思いのほか用事が早く片付いたので、隼町の国立演芸場まで足をのばしてみる。6月上席は現「落語協会会長」にして「日本歌手協会会員」、柳亭市馬師匠が主任。渋めながらも、ゆったり寄席の雰囲気を味わうにはなかなかいい顔付けである。ちょうど、開口一番の圭花さんが高座に上がったところで着席。いっしょうけんめい寄席に通いはじめた頃よくみかけた前座さんだが、噺を聴くのはひさしぶり。「一目上がり」。ずいぶん腕を上げたなぁ(上から目線でスミマセン)と思って調べたら、もう来春には二つ目昇進という香盤だった。
市楽さんの明るい高座につづいて、百栄ちゃん登場。きょうはなんとなく「寿司屋水滸伝」が聴きたい心持ちだったのだが、いつものマクラから入ったのは自作の「誘拐家族」。いっときはあんなに「寿司屋水滸伝」が続いたのに、聴きたいと思うとなぜか遭遇しない不思議。思春期の子供をもつ家庭ならどこにもありそうな状況設定、間の抜けた悪人、いつのまにか立場逆転…… いわゆる「新作」だが、目先のギャグに走ることなく〝落語らしさ〟をきっちり押さえている。現代が舞台でも、だからただの「お笑い」にはならない。やっぱりそこは「落語」なのだ。
自由自在にピアニカとリコーダーをあやつる「のだゆき」の音楽パフォーマンス、縁がなかったのだがようやく観れた。笑いで(お客様を)掴んで、芸で感心させる。のだゆきさんもそうだが、若手の色物さんはみな構成の巧みさで際立つ。
ふつうに演っても、そもそも「落語」はおもしろい。ぼくは、そう思う。でも、ちょっとした「間」やしぐさ、表情が加わるとき、さらに、ものすごくおもしろくなる。一九師匠の「桃太郎」に食い足りなさを感じてしまったのは、あるいはそのあたりに原因があるのかも…… そんなことを考えているうち、気づけばあっという間に仲入り前。いちど寄席で聴いてみたかった桂南喬師匠。
三代目金馬師匠の弟子もいまとなっては貴重……なのかな? もしかしたら当代と、あとは南喬師だけ? 落語を聴きはじめた当初、とにかくお世話になったのは志ん朝と先代金馬の音源だった。そんなことをふと思い出す。ネタは「鰻屋」。往来の真ん中で、ぼんやり西日に照らされて突っ立っている友だちをみつけた男が、「ご馳走してやる」と飲みに誘う。ところがこの友だち、せっかくの誘いにもかかわらず行きたくないという。聞けば、このあいだ、やはり別の友だちに誘われてひょいひょいついていったはいいが、ひどい目に遭ったらしい。そのエピソードを、「しょーもねぇーなぁ」とときに面白がりながら、ときにダメだししながら聞く男。しっかり者の兄貴分なのだ。お人好しでぼんやりした友人は、どうやらいたずら好きで小賢しいべつの友人にからかわれたらしい。南喬師の噺から、男3人ののんきな人間関係が浮かび上がる。「鰻屋」に行くと、主人が暖簾から顔をキョキョロのぞかせて職人の帰りを待っている。主人の様子がすでにウナギである。だいたい、ウナギに名前をつけて可愛がるとか、もはや「アンタ鰻屋に向かないよ」と忠告したいレベル……。〝士族の商法〟が身近だった時代ならいざ知らず、個人的には、いま聴いて面白いのは断然「素人鰻」より「鰻屋」かもしれない。
仲入りのとき、劇場の係から「鈴をお持ちのお客様は、かばんの中にしまって下さい」との声掛けがある。高座中、ずっとカラカラと鈴を鳴らしている客がいたので、実際のところはピンポイントの注意だったわけだが、とたんに会場のあちらこちらから鈴の音が鳴りだしたのには驚いた。まさか「熊除け」ということもないだろうし。「おばさんはなぜ声に出してメニューを読みたがるのか?」という日頃から抱いている身近な疑問リストにもうひとつ、「おばさんはなぜ持ち物に鈴をつけたがるのか?」というのも加えておこう。
さて、食いつきはダーク広和先生。出し物が日本の古い奇術だったからだろうか、いつもはスーツ姿なのにきょうは派手な袴姿で登場。ダーク先生の、こういう細かすぎてかえって伝わりにくい(?)こだわり、じつはけっこう好きだったりする。勝手に脚が飛び出す、DIY感覚あふれるテーブルとか。そういえば、ブログを拝見したところダーク先生はかなりのコーヒー通。しかも、生豆をハンドピックして自家焙煎したり、コーヒーの木を栽培したりと本格的だ。つくづく凝り性なのだ。泡坂妻夫の『11枚のとらんぷ』を読んだとき、まっさきに思い浮かんだのはダーク先生の姿だった。ヒザ前は、〝幻の噺家〟として有名(?)な小のぶ師匠。てっきり堀井憲一郎さんがつけた惹句かと思いきや、一時期、ご本人みずからそう名乗っていらっしゃったらしい(『青い空、白い雲、しゅーっという落語』)。最近ではすっかり寄席の出番も増え、それどころかトリを勤めるほどの活躍ぶり。さほど〝幻〟でもなくなったが、それはきっとよいことなのだろう。ありがちな粗忽者の小咄ではなく、「行き倒れ」についての詳しい解説からの「粗忽長屋」。小のぶ師匠の高座は2度目だが、大きなしぐさ、間、スピード、なんともいえない独特の〝おかしみ〟が特徴的。昭和こいる・あした順子先生のユルい笑いの後は、いよいよトリを勤める市馬師匠の登場である。
〝さんぼう〟(どろぼう、つんぼう、けちんぼう)のマクラから「片棒」に入る。ケチで有名なある商家の大旦那、食うものも食わずお金を貯め込んだはいいが、そろそろ息子に身代を譲ろうと思い立つ。しかし、譲るにあたってはできるだけ自分と金銭感覚が近いほうがいい。そこで、3人いる倅を呼びつけ、もし自分が死んだらどんなお弔いを出すか? と尋ねてそれぞれの金銭感覚をはかろうと試みるのだが……。派手好きの長男に祭好きの次男、「だめだこりゃ」とは言わないが、ドリフターズでおなじみ「もしものコーナー」である。あきれかえる父親の前に、最後に現れたのが末っ子の鉄三郎。兄貴たちとは違い、〝質素〟な弔いにするという鉄三郎。それを聞き、よろこぶ親父。ところが、チベット式のお弔い(鳥葬)、フライング出棺、菜漬けの樽などなど、鉄三郎の〝質素〟はもはや大気圏に届かんがばかりの〝ファンタジー〟。当然「だめだこりゃ」となる筈なのに、なぜか身を乗り出してくる父親の様子がおかしくも、哀れ。ご自慢の美声で木遣りから祭り囃子、ついには美空ひばりまで飛び出す、客席も大喜びの「鉄板ネタ」であった。
そしてあらためて、市馬師匠の噺に身をあずけているときの、なんともいえない心地よさについて。〝巧い〟とか〝おもしろい〟というよりも、ふわーっとしてなんだかとても〝気持ちいい〟のだ。半年に一回くらい、ものすごく市馬師匠の高座が恋しくなるのもきっとそのせいだろう。じっさいのところ、半年に一回くらい市馬師匠がトリを勤める寄席に足を運んでいる。さて、つぎは年末、「掛け取り」でも。
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6/2 国立演芸場 6月上席
開口一番 柳家圭花「一目上がり」
◎ 柳亭市楽「強情灸」
◎ 春風亭百栄「誘拐家族」
◎ のだゆき(音楽パフォーマンス)
◎ 柳家一九「桃太郎」
◎ 桂南喬「鰻屋」
〜仲入り〜
◎ ダーク広和(奇術)
◎ 柳家小のぶ「粗忽長屋」
◎ 昭和こいる・あした順子(漫才)
◎ 柳亭市馬「片棒」
フィンランドの女流画家ヘレン・シャルフベックを知ったのはいつだったろう。シャルフベックというと、むかし読んだ志村ふくみの随筆がまっさきに思い出されるのだが、志村ふくみを介して出会ったのか、それともシャルフベックについて探ってゆくうち志村ふくみの印象的な文章にたどりついたのか、いまとなっては記憶もあいまいだ。いずれにせよ、ぼくが「シャルフベック」という名前をはっきり意識したのは8、9年前のことだった。
シャルフベックといってまず思い出されるのは、生涯にわたって描きつづけられた一連の「自画像」である。若いころのものは比較的「教科書どおり」といった感じだが、年を重ねるごとにどんどん抽象の度合いを増してゆき、ついには「壁に浮き出た不気味なしみ」のような攻撃的な表現にまで至る。その経過には、思わず目を覆いたくなるような痛ましさがある。とはいえ、それらは同時に、観るものをしてけっして目を逸らさせない圧倒的な「吸引力」をもつ。晩年のシャルフベックにとって、顔とは、目や鼻、口や耳といったパーツの集積ではなく、自身の内面があぶりだされてできた〝生の痕跡〟とか〝生の傷跡〟のようなものと考えていたのかもしれない。じぶんの顔を描くために、彼女はじぶんの内面とギリギリの対峙をする。彼女のポートレイトに、どこか修道女のような謹厳さを感じるのはそれゆだろうか。身を削るようにして、自画像を描いて、描いて、描きつづけたひとであった。
そのシャルフベックの、おそらく日本で初めての回顧展が上野の東京藝術大学大学美術館で開催されている。18歳のとき、奨学金を得ておもむいた「芸術の都」パリで、めくるめく様式(スタイル)の洗礼を受けるシャルフベック。不幸な恋愛を経て祖国に帰った彼女は、ちいさな町に引きこもって自己との対話に没頭する。後年の作品のなかでは、グレコなどの名画を自身のフィルターを通して描いたもの(リミックス?)や、近しい画商の勧めで取り組んだ自身の過去の作品の描き直し(セルフカヴァー?)などが興味深い。
後年のシャルフベックにとって重要な人物のひとりに、森林保護官で画家でもあったエイナル・ロイターがいる。シャルフベックはロイターに対して友情以上の感情を抱いていたようだが、その思いは報われることはなかった。とはいえ、ロイターは彼女のよき理解者として、その後、彼女の伝記を著すことになる。ちなみに、1917年に出版されたその伝記を、ロイターは「ヘイッキ・アハテラ」なるフィンランド系の変名で発表している。くわしい経緯はわからないが、1917年といえばついにフィンランドが独立を宣言した年。ナショナリズムの嵐が吹き荒れるなか、フィンランド系の名前にしたほうがなにかとウケがよかったりといったこともあったのだろうか。
帰宅後、なんとなくツイッターで検索してみたところ、会場に足を運んだ人たちのとても素敵な感想がタイムラインに並んでいて、思わずうれしくなった。そうした人たちの多くは、シャルフベックという画家についてほとんど予備知識のないままその作品に触れ、作品じたいから伝わってくる画家の剥き出しの魂をたしかに真正面からキャッチしているようにみえた。たとえ知名度はなくても、伝わるものはちゃんと伝わる。多くのツイートがそのことを証明している。
展覧会はこの後、仙台、広島、神奈川と巡回する模様。おそらく、この先日本でこの規模の展示が行われることは当分ないだろう。どうかこの機会をお見逃しなく。
戦争の〝惨めさ〟について思うとき、ぼくがまっさきに思い出すのはたとえばこんな一節だ。
「その時分にはすでにコーヒーも紅茶もなくなっていて、喫茶店も店を閉めていたが、あるとき晴海通りの店にソーダ水があるというニュースが入ったので二人で行ってみると、それは甘くもなんともない無味無臭のただの赤い水でしかなかった」
これは野口冨士男の『私のなかの東京〜わが文学散策』(岩波現代文庫)からの一節で、敗戦の1年ほど前、昭和19年のエピソードである。あいにく貧弱な想像力しか持ち合わせていないぼくのような人間には、無理やり夏休みに読まされる課題図書よりも、こういう卑近な例のほうがむしろ戦時下の空気といったものをリアルに感じることができるようだ。
もうひとつ、同じ本からの一節を引用してみる。こちらは著者の少年時代、おなじ東京の大正時代後半の様子である。
「花屋の飾窓にはSay it with flowerというような金文字もみられた。チュウインガムはリグレイ、コーンビーフはリビイ、乾葡萄はサンメイド、果物の缶詰はS&Wなどの製品を私たちは食べていた」
じつは、この時代も日本は断続的に戦争を繰り返していた。戦争が始まったから、とたんに街から喫茶店が消え、店頭からコーヒーや紅茶がなくなったわけじゃないのである。ここが怖い。知らない間に川が増水し、気付けば中洲に取り残されていた…そんなふうにして戦禍はふつうの人びとを飲み込んでゆくのだろう。
ぼくは、いつでも好きなものを飲みたいし、生きてゆくうえで、街に喫茶店も欠かせない。いったい、好き好んで「無味無臭のただの赤い水」を買いに走るような人間がどこにいるだろう? 全力をもって戦争を回避するよう知恵をつかうひとだけが、唯一〝まっとうな〟人間だとぼくは思っている。
連雀亭で、夢吉さんご本人から披露目のチケットを購入したのが、あれはもう4ヶ月も前のことだったのだなァと遠い目になりながら池袋演芸場へ。バタバタの4ヶ月であった。先月の浅草につづき、真打昇進襲名披露興行は2回目である。もう1回、国立演芸場にも行くつもり。
断続的に土砂降りの雨が降る悪天候ながら、ざっと見渡したところ場内は7、8割の入り。トリを勤めた夢吉改メ2代目夢丸師匠は、マクラでご両親のエピソードをふってからの「明烏」。これはもう、今後の夢丸師匠の〝鉄板〟ネタになることまちがいなしの弾けっぷり。夢丸師匠は、ことさら現代的なクスグリで笑いをとろうというところはなく、かわりに登場人物の性格をデフォルメすることで〝モンスター〟に仕立ててしまう。結果、噺はファンタジーのように、SFのようになり、それに応じて〝滑稽さ〟もまた大波のようになって押し寄せてくるのだ。
勉強ばかりで世間を知らない倅の堅物ぶりもかなりなものだが、それにも増して、その倅になんとか人並みの遊びを覚えさせようとあれやこれやと腐心する父親のパッションがものすごい。だいたい近所の遊び人に金を渡し、息子をだまして吉原に連れてゆくよう手引きをする父親なんているはずない。だから、所詮この噺はファンタジーなのだ。そして、ファンタジーをファンタジーとしてキッパリ描き切ってこそ面白い。夢丸師匠の「明烏」は、そういう演出に思える。暴走する父親に対し、母親はというと、心配こそしているものの、そこまでは望んでいない。いい着物を出すよう夫に言われながら、モタモタして催促される台詞からそれがわかる。気が進まないのだ。真っ当。手引きを依頼されるふたりにしても、チンピラというよりは、遊び好きだが貧乏な町内の顔見知りという位置付け。ほどほどにワルではあるが、父親の「暴走」にあきれるだけの常識は持ちそなえている。つまり、息子と父親は、対極にあるとはいえ、その〝モンスターっぷり〟で似た者親子なのである。この図式をひっくり返すと、これを機に息子は落語によく登場する道楽者の若旦那にすっかり変身し、反対に、見かねた父親は頑固な堅物に変身してしまったなんていう〝後日談〟もできるかもしれない。帰り道、もう一回ニヤリとできる「明烏」。
ほかには、仲入りに小遊三師匠の代演で登場した鶴光師匠、そしてヒザ前の小柳枝師匠、ふたりのベテランがさすがの貫禄をみせた。鶴光師匠の「試し酒」は、酔うほどにボヤキっぽくなってしまいには主人にまでチクチクやりだすところが可笑しくってたまらない。大酒呑みの名前が「久蔵」ではなく「井上」なのは、誰かに引っ掛けていたのかな? さらーっと流しているようで、けっして薄口にならないのが小柳枝師匠の至芸。あの年齢にしてあのスピード感、そして「間」。どこが面白いとかうまく形容できないのだけれど、そこはかとなく面白い。〝旨味〟とでもいうか。とにかく、聴けるうちにたくさん聴いておきたい落語のひとりである。
ところで、歌丸師匠が腸閉塞が原因で入院されたとのこと。先月、板付きで高座に上がった歌丸師匠は、まるで上半身だけ座布団にのっているかのようにみえるほどの異常な痩せ方で幕があいた瞬間、仰天した。声には張りがあったので安心したのだけれど。適切な処置の下、一日も早く高座に復帰されますように。
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2015年6月17日[水]
池袋演芸場 6月中席後半 夜の部
笑松改メ春風亭小柳
朝夢改メ三笑亭小夢
夢吉改メ二代目三笑亭夢丸
真打昇進襲名披露興行
開口一番 昇市「たらちね」
◎ 三笑亭可女次「魅惑のアジアンツアー」
◎ マグナム小林(バイオリン漫談)
◎ 三笑亭夢花「くどき武士」
◎ 春風亭柳之助「家見舞」※代演
◎ 松旭斉小天華(奇術)
◎ 雷門助六 小咄、あやつり踊り
◎ 笑福亭鶴光「試し酒」※代演
~仲入り~
真打昇進披露口上(下手より)
夢花(司会)、助六、夢丸、小夢、小柳、小柳枝、鶴光
◎ 三笑亭小夢「皿屋敷」
◎ 春風亭小柳「悋気の独楽」
◎ 春風亭小柳枝「新聞記事」
◎ やなぎ南玉(曲独楽)
◎ 三笑亭夢丸「明烏」
てっとり早く休日の気分を味わうなら、なにより「遠回り」するに尽きる。ふだんは駅にゆくにせよ、図書館にゆくにせよ、あるいはまた夕食のおかずを買いにゆくにせよ、無意識のうちに最短ルートを選択するのだが、休日にはあえて一本先の角を曲がってみたり、川沿いをのんびりと歩いてみたりする。
「ツエをひく、という言葉がある。これは散歩の意味をよくあらわしているように思う」。そう書くのは、窪川鶴次郎である(『東京の散歩道』現代教養文庫S39)。「ツエをひく」という表現は、年寄りや足の不自由なひとなどツエを必要とするひとに対しては使われない。「ツエを必要としないものが、無用の長物であるツエをわざわざ手にして歩くところに、散歩の意味が出ているのであろう」。ただ目的もなくぶらぶらと歩き回るのも「散歩」なら、どこか明らかな目的地ー駅とか図書館とかーがあるにせよ、わざわざ無駄に「遠回り」するのもまた立派な散歩である。「遠回り」もまた「無用の長物」であり、「ツエをひく」のと同じだからである。ふと我にかえって「あゝ無駄なことをしているなァ」とつぶやくとき、そこにはとたんに「休日」の気配がたちこめる。
夏の朝、すこし早く目がさめたなら、15分早く家を出て意識的に遠回りして駅に向かったり、職場の近辺を歩いてみるのも楽しい。駅の、いつもと違う出口を使ってみるとか。そんなことで、忙しい平日にすこしだけ休日の気分を挿し木するのだ。北欧の人たちが、仕事からの帰宅後にあらためて散歩に出かける感覚にそれはちょっと似ている。
さて、あすは木曜日。テイクアウト分の【フィンランド風シナモンロール】をご用意しています。平日はどうしても苦戦気味なので、ぜひ足をのばしてお求めいただけるとうれしいです。取り置きもできます。
道はおのずから速度を増すかのように急な坂になっていって宮永町へくだり、そこからまっすぐに本郷の通りへむかって向ヶ丘の坂をのぼってゆく。(中略) 道がもっている大地のがんこな意思と、とどまることを知らぬそのやさしい抒情的な運動は、こんなふうに坂をくだっていって、さらにまた坂をのぼっていくところに、実にリズミカルに現れている。道は都会のどまんなかで、都会の不安も焦燥も容赦しないのである。 (── 窪川鶴次郎『東京の散歩道』現代教養文庫・昭和39年)
道を歩いていて、「坂道」なんてただ鬱陶しいだけだったけれど、こんな文章を読み知っているとちょっとだけ愉しくもなるだろうか。そして、「道」は「人生」におきかえて読むこともできるかもしれない。