夢の話というのはたいがいがくだらない。見た本人がくだらないと思うくらいだから、他人が見た夢の話となると、これはくだらないを通り越してもはや「どうでもいい」レベルである。先に断っておくが、これから書こうとしているのはまさにそんなどうでもいい話である。
知り合いがオープンしたばかりのカフェにきている。知り合いの旦那がベネズエラ人であることを、きょう初めて知った。銀縁メガネに白いYシャツを着た彼の腕には、噂によるとびっしりタトゥーが入っているとのことだ(誰情報なのかさっぱり分からないが、まあ、しょせんは夢なのだからしょうがない)。「(体重が)8キロ減ったよ」笑顔で彼がぼくに言う。「そうですか…」以前の彼を知らないのだから、どうにも返しようがない。
店内を見渡すと、ヒソヒソ何事か相談しあっている3、4人の中学生らしき男子の姿が目に入った。そのうちの1人の手には、エアコンのリモコンが握られている。彼らは、iPadでどこかの民家の画像をGoogleストリートビューで確認しながら、「そうだね」「そうだよね」などと頷いている。どうやら、彼らの「相談」の中身は「エアコンのリモコンの使い方がわからない」ということだったらしい。そして、彼らの思いついた「解決策」はこちらの想像をはるかに超えていた。
〝Googleストリートビューで同じ機種のエアコンの室外機が置かれている家を発見し、その家で教えてもらう〟
アホである。アホとしか言いようがない。しかしそれを単純に「アホ」と笑えないのは、その夢を見たのがほかならぬこの自分だからである。自分の、無意識の底深くににそんな「アホ」が横たわっている。「アホ意識」だ。恐ろしい。そう考えると、もううっかり眠っていられないくらい暗澹たる気持ちになるのだった。
武田百合子は、平日の昼下がりの浅草を「いましがた、大へんな騒ぎをして御神輿が、おはやしの音とともに向うの方へ去って行き、つられて、この辺にいた沢山の人たちも、わいわいと随いて行ってしまったばかりのような雰囲気」だと書く(『遊覧日記』ちくま文庫)。その感じ、とてもよくわかる。じっさい、ぼくの記憶の中にある「浅草」も、365日、毎日「祭りのあと」のような虚脱感に覆われている。最近になってまた、落語を聴くためちょくちょく浅草方面まで出向くようになったけれど、どういうわけかそういう感じはしない。なぜだろう。そう思って、『遊覧日記』が出た時期を調べてみたところ、学生のころ、ぼくがちょくちょく浅草方面へと出かけていた時期と重なっていたので「そういうことか」と納得した。
そのころの浅草は、ぼくの知っている東京のほかの街とは明らかになにかがちがっていたので、ぶらぶら浅草を歩いているだけでかなり緊張し、帰った後にはどっと疲れた。それでもたびたび出かけたのは、しばしばそこ出くわす光景があまりにも〝ファンタスティック〟で唯一無二のものだったからにほかならない。
こんなことがあった。平日のよく晴れた昼下がり、六区の、あれはたしか「中映」だったろうか、古びた映画館の前をぶらぶらと花やしきのほうに向かって歩いていたときのこと。人影はまばらで、数えるほどしかない。前方をひとりの、痩せて小柄な中年の男が千鳥足でフラフラと歩いていた。絡まれでもしたら馬鹿馬鹿しいので、ぼくは、千鳥足とは一定の間隔を保ちながら歩いていたのだが、突然その脇を足早にガタイのいい坊主頭が追い越していった。そして、次の瞬間に起こった出来事は、、まさに〝白日夢〟としかいえないものであった。
坊主頭は、千鳥足の背後に接近すると無言のまま、いきなり「ペシッ!!」と千鳥足の後頭部をはたいたのである。よろける千鳥足。通り魔?ケンカ?あっけにとられつつ、ぼくは当然その後に起こるであろう修羅場を予測し、身構える。ところが、である。坊主頭はそのまま何事もなかったらのように歩き去り、千鳥足のほうも千鳥足で、体制を立て直すとそのまままたフラフラと歩き出す。その間、ふたりはまったく無言のまま、しかも目線すら合わすことはなかったのである。
あれは一体なんだったのか?いま思い返してみてもよくわからない。とにかく、〝ファンタスティック〟としか言いようがない。無理やりこじつければ、みんな御神輿に「わいわいと随いて行ってしまった」と思っていたら、まだ、祭りのまっただ中のように「大へんな騒ぎをして」いるうっかり者が少しは残っていたのが「あの頃の浅草」だったのかもしれない。