Aakkosetとは、フィンランド語でアルファベットのこと ──。
Moiのスタッフがそれぞれ思いつくまま自由に選んだフィンランドのことばから、ささやかな日常の風景をお届けします。
今回のアルファベットは【C】です。
近さ/遠さ
フィンランドを代表する映画監督のひとり、アキ・カウリスマキの初期の作品に『カラマリ・ユニオン』があります。「calamari」はもちろんフィンランド語…… ではなくて、「イカ」を意味するイタリア語です。一方、「Union」には「組合」「連合」といった、多分に社会主義的な意味合いがありそう。
さて、この「イカ組合」(なんじゃそりゃ?)を構成するメンバーはというと、同じ「フランク」という名前をもつ15人の男たち。すでにまったく意味がわかりません。
物語は、ある日この「イカ組合」の面々がひとつの決断を下すところから始まります。犬のように扱われることにほとほと嫌気がさした彼らは、生まれ故郷であるこの町を捨て、「危険な」逃避行を図ることにしたのです。めざすは「町の反対側」にあるという、約束の土地エイラ。「道も広く、空気もきれい」なそこは、まさにどこかにあるユートピア(©ガンダーラ)として描き出されます。
それに対して、出奔する彼らの背後には「坂道が多く世界のどこよりも不便」な町カッリオが映し出されるのですが、じつは目的地であるエイラとカッリオの距離は、実際には歩いてもせいぜい3、40分程度。ヘルシンキの街のサイズ感を知っているひとなら、思わず「なんて大げさな」と吹き出してしまうところです。まさに、おっさんたちのスタンド・バイ・ミー。
しかし、裕福な人びとの邸宅が並ぶ高級住宅地エイラと彼ら「イカ組合」の連中とを隔てる心理的な距離は絶望的に「遠い」のです。そして、この物理的な距離の近さと心理的な距離の遠さとの間の埋めがたいズレこそが、この『カラマリ・ユニオン』という映画の「肝」になっています。
当然というべきか、エイラは、「フランク」たちをそうかんたんには近づかせません。「遠さ」は、さまざまな不条理なアクシデントとなってそれぞれの「フランク」の身に襲いかかります。はたして彼らは約束の土地エイラに辿り着けるのでしょうか……。
正直に言えば、フィンランド的な自虐や皮肉に満ちたこの『カラマリ・ユニオン』はアキ・カウリスマキの作品の中でもかなり難解です。しかし、そこには現在に至るまで一貫して変わらない映画作家アキ・カウリスマキの批判精神と弱者へのまなざしのすべてが詰まっています。
そこからどれだけの情報を汲み取ることができるか、それを知りたい一心で僕はときどきこの映画を引っ張り出しては見返します。フィンランドをもっと知り、もっと好きになればなるほどいっそう解像度を増す、それがぼくにとっての『カラマリ・ユニオン』だからです。
Calamari Union = カラマリ・ユニオン
text : iwama
伝えること/伝わること
チャットとは、インターネット上で文字を通してリアルタイムに会話すること。いつどこにいてもコミュニケーションをとれるというのはとても便利です。
とはいえ、公園で、カフェで、部屋で、誰かと直接会うというのに比べると、手軽なコミュニケーション手段のようでいて、なかなかまどろっこしい感じもあります。
声やまなざし、ちょっとした仕草や気配。会った瞬間に、あるいは同じ空間にいるだけで、伝わるものがたくさんあることをあらためて感じているからだと思います。そしてなにより、何も話さずに過ごせる時間こそ、心地よく感じる性質だからなのかもしれません。
先日、山の中を歩いていると、森の奥からウグイスの声がしました。
立ち止まり、口に指を当てて、耳をすまします。すると、風が木々をゆらす音や枝々のぶつかる音、鳥の羽ばたく音、落ち葉の下で何かが動く音、いろいろな音が聞こえてきました。もちろん音だけでなく、土の匂いや樹の香り、あたたかな光やひんやりとした空気も。
森や自然は、特別何かを伝えようとはしていません。それでも何かが伝わってきます。それは、自然の声を聞きたい、受けとりたいと自分自身が望んでいたからでしょう。
誰かに何かを伝えるとき、言葉の正しさや話の上手さにこだわっている自分に気づく出来事がありました。大切なことは、受けとってくれる人に、どれだけ耳をすましてもらえるか、どれだけ心を開いてもらえるか。
今より、ほんのすこしでも何かが、伝わるように、伝えていけたらと思っています。
また自由に会えるときが来たら、とりあえず公園のベンチで雑談(チャット)でもしましょうか。
Chatti = チャット
text : harada