今月は、2022年1月11日に渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで観てきた「ザ・フィンランドデザイン展 自然が宿るライフスタイル」のレポートをお届けしたいと思います。
実はこの日は岩間さんがまだ一度も行ったことがないというムーミンバレーパークへ遠足に行く予定でした。しかし数日前から雲行きが(その言葉通り)怪しくなってきました。前日になってやはりあいにくの雨らしい、というかピンポイントでその日だけ雨!というわけで急遽、遠足の行き先を変更することになったのです。
雨男って本当にいるみたいですね。いま思うと展覧会のディスプレイのリトルミイもなにかを暗示しているような、笑。それではさっそくレポートをはじめます。すこし長くなりますが、どうぞお付き合いください。
① 湖のきらめき
② 美しさのかたち
③ テキスタイルとリュイユ
④ トーベ谷の仲間たち
⑤ フィンランドデザインと世界
① 湖のきらめき
1917年にロシアから独立したフィンランドはバウハウスの理念やモダニズムの影響を受けながら、国の復興を推し進めていきます。森や湖といった自然以外の資源が乏しいフィンランドでは当時から観光に力を入れていました。
1926年にヘルシンキ中央工芸学校にグラフィックアート学部ができると、いくつかの広告代理店が開業し、学生たちもコンペティションに参加するようになりました。1930年代から多くの観光ポスターなどが作られていましたが、やはりフィンランドのグラフィックデザインといえばエリック・ブルーン抜きには語れません。会場にいくつか展示してあったポスターも一目で彼の作品だと分かるものでした。
そして大きな湖のパネル写真の前に展示されていたのが、オリジナルのアアルトベース。フィンランドデザインと聞いて誰もが最初に思い浮かべる作品ではないでしょうか。最初に目についたのが大きな切り株を切り抜いたような木型。内側が焦げて黒くなっている感じもかつて何度も使われてきたことを思い起こさせます。そして隣に、大きさの異なる花瓶がふたつ。
── 影が違う
岩間さんが教えてくれました。アアルトベースの置かれた白い台の上に映る影に注目してみると確かに違います。花瓶の外形の影はいま市販されているものとほとんど変わりません。しかし内側にはひび割れたような光の屈折した模様が浮かび上がっていました。
それは水中に潜って上を見上げた時に、水面に広がる光のきらめきのように見えました。アアルトベースのデザインの由来については「EskimoerindenSkinnbuxa|エスキモー女性の革パンツ」とアアルト自身も呼んでいたように不明な点もありますが、やはりこれは「湖」だと考えていいのではないかと思いました。
この影が偶然のものなのか、計算したものなのかはわかりません。おそらく当時の技術ではガラスに不純物が入ってしまったり、制作の時点で気泡が含まれてしまったりすることがあったのではと岩間さんは言っていました。ちなみにアイノ・アアルトの「Bolgeblick|水紋」シリーズも、気泡を目立たなくするためにあのようなデザインになったそうです。
とはいえ、そんな偶然さえも味方につけてしまう作品であるところにフィンランドデザインの秘密が隠されているのかもしれません。
② 美しさのかたち
戦後フィンランドでは首都人口が増加するとともにモダンな住宅や生活様式が増えていきました。アルヴァ・アアルトの「スツール60(アルテック)」やイルマリ・タピオヴァーラの「ドムスチェア(ケラヴァ木工)」など日常の家具や食器にも量産化や価格の安定化が求められるようになります。
オルナモ協会(1911年に設立されたアートとデザインのための非営利組織)の展覧会『暮らしの中の美』のポスターが展示されていたように、機能主義やモダニズムが市民生活にも広がっていきました。
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ここで注目したのがカイ・フランクとタピオ・ヴィルカラです。ふたりは共に1946年に開催されたアールストロム社のイッタラガラス工場のデザインコンペティションに参加しました。1位を獲得したのはタピオ・ヴィルカラ。2位と3位がカイ・フランクでした。
その結果タピオ・ヴィルカラはイッタラのデザイナーとして招かれ、その後イッタラデザインスタジオの芸術監督を務めることにもなりました。「カンタレッリ|杏茸」や「ウルティマツーレ」など機能主義とは一線を画した美術工芸作品のような製品を生み出していきます。
ちなみに今回の展覧会でいちばん目を奪われたのがタピオの「レヘティ|葉」です。葉っぱのかたちをしたガラスの裏側に数えきれないほどの細い溝が等間隔で刻まれていました。上から見るとそれらの溝が葉脈のように浮き上がり、とても美しく見えます。それと同時に職人たちの製作工程の大変さを思いました。タピlittalaオ・ヴィルカラの作品は大胆で無骨な感じを受けるけれども、とても繊細なデザインが施されていると思うと岩間さんも言っていました。
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一方、アラビアのデザイン部門のディレクターだったカイ・フランクは1951年にヌータヤルヴィガラス工場へ移り、サーラ・ホペアをデザイナーとして引き抜くなどしてシンプルで機能的なガラス製品を発表します。彼自身もデザイナーとして「キルタ(ティーマの前身)」をはじめとする美しく完成されたかたちを追い求めていきました。
「ディナーセットを粉砕せよ」というスローガンで発売されたキルタは必要なものだけを揃えて長く使い続けることができるようにとデザインされました。実用的で無駄を削ぎ落とした良質なデザインで、フィンランドデザインの良心と呼ばれるカイ・フランクの真骨頂です。また1992年には彼の名を冠したカイ・フランク・デザイン賞が創立されるなど、今も尊敬を集めています。
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あくまでも想像ですが、同世代であるふたりはライバルとしてお互いの存在を強く意識していたのではないでしょうか。切磋琢磨しながら別々の道を歩んで行ったように感じます。もちろんどちらが優れているということではなく、機能美と芸術的な美、それぞれの美しさを求めて。
アラビア製陶所にデザイン部門とは別に芸術部門(ルート・ブリュックやビルゲル・カイピアイネンなどが在籍)があったように、その両輪があったからこそ、そして彼らふたりがいたからこそ、フィンランドデザインは発展していくことができたのかもしれません。
③ テキスタイルとリュイユ
フィンランドの著名なデザイナーたちの多くが学んだ中央工芸学校ですが、1929年にはテキスタイルアート学部ができました。カイ・フランクやティモ・サルパネヴァものちに教壇に立っています。
テキスタイルとカイ・フランクと聞くと少し意外な気もしますが、アラビアで働き始める前にシルクスクリーンプリントを制作するヘルシンキ・アート・ダイワークス社(1929年創業)でデザイナーとして働いていたそうです。会場にも「Lappi|ラップランド」というサーミの人たちの暮らしを描いた彼のテキスタイルが展示されており、1958年から1962年にかけてはフィンレイソンの芸術顧問も務めていました。
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そんななか意外に多くの作品が展示されていたのがドラ・ユングのテキスタイルです。彼女は中央工芸学校を卒業するとすぐにドラ・ユング・テキスタイル社を設立しました。デザインだけでなく、織りも自ら行い職人としての一面もありました。タンペッラ社のためにデザインされたダマスク織など自然をモチーフにした作品が多く、実際に触れてみたくなりました。
またドラ・ユングは、サヴォイ・レストランのテキスタイルをアアルトから依頼されたり、1962年にストックマンが100周年を迎えた時には「100本のバラ」というテキスタイル作品(同じデザインが本国のラプアンカンクリで販売中)を制作しました。今回の展覧会では今まで知らなかったデザイナー同士の横のつながりを知ることができたことも収穫でした。
機能主義から自然をインスピレーションとした有機的なデザインへと風向きが変わっていく中で、リュイユの再評価が進みます。リュイユはヴァイキングたちから伝わったとされるフィンランドの伝統的な織物です。その最盛期は18世紀末~19世紀中頃でした。
この再評価のきっかけはフィンランド手工芸友の会がリュイユのDIYキットを販売したからだそうです。会場に展示されていた毛足の長い暖かそうなリュイユは、1930年代後半から現代のリュイユの作り手として活躍したウフラ=ベアタ・シンベリ=アールストロムの作品です。のちに彼女は父である画家ヒューゴ・シンベリが内装を手がけたタンペレ大聖堂の祭壇布などのデザインも手掛けました。
また会場にはPMKコットンのポスター広告やカタログなども展示されていたのですが、あの時代の広告のデザインやイラストは味があっていいなといつも思います。どの広告もポストカードになってしまうくらいですから。それと同時にいいものを伝えるということにデザイナー自身が力を注いでいたこともフィンランドデザインを世界中に広める要因になったのではないかと思いました。
④トーベ谷の仲間たち
ここでもう一度、展覧会場の入り口へと戻ります。最初の挨拶文にトーベ・ヤンソンのステンドグラス「命の源」についての文章がありました。ずっと画家でありたいと願っていたトーベ。デザイン展に作品が展示されることをどんなふうに感じるかなと思いつつ・・・。
もちろん雑誌「ガルム」の表紙やイラストはデザインの仕事と考えてもよいかも知れません。トーベは風刺をこめたイラストを多数提供してきました。「ガルム」はこれまでにもいろいろな展覧会で観ることができましたが、忘れてはいけない楽しみがあります。それはどこかに小さく描かれている「ムーミン」を見つけること。今回も無事に発見しました、笑。
またトーベにまつわる人物たちの作品の展示もありました。まずは弟ペル・ウロフ・ヤンソンの写真。島で過ごすトーベを撮った写真や一緒に作ったムーミンの写真絵本などでは見たことがありましたが、それ以外の写真を見たことがなかったのでとてもよい機会となりました。
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次はトーベの絵画の先生であり、一時期恋人でもあったサム・ヴァンニの絵画作品。気になったのは『森の景色』。色使いもグラフィカルな絵も軽やかで、さすがトーベに「色」の重要さを教えただけあるなと思いました。のちにサム・ヴァンには、トーベが敬遠していた抽象絵画へと進むのですが。
そしてトーベの生涯のパートナーとなるトゥーリッキ・ピエティラの作品も1枚だけ。『氷河の境目』という銅版画です。トゥーリッキの作品に関しては日本で紹介されることはあまりないので、実際にどのくらいの知名度や評価があるのかわかりません。とはいえ、1963年にはプロ・フィンランディア勲章を受賞しています(トーベは1976年に受賞)。
またアトリエ・ファウニ社によるムーミン人形もありました。ムーミン、パパ、ママ、みんなもじゃもじゃの毛が生えていて「ご先祖さま」みたいなのですが、笑。この人形はムーミンバレーパークで現在開催中の「ムーミンの食卓とコンヴィヴィアル展」にも展示されています。そこで『パラフェルナーリア・コレクション』というトーベとトゥーリッキが手がけたミニチュアコレクションのコーナーが展開されているのですが、とてもおすすめです。
⑤ フィンランドデザインと世界
会場をあとにして喫茶店で少し展覧会の印象などを話す時間がありました。こうして自分以外の感想を聞けるというのはとてもうれしいことです。その時に話題に上ったのがフィンランドデザインと民藝について。
シンプルさや機能性を重視したフィンランドデザイン。そして日常に使う道具の中に美しさを見出していた民藝。特にカイ・フランクは作家の匿名性やチームでのものづくりを志向するなど民藝との共通点があり、日本にも3回訪れています。
一方、日本で最初に広くフィンランドデザインが紹介された展覧会『フィンランドデンマークのデザイン』は日本民藝協会による主催でした。こうした日本とフィンランドの間に交流や共通点があると聞いて、いま国立近代美術館で開催中の『民藝の100年』を観てきたのですがまだまだ修行が足りなかったようです、笑。
フィンランドデザインがドイツやスウェーデンの影響を受けて発展してきたことは以前学んで知っていたのですが、今回の初めて知ったことがあります。それは1952年に開催されたフランスのモダンアートを紹介する美術展「KlarForm」のこと。フィンランドで「Pariisinnykytaidetta|パリの現代美術展」と呼ばれたこの
美術展は、コペンハーゲン〜ヘルシンキ〜ストックホルムオスロリエージュと巡回しました。
そこで紹介された抽象主義の作品はフィンランドの芸術家だけでなくデザイナーたちにも影響を与えました。マリメッコに代表される大胆なテキスタイルを会場であらためて見て、これらは抽象主義による影響だったのかと今さらながら気づきました。
自分にとってはまだまだわからないことの多いフィンランドデザイン。これからもすこしずつその世界を学んでいきたいです。もし機会があれば皆さんと展覧会などへ遠足に行って、あれこれお話しできる日が来るといいなと思っています。長くなりましたが読んでくださいましてありがとうございました。
ザ・フィランドデザイン展 -自然が宿るライフスタイル-
会場:
鳥取県立博物館2020.10.102020.11.15
兵庫陶芸美術館2021.9.112021.11.28
Bunkamuraザ・ミュージアム2021.12.72022.1.30
主催:美術館、産経新聞社、NHK、NHKプロモーション
特別協力:HAMヘルシンキ市立美術館
後援:フィンランド大使館、J-WAVE
協賛:ホンカ・ジャパン
協力:フィンエアー、フィンエアーカーゴ、フィンランドセンター
企画協力:S2
HP:bunkamura.co.jp
text : harada