揺れていて、まるクネクネと踊っているようにみえる ──ああ、あれだ、「シリー・シンフォニー」というディズニーの初期のアニメーションで見たのと同じだ── そう思って『Trees And Flowers』(1929)をひさしぶりに見た。
花やキノコがラジオ体操をするシーンがあるのだけれど、アメリカにラジオ体操なんてあるはずないよね、と思ったら、ラジオ体操のルーツってじつはアメリカらしい。1922年にボストンのラジオ局でスタート、日本のラジオ体操の原型となったのは1925年にはじまった《Setting Up Exercise》という番組なのだとか。みんなが号令に合わせて一斉にからだを動かすなんていかにも日本人好みな気がしていただけに、ちょっと意外な気がしている。
小学生のまだ低学年くらいだった頃、親に連れられて入ったソバ屋でテレビを観ていたとき、いまアメリカで話題のバンドみたいな内容でロックバンドの「キッス」が紹介されていて、その白塗りメイクのおどろおどろしさに衝撃をうけソバを口から半分出したまましばし固まってしまったことがある。
と思ったら、なんと来月予定されているキッスのライブに合わせてヘルシンキ中央駅に立つ4体の石像に白塗りメイクを施してしまおうというプロジェクトが進行中らしい。きのう、フィンランド在住のえつろさんから教えてもらった。ヘルシンキ駅は1919年竣工の歴史的建造物。いいのか? 本当にいいのか? 学芸員は止めなかったのか? でも、完成したらちょっと見たいな。
フランス・ギャルに「ジャズる心」というタイトルの曲があることは、わりかし多くのひとが知っていそうだ。〈ドキドキする〉とか〈ワクワクする〉、あるいは〈ザワザワする〉とか、きっとそんなニュアンスだろう。原題は「Le Cœur Qui Jazze」。「Jazzer」という動詞が使われているので、なるほど「ジャズる」というのは素直な訳なのだなとわかる。英語にも当然「ジャズる」に対応する動詞はあるはずだ。
日本では、浅草「電気館レビュー」昭和4(1929)年の演目に「サロメはジャズる」という作品をみつけることができる。内容は、あの『サロメ』を大胆に翻案したオスカー・ワイルドもびっくりのドタバタ喜劇であったらしい。観てみたい。いずれにせよ、1920年代にジャズが流行るとともに「ジャズる」といった表現も世界中で同時多発的に、パンデミックと言っていいような勢いで蔓延していったと考えてよさそうだ。
それに対して「ロック」はどうだろう。クイーンの有名な「We Will Rock You」の「Rock」の部分は、「オマエのハートを打ち震わせるぜ」みたいに訳されているのを見たことがあるが「ジャズる」みたいな意味なのだろうか?
日本語では、だが、「ロックする」というような使い方はあまり見かけない。なんとなく語呂が悪く落ち着かないし、だいたい「ロックする」では「え、なに? 鍵かけんの?」と勘違いされそうだ。
そこで思い出されるのは、なにかにつけて「ロックンロール!」と口にする内田裕也である。ただ名詞を連呼しているだけにもかかわらず、彼の口から発せられると「叛逆」とか「反骨」といったニュアンスが伝わってくるような気になってしまうのがなんとも不思議だが、じつのところなんの内容も伴われていない。ことあるごとに「グルコサミン!」と叫ぶのとあまり変わらない。すべては内田裕也の《オーラ》のなせるわざであって、「ジャズる」といった用法とはまったく無関係だ。
ふと思い立って、ぼくの大好きなYahoo!知恵袋をのぞいてみたらやっぱりありましたよ、「内田裕也さんがよく言う『ロックンロール』とはどういう意味ですか?」というトピックが。ちゃんと回答もついていてそこにはこう書かれていた。「柳沢慎吾さんの『あばよ』みたいな例えだと思います。」 本当かよ。
カワイイ(『cawaii』)というタイトルのティーン向けのファッション誌、昔なかったっけ?
それはそうと、先日来店したたぶん4歳くらいの女の子が、店に置いてあるノルウェーの絵本『キュッパのおんがくかい』を眺めながらしきりに「見た目はカワイイけど、木に登ってドロボーみたいで怖い!」と言っていたのが気になって、後から確認してみた。それまでまったく気にも留めていなかったけれど、なるほど「ドロボーみたい」だ。うん、ドロボーだろこいつ。まったく、子どもの「目」がもたらすこういうひとことにはいつもながらハッとさせられる。通勤途中、網棚の上にうっかり置き忘れてきた「子どもの目」を思い出させてくれるからだろうか。
ところで、ツイッターでフォロワーさんからもリプライをいただいたけれど、じゃあ「見た目はカワイイ」のかといえばそれもなかなか際どい、インサイド高めギリギリみたいなところを突いている。でも、子どもにウケるものが大人の目からすると理解できないということはままあることだ。子どもの「目」は、成長する過程で一定の社会的規範(コード)によって束ねられてゆくのかな、そして「大人」というのはこうして「結束された子ども」を意味するのかな、などとふと思ったり。とすると、大人にしてなお子どもにウケる作品を生み出すことができるというのは、そういうコードによる束縛からするりと逃れることのできる天賦の才能の持ち主にのみ許された仕事なのだろう。
ペディグリーチャム殺人事件。朝、目がさめてぼんやりしていたら唐突にそんなコトバが思い浮かんだのだ。いきなり何が言いたいのだ? まったく、脳ってこわい。ぼくにとって、脳は真っ暗闇で、そのなかを無数のコトバが蠢いているイメージ。彼らは、指令がきて呼び出される時を待っている。なかには二度と出番のないまま消えてゆくものもあるかもしれないが、それでもただ待っている。ところが、ときに呼び出されてもいないのに自力で飛び出してこようという奴らもある。コトバの暴発。けさ、<ペディグリーチャム>と<殺人事件>とはこうやって申し合わせて飛び出してきたのである。言ってみれば、これはコトバの逃避行だ。もしかしたら、シュールレアリスムの<自動記述>とはこういうことなのかもしれない。どうなんだろう? 教えてブルトン先生。
だが、ほんとうの脳のこわさは、こうしたコトバたちの勝手気ままを脳はけっして許さず、すぐさま追いかけ、意識という「網」で捕獲しようとするところにある。というのも、ぼくはすぐさま「ネコまっしぐら カルカン殺人事件」という言葉を連想したからである。せっかく自由を求めて飛び出してきたのに、意識は「ネコまっしぐら カルカン殺人事件」というなんとも恐ろしい飛び道具をもって<ペディグリーチャム殺人事件>を引っ捕えることで、それをたんなるナンセンスな言葉遊びに変えてしまった。<詩>は意識に対する<抵抗>だが、「言葉遊び」は意識への<従属>である。意識はコトバを秩序づける。秩序づけられたコトバは「言葉」になる。
朝、目が覚めてからのほんの数十秒のあいだにこんな恐ろしい闘争のドラマが繰り広げられていたのかと思うと、ホント脳ってこわい。
体調がよくなかったので、予定を変更して『19世紀パリ時間旅行〜失われた街を求めて』と題された展覧会を練馬区立美術館でみる。
とはいえパリ、ことさら19世紀のパリについては不案内ゆえ、まずはフランス通のオーナーがやっている地元のカフェに立ち寄ってから行くことにする。その店へは高校のころ、ということはつまり大昔にときどき行っていたのだが、その後アンティークショップになり、また最近になってカフェが再開されたのを機にちょくちょく行くようになった。ちょっと話題をふると、かつてパリで<遊んでいた>頃の思い出をまじえつつ、カウンターにグラスを並べるように次から次へとさまざまなエピソードを取り出しては聞かせてくれるのがうれしい。サヴィニャックのコレクターとしても著名なオーナーは、羨ましいことにパリの、かつて「ゴブラン織り」で栄えたあたりにちいさなアパルトマンを所有しているという。
美術館でいまから120年くらい昔のパリの景観を描いた銅版画を観ていたら、オーギュスト・ルペールという作家のその名も「ゴブラン界隈」という作品をみつけた。3人の男女が工場らしき建物の屋上でなにやら作業している。背景には、細長い煙突が幾本か煙を吐いているのが見える。パリというよりは戦前の東京の下町、本所あたりの景色のようでもある。しかしなにより、話を聞いていったおかげでそれまで縁も所縁もなかったゴブランという街がちょっと親しみのある場所に感じられたのが愉快だった。ゴブランの絵がありましたよ --- こんどオーナーに教えてあげよう。--- オチはないです。
<出かけたいのに、ドアの外に住人がいる。>……
<見知らぬ人と、エレベーターで2人きり。>……
<ナマケモノだと思われたくなくて、具合が悪くても出社。>……
カロリーナ・コルホネンの『マッティは今日も憂鬱 フィンランド人の不思議』(方丈社)には、典型的なフィンランド人「マッティ」を日々憂鬱にさせるちょっとした出来事が並べられていて思わずニヤッとさせられる。
厳密に言うと、典型的なフィンランド人男性、しかもアルコールが入っていないときのフィンランド人男性あるある、という感じ。フィンランド人の男性と友だちになりたい人、ぜひ参考にして下さい。
あと、タイトルの「マッティ」の部分を「マサオ」に変えると、中身はそのまま日本人バージョンにもなりそう!?
まったく<刷り込み>というのは恐ろしい。
たとえばオーダーが立て込むなどして取っ散らかっているとき、脳内で自動的に再生される音楽がある。それは、昭和に育ったよい子なら誰でも知っているあの曲だ。そう、毎週土曜日の夜放送されていたドリフターズの番組『8時だョ‼︎ 全員集合』の前半、セットの「家」がバタバタ崩壊するお決まりの大団円で流れるあの古いチャンバラ映画のBGMみたいな曲。無性に駆け出したい気分のときにはオッフェンバックの『天国と地獄』が、道に倒れて誰かの名を呼び続けたいときには中島みゆきが流れ出すように、ドタバタ取っ散らかっているときにはあの『8時だョ‼︎ 全員集合』の音楽が流れ出す。
せっかくなので調べてみた。そうか、あの曲「盆回(ぼんまわ)り」という題なのか。ステージ転換のときに流す音楽だから「盆回り」。なるほど。
こうしてまた無駄な知識がひとつ増え、かわりに大事な事柄をひとつ忘れる。
新入社員のみなさん、ごきげんよう。そろそろ職場の雰囲気にも慣れてきた頃ではないでしょうか?
会社というところはふしぎな場所です。初対面の相手にむかって「いつもお世話になっております」などと大嘘をついたところで、「貴様!嘘を吐くなッ!」といきなり胸ぐらを掴まれるようなことは決してありません。安心して下さい。また、会社の中でしか使われない<符牒>のようなものもたくさんあります。
たとえば、もしも会社で「いっぴ」という言葉が耳に飛び込んできたとしても、早合点して「長くつ下」を想像しないで下さい。会社では、なぜか「1日」のことを「ついたち」とは呼ばず「いっぴ」というのです。と言うよりも、いまあなたが思い浮かべたのはそもそも「いっぴ」ではなく、「ピッピ」です。さア、落ち着いて、そう深呼吸、深呼吸。