パジャマを着た神様
2004.7.29|music

そのひとの存在そのものが音楽であるような、ジョアン・ジルベルトとはそういうひとです。

たった一本のヴィオラォン(ギター)と声だけで、無際限に拡がる世界をあらわしてしまう気まぐれな神様。そしてそのライブは、音を聴くのでも、ましてや感じるのでもなく、まるで自然のふところに抱かれているような、ただただそこにあることで満ち足りてしまう、まさに至高の体験といえるものでした。

そしてこの秋、ジョアン・ジルベルトがふたたびやってきます(たぶん)。今回は、東京にくわえ、大阪2公演をふくむ全6公演の予定(あくまでも予定)。

昨年の初来日の際、全4公演中3回に足を運んだ経験からいえるのは、彼のライブは、すべてテンションも演奏曲目も異なる別のライブという感じなので、ぜひ時間とお金に余裕のある方は複数回行かれることをおすすめします(けっして損はしないと思います)。

かく言うぼくは、今年はちょっぴり大人になって(?!)全神経を一回のライブに集中させるつもり。

というわけで、moiはきたる10月7日[木]17時閉店となります。何卒ご理解の程よろしくお願い致します(かなり気が早いワケですが)。

京都‘楽’派
2004.8.8|music

夏に聴くべき音楽といえば、もちろんTUBEなわけですが、わずか50センチほどの幅の日陰ですらえらんで歩いてしまうぼくのような人間にとって、それは、うっかり聴いてしまうと音だけで熱中症になりかねない危険な音楽ともいえます。

そんな、できるだけおとなしく日々の暑さをやりすごしたいとかんがえるぼくが、この夏moiでパワープレイ中のCD、それがsoraというユニットによるアルバム「re.sort」です。

soraは、京都在住のアーティスト クロサワタケシのソロユニットで、世間ではラウンジ・エレクトロニカなどと称されているようですが、そんな能書きはともかく、適度な〈余白〉を感じさせるそのサウンドはデジタルでありながらオーガニック、いってみれば新鮮な酸素のような作品なのです。

毎日ずっと音楽を聴きつづけていると、だんだんと耳が抽象的な「音」ばかりを求めてゆくようになるのがわかります。人間の「声」や「旋律」ですら鬱陶しくなったり。
そうしてかんがえるのは、最上のBGMとは、波の音、梢をわたる風の音、川のせせらぎや雨音といった自然の音ではないかということ。けっして直接的に自然の音をサンプリングしているわけではないにもかかわらず、soraの音楽はかぎりなく自然にちかい、そう思えるものです。

それにしても、このsoraのクロサワタケシをはじめ、高木正勝や、そしてもちろん竹村延和など京都を拠点に活動するアーティストの作品は、ほんとうにオリジナルで良質のものが多いですね。かつて、ペンギンカフェオーケストラのサイモン・ジェフスも暮してた町ですしね。京都という「場」がもつ底力を感じずにはいられません。

宝物のような音楽
2004.8.13|music

宝物のような音楽がある。

そういう音楽は、いい加減に聴くのがもったいない気がしてふだんはあまりかけないのだけど、いざ聴くとなるとエンドレスで一日中ずっとかけていたりする。

なんどもなんども飽きることなく繰り返し聴いているうち、だんだんその音楽と自分とのあいだの距離がちぢまってゆくような気がして、以前にもましてその音楽のことが大事になってしまうのだ。

「ジョアン・ジルベルトのホワイトアルバム」なんてよばれることもあるこの名盤(邦盤タイトルは「三月の水」)は、ぼくにとってまさにそういう音楽のひとつ。もしこの音楽をことばで的確に語ることができたなら、芥川賞作家になるのなんてたやすいことだろう。そしてきょうは一日、ずっとこのアルバムを聴いていた。

このアルバムでジョアンは、たとえば古いサンバのようなお気に入りの楽曲を、何コーラスも何コーラスもただひたすらに飽きることなく、繰り返しうたっている。彼もまた、繰り返しうたうことで音楽と自分とのあいだの距離を縮めてゆく、そういうタイプの音楽家なのかもしれない。

いつも通り
2004.8.22|music

いつも通りというシュガーベイブの名曲がある。

この曲(作詞作曲/大貫妙子)は字面どおり「いつもとおなじ」という内容なのだけれど、なぜか山下達郎をはじめとするその他のメンバーはみな、「いつも・ストリート」という響きをかけあわせたダブルミーニングだと思っていた、というエピソードがある。

なにをかくそうこのぼくも、なぜかずっと「ストリート」の方だと信じていたので、この話を知って「へぇ~」と感心する反面、なんだかちょっと残念な気分でもあった。いつも通りという語感がやけに気に入っていたのだ。だからいまでも、ぼくの中ではいちおう、このうたは「いつも通り」という「通り」を舞台にしているということになっている。聴いていて、そのほうがずっとイメージが拡がる気がするから。

それはそれとして、「いつも通り」や「出会い通り」がある「まち」はきっと、「なんとか銀座」や「純情商店街」がある「まち」よりもずっとすてきな「まち」であるにちがいない。

◎ 「いつも通り」はシュガーベイブが発表したたった一枚のアルバム『SONGS』におさめられています。余談ですが、シュガーベイブは1976年、荻窪ロフトで「解散コンサート」をおこないその活動にピリオドを打ちました。

bon bon
2004.8.25|music

温泉がまたそうであるように、世間に「ボサノヴァ」とよばれる音楽は数あれど、ほんとうの意味で「ボサノヴァ」とよべるものはそう多くない。

たいていはボーカルがこれみよがしに歌いすぎていたり、たんにボサノヴァ風のリズムをなぞっているだけだったり・・・白く濁ってはいるけど「効能」はなし、そんな感じだろうか。「ボサノヴァをやろう」とするからそうなってしまうのだ。

それにひきかえ、naomi & goroのボサノヴァはさらりとして無色透明だがその「効能」はもりだくさん。2枚目となるCD『bon bon』も、その〈スタイル〉はいわゆる「ボサ・マナー」に忠実にのっとった「折り紙つき」のボサノヴァ・アルバムである。

けれども、また一方でこうもいえる。naomi & goroは「ボサノヴァ」だが、「ボサノヴァをやろう」としているわけではない。ホベルト・メネスカルやカルロス・リラ、ホナルド・ボスコリといった、「ボサノヴァ・ムーブメント」をつくった若者たちがまたそうであったように。かれらは、自分たちの感覚にフィットする音楽がつくりたかった。そうして「ボサノヴァ」をえらんだ。たんなる「順序」の問題とおもわれるかもしれない。けれども、それはなかなか肝心なことだ。

naomi & goroの音楽はとても良質なポップミュージックであり、そしてそれは「ボサノヴァ」という〈スタイル〉によっている。かれらの音楽はまさに〈現在進行形〉のポップミュージックとしてぼくらの耳に、とどく。ポルトガル語や英語はもちろん、日本語が、これほどまでに「フツー」にボサノヴァのリズムにのってうたわれていることがその確たる証拠である。そしてたぶん、じぶんたちにとって等身大の音楽をつくろうという〈意志〉がはたらいているかぎりにおいて、その音楽は時空を超えて「ボサノヴァ(=ニューウェーブ)」であり続ける。形式(スタイル)と内容(意志)の合致、そこにこそnaomi & goroの音楽の心地よさのヒミツがある。

それにしても、ここのところずっとこのCDばかり聴いている。切実に、「湯あたり」ならぬ「音あたり」が心配な今日このごろである。

追記:前作同様、石坂しづかさんのイラストもいい感じです。

ソバ屋のマーチ
2004.9.16|music

音楽と空間との関係については、興味がつきない。BGMなどというなまやさしい次元をはるかに超えた、なんというかもっと〈暴力的〉な拘束力が音楽にはある、と気づいたからだ。

それは、上野のとあるソバ屋での出来事だった。そこはかなり広い店ではあったが、ちょうど昼どきだったこともあり、店内は近隣ではたらくサラリーマンらでごったがえしていた。相席はあたりまえ、それでもやってくる客はあとをたたない。運ばれてきたソバを半分ほどたいらげたところで、ふと店内に流れる音楽が耳についた。

── 「マーチ」だった。

いちど気づいてしまったからにはもうだめだ。やけに景気のいい「マーチ」が気になってしかたない。挙げ句の果てには、客がみんなマーチにあわせてソバをすすっているかのようにみえてくる始末・・・。

それにしたって、なんでこの珍妙な状況にずっと気づかずにいたのか。答えはかんたんだ。ソバ屋とマーチ、どうかんがえたって結びつくはずのないふたつの要素が、なぜかその空間ではごく自然に当然のごとく結びついていたからだ。せわしなくソバをすする人々とその間をいそがしく立ちはたらく女店員たち、厨房からきこえてくるおやじの怒声・・・マーチは、このランチタイムのプチ戦争状態のサウンドトラックとしては、まさに申し分のないものといえた。

おそらく数十年にわたって、客はこうして、その店で知らず知らずのうちに〈戦争〉に巻き込まれてきた。景気のいいマーチにのって、火の玉のような勢いでソバをすすり、そしてふたたび「仕事」という名の〈戦場〉へとかえってゆく。「高度経済成長時代」と変わらぬモーレツな光景が、その上野のソバ屋では今なお日常的にくりひろげられていた。一方、休日にそんな様子をのほほんと眺めているビューティフルなぼくはといえば、そこではあきらかに浮いた存在、さながら〈非国民〉であった。

くれぐれも、ソバ屋のマーチには気をつけなければならない。

architecture in helsinki
2004.9.17|music

その名もズバリ、アーキテクチャー・イン・ヘルシンキというバンドがあるよ、とおしえてくれたのはお客さまのNさん。こういうネタにはすぐさま飛びつきます。さっそく調べてみました。

このバンド名にぐぐっと身をのりだしたアナタ、おあいにくさま。残念ながらフィンランドのバンドではありません。オーストラリアのバンドです。しかも渋谷系(古いな)です。サイトのなかの" eleven things "というページでは、メンバーが思い思いの「11のこと」──「この夏にした11のこと」とか「二度と味わいたくない11のこと」とか──を挙げていて、「キミの『11のこと』もおしえてね」なんて書いています。ほほえましいですね。

ちなみにバンド名は「新聞にあったいくつかの単語をランダムに組み合わせたもの」で、「メンバーのだれもヘルシンキに行ったことはない」そうです。

サンプルを聴くかぎり、チープなギターポップをベースにエレクトロニカのスパイスをぱらぱらふりかけたといった感じのサウンドは、80年代っ子の耳には「なつかしい」といった印象。かれらはきっと80年代のネオアコやギタポが大好きで、レコード棚にはヤング・マーブル・ジャイアンツやモノクローム・セット、それにおなじくオーストラリア出身のバンドゴー・ビトゥイーンズなんかが並んでいるのではないでしょうか。この手のテイストがすきならば、反対にいま名前を挙げたようなバンドをきいてみるのもいいかもしれませんね。

余談ですが、トレンドというものは20年サイクルでやってくるという「定説」?!にしたがえば、かれらのサウンドを耳にして思わず「なつかしい」とつぶやいてしまった方は、そろそろ世間的には「惑っちゃいられないお年頃」にさしかかってきたということなんですよね(・・・ためいき)。

New Wave
2004.9.18|music

20年くらい前の話、「ニューウェーブ」はぼくらにとって音楽の趣味である以前に、生き方の問題だった。

1977年、ロンドンで火がついたパンク・ムーヴメントが引き金となって、80年代にはいるとたくさんの若者たちが楽器を手に、思い思いの音楽をプレイするようになる。たいていは歌も楽器もヘタだが、「表現したい」気持ちだけはだれにも負けない、そんな連中だった。

「売ること」を前提にしないぶん、かれらのつくる音楽はフレッシュで、自由で、そしてヘンテコだった。音楽産業を牛耳るメジャーレーベルは、そうした連中がつくる音楽を当然のように無視した。そこで彼らは、やむなくレコードを自主制作してじぶんたちで手売りしたり、その面白さに気づいた一部のひとが立ち上げたマイナーレーベル(インディーズなんて便利なことばはまだ存在しなかった)を通じて流通させたりしていた。

かつて聴いたことのない音楽をききたい、そんな欲求をもっていたリスナーたちがこうした音楽を〈発見〉するのに時間はかからなかった。マイナーレーベルのなかには、メジャー以上の影響力をもつものまで出現し、さすがのメジャーレーベルも無視できない存在になっていったのだった。「こんな〈新しいやりかた〉があったんだ」-メディアは驚きをもって、かれらのことを「New Wave」と名づけた・・・(※)

※このあたりのいきさつは「ボサノヴァ」誕生のエピソードととてもよく似ています。「ボサノヴァ」が、ポルトガル語で「ニューウェーブ」という意味であることはいうまでもありません。

ぼくがこのニューウェーブの洗礼をうけたのは、高校生のころ。それは、世にひろく出まわっているものが、必ずしも「よいもの」とはかぎらないという〈教え〉であり、「小」が「大」に勝つ、すくなくとも互角にわたりあえる、そういう世界が存在するという〈教え〉でもあった(このあたりはきのうのブログでコメントをくださったNさんなんかも同様なのではないでしょうか)。そうした〈教え〉は、いまだにぼくのなかでは息づいている。そして、なにか行動をおこすときの〈ものさし〉にもなっている。

ところで、ちいさなカフェであるmoiはそんな〈教え〉があってこそ生まれた店。ひとにぎりの良心的かつマニアックな?!お客さまに支えられているその姿にも、どことなくインディーズ(独立系)の匂いが漂っていたり・・・さしずめ20年後になつかしんでもらえるような店でありたいと、そう願うばかりである。

無に匹敵する音
2004.9.21|music

展示があるときのBGMには、ふだんよりいっそう気をつかう。なにより雰囲気をこわさないことが肝心だ。

開催中のひらいみもさんのイラスト展「森のカモメ」にもっともふさわしいBGMは、無音、もしくは鳥のさえずりや梢をわたる風の音じゃないかという気がしている。ただ、無音ではきっとお客さまが落ち着かないだろうし、自然の音となると集音マイク片手にどこか鬱蒼とした森の中をさまよわなければならないハメになる。

そこで、無音に匹敵する音楽ということでえらんだ一枚がこれだ。キース・ジャレットがピアノ1台で数々のスタンダードナンバーを演奏したアルバム『The Melody At Night,With You』。

これは特異なアルバムだ。

キース・ジャレットはここで、誰かのためではなく、たたじぶんのためだけにピアノを弾いているようにきこえる。おそらくは真夜中、さもなくばそろそろ空も白んでこようかという時間に、ひとりかれはピアノにむかっている。そこで奏でられる音楽は、長かった一日をゆっくりと沈静させるための音楽。あえてなにもかんがえず、指のおもむくままに耳になじんだメロディーをなぞってゆく。そのピアノはうたわない。かたまった筋肉をほぐすかのように、そこでおなじみの旋律はひとつひとつの音へとときほぐされてゆく。どこまでも純化された音がやがて行きつく先、それは無音の世界だろうか。

メロディーという意味をなすためでなく、反対に意味を「無」に帰してしまうために演奏するこのアルバムの特異性は、ありとあらゆる「演奏」というものに対する、いわばネガとして存在している。

Joao Gilberto~アンビエンチな夜
2004.10.7|music

ことしも行ってきました!ジョアン・ジルベルト来日公演。

去年は勢いあまって3公演も足をはこんでしまったわけですが、きょうのライブはそのどれともまたちがう、ひとことで表現するなら「アンビエンチな夜」、そんな印象の演奏となりました。昨年「奇跡の初来日」をはたしたジョアンは、日本の聴衆がうむ意味深い「静寂」、その「アンビエンチ(=場の空気)」に感銘をうけ、それは結果として予定になかったライブCDの発売、そして今回の再来日という前代未聞の出来事となってぼくらを驚かせてくれたのでした。

そして今夜、ジョアンは終始そんな「アンビエンチ」を慈しみながら演奏しているようにみえました。去年のようなピリッとした緊張感や思わず身をのりださずにはいられないような鬼気迫るギターワークこそ体験できなかったものの、リラックスした空気のなか一瞬一瞬を存分に味わうかのような、またべつの感動がそこには用意されていました。

冒頭の「Ligia」にはじまり、全体的に静かでゆったりとした楽曲が多くを占めていたこともそうした印象をもった一因かもしれません。また今夜は、全25曲中、半分以上の13曲を盟友アントニオ・カルロス・ジョビンの楽曲が占め、ちょっとした「ジョビン・トリビュート」といったスペシャルな(?)趣きもありました。

ゆったりとした楽曲を演奏するとき、ジョアンの声とギターはよりいっそう絶妙にブレンドされ、その穏やかであたたかな音はきくものの心をとろとろに溶かしてゆきます。それは、まるであらゆる時間が止まってしまった凪の海に浮かんでいるかのような、なんとも得がたい時間をぼくらにあたえてくれたのでした。

Obrigado Joao!

またしてもジョアン・ジルベルト
2004.10.16|music

またしても、ジョアン・ジルベルト。

2年つづけての「来日公演」も無事おわり、ライブに足をはこんだひとたちともいろいろ話をした。ジョアンのライブは、それを体験したひとそれぞれにとって《なにか特別なもの》として心に刻みこまれたようだ。そのいっぽうで、ぼくらが「ジョアン、ジョアン」と念仏のようにくりかえすことがよく理解できない、そういうひとだっているだろう。CDを聴いてはみたけれどピンとこなかった、というひともいるかもしれない。そんなひとたちにひとつだけ、ぼくは伝えたいのだ。

ジョアンの「真骨頂」はライブにある。ずいぶんたくさんボサノヴァを聴いてきたけれど、ぼくがジョアンの「すばらしさ」をほんとうに理解したのは、去年、ライブを体験してからである。単調なリズムにのってぼそぼそと呟いているように聞こえるかもしれないが、よく耳をすまして聴いてほしい。そんなかれのボーカルが、とても繊細かつ微妙なグラデーションによって成り立っていることにおどろくことだろう。それは絶えまなくゆれうごき、変化する。かれが弾くギターにもまた、おなじことがいえる。

ほんらい、たくさんの楽器がいっしょになってはじめて演奏することができる「サンバ」を、かれはたった一本のギターでやってのけてしまう(ジョアンが発明したその奏法を「バチーダ」という)。そしてそのパーカッションのようなリズムのうえに展開される、精妙かつ大胆なコード。つまり、この声とギターが織りなす独特の世界こそが「ジョアン・ジルベルト」であり、それをさしてひとは「ボサノヴァ」と言う。極論すれば、ジョアン・ジルベルトがいなくなればボサノヴァもなくなるということである。

しかもかれは、おなじ曲をおなじようには演奏しない。そこには、毎回はじめて耳にしたようなフレッシュなおどろきがあるし、聴けば聴くほどあらたな《発見》がある。だからこそぼくらは、なんどでもライブ会場に足をはこびたくなるのだし、いまや日本は、それがゆるされる世界にほんの数カ所しかない幸運な場所のひとつなのだ。

もういちどジョアン・ジルベルトをきいてみようかな、というひとには、去年の東京での演奏をおさめたすばらしいライブCDをおすすめしたい。あまたあるかれのライブCDのなかでも、かれの「スタイル」をとてもリアルに伝えているという点では「ベスト」と言い切っていいと思う。そしてこれはぜひ、ヘッドフォンできいてほしい。もちろん「ながら」もNG。

たいせつなひとがもらすかすかなことばに耳をすますように、ジョアン・ジルベルトの音楽が語りかけてくるものにぜひ耳かたむけてほしい。けっして無駄な時間にはならないと思うから。

ハリケーン・スミス
2004.10.20|music

価値観の違いをはかる《ものさし》として、ぼくの場合、音楽の趣味というのがある。たとえば、ハリケーン・スミスがうたった「Oh Babe,What Would You Say?」という曲があるのだが、ぼくはたぶん、これをキライというひととはともだちになれない気がする。

それは、ビートルズのエンジニアやピンク・フロイドの1stアルバムのプロデュースなど、いわば裏方仕事に徹してきた「ハリケーン・スミス」ことノーマン・スミスが、ひょんなことからよわい49にして発表したデビューアルバムにおさめられた一曲なのだが、そこに展開されるのは、そのあかぬけないルックスとしゃがれ声からは想像つかないドリーミーで繊細なポップソング。いや、ほんとうにポップなものとはこんなふうに、花も嵐も踏み越えて(?)はじめて辿りつくことのできるある境地からしか生まれえないものなのだろう。

ところで「台風」はどこへ行ってしまったのか。さっきまでの猛烈な雨はうそのようにやみ、真夜中の空にはちいさくまたたくオリオンがくっきり見えている。

夢の話
2004.10.25|music

ゆうべみた夢の話でお茶をにごそうなんてちょっと安易かな?とも思いはするのだけれども、あまりにも愉快な(ボク的に)夢だったもので、すぐに忘れてしまうというのもなにかもったいない気がしてこうして書いている。

その夢の中で、ぼくはある映画の「特集上映」の企画を実現すべく東奔西走しているのだった。それは、「浪花のモーツァルト」ことキダ・タロー先生が「音楽」を担当した作品ばかりをあつめた「特集上映」であった。

ぼくはあこがれのキダ・タロー先生に面会し、情熱的に説得した。そのかいあって、キダ先生はこの企画に快諾してくださったばかりか、そら色の専用リムジンでぼくをつぎの目的地まで送りとどけてくれまでした。しかも、そのリムジンを運転しているキダ先生の「付き人」というのが、なんと「力士」の高見盛なのだった。まさにセレブの嵐である。

プランナーであるぼくは次なる段階、つまり配給会社の説得へとむかう。担当者は男女2名、手応えは十分といえた。とくに女性担当者はかなりノリ気な様子で、こう言った。「だって、いま『お笑いブーム』だもんね」。「浪花のモーツァルト」をつかまえて「お笑いブームだもんね」はないだろうと思ったが、気づけばぼくもあいづちをうち、同意しているのだった(キダ先生ごめんなさい!)。

夢というのは、ふだんから気になっていることがあらわれるものだと、以前どこかで耳にしたおぼえがある。たしかにここしばらく、ぼくはキダ・タロー先生のことが気になっている。廃盤になってしまったCD『浪花のモーツァルト キダ・タローのすべて』をずっと探しているし、やはり絶版になっている著書『コーヒーの店・大阪』も欲しくてしかたない(どこかで見かけた方は、ぜひご一報を!)。だから、夢にキダ・タローがあらわれたとしてもさほど驚きはしないのだけれど、いっこうにわからないのはなぜ?高見盛???

「夢判断」にくわしい方がいたら、ぜひおしえていただきたいものである。

ショーロの祭典
2004.10.31|music

ショーロという音楽、ご存知でしょうか?

『ボサノヴァ』の林さんのテキストからかいつまんで紹介すると、日本でいえば明治時代、当時ポルトガル人が支配していたブラジルで突然変異的に生まれた音楽、それが「ショーロ」です。その音楽のベースとなっているのはヨーロッパの伝統的な舞踏音楽、つまりワルツやポルカといったクラシカルな音楽ですが、黒人奴隷たちが演奏することによって、そこに切れのいいリズムや即興といった要素がくわわり、いつしか独自なスタイルをもつ音楽に変身してしまったというわけです。

ちなみに「ショーロ」という名前は、ポルトガル語の「ショラール(=泣く)」を語源にもつそうで、その音楽の特徴をまとめれば、「泣きのメロディー」をもち、インストで演奏されるブラジル独自のダンスミュージックということになります。またその音楽は、その後に誕生するサンバやボサノヴァのルーツのひとつともいわれており、前出の林さんの表現をかりるなら「晴れた日のカフェのBGMとして活躍しそうな、濃いコーヒーに似合う音楽」でもあります。そういえば、ショーロの名曲をあつめたCDに「カフェ・ブラジル」なんてタイトルのもありましたっけ。moiでもときどきショーロをかけていたりするので、あるいは耳におぼえのある方もいらっしゃるかもしれません。

すっかり前置きがながくなってしまいましたが、そんなショーロをたっぷり聴くことのできるコンサートがひらかれます。その名もずばり『ショーロの祭典』(11/17 WED 三鷹市芸術文化センター「星のホール」)。

「ブラジル風バッハ」で知られるブラジルの国民的作曲家エイトール・ヴィラ=ロボス(Heitor Villa=Lobos)の没後45周年を記念しておこなわれるイベントです。国内で活躍する5つのショーロ・バンドと、この日のために特別に編成されるアンサンブル・ヴィラ・ロボスが登場します。ヴィオラォン(ガットギター)やバンドリン、カヴァキーニョといったブラジル音楽には欠かせない楽器にくわえて、フルートやヴァイオリンも活躍する「ショーロ」は、クラシックやジャズを好んで聴くひとにもじゅうぶんチャーミングなはず。チケット料金も手ごろなので、なんとなく気になったかたは足を運ばれてみてはいかがでしょう。

余談ですが、ここでちょっとプチ・トリビア?! 公式サイトにある、このイベントを企画したギタリスト阿部浩二さんのポートレイト(「アー写」ってヤツですね)は、じつはmoiで撮影されたものです。へぇ~、へぇ~、へぇ~・・・。というわけで要チェック!ちなみに阿部さんは、日本を代表するサンバ・バンド「バランサ」のギタリストとして国内はもとより、本場ブラジルなどでも演奏しているほか、ライブではバンドネオンの小松亮太やクレモンティーヌらとも共演している名プレイヤーでもあるのです。

というわけで、「ショーロ」という音楽のこと、すこし知ってもらえたらうれしいです。

自慢、にならなかった話
2004.11.5|music

N氏に自慢しようとおもい、ストロベリー・スウィッチブレイドのデビュー曲「Trees and Flowers」の7 inchシングルをもっていったら、敵もさるもの、おなじ曲の12ichシングルをもってきたからびっくりした。

あまりにマニアックすぎる出来事なのでだれにも公言せず封印してしまうつもりだったのだけれど、ネタがなかったので書いてしまった・・・

ちなみにこの曲、彼女らのパンキッシュなルックスとは裏腹に、オーボエの牧歌的な旋律も印象的な、清々しいネオ・アコの名曲。N氏によると、フリッパーズ・ギターもサンプリングしているのだそう。片づけしながらひさしぶりに聴いたが、やっぱりいい曲だった。

♪ふぃんらん
2004.11.20|finland

このblogをマメにチェックされているようなフィンランドマニアな方ならきっと、モンティパイソンが歌う「フィンランド」という曲のこともご存じだろう。

この曲の存在を、モンティパイソン・フリークの友人から教えてもらったのはもうずいぶんと昔のこと。ひさびさに思い出したので、さっそく調べてみた。

フィンランド フィンランド
ボクの好きな国フィンランド
ポニーで山歩きをするか、キャンプをするか
あるいは、ひたすらテレビをみてるだけ

フィンランド フィンランド
ボクの好きな国フィンランド
朝メシにする? 晩メシにする?
軽く昼メシにでもしようか?
フィンランド フィンランド
フィンランド それですべて

意訳だが、まあこんな具合にフィンランドという国がいかに退屈か?がとぼけた調子で歌われてゆく。

よく、フィンランド人に「フィンランドっていいよネ」という話をすると、「信じられない?!」という感じで首をヨコに振られることがあるのだけれど、そんな屈折感の背景にはきっとこんな「おちょくり」があったりするのだろう。だから、面とむかって「なにもないのがフィンランドのいいところだね」と言うのはちょっとはばかられる。こちらはいい意味で言ってるつもりでも、相手はきっとそうはとらないだろうな・・・。気をつけよっと。

シベリウスの歌曲
2004.11.28|music

フィンランドで研鑽を積んだピアニストの水月恵美子さんが、ひさしぶりにmoiをたずねてくださいました。

水月さんは桐朋学園大学を卒業、ソリストとして国内で活動の後、フィンランド政府給費留学生としてフィンランドにわたりシベリウス音楽院に入学します。シベリウス音楽院では舘野泉さんに師事し、同校のソリストコースを最優秀の成績で修了した後、サヴォンリンナ音楽祭、オウルンサロ音楽祭などへの出演のほか、2000年には舘野さんとともにCD「タンゴ・デュオ!」を録音するなど内外でご活躍中です。

その水月さんが、おなじくフィンランドで北欧歌曲の研鑽を積んだメゾソプラノ駒ケ嶺ゆかりさんとともにシベリウスの歌曲を全曲演奏するコンサートがひらかれます。水月さんによると、シベリウスは生涯に100曲ほどもの歌曲作品をのこしており、うつくしい曲も少なくないのですが、そのほとんどが「スウェーデン語」ということもあり実際に演奏される機会はきわめて少ないのが現実だそうです。フィンランドの自然や神話を愛したシベリウスの知られざる名曲の数々を、本場フィンランドの空気を知っているおふたりが演奏するこのコンサート、音楽好きはもちろんのこと、フィンランド好きな方にとってもまたとない機会といえるでしょう。

「シベリウス歌曲全曲演奏シリーズ」の第1回にあたる今回は、「気楽にお楽しみいただければ」というおふたりの意向から、コンサートスペースをもつチャイニーズレストランでの「飲茶ランチつきコンサート」というスタイルでひらかれます。ようやく冬らしいお天気になってきた今日このごろ、フィンランドに思いをはせつつシベリウスの音楽に耳をかたむけるなんて、なかなか有意義な日曜日のすごしかただと思いませんか?

◎ シベリウス歌曲全曲演奏シリーズ 第1回
 出 演/駒ケ嶺ゆかり(M-S)、水月恵美子(Pf)
 曲 目/5つのクリスマスの歌 op.1、7つの歌op.13
 日 時/12月5日[日] 13:30~16:15
 会 場/華空間(東急東横線 学芸大学下車徒歩10分)
 料 金/4,500円(飲茶つき)
 ご予約・お問い合わせは会場(「華空間」)までお願い致します。

電線に鳥
2004.11.29|music

いつのころからか、「電線に鳥」というモチーフがやたらと目につくようになった。文字どおり電線に鳥がとまっている、ただそれだけのデザイン。べつだん珍しくもないのに思わずみとれてしまうのはどうしてだろう。空を横切る「電線」にちょこんと止まる「鳥」の黒いシルエットは、どこか「音楽」を連想させる。その眺めが五線譜の上の音符を思わせるからだろうか。

画像にうつる3枚のレコード(CD)はそれぞれ時代もジャンルも異なるけれど、「電線に鳥」というスリーブデザインで共通している。それにすこぶる音楽的という意味でも。

電線にとまる4羽の鳥を、4人のアルト・サックス奏者にみたてているのはフィル・ウッズ、サヒブ・シハブら4人のプレイヤーによる競演盤『Four Altos』。

イタリアのピアニスト、エンリコ・ピエラヌンツィ率いるスペース・ジャズ・トリオの『メレディーズ』は、よくよくみれば写真。幾何学的なレイアウトがうつくしい。

ワールドワイドに活躍するエレクトロニカのアーティスト高木正勝の『ジャーナル・フォー・ピープル』には、凝視しているうちにぜんぜんちがうものにみえてくる不思議な力のようなものを感じる。

電線で小休止する小鳥たち同様、ぼくらが目にしているこの世界もまた瞬時にして飛び立ってしまう、安定をしらない一瞬の眺めにすぎないのかもしれない。

そういえば、去年のちょうどいまごろ吉祥寺のギャラリーfeveでみたひらいみもさんの作品にも、「電線に鳥」のモチーフがたくさん登場していたっけ・・・。「電線に鳥」のこと、こんどみもさんにも訊ねてみようかな。

ブレイク前夜?モダーン今夜
2004.11.30|music

音楽レーベルMOTEL BLEUを主宰する佐久間サンが、moiにひさびさの登場。いま業界で「ブレイク寸前」と囁かれる要注目バンド「モダーン今夜」の12/8発売の2ndアルバム『青空とマント』をこっそり聴かせてもらっちゃいました。そこで、「早耳」なアナタのためにさっそくご紹介!

ひとことで言って、勢いあります。飛行機が離陸する瞬間の、あの気分、あの高揚感、です。サンバやカリプソ、ジャズ、歌謡曲(?)などさまざまな要素が混在する独特のスタイルもさることながら、なんといってもホーンセクションやヴァイオリンまでふくむ総勢11名(!)というビッグバンドがはなつキップのいいサウンドが魅力的。ほとんどの曲の作詞作曲をこなす永山マキさんのボーカルも、歌うことのよろこびにあふれてます。そして最高の美点はといえば、とにかくポップなところ。理屈ぬきで楽しめる音楽って、やっぱりいいじゃないですか?なんかご近所の人気者って感じで、「若いコからお母さんまで、ファン層広いですよ」という佐久間サンの言葉にも納得です。

ちなみに、このアルバムに収録のナンバー「あのフレーズ」は、ことしのUNITED ARROWSのクリスマスキャンペーンCMソングとして現在J-WAVEでオンエア中とのことなので、すでに耳にされた方もいらっしゃるかもしれませんね。

来年にむけてちょっとガス欠気味というアナタは、ドリンク剤より「モダーン今夜」のCDを聴いていますぐ元気を取り戻しましょー!

naomi & goroのX'masアルバム
2004.12.15|music

あと10日にせまったクリスマス。ことしは週末と重なることもあり、すてきなクリスマスのすごしかたを思案中という方もきっと多いのでしょうね。そんななか、クリスマスをできるだけ静かに迎えたいという方にぜひおすすめしたいのが、naomi & goroによるボサノヴァ・クリスマス・アルバム『Presente de Natal』です。

じつはこのアルバム、去年のクリスマスシーズンに発売、moiでも販売していたのですが、ことしも店内で流していてたくさんお問い合わせをいただいています。そこで、あらためてこちらでもご紹介しておこうかと思います。

naomi & goroは、ヴォーカルの布施尚美さんとギタリストの伊藤ゴローさんによるデュオです。歌われるのは、おなじみの『きよしこの夜』や『ウィンター・ワンダーランド』といった《定番》にくわえて、ブラジルのクリスマスソングやオリジナル曲などぜんぶで10曲。2本のヴィオラォン(ガットギター)に布施さんの透きとおった歌声、そしてときどきアイリッシュハープや鈴などのパーカッションがはいるアレンジはとてもやさしくて、あたたかい。いいかげんクリスマスソングは聞きあきたというひとだって、これならきっとOKなはず。

このCDのもうひとつの目玉は、雑誌「fu-chi(フウチ)」の表紙などでも人気のイラストレーター石坂しづかさんの「イラストブック」がついていること。このジャケットでも、トナカイにフィンランドの国旗がきいてますよね。プレゼントとしても好評です。

タワーレコードやHMVなど大型CDショップ、WEBでは333discs、amazonなどで入手できます。「ふぅん」とおもった方はぜひ!

ヨーロピアンジャズと出会った
2004.12.26|music

この世の中に存在するありとあらゆるすべての音楽をききつくすということは、まずもって不可能だ。石油や森林が有限なのにたいして、「音楽」という資源は無限である。それに、どんなに採掘したところでだれにも叱れない。じぶんにとって《宝物》のような音楽、きいたこともないような未知のメロディーやハーモニーが、どこかしらないところにまだまだ眠っているのだ。だからぼくは音楽をきく。

ちかごろ、ジャズをきくようになった。とりわけ、スカンジナヴィアやベルギーといったヨーロッパのピアノトリオを。むかしは、ジャズというのは偏屈なオヤジのための音楽だとおもっていた。でも、ヨーロッパのジャズをたのしむのにむつかしい理論や知識はいらない(もちろん、あってもかまわないのだけれど)。たとえるなら、ヨーロピアンジャズとは一陣の風、車窓からみた景色、すれちがいざまの香水の匂いとおなじく、かすかな余韻を残して通りすぎてゆくものである。それをきくのに、なんの気構えもいらない。雲のように刻々と色やかたちを変えてゆくその音楽に、ただ身を委ねていさえすればいいのだ。そういう意味では、《いい音楽》をもとめているすべてのひとに、それは開かれている。

クリスティアン・エルサッサー(christian Elsässer)はドイツのピアニスト。けっして「有名」なひとではない。ドイツのマイナーレーベルから、アルバム『FUTURE DAYS』でデビューしたのは2001年、なんと彼が17歳(!)のとき。とにかくすばらしいのひとこと。夜、アルバムを一枚聴き終えると、すっかりどこか旅してきたような気分になった。じつはこのレコード、お客さまで吉祥寺のレコ屋のスタッフであるSさんからプレゼントしていただいたもの。Sさん同様、ぼくもなにかいいものを見つけたらそれをだれかに教えたいとおもってしまうクチなので、年末の大掃除もそこそこに、こうしてさっそくブログにかいている。

またひとつ、ささやかな《宝物》がふえた。

美空ひばりとナラ・レオン
2005.1.20|music

最近、残念に感じたこと。

なんとはなしに観ていた美空ひばりをとりあげたテレビ番組で、自宅で撮られたとおぼしき60年代後半(?)のポートレートの背景に、スタンダードジャズの名盤にまじってナラ・レオンのアルバム『ナラが自由を歌う』(1965)が写っていた。

写真の感じからいって雑誌のグラビアかなにかだろうから、そこに写っているレコードはどれも彼女がふだんから愛聴していたものだったかもしれない。その番組によると、美空ひばりは日ごろから好んでジャズを聴き、内外のジャズミュージシャンとの親交も厚かったようなので、あるいはだれか彼女にナラ(のレコード)を引き合わせた人物がいるのかもしれない。

いずれにせよこの時期に、しかもこの、ナラのディスコグラフィーのなかでもとりわけ「渋い」一枚であるこのアルバムを美空ひばりが耳にしていたという事実はとても興味深い。だってもしかしたら、『ひばり ジャズを歌う』ならぬ『ひばり ボッサを歌う』が誕生していたかもしれないのだから。

Charles Williams
2005.1.24|music

古い話で申し訳ないのだけれど、フィンランドのレコードショップ「Lifesaver」がじつに「いい仕事」をしてくれたので、ここはひとつ、やはり書かねばならぬということで。

軽快に刻むギターのイントロにのって走りだすコンガとソフトなコーラス、そしてなんといってもメロウなボーカルの心地よさ・・・そんなフリーソウルな名曲「Standing In The Way」を歌うのは、無名のシンガーCharles Williams。1975年にリリースされたこの曲を発掘し、2002年7inchシングルとしてリイシュ-したのが冒頭にのべたLIfesaver Recordsである。では、はたしてなぜフィンランドなのか?

じつはこのレコード、フィンランドのみでひっそりとリリースされたものだからというのがその理由。Charles Williams自身はジョージア出身のアメリカのシンガーなのだが、どういう理由があったのかはともかく、かれはフィンランドにやってきた。そしてこの曲を吹き込んだというワケである。このあたりのいきさつはどうやら裏ジャケにびっちり書かれているようなのだが、フィンランド語ゆえまったく理解できないのが残念である。

ところでジャケットにはこんなフレーズが記されている。いわく「Charles Williamsはフィンランドから出たがっている」。リリースから30年の時を経て、どうやらかれの願いは叶えられたといっていいかもしれない。

残念ながらすでに入手はむずかしくなっているようですが、Lifesaver Records Oyのサイトにて試聴できます。

RONNY JOHANSSON TRIO『Tenderly』
2005.2.2|music

雪白(ゆきしろ)のジャズ。

スウェーデンのピアニスト、ロニー・ヨハンソン率いるトリオが奏でるジャズには、どこかそんなたたずまいがある。とりわけアールトの花瓶「Savoy」をあしらったジャケットデザインもしゃれている、最近でたアルバム「テンダリー」のオープニングを飾るナンバー「On Vacation」は、よく晴れた冬の朝にこそききたい一曲。

ロニー・ヨハンソンの弾くピアノはどこまでも透明で、軽い。それにクリスタルを通過した光のようなほどよい硬さ、がある。スウェーデンで活躍する森泰人のベースも存在感たっぷりで、全体のサウンドをギュッと引き締めている。このCDにきけるのは、まさしくあのなつかしい《北欧の空気》そのものだ。

つけくわえて、もうひとつ。「北欧」のジャズに、ピアノトリオというスタイルはもっともふさわしい。ピアノ、ベース、そしてドラムスという三つの楽器に期待されているのは、そこでは白熱したやりとりよりも、意味深い「余白」であるかのようにみえる。主張しすぎない、そんな「北欧的な美質」はまた、やはりジャズプレイヤーたちにもあてはまるのだろうか。

爽快で端正なサウンドをきかせるロニー・ヨハンソンやラーシュ・ヤンソンら「北欧のピアノトリオ」作品は、どこか北欧のプロダクトデザインにも似て、派手さには欠けるものの、じっくりと腰をすえてつきあいたいどれもチャーミングな「佳作」ぞろいである。

無音の恐怖
2005.2.9|music

きのうにひきつづき、出来すぎな話を。

CDプレーヤーが壊れてしまった。カエターノ・ヴェローゾのCDが終わって、べつのCDに差し替えたとたんうんともすんともいわなくなってしまったのだ。念のため、ちがうCDで試してみたりしたものの状況は変わらず。そういうときにかぎってターンテーブルの針は折れてるわ、MDプレーヤーは自宅に持って帰ってしまったわで、打つべき手立てがみあたらないのだった。そして、店内は無音。無音はいやだ。だいたいが、気まずい雰囲気になる。いかにふだん「音」に助けられていたかが、こんなときよくわかる。

しばし途方に暮れていると、やってきたのはレコードショップ店員のSさん。続いて、仕事のかたわら、ミュージシャンとしてライブハウスなどで活動しているOさんもやってきた。ともに起きている間はつねになにか音楽をきいているという無類の音楽好きである。そんなふたりが、よりによってこんなときに限ってやってくるのだからもうワケがわかんない。いつもならば持ってきた音楽を聴かせてもらったり、逆に聴かせたりして音楽談義に花を咲かせるところだが、主役を欠いた舞台よろしく無音の世界ではどうにも調子がでない。挙げ句の果てには、「なんなら交代で歌でも歌いましょうか?」なんてバカな提案をしてお茶を濁す始末・・・。

けっきょく、これはきっとお前ら、たまには耳を休ませたらどうなんだという「音楽の神さま」のおぼしめしにちがいない、ということで話を無理矢理まとめて笑いあったのだった。ところが、おふたりが帰られた後ダメもとでもういちどCDをかけてみると、なんと、まるでなにごともなかったかのように音が出るではないか!!!うーん、まったくもって出来すぎな話である。

PETER NORDAHL『Directors Cut』
2005.2.12|music

北欧ジャズの風通しのよさをいまもっともよく体現しているのがこのひと、スウェーデンのピアニスト、ペーター・ノーダールではないだろうか。

ピアニストとしては、トリオでの活動をとおしてスタンダードからバカラックまで幅広い楽曲を柔軟にとりあげる自在さを、またプロデューサーとしても、キュートなシンガー、リサ・エクダールを世に送りだすなどスウェーデンの若手ジャズミュージシャンのなかでも一際目をひく存在であるペーター・ノーダールだが、ここに紹介するアルバム『Directors Cut』はとりわけ異色の一枚だ。

全10曲のうち、彼自身のオリジナルが8曲(残りの2曲はバカラックの「ディス・ガイ」と映画「イル・ポスティーノ」のテーマ)。トリオをベースにしながら、曲ごとにフルート、サックス、それにトロンボーンといった管楽器をくわえてよりクラブジャズ的なアプローチを展開している。逆にいえば、あまりジャズの匂いのしないアルバムではある。3年ちかく前に手に入れたものだが、moiではオープン以来コンスタントにかけつづけている「定番」でもある。

ペーター・ノーダールのピアノというと、なんともいえないリリカルな音色が魅力なのだが、本来の持ち味はそのままに、ここではよりクールでスタイリッシュなプレイが繰り広げられている。それはたとえるなら、ステファン・リンドフォルスがデザインした食器「Ego」のような印象、かな?

ちょっとブルージーで映画のサウンドトラックを彷佛とさせる「at the movies」。ラテン・フレーバーの楽曲での趣味はいかにも「北欧人」ぽい。とりわけ、夜のしじまにしみ入ってゆくようなワルツ「hymn 3:4」。ストックホルムへ行って、もしも夜、そぼふるような雨降りだったならこの曲を口笛で吹こうときめている(まだ、行ったことないのです)。

ジェリー・マリガンの名作「Night Lights」への北欧からの返答。スクエアなニューヨークとヒップなストックホルム、ふたつの夜に思いをはせつつ耳かたむけたい。

北欧の家具のような音楽
2005.2.17|music

ストイックでありながらも、けっしてひとの手のぬくもりをわすれない北欧の家具がぼくはすきです。そして、The Sleeping BeautyのあたらしいCD「liv」はまさに、そんな北欧の家具をおもわせる作品です。

じつはこのCD、2003年の秋にmoiでおこなわれた高木やよいさんによるドローイング展のために制作、限定発売されたものなのですが、今回その音源を「泣く子も黙る(?)」オノ セイゲンがリマスタリング、さらにスリーヴデザインをリニューアル(もちろん高木やよいさんの作品。うつくしい!必見!)しあらたに正規リリースされることとなったものです。朝、夕暮れ、夜、そして雨の日の午後に聴きたい音の粒-という帯のことばどおり、ピアノとアコーディオン、そして声という3つの「色」が繊細なタッチで静謐な時間をなぞってゆきます。ここにあるのは、白いキャンバスに絵の具を塗り重ねてゆくようにていねいに描かれた音のタブロー。

moiの空間をふまえておこなわれた展示だけに、ここに聴けるサウンドはまた、ある意味moiで響くためにうまれてきた音といってもよいかもしれません。そんなわけで、ここmoiの空間を気に入っていただいている方、また、こころの「磁針」がいつも北を指しているという方はぜひ、いちどこのCDを手にとってみてください。

◎ The Sleeping Beauty / liv(マドレーヌレコード)
  1,575円 発売中

お求めは、moiのほか、HMV、タワーレコード、amazonなどでどうぞ。

一連の「手続き」
2005.2.19|music

ターンテーブルの針を、まだ交換してそれほど間がないにもかかわらずうっかり折ってしまった。

腹立たしいのでそのまましばらく放置していたところ、「フィンランド語教室ただいま休学中」のN本クンが「家に眠っていたので・・・」と言いつつ、あたらしいカートリッジを手にやってきた。「えらい、えらいぞN本クン。さすがは4月から『新社会人』だ」というわけで、ひさしぶりに店でアナログレコードをきいている。いいねぇ、アナログは。いかにも音楽をきいている、という感じがする。

コーヒーを淹れたり、レコードをかけたり、しょせんぼくはその一連の「手続き」がすきなのかもしれない。

CLUB AURORA
2005.2.24|music

フィンランドのユースカルチャーに関心があるというかたに、うってつけのイベントがあります。

「テクノ界のエルトン・ジョン」ことジミ・テナーをはじめ、国内外で活躍するフィンランドのDJ、ミュージシャン、メディアアーティストらが一堂に会してくりひろげる一夜限りのクラブイベント「CLUB AURORA(クラブ・オーロラ)」です。ジミ・テナーのほかにも、Uusi Fantasia、DJ ヨリ・フルッコネン、それに60年代から70年代にかけてのフィンランド産ジャズやレアグルーヴの復刻などでも知られるSahko Recordingsのレーベル・オーナーDJ TGといったメンツが登場予定。また、当日はメディアアーティストによる作品上映などもあり、フィンランドのクラブシーンに興味のあるひとにはたまらない内容となっています。

ところでこの「CLUB AURORA」、来月開幕する「愛・地球博~expo.2005」の関連イベントとしておこなわれるものだそうですが、こうしたイベントの場合、往々にしてふだんこの手のイベントとは無縁の「おエラいさん」のお客もおおくイベント的に盛り上がりに欠ける内容になりがち。というわけで、みなさんの力でぜひフロアを熱く盛り上げてください!

◎ CLUB AURORA@SDLX

 2005年3月18日[金]スーパーデラックス(六本木)
 前売3000円、当日3500円(ワンドリンク付き・税込)
 前売お問い合わせ 「スーパーデラックス」
 予約専用メールアドレス aurora*super-deluxe.com

For Nordic Music Lovers
2005.3.12|music

春にふさわしい、北欧関連の音楽イベントをふたつご紹介。

まずは、フィンランドの大作曲家ジャン・シベリウスを愛好するアマチュア演奏家たちによって結成されたアイノラ交響楽団の第2回定期演奏会から。

メインは、素朴で力強い「交響曲第1番」。そして、これに先立つ10年間に完成されたふたつの作品、「序曲ホ長調」、そして「劇音楽《クリスティアン2世》(全曲版)」が演奏されます。どちらもめったに演奏されることのない初期の作品だけに、今回はナマで聴くことのできる貴重なチャンスといえそうです。

ところで、これらの作品が完成された19世紀末のフィンランドといえば、「カレワラ」を題材にたくさんの作品をのこした画家 ガレン=カッレラやヘルシンキ駅を設計した建築家エリエル・サーリネンらが、じぶんたちの民族的ルーツを「芸術」を通じてアピールしようという熱い意気にみちた時代でした。若きシベリウスの音楽に、そんな「時代の空気」を感じとってみるのもよいでしょう。

タクトをとるのは、指揮者の新田ユリさん。初来日公演が、いまでも音楽好きのあいだで語りぐさになっているラハティ交響楽団を率いるオスモ・ヴァンスカのもとで研鑽を積んだ本格派です。シベリウスの音楽はやっぱりフィンランドの「空気」を知っている人間が演奏してこそ、というわけで、とてもたのしみです。コンサートは大田区民ホール アプリコ大ホール(JR蒲田駅徒歩3分)にて、3/20[日]14時開演です。全席自由1,500円。

つづいては、スウェーデンの清新なトラッド=フォーク・トリオFRIFOT(フリーフォート)のライブ情報。

ヨーロッパのトラッド音楽というと、まずまっさきに思い出されるのはアイルランド、ケルトの音楽だったりするのですが、じつはいまいちばん目が離せないのはスカンジナヴィアのトラッド=フォークなのだとか。実際、スウェーデンやフィンランドをはじめとする北欧の国々ではトラッド音楽の研究、教育、演奏がとても熱心になされていて、CDもたくさんリリースされています。またフィンランドのVARTTINA(ヴァルッティナ)などもそうですが、伝統的な音楽に対しても既成の枠組みにとらわれず、モダンな解釈をどん欲に試みてゆく果敢さに北欧のトラッド音楽の担い手たちに共通の姿勢をみてとることができるようにおもいます。

いま、フリーフォートの音源をききながらこの文章を書いているのですが、ひとことでいうなら心洗われるようなヒューマンな音楽という印象。「古臭い」とか「難しい」、「窮屈」といったイメージはまるでありませんね。なお今回の公演では、以前からフリーフォートの音楽に心惹かれていたというジャズピアニスト佐藤允彦がゲスト出演してのセッションも予定されているとのこと。ドイツのフリー系ジャズの名門レーベル「ECM」からもアルバムをリリースしている彼らだけに、ジャンルを超えたスリリングな音のやりとりが期待できそうです。ライブは、キリスト品川教会 グローリア・チャペルにて4/6[水]19時開演。全席自由、前売4,500円/当日5,000円。

セルゲイ・ハチャトゥリャン
2005.3.22|music

偶然テレビで目にした若いヴァイオリニストの演奏に、すっかり心奪われてしまった。

ヴァイオリニストの名前はセルゲイ・ハチャトゥリャン。アルメニア出身で、今年20歳になる。テレビでみかけたときには、バイオグラフィーはおろか彼の名前すらも知らなかった。それでも、彼がたぐいまれな音楽性の持ち主であることは一瞬にして理解できる。音色のうつくしさ(彼は18世紀につくられた名器「ガダニーニ」を弾いている)もさることながら、神経のゆきとどいた微妙な強弱や粘り気のある独特の歌い回しなど、その演奏はとても個性的であると同時に、その年齢にはみあわない悠然とした足取りには、すでに熟成された「風格」のようなものすら漂っているのだった。「天才」だ、と直感した。

というわけで、さっそく彼、セルゲイ・ハチャトゥリャンのCDを手にいれた。2003年にフランスの「naive」というレーベルからリリースされたもので、シベリウスと母国の同姓の作曲家ハチャトゥリャンの「ヴァイオリン協奏曲」とがカップリングされている。ライナーによると、なんと彼は2000年、15歳のときにすでに、フィンランドでおこなわれた「シベリウス国際音楽コンクール」で史上最年少での優勝を果たしているとのこと。じっさい、ここできかれるシベリウスはほんとうに心を打つ。

ハチャトゥリャンにとって「フィンランド」という国は、じぶんのキャリアにとって重要な意味をもつ「栄冠」を手にした場所という以上に、もっと特別な場所であるらしい。「フィンランドという国の《空気》にとても強く感じるものがあった」と言う彼は、また、シベリウスの作品を演奏するにあたって「フィンランドの景観がもたらす深遠な感覚にどっぷりとつかった」とものべている(意訳で失礼!)。彼の弾くシベリウスに「匂い」があるのは、こうした一歩踏みこんだ解釈あってこそにちがいない。

と、まぁなんだかベタぼめなわけだが、このCDはじっさいもっととくさんのひとたちに聴かれてしかるべきだと確信しているので、ここでこうして紹介している。

余談だが、いま手元にある輸入盤は「デジパック仕様」、しかもクラシックらしからぬきれいなデザインでおすすめ。

春になったので
2005.4.7|music

のどが痛い。のどがあまりに痛くて、夜中に目がさめた。たぶん「花粉症」のせいだろうが、「かぜ」という線も捨て切れない。おかげで朝から「のどあめ」が手放せない。と、まあ、そんなこんなはあるわけだが、せっかく春になったので、こんなCDを引っ張りだしてきた。THE 3 SOUNDSの「Out Of This World」。

真冬のブ厚い上着がいらなくなって、身も心も軽くなるこの季節にはいつも彼らの音楽が恋しくなるのだ。こうして、このCDを合図に《耳の衣がえ》がはじまる。なんといってもTHE 3 SOUNDSの魅力は、この季節にふさわしいココロ浮き立つようなカジュアルさを運んでくれるところにある。カジュアルだけれども、けっしてラフではない。ジャケットははおっているがネクタイは締めない、そんな絶妙な肩のチカラの抜け具合がその気持ちよさのツボである。

ライナーノーツによると、このアルバムは彼らが「BLUE NOTE」にのこした最後の作品のアウト・テイク集なのだそうだ。あるいは、このアルバムのくつろいだ空気はそんなエピソードから生まれてきたものといえるかもしれない。

薄い布のような春の夜風をふわりと身にまとったら、「Girl Of My Dreams」のテンポで足どりも軽く、さあ歩こう。

JAZZを愛でる
2005.4.10|music

よくジャズをあつかっているレコードショップ(CDショップではない)にゆくのは、「ジャズがすきだから」というよりも、むしろジャズのレコードジャケットを眺めるのがすきだからかもしれない。

泣く子も黙るブルーノート、西海岸のパシフィックに東海岸のアトランティック、敏腕プロデューサー、クリード・テイラー率いるCTI、そしてドイツのSABA/MPSやECMなどジャズ系レーベルのレコードは、どれもすぐれて個性的で、かつ秀逸なアートワークを誇るジャケットデザインのものがおおい。いわゆるジャケ買いの宝庫である。画集や、ましてやオリジナルのアート作品を手に入れるにはそれなりの出費を覚悟しなければならないけれど、中古のジャズレコードならほんの千円もあれば十分だ。気がむけば質の高い音楽まで聴けるのだから、なんとも効率のいいインテリアである。じっさい、高名なアーティストや新進気鋭のフォトグラファーが手がけた作品もすくなくない。

ジャズのレコードショップでは、まるで気のきいた雑誌のページを繰っているような気分で想像力を刺激されて時をすごすことができる。だから、白状すれば、あまりそこではレコードは買わない。そもそもレコードを買うことが目的ではないからだ。ジャズを愛でる、あえていえばそんな感じだろうか。けっして「いい客」でないにもかかわらず、それでもレコードショップはつねにぼくらに開かれている。ありがたい話だ。

※現在発売中の雑誌『Pen』No.150の特集は、ずばり「ジャズのデザイン」。心ときめきます。

セロニアス・モンク
2005.4.22|music

セロニアス・モンクについてぼくが知っていることは、おどろくほどすくない。家を探すとモンクのCDが二枚でてきたが、これはぼくではなく奥さんの趣味。

映画「真夏の夜のジャズ」はぼくにとって《心のベストテン》にはいる作品だが、そこにもモンクは登場する。ずんぐりとした指が奏でるのは、気のぬけたサイダーのような音楽。ツルの部分が竹(?)でできているサングラスが格好いい。

そういえば、吉祥寺の井の頭公園のちかくには「モンクス・フーズ」というオーガニックレストランがある。割り箸ではなく、ふつうの塗り箸がびっしり入った茶筒のようなものが各テーブルに置かれているのが、当時まだ中央線沿線の住人でなかったぼくにはいかにも中央線っぽくて新鮮だったことを記憶している。ところで店名だが、セロニアス・モンクにちなんでそうしたのか、「修道僧」、あるいはまさかとは思うけれど「トリカブト」という意味からとったのか、それともそのぜんぶにひっかけたのか、そのあたりは不明。ただ、むかしレコードジャケットを飾っているのをみたことがあるので、やっぱりセロニアス・モンクなのだろうとにらんでいる。

不意にリズムがギクシャクしたり、突拍子のない和音がひょっこり顔をだしたりするモンクの音楽は、なんだかやけに中央線っぽい。唐突ではあるが。もしもセロニアス・モンクが東京で暮らすことになったら、かれはきっと中央線沿線をえらぶにちがいない。昼下がり、西荻あたりのひっそりとした一戸建て(しかも築四十年以上の純和風平屋)からあの独特のピアノがもれきこえてくるなんて、いかにもハマるシチュエーションではないだろうか?「ゆうべ戎(えびす)で見かけたよ」なんてね。

ジョージ・シバンダ
2005.4.26|music

おそらくは、世界でいちばんイノセントな音楽。

ジョージ・シバンダ。ローデシア(現ジンバブウェ出身。陽気で楽天的、突きぬける青空のように開放的な声、そしてギター。カントリー、ジャグ、ラグタイム...あらゆる音楽が、かれにかかればシバンダというひとの「色」に染まってしまう奇蹟。でも、声はバカボンのパパ。

活躍したのは、1950年前後のわずか10年あまり。イギリスの音楽学者ヒュー・トレイシーに見い出されたのをきっかけにラジオを通じ曲がヒット、アフリカ各地で人気をよぶもギャラはすべて「飲み代」に消え、けっきょくアルコールがもとでこの世を去ってしまったという、まさに正調「ボヘミアン」。写真一枚すら残っていない。

でも、声はバカボンのパパ。なのだ。

真夏日には。
2005.4.29|music

四月ですよ、まだヒノキの花粉だって飛んでますよ、なのにそこかしこで「真夏日」。どうなっているんでしょうか、いったい。

そんな真夏日には、こんな音楽をききます。マリオ・アヂネー(Mario Adnet)の「リオカリオカ+ジョビン」。海の「青」、空の「青」、そんなジャケットそのままに、耳に涼やかな風をよびこんでくれる一枚です。

BAR BOSSAのはやしさんが書いた『ボサノヴァ』(アノニマスタジオ)によると、マリオ・アヂネーは「現在のリオのボサノヴァ界を支える」人物。そしてこのアルバムは、カリオカ(リオっ子)でもある彼がリオデジャネイロに捧げた一篇のオマージュとなっています。じっさい、アルバムではマリオの自作曲のほか、ノエル・ホーザ、アントニオ・カルロス・ジョビン、それにオス・カリオカスのオリジナルメンバー、イズマエル・ネトらリオにゆかりの深いミュージシャンたちによる楽曲がとりあげられているほか、その「水」がカリオカたちの音楽的才能の源とされる「『カリオカ川』にこの作品を捧げる」というメッセージも寄せられています。

ただ、ここにきかれる「リオデジャネイロ」がけっしてリアルな「リオデジャネイロ」ではないということくらいは、実際にそこを訪れたことのないぼくでもおおよそ見当はつきます。それは、長い年月をかけて美しく結晶化した《リオのポートレイト》にほかなりません。そしてそのことが、ちょっとだけぼくのこころを「切なく」させます。マリオ・アヂネーはきっと、かつてノエル・ホーザやジョビンがいた「リオデジャネイロ」という都市の記憶をこうしてカタチに残しておきたかったのではないでしょうか?

青いフィルムのなか閉じこめられた都市が、真夏の白い光をうけてその残像を映します。

CLOUDBERRY JAM
2005.5.18|music

再結成したスウェーデンのバンド、「クラウドベリージャム」がただいま来日中。ずーっとむかしに一度ライブをみたことがあるけれど、そのサウンドは意外に骨太な印象でした。「スウェディッシュ・ポップス」全盛の90年代よりも、きっといまのほうがちゃんと音楽的に評価してもらえるかもしれません。そしてボーカルのジェニーちゃんもまた、5年の歳月を経てすっかり骨太に、いえ、貫禄がでましたね・・・。まあ、それはこっちもおなじこと。他人のことは言えません。

ところでバンド名「クラウドベリージャム」をフィンランド語になおすと、「Lakkahillo(ラッカヒッロ)」となります。ちなみに和名は「ホロムイイチゴ」というのだそうです(北欧のベリーについては、フィンランド在住でmoiにもおこしいただいたことのある宮澤豊宏さんのレポート[花いっぱい.com内]をごらんになるとよいですよ)。きくところによると、「ラッカ」はフィンランドでもとりわけ北の方に自生するベリーで、なかなか見つけるのが困難なものだそうです。そのため、「ベリーはみんなのもの」という意識が強いフィンランド人のあいだでもこれだけは特別、たとえ見つけてもその場所は他人にはけっして口外しないのだとか。ちょっと日本における「マツタケ」っぽいですね。

味はというと、ベリーから連想する「酸味」があまり感じられず「トロッ」とした食感があります。まさに「ベリー界の『ウニ』」といった感じでしょうか???ベリーらしい風味はいまひとつですが、おそらくその甘さと食感にフィンランドのひとびとはメロメロなのでしょう。生はもちろん、ジャムにした「ラッカ」はお菓子や、こんな具合に「レイパユースト」とよばれるキュッキュッという不思議な歯ざわりのある「焼きチーズ」に添えて食されたりします。「ラッカのジャム」はスーパーや空港などでもふつうに売られているので、北欧を旅行される方はぜひ「おみやげ」にされるとよいでしょう。

CAETANO VELOSO
2005.5.23|music

8年ぶりに来日したカエターノ・ヴェローゾのライブから、帰ってきたところです。とにかく濃密で完成度の高い、すばらしいライブパフォーマンスでした。さまざまな〈人生〉を真に生きてきた人間にのみ許された、大海のような千変万化の表現世界がそこにありました。

音楽をきくとき、それがロックであれジャズであれクラシックであれ、たいてい収まる〈場所〉はいつもどこかきまっているような気がするのですが、ことカエターノの音楽にかんしてはなにかちがっています。どこかべつの〈場所〉にささってくるような、そんな感覚があるのです。「音楽」というよりは、「体験」。しかもそれは、まっさらなじぶんのなかの「空きメモリ」のような〈場所〉なので、そこにすっぽり収まってゆく感覚が意表を突かれたようで、なんともいえず気持ちいい。とにかく気持ちいいのです。ちょっと危険なほどに。

今回の一連のライブがどんなにすばらしいものだったかについては、中原仁さんやディモンシュ堀内さんのブログを読んでいただくとして、個人的には、アンコールで演奏される「Terra(テーハ)」一曲のためだけでも行って損のないライブだと思います。残すところ、東京公演はきょうとあしたの二日間のみ。迷っているひと、絶対に行くべきですよ。

水曜日のmoiのBGMは『MUITO』できまりだな・・・。

メガネくんの逆襲
2005.6.3|music

北欧の「メガネくん」たちから、いま目がはなせなない。「いじめられっ子」風ルックスとはうらはらに、その音楽性は相当にクセもの。長い冬の間、部屋の中で孤独にたくわえられたエネルギーが、「Vappu(メーデー)」の若者たちのように一気に爆発する、そんな「オレ流」な春の到来。

ノルウェーを代表する、というよりも、いまや世界を代表する「メガネくん」といえばアーランド・オイエくん。ソロは、正統派ネオアコの「Kings of Convenience」での彼からは想像のつかないハウスサウンド。しかもミックスCD『DJ Kicks』では、リミックスした曲にのってザ・スミスや、バナナラマがカヴァーした「ヴィーナス」をじぶんで歌いまくってしまったり、曲と曲とを歌って「つなぐ」なんて荒技までやってのけてしまう暴走ぶり、らしい。まさに、北極まで突き抜ける孤高のメガネくんなのである。

かたやスウェーデンからノミネートの「メガネくん」は、ヨハン・クリステル・シュッツ(Johan Christher Schutz)くん。こちらはオイエくんのようなエキセントリックさはないものの、友だち少なそうっぽさにかぎって言えば、あるいはオイエくん以上かも。そんなシュルツくんが、しんみりギターをつまびきながらメランコリックに「So Happy」なんて歌ってしまうのだからたまらない。メガネをかけたベン・ワット。新作、期待してるよ!

かくなる上はぜひ、フィンランドのどこかに隠れ潜んでいる「メガネくん」を発掘してきたいものである。

スウェーデンのレコード
2005.7.15|music

といっても、ひところ流行った「スウェディッシュ・ポップス」とかでは、ありません。「こども」のためにつくられた、1960年代なかばの7inchレコードです。

さすがは児童文学や教育に熱心なお国柄、北欧には「絵本」などとおなじようにこういう「こどものための音楽」というジャンルが確立されています。レコードショップにはたいてい、「ロック」や「ジャズ」と並んで「こどもの音楽」というカテゴリーがあり、ずいぶんとたくさんのCDが並べられています。それだけ需要がある、ということなんですね。

内容は、こどもやおとなの歌手がうたう親しみのあるメロディーと、ちょっとした「語り」が収録されています。それにつけてもイラストがかわいいので、思わず部屋に飾りたくなります。

打ち水ジャズ
2005.7.21|music

思えば去年のいまごろは、連日の40℃ちかい暑さにやられて「打ち水」をしてみたり、即興的につめたいドリンクを創作してみたりと、その場しのぎにいろいろなことをやらかしていたのだった。それにくらべれば、ことしの夏はまだだいぶいい。オトナな夏である、いまのところは。

とはいえ、やはり「夏」。暑いものはやっぱり暑いのである。せめて「打ち水」のように、耳元からひんやりクールダウンしてくれるような涼しげな音楽はないものだろうか?そんなコトをかんがえながら吉祥寺のまちを徘徊していたら、レコードショップのスタッフでmoiにもちょくちょく顔をだしてくれるSくんが、そんなリクエストにうってつけのスカンジナヴィアン・ジャズのCDを紹介してくれた。

スウェーデンのボーカリストLinda Pettersson(リンダ・ペッテション)のアルバム『Who are you?』である。けっして存在感のある声の持ち主というわけではないけれど、その透明感あふれるクールネスはまるで大理石にふれたときのような心持ち。風通しのよさは選曲のセンスにも感じられる。スウェーデンの女性ボーカルがたいがいそうであるように、リンダ・ペッテションもまた、ここではジャズからロック、ブラジルまで幅広いレパートリーの曲をとりあげている。とはいっても、いわゆる「スムースジャズ」のような狙った感じは一切なくて、アンダーシュ・パーション(pf)率いるトリオの演奏も端正だし、ときどき絡むベテランウルフ・アダカーのトランペットの余韻もすばらしい。

ちなみにラストは、U2のカヴァーで、最近ではプラズのバージョンがヒット中の「Haven't Found」!ほかにもピーター・ガブリエル、ジミ・ヘンドリックス、ジョニ・ミッチェルなど、ふだんジャズになじみのないひとにもとっつきやすいハズ。

寝苦しい夏の夜に。ぜひ。

STANDARDS~土岐麻子ジャズを歌う~
2005.7.29|music

ひとからすすめられて、このCD『STANDARDS~土岐麻子ジャズを歌う~』を手にとった。「Cymbals」の解散後、Voの土岐麻子が録音した二枚のジャズ・カヴァーアルバムのうちの一枚。

ぼくはCymbals時代の彼女についてはあまりよく知らないのだけれど、このCDは聴いていてとても気持ちのいいアルバムである。サブタイトルには「ジャズを歌う」とあるが、そこにいわゆるジャズのボーカル・アルバムにありがちな「重さ」はぜんぜん感じられない。言い方が的確かどうかはともかく、鼻歌モードなのだ。ジャズのアレンジにのって、しっかり歌われているにもかかわらず。

ひとつには、彼女の声。ちょっと乾いた感じの清潔な声は、洗い立ての綿のシャツのような感触である。影が感じられなかったり湿り気がなかったりすることは、ここではかならずしもマイナスの要素にはなっていない。すくなくとも、ぼくはその「声」を支持する。

もうひとつには、その選曲。タイトルにもあるように、ここで歌われるのは「スタンダード」の楽曲である。といっても、それはいわゆるカタログ的な意味での「スタンダード」ではない。土岐麻子というひとが、日々慣れ親しんでいる楽曲という意味での「スタンダード」、つまり「定番」なのである。じっさい、チェット・ベイカーも歌った「Like Someone In Love」、リン・マリノのヴァージョンが一時クラブでもヒットした「Feeling Good」、ティアーズ・フォー・フィアーズによる80'sヒット「Everybody Wants To Rule The World」、それにEW&Fの名曲「September」など、彼女のレコード棚が目に浮かんできそうな楽曲がならぶ。こんな時代やカテゴリーにこだわらない選曲が、このCDになおいっそうの風通しのよさをあたえている。

恋人ではなくて、異性のともだちと他愛のないおしゃべりをしながらコーヒーでも飲んで、そのうしろに流れていてほしいのはきっとこんなCD。

iTMSで遊んでみた
2005.8.27|column

パソコン(mac)のハードがある日突然クラッシュしてしまい、おかげでなしくずし的にOS.10ユーザーの仲間入りを果たしたという話は、以前こちらでも書いたとおり。せっかく「OS.10ユーザー」になったのだからと、今月オープンしたばかりの「iTunes Music Store(iTMS)」で遊んでみた。

iTMSはアップルコンピュータが運営するミュージック・ダウンロード・ストアで、期待されていた日本国内でのサービスがようやくスタートし話題になっている。

ダウンロードできる曲はぜんぶで100万曲以上と鳴り物入りでのスタートだったのだが、いざフタをあけてみるとなぜか探している曲(アーティスト)にかぎってみつからない。打率にしたら2割くらいだろうか。かなり欲求不満気味。一曲150円という価格については、まあ妥当なところ?いままで一曲だけのためにアルバムを買ったりしたこともあったことを思えば、かえって「安い」といえるかもしれない。

ところでぼくは、このiTMsを利用してこんなふうに遊んでいる。 お気に入りの曲のタイトルを入力してストア内を検索すると、いろいろなアーティストによる「カヴァー・バージョン」をかんたんにみつけだすことができるのだ。ぜんぜん知らなかったり、あるいは意外なアーティストがカヴァーしていたりして、なかなかおもしろい。こういう場合、その一曲のためだけにアルバムを一枚買うというのはけっこう勇気がいるところだが、一曲単位で気楽に購入できるのはとても便利だ。これから先、もっともっとラインナップが充実してくることがあれば、このiTMSを利用する機会も人ももっとふえるにちがいない。

残る問題は、ぼくがいまだにiPodを持っていないという事実だろうか・・・。

DAG ARNESEN/Time Enough
2005.9.8|music

はじめはピンとこなくても、聴きこむほどに味わいをます、そんないわゆるスルメ系なアルバムというのがある。そして、後々だいじな一枚になったりするのも、たいていはそういうアルバムだったりする。

ノルウェーのジャズピアニスト、ダグ・アルネセンのトリオによるこのCDは、ぼくにとって、まさにそんなスルメな一枚である。おしえてくれたSクンによると、アルネセンは寡作ながら「通好み」なピアニストであるとのこと。しかもこのアルバムでは全曲をかれが書き下ろしていて、メロディーメーカーとしてのその非凡な才能も発揮している。ミネラルウォーターにたとえれば、けっこう硬度が高い感じ。さらりとしているようにみせかけておいて、喉元でグビリと主張してくる。ラーシュ・ヤンソンしかり、抒情的でありながらも甘々にはならない、その《節度》こそが北欧のクールネスであるかもしれない(個人的な好みからすると、ドラムスがもうちょっとおとなしくしていてくれるといいのだけど)。

キース・ジャレットの『The Melody At Night,With You』にもつうじるラストのピアノ・ソロ「Til Jens」は、しんしんと降りつもるその冬はじめての雪のようなうつくしさ。

ヨハンナ・ユホラ
2005.9.24|music

ことしもまた、フィンランド政府観光局主催のイベント《Finland cafe》がはじまります。期間中に予定されているさまざまな企画のなかでも、とりわけぼくが注目しているのはヨハンナ・ユホラのライブパフォーマンスです。

フィンランドといえば、数多くの優れたプレイヤーを輩出している知る人ぞ知る「アコーディオン大国」。じっさい、この夏訪れたフィンランドでも、ヴィヴァルディの「四季」を巧みに演奏する若いストリートミュージシャンと遭遇しました。弱冠27歳の「ヘルシンキっ子」ヨハンナ・ユホラは、シベリウス音楽院のフォークミュージック科で学んだ俊英ながら、タンゴやジャズにはじまりクラブミュージックまでさまざまな音楽の要素を吸収し独自のサウンドへと昇華させるとびきりの「個性派」といった印象。その存在感は、たとえるならアコーディオンを持ったビョーク?!

待望のソロ・アルバムもまもなくリリースされるというこのヨハンナ・ユホラのライブパフォーマンスが、なんと《Finland Cafe》では入場無料で楽しめてしまいます(店があるのでぼくは行けそうにないけれど・・・)。東京以外でも三重や大阪でのライブも予定されているそうなので、キュートなアコーディオン・プレイヤーのヒップなパフォーマンスにぜひ直に触れてみてはいかがでしょう。

Johanna Juholaの来日スケジュールの詳細は、コチラでチェック!

雨の樹
2005.10.15|music

雨が続いている(関東だけ、らしいが)。

そこで、ひさしぶりに武満徹が作曲した『雨の樹(レインツリー)』を聴いている。正確にいうと、『雨の樹・素描』。1982年につくられた、わずか3分のピアノ曲だ。武満は、大江健三郎の短編『頭のいい「雨の木」』に登場する「ふしぎな樹」にインスパイアされてこの曲を書いたのだそうだ。

雨の日に、雨をきく。

そういえば、いまはもうなくなってしまった「六本木WAVE」(←あんまり知らないや、というひと必見の記事)の一角には、たぶんこの曲からとったとおもわれる「レインツリー」という名前のカフェがあった。雨の日に、いろんなことを思い出すのはどうしてなんだろう?

Quintessence
2005.10.31|music

極北のほっこりソウル。

2ndアルバム『5am』が、つい先だって日本でもリリースされたばかりのフィンランドのバンド「Quintessence」。これは売れるんじゃないでしょうか?フィンランドの音楽で「売れそう」ということは、イコール「フィンランドらしくない」ということで、そのあたりがこのブログを読んでくださっているような方々のあいだでは評価が分かれるところでしょうけれど・・・

あのジャイルス・ピーターソンが、彼らの1stアルバムのイギリス発売に際してライナーノーツを執筆していると聞けば、音楽好きにとっては「80へぇ~」くらいのインパクトがあるのではないでしょうか。海外進出を見据えて活動をスタートした彼らは、当然の成り行きとして英語で歌っています。サウンド的には、ディアンジェロmeetsカーディガンズ?!エンマ・サロコスキのボーカルは、ソウルフルというよりもポップです。全体に、クールを狙っているけれどクールになりきれない、そういう「ぬるさ」はやっぱりなんというかフィンランドなんだよなぁ・・・ぼくはすきですとも、もちろん。

とにもかくにも、先日のユッカ・エスコラの来日、そして来年2月のファイヴ・コーナーズ・クインテットの来日決定と、最近なかなか活況を呈しているフィンランドのクラブミュージックシーンですが、ぜひこのクインテッセンスもSISUで来日を果たしてもらいたいものです。

80日間世界一周
2005.11.4|music

ジェラルド・ウィギンズというひとについてはなにもしらないが、映画『80日間世界一周』の音楽をピアノトリオ編成のジャズアレンジで聴かせてしまうという粋な企てにのせられて、思わず手にした一枚。

ジャズの演奏家のなかには、オーディエンスに対しても真摯な態度でその音楽と接することを要求するタイプが存在するいっぽうで、オーディエンスのざわめきやその場の空気までをも味方につけてしまう、そんなタイプもまた存在するようにおもう。このレコードをきくかぎり、ジェラルド・ウィギンズというピアニストはどうやら二番目のタイプであるらしい。

ヴィクター・ヤングのスコアによる有名なテーマ曲も、ボールルームの優雅さを思わせるようなオリジナル・ヴァージョンに対して、ここにきかれる音楽はもっとエネルギッシュで、ひとびとの歓声が波のようにわきおこる週末のカジュアルなレストランバーを思い出させる。スタジオレコーディングであるにもかかわらず、ウィギンズたちの演奏がライブのような臨場感を感じさせるのは演奏家としてのかれらのスタンスのあらわれであるにちがいない。

ヴィンス・ガラルデイとおなじくらい、理屈ぬきでたのしい心おどらせるジャズがそこにある。

シベリウス歌曲全曲演奏シリーズ 3
2005.11.11|music

ピアニストの水月恵美子さんから「シベリウス歌曲全曲演奏シリーズ第3回」のごあんないをいただきました。

このコンサートはピアニストの水月さんとメゾ・ソプラノの駒ケ嶺ゆかりさんが、シベリウスがのこした歌曲を数年がかりで全曲演奏してしまおうという意欲的なシリーズです。第3回目となる今回は、シベリウスが「都会の喧噪を嫌って」ヘルシンキから郊外のヤルヴェンパーへと住まいを移した時期に作曲されたふたつの歌曲、「5つの歌op.38」「6つの歌op.50」が演奏されます。とりわけ「5つの歌」は「秋をテーマとした作品」ということで、いま、この季節にこそ耳にしたい作品といえそうです。

演奏をする水月恵美子さんは、桐朋学園大学を卒業後、フィンランド政府給費留学生として「国立シベリウス音楽院」に留学、フィンランドを拠点に活躍するピアニスト舘野泉さんに師事し同校のソリストコースを最優秀の成績で修了、フィンランドのサヴォンリンナ音楽祭、シベリウスウィークをはじめ国内外で活躍されています。ちなみに水月さんは、ときどき顔を出してくださる「moiのご近所さん」でもあります。駒ケ嶺ゆかりさんもまた、フィンランドで舘野泉さんそしてマリア・ホロパイネンさんに師事し北欧歌曲のエッセンスをたっぷり吸収してきた、いわば北欧歌曲のオーソリティーといえる方。フィンランドの「空気」をよく知っているおふたりだからこそ、シベリウスの音楽への理解もいっそう深いものがあるはずです。

コンサートは、11/27[日]13時半から東急東横線「学芸大学」駅下車徒歩10分の「華空間」にて開催されます。コンサートの詳細、ご予約は「華空間」WEBサイトにてぜひご確認ください。

手触りのあるCD
2005.11.18|music

そのうち「本」はこの世から姿を消すだろうなんて、まことしやかにいわれていた時期があった。アナログレコードがCDにとってかわられたように、「本」もまた、紙にかわる記録メディアの普及にともないその形態を変化させざるをえないだろう、そんな話だったようにおもう。たしかに、現代は「本」が売れない時代といわれる。けれども、それはたんに「活字離れ」のせいであって、「本」がなにかべつのメディアにとってかわられたせいではない。その証拠に、「本」はいきている。

おなじように、ituneをはじめとするネット上の音楽配信が普及すれば、やがては「CD」というメディアは姿を消すだろうという意見もある。たしかに、一曲単位でいながらにして買い物ができてしまう音楽ダウンロードは便利にはちがいない。では、いずれすべての音楽がネット上で流通するようになり「CD」というメディアが存在しなくなるのかといえば、ぼくはそうはおもわない。なぜなら、「本」にも「CD」にも手触りがある。そうしてぼくらは、その手触りこそを愛しているからだ。「イタリア人って、人の手を介したものにしかおカネ出さないんだよぉ」と、ミラノ在住のイラストレーターで詩人のふじわらいずみちゃんは言っていたけれど、それはとてもまっとうな精神だとつくづく思う。他人が淹れてくれるコーヒーがおいしいのも、またおなじ理由。手のぬくもりや手触りのないものに、ほんとうの意味での愛着を感じることはできない。すくなくともぼくはそうだ。

すっかり前置きが長くなってしまったけれど、このコンピレーションCD『わたしとボサノバ』にはたしかに「手触り」が、ある。

これは、あまたあるボサノヴァのコンピレーションCDのひとつであることにちがいはないけれど、決定的になにかがちがうとすれば、それは名曲をただ羅列したり、こと細かな説明文をつけたりすることでボサノヴァの魅力を伝えようとするものではないというところにある。じっさい、このCDにはジョアン・ジルベルトやナラ・レオンのポートレイトも、ボサノヴァの歴史や秘密のエピソードも一切ない。かわりにあるのは、フードコーディネーター松長絵菜さんの手による何枚かの写真と、ボサノヴァの名曲からその名をとった『おいしい水』というタイトルのちいさな小説だけ。CDに収録されているのも、かならずしもよく知られた曲ばかりではない。ひとつひとつの曲は、読みさしの本や毛糸玉、あるいは食べかけのサンドイッチのように、ひっそりと置かれているにすぎないのだ。

教科書的な、あるいはベスト・オブ~的な「ボサノヴァのCD」を求めるむきには、この『わたしとボサノバ』はあまりおすすめできない。けれども、真夜中に、親しい仲間たちがひざを寄せ合ってちいさな声でささやくように歌い、育まれてきた「ボサノヴァ」という音楽、つまり世界でもっとも「手触り」を大切にしてきた音楽のエッセンスを伝えるには、あるいはこのCDの《スタイル》ほどふさわしいものはないかもしれない。

手もとに置いて、その手触りをたしかめながらぜひ耳かたむけてほしい一枚。

CD『わたしとボサノバ』(ユニバーサルミュージック)
・選曲と小説執筆/林 伸次(BAR BOSSA/BOSSA RECORDS)
・写真撮影/松長 絵菜
・ジャケット・デザイン/保里 正人(サンク・デザイン)

冬にきくべき2枚
2005.11.24|music

すきでやっていることとはいえ、毎日なにかしらをネタに文章を書くというのはそれはそれでけっこう大変だったりもするのですが、そういえばこんな切り抜け方もあったのね・・・というわけで、きょうは常連おくむらクンがおすすめする「冬にきくべき2枚」のご紹介です。

まずはマイケル・ジョンソンという、いまにも走りださんがばかりの名前をもつシンガーの、1977年に発表したセカンドアルバム「Ain't Dis Da Life」です。

うんうん、これはよいですね。ケニー・ランキンやジェイムス・テイラー好きなぼくとしては、まさにど真ん中。冬に、ちょっと暖房が効きすぎた室内で顔をほてらせながら聴きたいです。たとえるなら、六畳一間の「鍋パーティー」のあの感じが、このアルバムにはあります。友だちや家族との、時間を忘れるなごやかなひととき。そしてふと窓の外に目をやると、いつしか雪が・・・。フルートが絡むフォーキーモダンなワルツ「Circle of Fifth」、それに雪が降ったあくる日の晴れた朝を思わせるラスト「Mr.Arthurs Place」がお気に入りです。アン・サリーのざっくりとした感じが好きなひとにもおすすめですよ。

ということで、このアルバムの「ほくほく度」は・・・シチュー四杯。

つづきましては、その名もずばり「High Winds White Sky(邦題「雪の世界」)」というアルバム。カナダのシンガーソングライター、ブルース・コバーンが1971年に発表したセカンドアルバムで、ジャケットからしてすでに「雪景色」です。

こちらは、先ほどのマイケル・ジョンソンとは対をなす「冬」の情景。このアルバムの主人公は、おそらく冬の或る日を「ひとり」で過ごしています。つまり、モノローグです。思えば、雪に閉ざされた冬はそれじたいがすでに「密室」のようなもの、嫌が上にもひとを内へ内へと向かわせる季節です。こたつでミカンの皮など剥きながら、とりとめもなく物思いに耽ったりなどしているはずです。秋を振り返ったり、ときにはやがてくる春を思ったり・・・振り子のようなその「思い」の振れ幅を、ぼくらはこのアルバムに聴くことができます。ベン・ワットの「North Marine Drive」やキングス・オブ・コンビニエンスとおなじく、男子ウケの世界とも言えるかもしれません。一曲、一曲を取り出すのではなく、全体で味わってこそ魅力の伝わるアルバムだと思います。

ということで、このアルバムの「ほくほく度」は・・・ブランケット三枚。

以上、ネタ提供はおくむらクンでした。Kiitos!

サカリ・オラモがスゴかった
2005.12.4|music

こんなふうに「フィンランド屋さん」的なコトをしていると、身びいきというか、フィンランド人だからって甘やかしてるんじゃないの、と思われがちですが、いいえ、そんなコトは断じてありません。そういうこと一切を排してもなお、サカリ・オラモはかなりいい指揮者です。

手兵・フィンランド放送交響楽団との来日公演のハイライトをテレビでみたのですが、あらためて「いい指揮者」だなぁと唸ってしまいました。ひとことで言うと、このサカリ・オラモというひと、とても知的な指揮者です。それはそれは明解な「設計図」が彼の頭の中にはあって、タクトを通してそれを具体的に構築しているといった感じです。ところが、こういうタイプの演奏家というのは往々にして優等生タイプなので、スゴいことはスゴいけれど、どうにも感動できないといったケースがおおいのですが、しっかり末端にまで血が通っているというところがこのサカリ・オラモという指揮者の「器」の大きさであり、もしかしたらアラビアの「器」にも通じるフィンランドならではの「天然さ」からくるあたたかみなのかもしれません。

もうひとつには、このフィンランド放送交響楽団というオーケストラとの相性のよさ。こういうイキのいい演奏というのは、案外「超」がつくような一流オーケストラの演奏では出会えなかったりするものなのです。固い信頼で結ばれたオーケストラと指揮者とが一体となったとき、その音楽はときとしてどんな超一流の演奏家をもしのぐ感動をもたらしてくれるものです。じっさい、なんどかそういう体験を味わっているのでウソじゃありません。この日のフィンランド放送交響楽団の演奏、とりわけその指揮者の意図をパーフェクトに汲みとった反応のよさをきくかぎり、どうやらオラモとこのオーケストラとの関係はいま蜜月にあるようです(今回ナマできく機会に恵まれたひと、いい思いをしましたね)。今回の来日で、メインにチャイコフスキーの「悲愴」やマーラーの交響曲第4番といったおよそ演奏効果に乏しい、つまりフィナーレの盛り上がりを欠く曲ばかりをぶつけてきたのは、いいかえれば現在のかれらの自信のウラ返しといえるかもしれません。

とにもかくにも、このサカリ・オラモという指揮者からいま目が離せません。

前川國男 建築展
2006.1.12|music

きょうも病院。症状は相変わらず。発症からそろそろ20日、正直ここまで手こずるとは思わなかった。

きょうは友人のタナカ君が遊んでくれるというので、診察後待ち合わせて本郷三丁目へゆく。「本郷三丁目」へゆくのは、たぶん生まれて二回目くらい(これで、ぼくが東大卒ではないことがバレてしまった。いや、だれもそんなこと考えてもいないだろうけれど)。それにしても、予想外ににぎやかな街でびっくりした。

まずは、nonoさんおすすめのハンバーガーショップ「ファイアーハウス」で腹ごしらえ。「モッツァレラマッシュルームバーガー」という、舌がもつれそうな名前のやつを堪能させていただきました。うまかったです。その後、Iさんからよく話を聞かされていた輸入文房具のお店「スコス」さんをのぞいたりした後、本日のメインイベント『前川國男 建築展』をみるため東京駅へと移動。

ル・コルビュジェやアントニン・レーモンドといった世界的建築家のもとで学び、独立後は敗戦からの復興、高度経済成長、バブル前夜という時代に、公共建築を中心に大規模な建築作品を数多く遺した前川國男。アルヴァー・アールト同様、時代の要求と本人の建築家としての方向性とがうまく重なった、ある意味幸福な時代に生きた建築家といえるのではないだろうか。前川國男というと東京文化会館や都美術館などつい大規模な建築を思い出してしまうのだが、阿佐ヶ谷住宅のテラスハウスなど、ちいさな建築も手がけていたというのは意外だった。

意外といえば、展示物のなかに「前川國男の愛聴盤」ということでアナログレコードが数枚あったのだが、ちょっと前に流行ったミュージックバトン前川國男編みたいでなかなか興味深かったのでメモしてきた。

ジョン・コルトレーン『BRUE TRAIN』
ビートルズ『The White Album』
ジャック・ルーシェ・トリオ『PLAY BACH』

ジャック・ルーシェなんかはわかるような気がするのだけど、コルトレーンやビートルズ(しかも「ホワイトアルバム」!!)は・・・。さらに、

ヴェルディ 歌劇『アイーダ』
ベルク 歌劇『ヴォツェック』

かたや世紀のスペクタクル・オペラ、かたや無調性の不条理ドラマと、まったく対照的なふたつのオペラだが、どちらの作品をも上演できるような劇場の設計を夢想していたのだろうか?また、ちょっと異様なのは「レクイエム」が4枚(3作品)もあること。

モーツァルト 『レクイエム』 アーノンクール/ウィーン・コンツェルトゥス・ムジクス
ベルリオーズ 『レクイエム』 ベルティーニ/ケルン放送SO
ヴェルディ 『レクイエム』 バーンスタイン/ロンドンSO
ヴェルディ 『レクイエム』 アバド/ミラノ・スカラ座O

モーツァルトはおそらく最晩年に聴いていたものだろう。フランス物では有名なフォーレではなく、ベルリオーズというところがシブい。ヴェルディはよほど気に入っていたのだろうか。演奏も、濃厚な「とんこつ」とあっさりした「しょうゆ」という感じでマニアックなセレクトである。

「愛聴盤」といっても、誰かがなんらかの意図をもって選んでいるわけだからこれをもってどうとは言えないわけだが、こういうのは他人の家の冷蔵庫をのぞくような愉しみがあったりするものだ。その反面、勝手に選んでおいて「愛聴盤」なんていわれたらさぞかし迷惑だろうなぁ、とも思うのだった。たとえば、若気の至りで買ってしまった「長渕剛」とか・・・。こういう不測の事態を避けるためにも、これから「偉くなる予定」のひとにはぜひ、「愛聴盤」にはわかりやすい目印をつけておくことをおすすめしたい。

その後ちょっとコーヒーでもということで、有楽町へ移動。「前川國男展」の余韻を味わうべく、有楽町ビルヂングの喫茶「ストーン」へ。BGMは、ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』。まいった!40年前にタイムスリップした気分。

《Hesa系》の真打ち登場~Teddy Rok Seven
2006.2.23|music

テッポ・マキネンのソロ・プロジェクト、Teddy Rok Sevenのアルバム『ユニヴァーサル・フォー』がついに国内発売されました。めでたい!

テッポはNuspirit Helsinki、昨年来日したJukka Eskola Quintetへの参加、そして現在来日中のThe Five Corners Quintetのドラマーとして、まさに《Hesa系》(=ヘルシンキ系←勝手に命名)の中心人物といえるひと。そのテッポが、満を持して昨年リリースしたのが、このデビューアルバム「Universal Four」なのです。

サウンドは、ジャズをベースに、アフロ、ブラジル、ファンク、サイケデリックなどさまざまなスパイスで巧みに味つけられた、いわゆる《ニュージャズ》ということになるのでしょうか。ただし、こうしたサウンドが新鮮かというとそうでもない、むしろいま世界中にはこの手の音楽があふれていると言ったところで、あながちまちがってはいないでしょう。じゃあ、なぜいま「ヘルシンキ」なのか?それはおそらく《手触り》の問題なのです。

ぼくは、かれら《Hesa系》のサウンドを耳にするとアラビアの《Ego》というコーヒーカップを思い出します。一見シンプルにして機能的、ひどく洗練されたデザインにみえるのだけれど、じっさい手にしてみるとどこかもっさりとしたおだやかさが感じられる。もしおなじものを、東京やロンドン、あるいはNYでつくったら、きっとこんなふうにはならなかったことでしょう。全体的に、もっとエッジのきいた印象に変わっていたはずです。Teddy Rok Sevenのサウンドにもまた、ぼくは東京やロンドン、NYはもちろん、ストックホルムですらなく、まさに「ヘルシンキ」という都市からしか生まれえなかったであろうオーガニックなグルーヴ、《手触り》を感じてしまうのです。

Teddy Rok Sevenことテッポ・マキネンこそは、あるいはそんな《Hesa系》の真打ちと呼んでいいかもしれません。

アスファルトの音楽
2006.2.25|music

ちかごろよく聴いているのは、安藤裕子のアルバム『Merry Andrew』。

これはちょっと、ひさびさにグッとくる良質のシティポップスなのではないでしょうか。「シティポップス」というと、たとえば70年代後半から80年代にかけてもてはやされた「AOR」であるとか、日本では山下達郎、大貫妙子らが在籍したシュガーベイブ、最近ではキリンジなんかを思い出したりするわけですが、個人的には、その音楽にふくまれるアスファルトと土との割合が最低でも「7:3」以上でなければ「シティポップス」とは呼べないような気がします。その意味で、「シティポップス」とはつまるところ「アスファルト・ミュージック」なのですね。

で、この安藤裕子というひとなのですが、割合としては「8:2」以上(当社比)という純度の高さを誇っているといってよいでしょう。ほかにも長々と書いてみたいことなどあるのですが、なんか面倒臭くなっちゃったので、まあそういうことで。とにかくよいですよ、これは。

みみに優しい時間
2006.3.17|music

ときどき、思い出したように「なぞかけ」のような遊びをして楽しんでいるともだちがいる。

このあいだ、ぼくの誕生日にそのともだちから贈られたプレゼント、それは一枚のCDで、なかにはピアノ教則本《バイエル》の音楽がおさめられている。もちろんちょっとした「なぞかけ」なのだろうけれど、《こたえ》はなかなかみつからない。おもての写真は、彼女が旅してきたという「ベルリン」のものであることはだいたい察しがつくものの、いったい、なんでバイエルなんだ?と寺尾聡のように呟くことしきり・・・。けっきょく、不本意ながらともだちに「そのココロ」をたずねると、帰ってきたのはこいう《こたえ》。

みみに優しい時間には、やさしい音楽を。

なるほど、直球勝負でしたか。耳の調子があまりよくない日には、いつも仕込みをしながらきいています。でも、もしぼくがこどものころピアノを挫折していたら《逆効果》だったりして。

ちなみに、おなじともだちからいっしょにもらったのは、関根勤『バカポジティブ』とウサギ(!)のイラストのポストカード。こっちはわかりやすい。アリガトウ。

プッテ・ウィックマン
2006.3.27|music

スウェーデンのジャズクラリネット奏者プッテ・ウイックマンが、先月亡くなったそうだ。といっても、ぼくはけっしてかれの優秀なリスナーとは言いがたい。なにせ、かれのCDは一枚しかもっていないし、その一枚すらも訃報をきいて、そういえばたしか一枚もっていたような気が、なんて思い出したくらいなのだから。

手もとにあるのは、プッテと、ブラジルのミュージシャン、シヴーカが共演したCD。一曲を除いて、エドゥ・ロボ、バーデン、ドナートらブラジルの楽曲を演奏している。シヴーカ本人のものも二曲。そしてぼくがこれを手に入れたのは、「スカンジナヴィア・ミーツ・ブラジル」という最高に心ときめく顔合わせだったからという単純明快な理由以外のなにものでもない。録音は1969年、ストックホルムにて。おなじ年にはおなじストックホルムでもう一枚、トゥーツ・シールマンス&エリス・レジーナによる超名盤が誕生している。1969年という年は、それゆえスカンジナヴィア・ミーツ・ブラジルの《金字塔》のような年号として記憶されなければならない(純正スウェーデン人による「ギミックス」が、ブラジリアンな名盤「Brasilian Samba」をリリースするのはその翌年、1970年のこと)。

肝心な音はというと、はじめに書いたとおりぼくはかれのCDを一枚しかもっていないのでとやかく言える立場にはない。ただ、「異能のひと」シヴーカによる圧倒的なパフォーマンスに煽られたかのようにプッテもたいへん熱のこもったグルーヴィーな演奏を展開している。

そういえば、このCDを手に入れたのは京都の北山にある優里奈というショップだった。いつごろのことだったかはもうはっきりとは覚えていない。7~8年は前じゃないだろうか。ぼくにとって、京都-スウェーデン-ブラジルの奇妙なトライアングルの中心に、プッテ・ウィックマンという名前がある。

義父のレコード
2006.3.30|music

三年ほどまえに亡くなった義父が、若いころよく聴いていたというレコードの整理を手伝ってきた。レコードはほとんどがクラシックで、SP、LPあわせてざっと百枚ほどあったろうか。うちの奥さんによると、義父がレコードを聴いている姿をみかけた記憶はまったくないらしい。若いころはずいぶん熱心だったようだが、なにかきっかけがあったのか、あるいは自然とそうなったのか、いつしかレコードに耳傾けるという習慣じたいがなくなってしまったようだ。そんなわけだから、三十年以上手つかずになっていたレコードのほとんどはカビが生えてしまっていたけれど、さいわい聴けないほどのダメージを受けているものはすくなかった。

一枚、一枚レコードを調べていておどろいた。こういうのもなんだが、「玄人好み」とでもいうか、とても趣味がよいのだ。シューリヒトの「ブル9」、ビーチャムの「ジュピター」、クレメンス・クラウスのR・シュトラウス・・・、ベートーヴェンの交響曲にしても、第2と第4はワルター、「田園」はトスカニーニ、第7はフルトヴェングラーといったぐあいに曲ごとに、しかも「なかなかやるな」と思わせるセレクトになっている。これだけでも、相当に聴きこんでいたことがよくわかる。

さらに義父のコレクションをみてゆくと、チャイコフスキー、フランス音楽、それにシベリウスがずいぶんと目立っている。好きだったのだろう。とりわけフランス音楽はお気に入りだったらしく、ラヴェル、ドビュッシー、サン=サーンスといった「定番」にはじまり、プーランク、ミヨー、それにダンディといったマニアックどころまでしっかり押さえられている。そしてもうひとつ、義父の趣味が計り知られるとしたら、それはシベリウスのヴァイオリン協奏曲のレコードが二種あったことだろうか。これ以外はすべて、ひとつの楽曲につき一種類ずつ揃えられていたことからすれば、義父はこの曲に相当強い思い入れがあったのではないだろうか。

晩年の義父は、おだやかで寡黙なひとだった。かたわらの猫をなでながら、満足げにいつも静かにほほえんでいるようなひとだった。そんな義父だったから、あまりたいした話をしたという記憶はないし、むこうからいろいろと話を切り出してくるということもなかった。けれども、こうして義父のレコードを眺めたり、針を落としたりしていると、なんだかいま義父がここにいて、生前に話せなかった分まで対話しているようなそんな気分になってくるのだ。

Jazbo & Spencer『Two Divers』
2006.4.4|music

Jazbo&Spencer、またの名をランドセルを背負ったジャック・ジョンソン。

このアルバムは、アメリカ系デンマーク人の「お子ちゃま」JazboとSpencerのGross兄弟が2002年にリリースしたもの。音楽一家に育ったふたりは、まだ物心もつかないうちから家族とともにヨーロッパやアメリカを旅行しストリートライブなどを行ってきたという。そしてそんな旅のなかで生まれた音楽がつまった、いってみればJazboとSpencerの《旅行カバン》のようなものといえるのがこのCD「Two Divers」である(タイトル曲は、当時10才と8才(!!)だったふたりによるフランスのカフェでのライブテイク)。

R&B、カントリー、ブルース、そんなレイドバックしたサウンドにのって「変声期前」のあどけないボーカルが甘酸っぱくスゥイングするJazbo&Spencer、よくありがちな大人顔負けのお子様芸というわけでは、ぜんぜんない。その意味では(紹介しておいてなんだが)けっして万人ウケするものではないし、かといって玄人ウケするというものでもない。強いて言うなら、モンドな一枚。とはいえ、ただ聴いているだけでなんども頬弛ませてくれるCDなんて、そうめったにお目にかかれるものではない。

naomi & goro『HOME』
2006.4.19|music

naomi & goroの新作!南青山のインテリアショップ「I+STYLERS」のために制作された、全曲カヴァーによるコンセプトアルバム『HOME』がリリースされた。

たとえば、お気に入りの音楽をだれかに紹介しようとするとき、「ボサノヴァ」というキーワードをつかうことにぼくはいつだって戸惑ってしまうのだ。たしかに、それは魔法のことばのようにあっという間にその音楽のコアを伝えてはくれるだろう。けれどもその一方で、「ああ、またいつもの『ボサノヴァ』ね」とあっさり脇に追いやられてしまう、そういうリスクだってあるのだ。合成保存料とおなじくらいに、そのことばは便利で、毒がある。だからこそ、あえて「ボサノヴァ」ということばはつかいたくないのだ。それがnaomi & goroなら、なおのこと。

でも、はじめてこのCD『HOME』を耳にしたとき感じたのは、「ボサノヴァ」よりも「おだやかな波長」のようなものだった。だから、このふたりのCDをだれかにすすめるとするなら、ぼくはきっとこんなふうに言うだろう。

やさしい歌とやさしいギターが奏でるやさしい音楽が、ここにはありますよ。

THE YOUNG GROUP『TJONNIK』
2006.4.22|music

「水おいしいですね」と、よくいわれる。業務用の浄水器をとおしているので、きっとそのせいだろう。そのいっぽうで、でも、水って本来おいしいものじゃなかたっけ?とも思う。その「おいしさ」にあらためて気づかなければならないほどに、世の中は「おいしくない水」であふれかえっているということか。

音楽もまた然り。人工的なフレイバーの音に毒されてしまった耳に、「水」のようにナチュラルな音を、しかもいっさいの混ぜ物をすることなく届けるのはけっしてかんたんではない。からだに無理なく滲みわたってゆく音楽について、もういちどかんがえてみよう。革命でもメッセージでも、ましてや流行でもない、そういう音楽、つまり「水」のような音楽について。

そして、

水の「おいしさ」に気づくように、ぼくは「THE YOUNG GROUP」の怖いほどになんの意図ももたないその存在感に気づく。

◎ THE YOUNG GROUPのCD『TJONNIK』はmoiでもお取り扱いしております(税込み1,680円)。

Terje Gewelt『Hope』
2006.4.24|music

ジャズをきいている。ソロはストイック、トリオはスリリング、では、デュオは?

ノルウェーのベーシストTerje GeweltとフランスのピアニストChristian Jacobによるアルバム『Hope』にきくことのできるのは、時間と空間とを満たしてゆく濃密な対話。コーヒーでいえば、「蒸らし」の時間にそれはあたるかもしれない。挽いたばかりのコーヒーの粉に、じっくりていねいにお湯を落とし「そのとき」を待つ。デュオをきくことは、つまるところ待つことなのかもしれない。きこえてくる音のむこうがわに立ち現れる世界を100%迎え入れること、それこそがデュオの愉しみなのだ。

なお、ここに収められた演奏はすべてライブ録音。テリエ・ゲヴェルトがうまれたオスロにあるムンク美術館、かれが育ったラルヴィクの美術館、そしてドランメンの劇場など、これまた「対話」の舞台としては最高のお膳立てとなっている。

4曲目、アイルランド民謡で、たくさんのミュージシャンたちがカヴァーしている"The Water Is Wide"("There is a ship")、実はこういう演奏と出会うために日々ぼくは音楽をきいているのかもしれない。

ドンガ
2006.5.10|music

「一生にいちど」というものがある。たとえば、アイドル歌手にとっての「新人賞」。聖子ちゃんが顔をクシャクシャにして涙するのも無理はない。たとえ聖子ちゃんといえども、「新人賞」を穫れるのは一生にいちどのことなのだから。

同じように、と言っていいかはともかく、ぼくにとっていよいよお店をオープンする、まさにそのときに流す一曲というのもまた、一生にいちどの重要なセレモニーなのであった。ジョイス、フリーデザイン、ビル・エヴァンス、カエターノ・ヴェローゾ・・・それともやはりジョアン・ジルベルト?オープンを目前に、夢はふくらむいっぽうだ。それはそうだろう、なにせ一生にいちどの一曲を選ぶのだ。

そして、オープン当日はやってきた。しかしご他聞にもれず、オープン当日というのは忙しいものだ。それも、ただの忙しさじゃない。殺人的な忙しさだ。刻々と迫るオープンの時間、しかしいっこうにはかどらない準備。万全を期したはずが、なぜか足りない道具や材料。焦りはつのり、目は血走る。なんとか見切り発車気味に「開店」までこぎつけたものの、すっかり最初に流す一曲のことなどアタマの中からぬけ落ちている始末。気づけば、あれほどまでに楽しみにしていた一生にいちどの選曲は、手伝いにきていたブラジル音楽おたく(しかもサンバ寄り)の妻の手に委ねられているのだった。・・・嫌な予感。

かくして、記念すべきmoiのオープンを飾った一曲は、「サンバをつくった」といわれる男ドンガとなった。

二人でお茶を
2006.5.11|music

Tea for two、二人でお茶を。いわずと知れたスタンダードナンバー。題名からして、カフェにぴったりな一曲だ。

ちょっと物憂げなニック・デカロは雨の日の、スウェーデンのシンガー、リサ・エクダールなら、軽く飲んだ後に立ち寄った夜更けのカフェがふさわしい。

でもいちばんのお気に入りは、ジャンゴ・ラインハルトがギター一本でつま弾くTea for two。

ぶっきらぼうで、でも極め付きの一杯を淹れてくれるマスターのいる喫茶店で これがかかっていたなら、「ご祝儀」で、もう一杯をおかわりをすることにしよう。

チェット・ベイカー
2006.5.27|music

この季節になると、なぜか無性に聴きたくなる音楽がある。

ゆうべ君をみたとき、あのなつかしい感じがしたんだ ーと歌いはじめるチェット・ベイカーの「That Old Feeling」。イントロの軽快なトランペットとは対照的に彼の歌声はどこか物憂げで、「クルーナー唱法」とよばれる抑制のきいた歌い方は聴く者に不吉な感じすらあたえる。期待と不安ーその両極を振り子のように揺れ動くそのあいまいな感じは、だが、ラブソングにはむしろうってつけのようにも思える。そういえば、「フィガロの結婚」に登場する「ケルビーノのアリア」もまさにそんな感じだ。

ならばなぜ、きまってこの季節になるとこの曲を聴きたくなるのだろう?それはたぶん、5月から6月にかけてのこの時期がまた、なにかあいまいな感じを孕んだアンビバレントな季節だからではないだろうか。

春と夏のあいだで戸惑っているかのようなこの季節、雨というわけでもないのにもわっとした湿り気を含んだ夜の空気のなか歩いていると、なにやら例のあいまいな感じに見舞われてどうにも落ち着かない気分になってしまう。そして、そんな気分のときぴたりとハマるのが、ほかならぬチェット・ベイカーの歌うこの曲なのだ。

さらに話は個人的になるのだけれど、もうひとつ、ぼくにとってこの曲はダービー前夜、つまりまさに今夜(!!!)のテーマソングでもある。「ダービー」の日の、競馬場を包む高揚感は格別のものだ。その浮き立つような感情と、だがいっこうに「予想」の定まらない焦燥感。むしろ、考えれば考えるほど「正解」は遠のいてゆくように思われる。チェット・ベイカーが耳元で歌い出すのは、きまってこんなときだ。

町を出よう
2006.5.28|music

退屈のあまりこれを書き始めたいまは、土曜日の午後4時。いつもなら、わらわらと忙しく立ち働いているはずの時間なのに。

外は雨、客足もまばら。こんなときは、そんな状況にどっぷりつかって酔いしれてしまうというのも悪くない。ネが暗いのだ、たぶん。たとえば、内省的でサウダージ感覚あふれるカエターノ・ヴェローゾのNonesuch盤などは、まさにこういう気分のときのために存在するCD。そしてこのアルバムを聴くと、ぼくはきまってあるおじいさんのことを思い出すのだ。

そのおじいさんは独り暮らしで、ある一時ほぼ毎日のようにmoiに足を運んでくださっていた。若い時分はラグビーでならしたという、スポーツ好きでなかなかモダンな感覚をもったおじいさんだった。その日、ぼくはそのCDをかけていた。そのCDをかけていたということはきっと、「そういう気分」だったのだろう。

このアルバムにはカエターノ自身の代表曲のほか、ビートルズやマイケル・ジャクソン(!)などのヒット曲がボサノヴァ・スタイルでカヴァーされているのだが、それはコール・ポーターが作曲したスタンダード「Get Out Of Town」が流れているときだった。

「位置について!よーい!」

と、突然そのおじいさんが口にした。「はっ!?」よく状況がつかめないまま問い返すぼくに、それが歌詞の一部 ──So on your mark, get set, Get out of town(さあ、位置について!よーい!町を出るんだ)── であることを教えてくれたのだった。なんでも、1936年の「ベルリンオリンピック」のときに、そのフレーズが一種の「流行語」のようになったのだそうだ。いわゆる「スタンダードナンバー」として知られているこの曲も、それが作られた1938年当時には巧みに「流行」をとりいれた最新のヒットナンバーだったというわけだ。三まわりほども年の離れた者同士が、こんなふうに思わぬきっかけでつながるのがぼくのかんがえるところの「カフェ」なのだ。

その後、おじいさんはぱったりとお店に姿を現さなくなってしまった。近々、自宅を引き払って「老人ホーム」に入るのだとよく口にしていたから、いまごろどこかの「老人ホーム」で悠々自適の生活を送られていることだろう。

位置について!よーい!

年のわりにはよく通る、おじいさんの「声」がときどききこえる。

チボリ公園のステファン・グラッペリ
2006.6.4|music

北欧へ行きたい、でも行けない。そんな、やるせない初夏の夕暮れ。それでもぼくにはこのレコードがある。

大好きなステファン・グラッペリが、1979年7月6日にデンマークの首都コペンハーゲンにある「チボリ公園」でおこなったコンサートのライブ盤。この夜グラッペリとともにステージに上がったのは、ギターのジョー・パス、それに地元デンマークのベーシストニールス・ペデルセンという、実にイイ顔の持ち主3人。でも、なんといってもこのアルバムの「主役」はといえば、この夜チボリ公園に集った観客たちにちがいない。

たくさんの、老若男女の「笑顔」。世界でいちばん笑顔の似合うジャズマンはまた、居合わせた人をみな「笑顔」に変えてしまう天才でもある。もしもステージから客席を撮影したカメラがあったなら、映像にはきっと同じように笑みをたたえた人々のたくさんの顔が映っていたことだろう。北欧の7月といえば、もちろん「白夜」。日本の夕焼けよりもずっとクリアで力強い光の中、さわやかな風に吹かれて会場の門をくぐる人々の心持ちはいったいどんなものだろう?想像するだけでわくわくする。いつもならば邪魔に感じてしまう、演奏の途中で湧き起こるさざ波のような拍手さえも、観客たちのリラックスしたムードを伝えていてむしろ気持ちいい。年に1、2回しか聴かないけれど、聴けばかならずしあわせな気分にしてくれる、あまり知られているとはいえないながらも、ぼくにとっては「かけがえのない一枚」。

初夏のスカンジナヴィアのさわやかな「空気」とたくさんのしあわせな「笑顔」とをギュッと「真空パック」にしたかのようなこのアルバム。ステージ上でスゥイングする3人の極上の笑顔を「つまみ」にカールスバーグやツボルグといったデンマークビールでも飲み干せば、ほら、65cmくらい(当社比)北欧が近づいたでしょ?

MUSIC OF BILL EVANS
2006.6.11|music

雨を聞きながら、クロノス・クアルテットの演奏するビル・エヴァンスを聴いている。

ときおり強くなったり弱くなったりを繰り返しながら、でもいっこうに降りやむ気配を見せない6月の雨に、室内学的なアプローチでビル・エヴァンスの名曲をとりあげたこのアルバムはおどろくほど似つかわしい。

「雨」はときにロマンティックだったりセンチメンタルだったり、する。けれども、即物的な人間から言わせれば、それは人間の側のたんなる思い込みにすぎない。雨は、ただ降っているにすぎないのだから。そういう意味からすると、クロノス・クアルテットの演奏スタイルも、そこに一切のエモーショナルな解釈を差し挟まないという点で、また「雨」のようである。

ビル・エヴァンスの音楽はうつくしい。だが、その「うつくしさ」をロマンティックだったり、あるいはセンチメンタルだったりといったエモーショナルな部分に見ないのは、まさにクロノス・クアルテット流の「まなざし」といえる。その作業はたとえば、厚く塗りこめられた油絵の絵の具をていねいにぬぐってゆくことで、緻密で繊細なデッサンにたどりつこうという試みにも似ている。オープニング、弦楽四重奏により演奏される有名な「ワルツ・フォー・デビー」はため息がでるほどうつくしい。にもかかわらず、けっしてイージーリスニング的な甘い演奏になっていないのは、黙々と楽曲の《核心》をめざすかれらの演奏スタイルあってのものかもしれない。

このアルバムを聴いていると、ただただ降り続ける6月の雨もそんなに悪いもんじゃないな、そういう気分にさえなってくるから不思議である。

ゴー・ビトゥィーン
2006.6.21|music

80年代、好んで聴いていたバンドにThe Go-Betweensというのがあった。オーストラリアの出身ながら、スコットランドの「ポストカードレーベル」からアルバムをリリースするなどイギリスを中心に地味に地味に活躍したバンドである。いまも、日本で370人くらい(根拠ナシ)は彼らのことを憶えているかもしれない。「Spring Hill Fair」、いま聴いても最高!

ところで、彼らのバンド名である"Go-Between"を辞書で引くと、「仲立ちをする者」といった意味がでてくる。そして、それはまた、ぼくがここmoiでこうありたいと願う姿とも重なる。

カフェの扉をひらく人は、みなそれぞれカップ一杯分の「時間」を求めてやってくる。恋人や友だちと語らうために、仕事に疲れた自分をリセットするために、ときには自分だけの「ひとりの時間」を手に入れるために・・・。カップ一杯のコーヒー(あるいはお茶)は、ひとつのきっかけ、フックにすぎない。だから、とりたてて特別なお膳立てなどしなくとも、「時間」を求める人がいて、そこになにがしかのフックさえあれば、その空間は大きな意味での《カフェ》といえるかもしれない。つまり、そのとき店に立つぼくは無色透明の存在、たんなる「仲立ちをする者」である。

インテリアもBGMもコーヒーの味も、moiで提供するすべてについてぼくの理想とするところは、強烈な印象を残さないことにある。過不足なく、ただ空気のように、それぞれの「時間」が刻む秒針のあいだを静かに充たしていたいのである。Go-Betweensの「うた」のように。

公開リハーサル
2006.6.28|music

きょうは、開店前にナマでオーケストラを聴いてきた。

moiから歩いて3分のところにある杉並公会堂で、午前中、フランチャイズオーケストラである日本フィルの「公開リハーサル」があったのだ。

指揮は、把瑠都とおなじ(笑)エストニア出身のネーメ・ヤルヴィ。

今回は、あす木曜日、あさって金曜日にサントリーホールでおこなわれる「定期演奏会」のためのリハーサルで、練習するのは当日のメインのプログラムであるショスタコーヴィチの《革命》。リハーサルはほとんど「ゲネプロ」のような内容で、いくつかのポイントとなる箇所を除いては、、ほぼ全曲を通しで演奏するような感じ。全曲聴けるとは思っていなかったのでちょっと得した気分である。

また、《革命》の練習が比較的スムーズに運んだということで、休憩前に演奏されるノルウェーの作曲家グリーグの「4つの交響的舞曲」の練習もおこなわれた。こちらはふだんあまり演奏されることのない曲で、こういう作品をプログラムにまぜてくるあたりは、さすが北欧の指揮者である。

こちらも、練習の進め方こそおなじだが、《革命》とちがいなじみの薄い作品だからなのか、それとも民族的な旋律をとりいれた舞曲のリズムが日本人になじまないからなのか、やや手こずっているといった印象。練習もより丹念におこなわれていた。

ところで、グリーグの音楽はまさに北欧の夏を思わせるようなチャーミングな佳曲だが、あきらかにフィンランドとは異なる、より楽天的、あるいは開放的な印象がある。民族のちがい、思考をつかさどる言語のちがいは、こんなふうに「音楽」にも反映されるものなのだ。

さて、次回の公開リハーサルは、今回とおなじ杉並公会堂で7/12[水]午後3時30分より。指揮は沼尻竜典(ぬまじり・りゅうすけ)、曲目は世界初演となる野平一郎の新作。こういってはなんだが、難解な現代曲の場合、本番を聴くよりも、愉しいのはむしろリハーサルのほうかも・・・お時間のある方はぜひ。もちろん、入場無料。お帰りはmoiへどうぞ!

※「公開リハーサル」の詳細は、杉並区のイベント情報でご確認ください。

O SOL DE OSLO
2006.7.7|music

七夕である。天の川で、「おりひめ」と「ひこぼし」が一年にいちどだけ出会う夜。

そこで、朝からずっとスカンジナヴィアとブラジルの《一期一会》からうまれた音楽をきいている(こじつけもはなはだしい)。「スウェーデンのセルメン」ことギミックス。以前このブログでもとりあげたスウェーデンのジャズクラリネット奏者プッテ・ウィックマンとブラジルのシヴーカによる競演盤。あるいはまた、スウェーデンで録音されたエリス・レジーナとトゥーツ・シールマンスの「ブラジルの水彩画」。ただ、ジャケットで微笑むふたりのポートレイトは「おりひめとひこぼし」というよりはむしろ「山本カントクと泉アキ(古いっ)」のようではあるが。

ところで、おりひめとひこぼしは一年にたった一日しか逢うことをゆるされない超「遠距離恋愛」。心待ちにしていた「七夕」の夜も、いざそのときとなってみればなんとなくはにかんで、妙にギクシャクしてしまったり、伝えたい言葉がうまく伝えられなかったりと、いろんな心の機微があるはずだ。で、そんなブラジルとスカンジナヴィアの「遠距離恋愛」的出会い(=エンコントロ)だったら、ジルベルト・ジルがノルウェーの首都「オスロ」で録音したアルバム「O SOL DE OSLO~オスロの太陽」、これにつきる。

じつはこのCD、はじめて聴いたときの印象はなんだこりゃ?といった感じで、いちど聴いたっきりラックの奥深くにしまいこんだままだったのだが、ひさしぶり(6年ぶりくらい?)に「発掘」して聴き直してみたところ、意外や意外これがなかなかおもしろい。

ノルデスチとよばれるブラジル北東部の、土の匂いがプンプンするリズムとメロディーが、ノルウェーのクールで硬質なサウンドにふれて戸惑い、おどろき、震え、よろこんでいる、その感触がリアルに伝わってくるのだ。あらためて、クレジットをみておどろいた。ノルウェーから、フューチャージャズの「生みの親」で「ジャズランド」レーベルの主宰者ブッゲ・ヴェッセルトフトがキーボードで全面的に参加している。この遠距離恋愛のような、音楽的「出会い」のおもしろさを理解するには、6年前のぼくはあまりにも「お子様」だったということか。

さて、一年ぶりの邂逅を果たした「おりひめとひこぼし」、この夜ふたりはどんなことばをかわしたのだろう?

Pastry Jazz
2006.7.11|music

ジャズというと、なんとなく「夜」とか「お酒」といったイメージがある。それなら、すべてのジャズというジャズがそうなのかといえば、けっしてそんなことはない。日曜日の昼下がり、たとえばコーヒーや紅茶とともにペストリーなどつまみながら聴くのが似合うジャズだってあるのだ。そういう音楽を、とりあえず「ペストリー・ジャズ」、そんなふうに名づけてみようとおもう。

デクスター・ゴードンのアルバム「GETTIN' AROUND」。

ここで聴かれるデクスター・ゴードンのテナーサックスには、人なつっこい笑顔で、大きな手で握手を求められたときのようなゆったりとした安心感がある。そして、自転車をあしらった洒落たジャケットに「(自転車を)乗り回す」といった意味のタイトルも、まさに気分は日曜日、これぞ「ペストリー・ジャズの世界」である。

アルバムにおさめられた6曲のうちでは、ミドルテンポの「Heartaches」、「Shiny Stockings」といったナンバーがいい。大股で闊歩するかのようなD・Gのサックスに、影のように寄り添うボビー・ハッチャーソンのヴァイブ。気持ちいいことこのうえない。でも、なんといっても最高なのはラストにおさめられた「Le Coifeur」。デクスター・ゴードンの自作曲だ。めくるめくような楽しさ。だれからも邪魔されない、のどかな日曜日のためのサウンドトラック。

ところでこれはちょっとした偶然なのだが、ライナーノーツによると、このアルバムが録音された1964年当時、デクスター・ゴードンはアメリカを離れデンマークのコペンハーゲンに暮らしていたらしい。かれはスタジオで、録音のあいまに本場のデニッシュ・ペストリーなどつまんだりしていたのだろうか?

ジョアン・ジルベルト来日公演
2006.7.12|music

いま読んでいる本にこんな一節をみつけた。

かれは歌うのが好きでした。~中略~そして、めったにおなじ歌を二度とおなじようには歌わなかったものですから、だれもこれからかれが何を歌おうとしているか、何をしようとしているのか、ちゃんとわかった人はいませんでした。

また、

民衆歌手を職業歌手にするのは容易ではありません。なぜかというと、そういう歌手は歌いたくないような気がするときには、歌おうとはしないからです。他方また、歌いたいような気が本当にするときには、何時間でも途中でやめたくなくなるかもしれないのです。

レッドベリーというアメリカの民謡(ブルース)歌手について書かれたものなのだが、これを読んで、ぼくはジョアン・ジルベルトのことを思い出していた。

きまぐれ、気難しい、はたまた変人などと呼ばれることの多いジョアン。たしかに、その伝えきく奇行の数々には、ちょっとどうかと思われるものも少なくないのだが、そのいっぽうで、ぼくらがかれを「職業歌手」といううつわに閉じ込めようとすることに端を発する「誤解」はもっと多いのかもしれない。ジョアン・ジルベルトはたぶん、ぼくらがかんがえるよりはるかに「民衆歌手」であり、歌をうたいギターをひくのが好きなおじいちゃんなのだ。

そんなジョアン・ジルベルトの、3度目となる来日公演の公演日&チケット発売日が決定したそうだ(情報をくださったMさん、ありがとう)。くわしい情報は、こちらをチェック!

ジョアンをして「理想のオーディエンス」と言わしめた日本の観客をまえにしてのライブのこと、当然「ハズレ」はないはず。まだの方はこのチャンスにぜひ!!!

あまりにもうつくしい、2003年の初来日公演のライブ録音。とろけます。ウワサによると、今年の来日公演はDVD化も予定されているらしい。

690円でモンクが動く!
2006.7.22|music

偉大だ。それにしても偉大なのは、690円である。690円さえあれば、moiで「サーモンの北欧風タルタルサンド」がたべられる。それだけでもじゅうぶん立派なのに、なんと690円で動くセロニアス・モンクが見れてしまうのだから、まったくホント言うことなしだ。

『セロニアス・モンク ストレート・ノー・チェイサー』。ジャズピアノ界でも唯一無二の「異能の人」セロニアス・モンクをめぐるドキュメンタリー映画である。製作総指揮はかのクリント・イーストウッド。

ライブ・シーンはもちろんのこと、奥サンへのインタヴューやリハーサル風景などみどころ満載で、ヘンな帽子をかぶり相当イッてしまっているモンクの素顔を堪能することができる。これを観ていると、岡本太郎よりもモンクのほうがよっぽど「アート」だという気がするのだが。すくなくとも、モンクの「不協和音」は音楽的であるというよりも、モンクその人の生命の奥底から噴き出してくるもののように思えるのだ。

なお、このDVDの値段は期間限定&初回プレスのみの特別価格だとのこと。気になった方はお早めに。

NWQ east
2006.7.26|music

去年の暮れ、ぼくが「突発性難聴」でダウンしたとき、いろいろと貴重なアドバイスをしてくださったのがおなじ病気をかかえるジャズ・ピアニストの新澤健一郎さんでした。その新澤さんが、いまフィンランドで地元のミュージシャンとともにライブツアー中です。

今回のツアーは、フィンランドのジャズ・ギタリストニクラス・ウィンター率いる日フィン混合のジャズ・クインテットNiklas Winter Quintet eastとしてのもので、トゥルクやナーンタリといった街でのライブが予定されているとのこと。

ちなみに、あす27日にはトゥルクの中心部にあるジャズクラブ「MONK」でライブがあります。まあ、いまのタイミングで告知したところで実際に行くのは無理でしょうが・・・。ただ、この10月には東京、横浜、そして京都などで同じメンバーによるライブツアーが予定されているそうなので、その折にはぜひ足を運ばれてみてください。

新澤さん、初フィンランドの感想たのしみにしてます!

※Niklas Winter Quartet eastのジャパンツアー'2006の公演スケジュール、メンバープロフィールなどはこちらの公式サイトをごらんください。

フィンランドは・・・狭い
2006.8.4|music

フィンランドのジャズピアニストヤルモ・サヴォライネンのCD「Grand Style」。

ずいぶん前から探していたものの、フィンランドでも見つけることができずなかばあきらめていたのだけれど、リクエストを出しておいたところ、先日フィンランドツアーから無事帰国したピアニストの新澤健一郎さんがゲットしてきてくださった。なんでも、共演したギタリストニクラス・ウィンターのすすめで立ち寄ったヘルシンキのDigelius Musicであっけなく発見したとのこと。Digeliusの存在は知っていたのだけれど、なぜだか民族音楽系に強い店という印象があり、そっち方面にまるっきし興味のないこともあってまったくのノーマークだった。ところが新澤さんの「証言」によるところでは、「とにかくジャズ系ではヘルシンキ随一の品揃え」とのこと、レコ屋砂漠のフィンランドでは貴重な存在、次回は絶対訪ねなければ。

それにしても、新澤さんにここを教えたニクラスはかつて Electromagnetというジャズファンク系のバンドでヤルモといっしょにプレイしていたそうで、あいかわらず世界は、じゃなくてフィンランドは狭いのだった。

フェデリコ・モンポウ
2006.8.11|music

ミュージシャンの伊藤ゴローさん(aka.MOOSE HILL,naomi & goro)と話しをしていたら、ひさしぶりにじっくりとフェデリコ・モンポウに耳傾けてみたくなった。

夏の日にモンポウを聴く。モンポウは光の音楽だ、とおもう。しかもその光は、あらゆるものごとの輪郭をくっきりと照らしだす強い光だ。けれども、モンポウはまた同時に影の音楽だ、ともおもう。なぜなら、強い光はいつも強い影をともなっているものだからである。すべてを白日の下に曝けだす明晰な「光」と、反対にすべてを容赦なく呑みこんでしまう漆黒の「影」。モンポウの音楽はそんなふたつの、相反する表情をもっている。

ところで、「強い」光と「強い」影―モンポウの音楽は「光と影の」音楽である以上に、じつのところ「強さの」音楽である。

『内なる印象』『ひそやかな音楽』といったタイトルが物語るように、モンポウの音楽には「寡黙」「内省的」「静謐」といったキーワードがよく似合う。深みへ、より深みへと、音楽をたよりにその一生をかけて自分じしんの内面への旅をつづけた《求道者》モンポウ。だからこそ、かれによって選ばれた音符はそのひと粒ひと粒がものすごく濃い。たとえていえば、熟しきっていまにもはちきれんばかりになった果実のような。ちかごろこのCDばかりくりかえし聴いているぼくはたぶん、この圧倒的なまでの音の「強度」にやられているにちがいない。

当時81才の作曲家自身よるこのCD、『ひそやかな音楽』はもちろん、『前奏曲集』も『歌と踊り』も涙が出るほどすばらしいけれど、あえて一曲といわれれば『内なる印象』からの「哀歌:2」。右手と左手が織りなす《対話》の、なんという意味深さ!

Mori's Glanta
2006.8.14|music

最近の要チェックブログはといえば、スウェーデン在住のベーシスト森泰人さんの「Mori's Glanta」。

スカンジナヴィアン・ジャズに関心のある方はもちろん、北欧での生活や旅についても紹介されていて「北欧好き」にもなかなか興味深い内容だと思います。なかには、去年そのCDを紹介したシンガーLINDA PETTERSSONの結婚式の模様などという激レア情報も!7月にはあのジョージー・フェイムとも共演したのですね。

これで来日情報もいちはやくチェックできそう。

スクリッティ・ポリッティ
2006.8.18|music

思いのほか、Oさんが貸してくださったスクリッティ・ポリッティ(Scritti Politti)の「新作」(7年ぶり!)がすばらしく感激している。

「スクリッティ・ポリッティ」の名前をきいて「なつかしい~」と反応するのは、おそらくオーヴァー・サーティーファイヴだろうか。そんな「オトナ」の財布の中身を狙ってか、ちかごろ80年代に活躍したバンドの再結成や、ニューアルバムのリリースといったニュースをよく耳にする。若い時分それなりに聴きこんだミュージシャンであればこそ、こうした「動き」には警戒しなければならない。ただ、昔の名前で出ています、それだけの場合もすくなくないからだ。

ぼくにとって、スクリッティもまたこうした「警戒」の対象にちがいない。けれども、CDプレーヤーが演奏をはじめたとたんそんな杞憂は吹き飛んだ。そして、不意打ちのようなよろこびが訪れる。

とてもよい。

それは、ひとことでいえば、フレッシュなのだ。そこにあるのは、「過去」に頼るでも「現在」に媚びるでもない、現在進行形のスクリッティ・ポリッティのサウンドであった。7年間というブランクを、いったいどんなふうにして過ごしていたのか予測もつかないが、その音を聴けば「このひとは、じぶんの音楽についてずっと考えてきたのだなぁ」ということが手に取るようにわかる。すくなくとも、これはけっして一朝一夕につくれるようなアルバムではない。逆にいえば、このサウンドが完成するためには7年間の発酵期間が必要だったということだ。

「スクリッティ・ポリッティってなに?」

つまりフロントマンのグリーン・ガートサイドは、そういうひとびとにこそこのアルバムを届けたいにちがいない。

奉仕活動
2006.8.22|music

報道によると、元カルチャークラブのフロントマン、ボーイ・ジョージが警察への虚偽通報の罪に問われ、裁判所からマンハッタンの路上で清掃活動をおこなう5日間の「地域奉仕活動」を命じられたそうである。「New Wave」の旗手として一時代を築いたポップスターが、人目の多いマンハッタンの路上で落ち葉やらゴミやらを拾うのだ。相当に「屈辱的」であったにちがいない。

そこで、こんな「奉仕活動」をかんがえてみた。

「ブック○フ」でアルバイト5日間。

「らっしゃいませ!コンニチワー」。ああ、いやだいやだ。ぜったいに無理だ。あの異様なテンションにはついていけない。むしろいっそのこと、心静かに落ち葉を拾っていたいのだ。

よかったね!ボーイ・ジョージ。

ある日のプレイリスト
2006.8.23|music

午前中はたしか晴れていたはずなのに、店を開けるころにはどんよりとした曇り空。灰色の雲間からは弱々しい太陽がときどき顔をのぞかせる。

◎ Stay in the Shade / Jose Gonzalez
 こんなあいまいな空模様には、ホセ・ゴンザレスのナイーブな歌声を。Nさんから教えてもらったアルゼンチン系スウェーデン人のシンガーソングライター。このEPは、最近耳にしたなかでも飛び抜けて好きな一枚で、初対面の人に「こういうのが好きなんです」と名刺代わりに手渡したいくらいだ。けっして「明るいひと」という印象はあたえないだろうけれど。本当に、すごくいい。

◎ The Prince of Wales / Devine & Statton
 ところで、アリソン・スタットンの歌声も曇り空によく似合う。ウェールズの空もきっと、こんな感じなのだろうか?いま読んでいる本、ロアルド・ダールがみずからの子供時代を追想した『少年』にもウェールズの街がよく登場する。ちょっとした偶然。

◎ わたしとボサノバ / オムニバス、ナラ・レオン 他
 曇り空の気分はキープしつつも、ボサノヴァですこしだけ方向転換を図る。渋いけれど佳曲ぞろいの、"ありそうでなかった"選曲が心憎い。

◎ Juventude/Slow Motion Bossa Nova / Ronaldo Bastos、Celso Fonseca 他
 手が離せなくなったらセルソ・フォンセカに逃げる。これ、いつものパターン。いい意味で中庸、ピッチャーでいえば優秀な「中継ぎ」タイプ。ぜひ、一家に一枚セルソ・フォンセカ。

◎ ラップランドに愛を込めて/Souvarit
 Jussiさんのリクエストによる、哀愁のスオミ・ボッサ(笑)。というよりは、むしろ、まんまボサノヴァ調昭和歌謡の世界。『吹雪きに散った二人の愛が・・・』、司会の玉置宏です。

◎ エテパルマ~夏の印象~ / 中島ノブユキ
 フィンランドから、スペイン経由でブラジル、そしてアルゼンチンへ。ジャズ~クラシック~ワールドミュージックと自由に横断する気鋭のピアニストによる、いま局所的に超話題となっている一枚。「大人の女性」とは、たぶんこういうのを聴く女性のことでは?

◎ プレイヤーズ&オブザヴェーションズ / トールン・エリクセン
 夕陽がさしてきたので。ノルウェーのシンガー、トールン・エリクセンによるこの二枚目のアルバムは、たそがれどきのオスロのカフェのイメージ(オスロ、行ったことないけど)。そしてなんといってもアレンジが最高!まさに絶妙の味つけ。

◎ Jussara/Jussara Silveira
 店内には男子ニ名。そこで、ブラジルのシンガー、ジュサーラ・シルヴェイラが歌うジョルジ・ベンのちょっとロックっぽいナンバーをどうぞ。でも、いちばんのお気に入りはシコ・ブアルキの「Desencontro」のカバー。プールからあがった後のようなけだるい感覚は、まさにこの季節ににつかわしい。アントニオ・カルロス・ジョビンの孫、ダニエルが弾く夢見心地なフェンダー・ローズ。この曲は、cafe vivement dimancheの堀内さんが選曲したCD「ハワイアナス・モーダ・ヴィーダ」でも聴ける。

◎ ディスガイセズ / スチュアート・シャーフ
 閉店の時間まであとわずか。シンガーとしてよりも、むしろプロデューサー、あるいは腕利きのミュージシャンとして知られるスチュアート・シャーフが、1975年に残したたった一枚のソロアルバム。おだやかで、やわらかなその歌声。にぎやかに閉店を迎える日もあれば、こんなふうにひそやかに閉店を迎える日もある。これが日々のカフェ。

The Washing of...
2006.8.31|music

目が世界になれてしまったときに、いつもきまって観る映画がある。チャールズ&レイ・イームズによる「Blacktop: A Story of the Washing of a School Play Yard(1952)」がそれだ。

バッハの「ゴールドベルグ変奏曲」をBGMに、校庭に流された洗剤の様子をただひたすらに撮影した10分ほどのショートムーヴィー。くもったレンズを乾いた布でぬぐったように、これを観ると世界の眺めが一変する。

「校庭を洗い流す」とサブタイトルにはあるけれど、洗い流されているのはむしろ、日々の生活のなかですっかり手垢だらけになってしまった自分のほうなのだ、といつも気づく。

細野ハウス
2006.9.3|music

荻窪から阿佐ヶ谷へとむかう細い道ぞいに、一軒の古ぼけたアパートがある。ぜんぶで四部屋しかないちいさなアパートだ。このアパートのことがどうして気になったのかというと、その理由(わけ)はふたつある。

ひとつめに、その名前。

このアパートの門柱には、かなりひかえめに(しかも「手書き」で)この建物のなまえが記されているのだが、それがなんと「細野ハウス」。しっているひとも多いだろうが、1973年に細野晴臣がリリースした初のソロアルバム(「HOSONO HOUSE」)とおなじ名前である。まあ、そこにはなんの「偶然」も「奇跡」もなく、ただ「大家さん」の苗字が「細野」だったというだけの話にはちがいない。けれども、このこじんまりとしたアパートの風情やその界隈をつつむゆるやかな「空気」と、細野晴臣によるこの「本邦初の”宅録”」のリラックスしたサウンドとがあまりにもぴったりとくるもので、ここを通りかかるときにはきまって「ろっか・ばい・まい・べいびい」なんてつい口ずさんでみたくなってしまうのだ。

もうひとつ、この「細野ハウス」が気になってしまうその理由(わけ)。それはそのシュールな外観にある。

「細野ハウス」には(さっきも書いたけれど)部屋が4つしかない。エンピツで四角形を書いて、それから一階とニ階にそれぞれふたつずつ、よくある平凡な扉を描けばそれがこのアパートのかなり正確なスケッチになる。つまり、それは見事なまでのシンメトリーなのだ。しかもそれだけじゃない。なぜか、二階にあがる階段までがふたつ(!!)あるのだ。ようするに、二階の部屋にはそれぞれ「専用の」階段があるということ。それもごていねいなことに、その階段は建物の中心から「V字」にそれぞれの部屋へと延びている。これはどうかんがえたって、「無駄」を承知の上でシンメトリーにこだわった、そうかんがえるほかないだろう。まさに、「細野ハウス」の「大家」にふさわしい《美意識》だ。

こんな《発見》があるたび、中央線沿線というのはやっぱり「風街」だなぁ、そう思ってしまう。

BOSEのハイテク・ヘッドホン
2006.9.4|column

いま欲しいもの(と、「小学三年生」風に書き始めてみる)、それはBOSEの「ヘッドホン」。

なんといってもこの「ヘッドホン」、ただの「ヘッドホン」ではない。ノイズ・キャンセリングという機能がついているのだ。

カタログによると、「ノイズ・キャンセリング」とは「イヤーカップ内部に取り付けられた超小型の集音マイクで外部からの騒音をキャッチ、それらを瞬時に周波数データに変換し、同時に収集したノイズデータとは逆位相の信号を高速で発生させることで、イヤーカップ内のノイズを打ち消」すというわかったようなわからないような仕組みなのだが、ようするに音楽により集中できるよう、それを邪魔する外部からの余計なノイズ-車や電車内の騒音、エアコンやパソコンのファンの音など-を人工的にシャットアウトしてしまうという驚くべきヘッドホンなのである。

ところで、いまだipodすらもっていないぼくが、ipodよりもむしろこのヘッドホンを欲しいとかんがえるその理由。それはこのヘッドホンが、音楽を聴くという目的以上に、もしかしたら「ハイテク耳栓」として役立つかも、というのがあるからにほかならない。自動車やバイク、飛行機やヘリコプター、地下鉄のごう音やエアコンのファン、いろいろな店から流れてくるBGMなどなど、いまやすっかり「突発性難聴」が「持病」になってしまったぼくにとって、体調の悪いときの外部の騒音ほどしんどいものはない。そんなとき、耳栓以上に効果を発揮してくれそうなのがこのヘッドホンである。

ただし、いかんせん値段が高い。じつに耳栓の100個ぶんである。とにかく、いちど試着してみてその効果のほどを確認してみたいとおもっている。

夏の印象
2006.9.13|music

雨が降っている。「夏」への訣別を告げるつめたい雨。そして、傘もあまり役に立たないようなこぬか雨の道をとぼとぼ歩きながら、そうだ、きょうはこれを聴こう、ずっとそうかんがえていた。

中島ノブユキのソロ・アルバム『エテパルマ~夏の印象』。

夏の印象。猛暑のただ中でこのCDをはじめて耳にしたとき、もしかしたらこのサウンドがほんとうにしっくりくるのは夏ではない季節、もっと言えば「はじめての秋の雨の日」なのではないかと直感した。

この『エテパルマ』は、ピアニスト中島ノブユキによる全曲インストのアルバムである。オリジナルの楽曲以外にも、ここでとりあげられる音楽はヴィラ=ロボス、デューク・エリントン、シューマン、そしてモンポウなどと幅広い。そしてそれらの音楽が、中島の弾くピアノを軸にギター、バンドネオン、ストリングスなどを含むアンサンブルによって巧みに味つけされ、原曲とはまた異なる姿をもってフレッシュに立ち現れる。

たとえていうなら、夏の匂いがかすかに残るこの一瞬のためのサウンドトラック。できうるならば、まだどことなく長袖に腕をとおすのがぎこちないうちにこのCDにふれてほしいと思うのだ。

新澤健一郎 in FINLAND
2006.9.22|music

この7月にフィンランドで演奏旅行をおこなってきたジャズピアニスト新澤健一郎さんから、ブログ形式にまとめた「フィンランド旅行記」が届きました。

夏のフィンランド各地でのライブ演奏の模様やオーディエンスの反応、およそ観光客は訪れないようなちいさな島や町での出来事がたくさんの写真とともにつづられています(新澤サン、いい思いしてきたなぁ~)。必見!

なお、このツアーとおなじメンバーによるライブが来月日本でも楽しめます。フィンランドを代表するジャズギタリスト、ニクラス・ウィンターを中心に、フィンランド人2+日本人2からなるクアルテット。10/8の「横濱ジャズプロムナード」を皮切りに、東京は赤坂、柴崎、ほかに神戸、京都でのライブが予定されています。真正"SUOMI JAZZ"と出会う貴重なチャンス、ぜひお見逃しなく!

ニクラス・ウィンター・クアルテットJAPANツアーの詳細は、こちらをチェック。

SAMI SANPAKKILA『ES』
2006.10.4|music

SAMI SANPAKKILAのDVDを紹介する。

SAMI SANPAKKILAは、フィンランドの都市タンペレで「FONAL RECORDS」というインディー・レーベルを主宰する映像作家/ミュージシャンである。そしてこのDVDは、サブタイトルに《EARLY FIMLWORKS 1996 TO 2006》とあるように、かれが手がけた映像作品をまとめたもの。

収められているのは、ミュージックビデオ6本。ショートフィルム8本の計14タイトル。

ミュージックビデオは、TV-Resistori、OFFICE BUILDING、Islajaなど、「FONAL RECORDS」に所属するアーティストのビデオクリップがほとんど。

着想が面白いのは、《北欧のファナ・モリーナ》と呼ぶにはちょっと無理のあるIslajaの作品。OFFICE BUILDINGの作品は2本収録。『進め!電波少年』のオープニングを思い出した。それにしても真冬の屋外で撮影しているにもかかわらず、息が白くなっていないのはなぜだろう?空気が澄んでいるせい?などと、すっかりSAMIくんのセンスとは関係ないところで感心している自分を発見・・・

ショートフィルム8本のうち3本は「ストリート・シリーズ」とでも名づけられそうなもので、それぞれブリュッセル、アムステルダム、そしてタンペレの「書き割り」のような街並を、移動しながら早回しで撮影している。

ほかには、モーツァルトの「レクイエム」で踊るダンサーの映像が、身体表現×映像表現のコラボレーション的試みという意味で興味深かった。

残り4本は、「ひたすら雪のつもった森を走り回っているひと」「ひたすら走り幅跳びをしているひと」「ひたすらハンマーで自動車を壊しているひと」「ひたすら眠っているひと」(「スターどっきりマル秘報告」《寝起き編》風)をひたすら撮影しループさせている作品。

と、ここまで書いてきて、いかに自分がこの手の作品を紹介する人物としては「不適切」かがよーくわかった。興味のあるひとは、ぜひじぶんで買って観るように。

佃揺子ソプラノリサイタル
2006.10.21|music

フィンランドで声楽家として活躍するソプラノ歌手佃揺子さんのチャリティーコンサートが開催されるそうです。 シベリウス、マデトヤといったフィンランドの作曲家の歌曲をはじめ、ドヴォルザーク、ブラームス、チャイコフスキー、さらには山田耕筰といった日本の歌曲まで幅広い「世界の歌」を楽しむことのできるコンサートです。なお、収益の一部は日本フィンランド協会渡邊忠恕記念奨学金に寄付されるとのこと、当日お時間のある方は会場を訪れてみてはいかがでしょう。

◎ 佃揺子《世界の歌シリーズ~平和の祈り~》

 出演:佃揺子(S) 高橋雅代(Pf)
 日時:11月17日[金] 18時30分~19時30分(開場18時15分)
 会場:音楽の友ホール(営団地下鉄「神楽坂」駅より徒歩約1分)
 料金:チャリティーのため「寄付」をお願いします

秋はブラームス。
2006.10.24|music

秋はブラームス、そう清少納言が言わなかったのは、ひとえに清少納言がブラームスを知らなかったから(←あたりまえ)にちがいない。と、まあそれほどまでに、秋にブラームスの音楽は似つかわしいと思うのだ。

オーケストラ、室内楽を問わずブラームスならどれもいいのだけれど、ぼくはここのところ「原点」に立ち返って(?!)交響曲、しかも交響曲第一番を聴きたい気分である。そこで、以前実家から持ってきたきりそのままになっていたワルター指揮のCDを聴いてみた。ところがこれが、(ぼくにとっては)まったく意味のわからないエグい演奏で聴き通すのがつらいほどで参ってしまった。

ブラームスの交響曲、とりわけこの「第1番」は着想から完成までになんと21年(!!)もの歳月を費やした力作として知られている。じっさい、なんどもなんども推敲を重ねた作品らしく、この音楽の構成は緻密で隙がない。なにかを足すことも引くことも許さないような、そういう迫力すら感じられる。よって、小手先ひとつでなにかをしようなんてまさに愚の骨頂、茶室に花柄のカーテンをぶらさげるようなものである。

というわけで、あわててこれぞ理想の演奏と思えるようなCDを買ってきた。クルト・ザンデルリンク指揮シュターツカペレ・ドレスデンによる一枚である。

こういう、ひとつひとつレンガを几帳面に積み上げてゆくような職人的仕事こそがこの曲にはふさわしい。もちろんそればかりではない。そこかしこに聴くものをはっとさせるような「匠の技」が散りばめられていて、感心させてもくれる。こんなブラームスが聴きたかったのだ、ぼくは。

しかも、である。こんな見事な演奏が半永久的に楽しめて、このCDなんと一枚たったの1,000円(!!!)である。これを価格破壊と呼ばずしてなんと言おう。これがテレビショッピングなら、ここでいっせいにサクラのおばちゃんの歓声が上がるところだ。「のだめカンタービレ」の千秋真一指揮R☆Sオーケストラによる演奏も気になるところだが(!?)、やはり一枚をということであればクルト・ザンデルリンクが振ったものがおすすめである。

ブラームスはザンデルリンク、清少納言ならきっと、そう言うことだろう。

日フィル「公開リハーサル」
2006.10.25|music

いつもよりすこし早起きして、早めに開店準備を済ませる。モイとは目と鼻の先くらいの距離にある「杉並公会堂」でおこなわれる日本フィルハーモニー交響楽団の「公開リハーサル」を聴くためだ。

「公開リハ」は、6月にも足を運んでいるのできょうで二回目。お店をもったとき、ああこれでコンサートには行けなくなるなぁ、と思ったのだが、ゲネプロとはいえ、こうしてプロのオーケストラの演奏をごく近所で、しかも「無料」(!)で聴けるのだからまったくラッキーな話である。

きょうのゲネでは、あす、あさっての定期演奏会で演奏されるプログラムの前半部分、R・シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」とオリヴァー・ナッセンのホルン協奏曲の二曲がとりあげられた(指揮/沼尻竜典、Hrn/福川伸陽)。

今回は指揮者が日本人なので、細かい指示や楽団員とのやりとりがしっかり聞き取れるのでなかなか面白い。ただ、R・シュトラウスの音楽はなんとなく支離滅裂な感じがあまり好きになれない。もう一曲のホルン協奏曲はイギリスの作曲家オリヴァー・ナッセンによる1994年の作品で、いわゆる「現代音楽」。ナッセンはモーリス・センダックの絵本『かいじゅうたちのいるところ』をオペラ化したりもしている。

このホルン協奏曲はけっしてわかりやすいメロディーがでてくるといった部類の音楽ではないけれど、大きな音の塊がすこしづつ色やかたちを変えてゆく、まるで「雲」のような音楽。現代の音楽といえば「ややこしい」印象があるが、ぼくのような素人にとっては、むしろこんな風に勝手気ままにイメージの世界に遊ばせてくれる太っ腹な音楽という気もする。

ちなみに日本フィルの公開リハーサルは、11月15日、そして11月22日にも杉並公会堂で予定されている。

ナッセン:かいじゅうたちのいるところ ユニバーサルクラシック

ゴットフリート・フィンガー
2006.11.10|music

On the sunnyside of the street(明るい表通りで)。ゴットフリート・フィンガーの音楽から連想するのは、なぜかよく知られるジャズナンバーのタイトル。

フィンガーという作曲家のことはほとんどといってよいほどなにも知らないのだが、「モラヴィア(現在のチェコ共和国の一部)出身でおもにイギリスで活躍したバロック期の作曲家」なのだそうだ。バロック期の音楽家たちはみな「芸術家」であると同時に、場合によってはそれ以上に、王侯貴族なり教会なり、なにがしかの「クライアント」に仕えて仕事をしていた「職人」だった。当然、その作品には「クライアントの趣味」が強く反映される。それはたとえば王侯貴族が集うパーティーミュージックであったり、宗教的な行事のための禁欲的な音楽であったり、と。フィンガーというひともまたイングランドの王様ジェームズ2世に仕えた、その意味では「職人」である。

ところがどうしたわけか、はじめてゴットフリート・フィンガーの音楽を耳にした瞬間、ぼくはそこにほかのバロック期の音楽家たちの作品とは異なる「なにか」を感じた。より快活で開放的、まさににぎやかな「明るい表通り」を闊歩しているような感覚。そう、バロック期の音楽家でありながら、どこかフィンガーのつくる曲には「市井の人々のための音楽」といった趣きがあるのだ。そしてもしその「感覚」が間違っていないとするなら、それはたぶんフィンガーがモラヴィアの出身ということと関係があるにちがいない。

世界史はぜんぜん得意ではないけれど、フィンガーの生まれたモラヴィアと接する「ボヘミア」には16世紀のおわりから17世紀のはじめにかけてあのルドルフ2世が君臨していた。アルチンボルドのパトロンで錬金術にご執心、そのうえプラハに世界中の「変な生き物」をあつめた「動物園」までつくってしまった、あのとてもクレイジーな王様。フィンガーの生まれる50年ほど前のボヘミア一帯はたいへんなことになっていたのである。

そういえば、むかし仕事でモーツァルトについてのトークショーを企画したとき、話をしていただいた高山宏さんと打ち合わせの席上盛り上がったのも、もっぱらプラハを中心とした当時のボヘミア一帯の「すごさ」についてだった。

プラハでは自分の音楽が大ヒットしていて、街角で耳にする口笛までもが自分の曲だ

といった内容の手紙を、モーツァルトは興奮気味に書いている。クライアントとの不仲によりほとんど「宮廷音楽家」としては「終わって」いたモーツァルトも、プラハでは「ポップスター」として受け入れられていたというわけだ。「ルドルフ2世のプラハ」からはすでに150年以上も経ってはいたが、そのころに培われた自由であたらしもの好きでおおらかな人々の心性はそこを「王侯貴族のヨーロッパ」とは次元の異なるエアポケットのような場所に変えてしまったのかもしれない。まるで「錬金術」みたいに。

地図をみると、ゴットフリート・フィンガーの生地オロモウツは、ちょうどウィーンとプラハというふたつの「芸術の都」を底辺にもつ正三角形の「頂点」に位置している。モラヴィアのもっとも重要な都市として、かつてはウィーンやプラハとのさまざまな交流があったとしても不思議はない。フィンガーの音楽は、そんなこの一帯がなんだかとてもすごいことになってしまっていた時代の「残り香」をたっぷりふくんだ、とても人間臭い音楽という気がしてならない。

「いま一文無しだとしても いずれロックフェラーみたいにリッチになるさ だって明るい表通りでは 足下にあるのは黄金色の埃なんだから」

1920年代のニューヨーク、高層ビルがニョキニョキと建つグレート・ギャツビーのニューヨークとゴットフリート・フィンガーが生まれ育ったバロック期のボヘミア一帯は、あるいはどこか似ていたのだろうか?

儀礼的な
2006.11.12|music

二年ぶり三度目となるジョアン・ジルベルトの来日公演も無事終了したらしい。

まわりを見回すと、過去二度の来日では足しげく通ったけれど今回はなんとなく「パス」した、そんなひとも多いようだ。かく言うぼくもそのひとり。 そのかわり先ごろの来日公演では、いままで機会を逃していて今回がジョアン初体験というひとも少なくなかったようで、ここのところmoiでもそんなフレッシュな体験談を何人かのお客様から聞かせていただいている。

あらかじめ、ジョアンのライブに行くという話を聞いていたひとには、ついつい

「ジョアンどうでした?」

と思わず訊ねてしまうのだが、と同時にまったくなんて不毛な質問なんだろうと感じずにはいられない。

だいたい、あの濃密な時間を体験したひとに対してその感想を言葉で求めるなんていかに意味のないことか、幸運にもなんどかジョアンのライブに足を運ぶことができたぼく自身いちばんよく知っているはずなのに・・・。

というわけで、たとえばくが

「で、ジョアンどうでした?」

とか訊ねたとしても、それはあくまでも儀礼的な質問にすぎないので、どうかまじめに応えることなく適当に流しておいてくださいね!

DALINDEO「Open Scene」
2006.11.13|music

夢か?これは。DALINDEOのデビューアルバム「Open Scenes」が、それもなんとヨーロッパでの発売とほぼ同時に国内盤としてリリースされちゃいました!これを快挙と呼ばずしてなんと言おう!!!

DALINDEOといえば、The Five Corners Quintetの仕掛人トゥオマス・カッリオとThe Ricky-Tick Recordsの周辺から続々と登場している「ヘサ(=Helsinki)系」ミュージシャンの中でもぼくにとってはとりわけお気に入りのひとつ。moiの外にも、春ごろからずっと彼らのアナログ盤がディスプレイされてます。

ギターのヴァルッテリ・ポユホネンを中心に、トランペット、フルート、ベース、パーカッション、ドラムスの六人編成のこのDALINDEOのサウンドは、ひとことでいえばラテン風味の軽快なジャズなのですが、ラテン=真夏ではなくて、落ち葉がカラカラと追い越してゆくいまの季節にこそピッタリというあたりがいかにも「ヘサ系」の彼ららしいです。なんといっても彼らのつくるサウンドは、フィンランド meets ブラジル in トーキョーなここmoiの「裏コンセプト」にもまさにぴったり、勝手にmoiのオフィシャルミュージシャンに任命です(笑)。

なお、このアルバムではストリングスやオルガンなどを加えてさらに音に厚みを増している上、3曲にボーカルも入るという新機軸を展開しています。ちなみにボーカルのmichikoは、聞いてすぐわかるとおりヘルシンキ在住の日本人ボーカリストだそう。ギターワークはときにややサルミアッキ風味!?

さあ、フィンランドから届いた「音の玉手箱」にみんなで酔いしれようではありませんか!

タッシ
2006.11.29|music

タッシです。チョットチョット、って、それはたっちでしょ。

まるでソフトロックのミュージシャンのようなルックスですが、これでもれっきとしたクラシックの音楽家。1973年に、ピーター・ゼルキン(Pf)、アイダ・カヴァフィアン(Vn)、フレッド・シェリー(Vc)、そしてリチャード・ストルツマン(Cl)の4人によって結成されたグループです。ちなみに「タッシ」というのは、「幸福」を意味するチベット語なのだそう。ファッションはもちろん、グループ名やチベット仏教にインスパイアされたアートワークからも彼らが当時のサイケデリック・カルチャーに大きな影響を受けていることは一目瞭然です。ウィキペディアによれば、ムーブメントとしての「サイケ」は「1966年に徐々に始まり(中略)70年代中盤までには沈静化していった」とありますが、タッシもまた、60年代後半からそれぞれに活動をはじめ70年代後半にはオリジナルメンバーでの活動に終止符を打っています。

そんな彼らが、レコードデビューにあたってフランスの作曲家オリヴィエ・メシアンの作品「世の終わりのための四重奏曲」(1941)を選んだのは、むしろ当然といえば当然と言えるかもしれません。なにしろメシアンといえば、「独特の浮遊感と超現実的な音作りを基調」(Wikipediaより)とするサイケデリック・ロックよりもはるか以前から、ということはつまり「サイケデリック」という言葉が誕生するよりもはるか以前から、「独特の浮遊感と超現実的な音作り」をつづけてきた作曲家といえるからです。

じつはこのCDにはオリヴィエ・メシアン本人による楽曲解説が付されているのですが、これがすごい。たとえば第二曲「世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ」について。

第1と第3(きわめて短い)の部分がこの強い天使の力を喚起する。その髪は虹で、その衣は雲であり、かれは一方の足を海に、もう一方の足を地に置いている。(中略)ピアノはブルー=オレンジの和音でカデンツを奏し・・・(以下、略)

ブ、ブルー=オレンジの和音って、なに?

あるいは、第七曲「世の終わりを告げる天使のための虹の混乱」について。

強い天使が、特にかれを被う虹とともに現れる(虹は平和、英知、発光体と響きのすべての震動の象徴である)。(中略)そこで、この移行的段階に従ってわたくしは非現実へと進み入り、忘我的な旋回や超人間的な響きや色彩のめくらめくような浸透へ身を委ねる。これらの火のような剣、これらのブルー=オレンジの洗う河、これらの突然現れる星たち。それら群に注目せよ、虹に注目せよ!

出ました!「強い天使」。しかもまたまた「ブルー=オレンジ」ときた。どうやら「ヨハネ黙示録」から霊感を受けて作曲したためこんなことになってしまったらしいのですが、難解というよりはもはや感覚的、極彩色のサイケワールドとはいえないでしょうか?つまりこういう音楽を聴くときは、アタマで理解しようとするよりももっと感覚的に、その音響世界にトリップしてしまうほうがずっと面白いと個人的には思うわけです。

ドアーズやヴェルヴェットアンダーグラウンド、ジェファーソンエアプレインといった60年代から70年代にかけてのロックミュージック、あるいは音響系やエレクトロニカといったジャンルに興味のあるひとはぜひ、メシアンの音世界へのフラワーチルドレンからの返答ともいうべき(!?)このタッシ版「世の終わりのための四重奏曲」を騙されたと思っていちど聴いてみていただきたいのです。

G・フィンガーのCD
2006.12.25|music

以前このブログで紹介したモラヴィア出身の作曲家ゴッドフリート・フィンガーのCDが、↓のショップに4枚限定(12/25現在)で入荷したそうです。

◎ Xavier Records[ザビエル・レコード]さん

ぼくはたまたま都内のCDショップでみつけて手に入れたのですが、ほとんどみかけないCDなので気になる方はいまのうちかもしれません。よいアルバムですよ。あ、ちなみに、べつにバックマージンとか受け取っているワケじゃあありません。純粋なレコメンド魂ですので・・・。念のため。

スケールの大きい男
2006.12.26|music

スケールの大きい男といったら、やっぱりベートーヴェンをおいてほかにない。

「英雄」とか「皇帝」とか「運命」とか、そんなともすれば大仰なニックネームを思わずその作品につけたくなるひとの心理もわからないではない。いったい、ひとりの人間のどこからこんな壮大な旋律が生まれてくるのか想像すらつかないのだ。ワーグナーとか、マーラーとか、あるいは映画『スターウォーズ』のテーマ曲をつくったジョン・ウィリアムスだとか、派手だったり華麗だったりといった音楽を「書いた」作曲家ならたくさん知っている。が、ベートーヴェンのようなスケールの大きい音楽を「生んだ」作曲家はほとんどいない。

これほどまでに、スケールの大きい音楽を生んだ男なら、当然そいつはスケールのでかい奴にちがいない。ひとはもちろん、そうかんがえる。なので、世に広く知られるベートーヴェンの肖像は、ボサボサの髪に三白眼という、どれもこれもいかにもスケールのでかそうな不敵な面構えをしている。日本の総理大臣とは大違いである。じっさいには、街ゆく女性の姿をみてニタついていたり、酔っぱらって大口あけていびきをかいていたりといったこともあったのかもしれないが、そんな姿はやっぱりかのベートーヴェンには似つかわしくない。かれの音楽が、かれの(あの)肖像を作らせたのだ。

ところで、そんなベートーヴェンの音楽の中でもとりわけスケールの大きい作品といって思い浮かべるのは、交響曲第九番ニ短調作品一ニ五「合唱つき」、いわゆる「第九」ではないだろうか。

日本では、年末になると盛んにこの「第九」が演奏される。かつて、経済的に困窮していたオーケストラの楽員たちが「餅代稼ぎ」に始めたのがそのルーツといわれている。そうかんがえれば、この「年末の第九」は、平賀源内がつくった「土用の丑の日」とおなじくらいあたったイベントといえるだろう。一年をこんなスケールのでかい音楽でぐわーーーっと締めくくろうというのはたしかに、「D通」のCMディレクターも顔負けの卓抜なアイデアであるにちがいない。そこでぼくも、今年はひさびさに「第九」を聴きにいってきた。

ゲルト・アルブレヒト指揮、読売日本交響楽団。アルブレヒトはベートーヴェンとおなじドイツの人。おなじドイツ人だからといって、かれがまたスケールの大きい演奏をする指揮者とはかぎらない。ドイツ車にベンツもあれば、フォルクスワーゲン・ゴルフもあるのといっしょ(?)である。じっさい、この日の「第九」は、見事なまでにドラマティックだとかスピリチュアルだとかといった要素を排した徹頭徹尾「音楽的」な演奏だった。熟練の職人がつくった時計のムーヴメントのように、精妙かつ巧緻。一年の掉尾を派手に締めくくりたかったひとには物足りなかっただろうけれど、これはこれでユニークな「第九」ではあった。

DVD『GREAT CONCERTOS』
2007.1.6|music

お正月にゆっくり観ようと、年末にDVDを手に入れた。なんと10枚組である。

このDVD『GREAT CONCERTOS』は、スイス・ルガーノにある「スイス・イタリア語放送」が所有するクラシックコンサートの映像を収めたもので、1980年代から90年代にかけておこなわれたスイス・イタリア語放送管弦楽団(OSI)の演奏会のライブが中心になっている。ちなみに全10枚の収録時間は映像が800分、さらに特典として静止画+音楽が540分、トータルで1,340分にもおよんでいる。

しかも驚くべきは、

DVD10枚組にしてたったの2,400円

という超破格のそのお値段。つまり一枚あたり240円、きのうの話のつづきでいけばわずかきゅうり1本半というワケである。いま、空のDVDメディアを買ってきたって一枚200円くらいはするんじゃないだろうか?クラシック音楽界の「価格破壊」はますます大変なことになっているようだ。

とはいえ、いくら値段が安くたって中身がクズ同然(失礼!)ならぜんぜん食指は動かない。安かろう悪かろう、である。ところがこのDVD、登場するメンツ、そしてとりあげられている曲目もなかなか興味深い。ぼくとしては、ハンガリー出身のピアニストゾルターン・コチシュによるいい感じに鄙びた劇場(テアトロ・ソシアーレ・ベリンツォーナ)でのリサイタル、さらになんていっても《親愛なるヴィエラ先生》じゃなくて、ペーター・マーク大先生の映像が拝めるだけでも十二分にもとを取ったと断言できる。

しかし、収録された映像&音楽をぜんぶ楽しむとしたら不眠不休でも22時間あまりかかるという事実を後から知った・・・。正月はとっくに終わったけれど、もちろんまだまったくといってよいほど観ていない。

北風とカルトーラ
2007.1.7|music

きのうは冷たい土砂降り、きょうは猛烈な北風と、あいにくの空模様にたたられっぱなしのことし最初の週末である。おまけに巷は「SALE」真っ盛り、郊外のカフェになんぞ足が向かないのも当たり前か・・・。

自転車のようなぎこちない走り出しながら、おととい<きのう<きょうとわずかづつでも右肩上がりならそれでひとまずは「よし」としなければ。滋味あふれる声で、人生の機微について歌うカルトーラの古いサンバに慰められた一日。

愛するマンゲイラ/カルトーラ

身悶えするほど安く、しかもすばらしい
2007.1.11|music

身悶えするほど安く、しかもすばらしいCD。

スウェーデンの指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットが、名門オーケストラシュターツカペレ・ドレスデンを相手に録音したベートーヴェンの交響曲全集。しかも全5枚組でたったの1,700円ちょっと!!!

ところでブロムシュテットといえば、これまで幾度となく来日しているおなじみの指揮者だけれど、端正な表現とその人のよい銀行員風なルックスがあいまって、どうも「巨匠」と呼ぶにはあまりにも地味という印象が拭えなかった。ところがこのベートーヴェンを聴くと、その実直さがプラスに作用して、とても懐の深い立派な演奏になっているのがわかる。ひとことでいえば造型美。あんこと皮のバランスが絶妙で、しかも見た目にもパーフェクトなたいやきをイメージしてほしい。それがこのブロムシュテットのベートーヴェンである。やたら頭でっかちだったり、しっぽばかりが目立っていたり、なかには「ふぐ」みたいだったり「いわし」みたいだったりする「たいやき」さえある中で、正直一筋八十年、ブロムシュテット印の「たいやき」はまさに「老舗」の風格をたたえている。

ドラマ「のだめカンタービレ」のテーマとしても使われていた第七番をはじめ、「英雄」「運命」「田園」、それに「第九」まで、すべて充実した演奏で堪能できるこのCDは、それゆえ、「のだめ」にハマりもっとクラシックを聴いてみようとおっしゃるMIZUKIさんにも自信をもっておすすめできる一枚(セット)なのである。

オッコ・カムのシベリウス
2007.1.19|music

寒い。凍えるようなとはいかないまでも、冷たい北風が身にしみる。そこで引っぱりだしてきたのは、ことし二〇〇七年がちょうど没後五十年にあたるフィンランドの国民的作曲家シベリウスの、交響曲第二番のCD。

ところでこのシベリウスの「交響曲第二番」といえば、「プラティニ国際指揮者コンクール」で優勝した「千秋真一」が、そのパリ・デビューにあたってとりあげた曲ということになっている。で、それと同じく(?)、弱冠二十三歳で「第一回カラヤン指揮者コンクール」に優勝したフィンランドの指揮者オッコ・カムが、その「ごほうび」としてカラヤンの手兵「ベルリン・フィル」とともにレコードデビューを飾ったのもまた、この「交響曲第二番」である。

それにしても、このオッコ・カム指揮ベルリンフィルによるシベリウスの交響曲第二番はすごい!(しかも一枚たったの千円だ)。カムの演奏はライブもふくめたびたび耳にしてきているが、どちらかといえば手堅いアプローチをする渋い指揮者というイメージがあった。とりわけ、長身でスリムなルックス同様、その演奏もスマートで、ちょっと線の細い印象があったのだ。ところが、である。これは違う。ぜんぜん、違う。「若さゆえ」ということもあるだろうし、「お国もの」のシベリウスということもあるのだろう、とにかく自信に満ちた足取りで悠然と歩を進める堂々たるシベリウスだ。終楽章など、まったくありえないような遅さでありながら、最後までテンションが下がることがない。もちろんそれは、相手がベルリンフィルという世界最強のオケだからこそできた思い切ったテンポ設定であって、その意味ではまさに一期一会の名演奏ということになるかもしれない。

その後のカムはといえば、人望は厚いが、出世街道からはやや外れてしまった万年「課長」的なスタンスに甘んじているようにみえる。だいたい、「Virtual Finland」の「Famous Finns」の欄にかれの名前がないというのはいったいどうなっているのか?「moiのプッラを食べたかもしれない指揮者」として、ここ数年、以前にもましてカムを応援しているぼくとしてはまったく歯がゆいばかりである。ぼくの勝手な推理では、多分に「フィンランド人的気質」が影響しているのではないだろうか?いずれにせよ、ベルリンフィル相手にこれだけの熱い演奏を繰り広げられる指揮者のこと、まだまだこの先ドカン!とやらかしてくれるのではないかと密かに期待せずにはいられないのだ。

不気味社が歌う
2007.1.29|music

謎の集団「不気味社」が歌う「ムーミン」のテーマソング。こんなのあり!?ムーミン好きには聞かせられません・・・。

グリーグの小品集
2007.2.7|music

リヒテルというピアニストが、ノルウェーの作曲家グリーグのつくった小品ばかりを弾いているCDを聴いた。『Grieg: Lyrische Stucke』

グリーグというと、フィンランドの作曲家シベリウスとならんで北欧を代表する作曲家のひとりである。よって、このふたりの音楽にはどことなくおなじ種類の空気が流れているような気がしてならない。ところが、こうしてまとめて聴いているうち、そこには明らかなちがいがあるように思えてきたのだった。

何がちがうかというと、グリーグの音楽には「山」がある。「高み」から見やる「眺望」がある。湾曲した半島に絡みつく急坂があり、山あいに沈む夕日があり、眼下に広がる入江やフィヨルドにこだまする声が、ある。対して、シベリウスの音楽にあるのはひたすらに続く雪原であり、湿地であり、松や白樺が生い茂る森であって、そこでは太陽は一気に一面を照らし出す。

あくまでも感覚的な印象にすぎないとはいえ、ノルウェーとフィンランドのちがいがこんな風に、そこで生まれ育ったふたりの作曲家の音楽に刻印されていたとしても不思議はない。ちなみにグリーグはことし没後百年、いっぽうシベリウスは没後五十年、まとめ聴きするにはいい機会かもしれない。

上海のメル・トーメ
2007.2.8|music

きょう、いい話を聞いた。常連のKさんの話である。

Kさんは大学時代(といっても、わずか四年ほど前のことだが)中国の上海に留学していた。音楽好きの彼女は、留学中も日本から持ち込んだ大量のMDをスピーカーにつなげてよく聴いていたという。

秋も深まりだいぶ肌寒くなってきたある日のこと、彼女は上海にあるじぶんのアパートでいつものように音楽を聴いていた。ラベルを確認し、MDをセットして「PLAYボタン」を押す。すると、スピーカーから流れてきたのはラベルに書かれているのとはまったくちがう、ずいぶん前に放送されたメル・トーメを特集したラジオ番組だった。メル・トーメといえば、フランク・シナトラやビング・クロスビーらと並ぶ往年のジャズ・シンガー。自身もジャズを唄うというだけに、見かけによらずKさんはシブい趣味の持ち主なのだ。

雨で灰色にかすんだ上海の街を眺めながら、インスタントコーヒー片手に、しばらくKさんはその思いがけず流れてきたメル・トーメの歌声に耳傾けていたそうだ。いまでもなにかの拍子にメル・トーメを耳にすると、コーヒーの香りに包まれて雨にかすんだ上海の街を眺めたあの日のことがいっぺんによみがえり、そしてなんともいえない気持ちになるという・・・。

さて、残念でした。

話はこれでおしまい。胸を焦がすような一生に一度の恋も、異国の地で孤独に揺れる女性の心理もここには出てこない。それでも、この話を聞いて「ああ、なんかいい話だなあ」と思ったとしたら、そのひとはきっと「音楽好き」にちがいない。そう、「音楽」というのはほんらい、こんなふうに「生きられて」はじめて「聴かれた」といえるのではないだろうか?そう思えば、世の中にはこんなに音楽であふれているというのに、ほんとうの意味で「聴くことのできる」音楽はものすごく少ない。そもそも、それはさまざまな偶然が重なって思いがけず「生きられる」のであって、意図的に「生きること」すらできないのだから。

そしてKさんの話は、そんなことをぼくにあらためて思い出させてくれるものだった。

ホセゴン
2007.2.13|music

めでたいなぁ~。遂にホセゴンこと、Jose Gonzalez(ホセ・ホンザレス)の来日公演が決定!!!しかも、たった一日限りの日本公演の日が・・・火曜日(=moiの定休日!)。というわけで、もちろんチケット予約しましたさ。ニシムラさん、情報ありがとうございます!

ちなみに「ホセゴン」の正体はというと、素晴らしい歌心あふれるアルゼンチン系スウェーデン人のシンガーソングライター。去年、サンフランシスコの坂道を二十五万個の「スーパーボール」が転がり落ちるSONY(UK)の「BRAVIA」のCFに起用されて一躍脚光を浴びてました。

ライブ、楽しみだぁ。

ホセ・ゴンザレス
2007.3.13|music

このブログでもたびたび触れているホセ・ゴンザレス(プロレスラーではない)。アルゼンチン系の両親をもつスウェーデンのシンガーである。そのホセ・ゴンによる待望の初来日、しかも日本でたった一度きりというライブに行ってきた。

基本的にはギター一本による弾き語りで、曲によってはパーカッション、それにコーラス(いまや《北欧の歌姫》として引っ張りだこのユキミナガノ)が加わるというスタイル。予想どおり、と言うべきか、ほとんどMCなしで正味一時間弱というあっさりとしたものだったのだが、なかなか中身の濃いいいライブだった。

ホセゴンの弾くギターは、ときにスパニッシュ・ギター風のパッセージがあったりして、CDで聴く以上にスケールの大きさを感じさせるものだったとはいえ、その繊細なボーカル同様、けっして熱くならないところが、いかにも北欧育ちといった印象。クールを気取る、のではなく、音楽のボルテージが上がれば上がるほど、なぜかそこに立ち昇ってくる空気は逆に冷めてゆく感じ。その思いが熱ければ熱いほど、外に吐き出される息は白さを増すように。

個人的には、いわゆるスウェディッシュポップや北欧のクラブジャズよりもずっと、ホセ・ゴンザレスの音楽に北欧の冴え冴えとしたあの空気を感じる。ライブに接して、その変わらない温度感にいっそうその思いを強くした。

ちなみにホセゴン、8月にはサマソニへの出演も決定したようです。

気になること
2007.3.17|music

気になって仕方ない(まあ、それほどでもないが)のは「おふくろさん」問題である。

歌手の森進一が、じぶんの持ち歌である「おふくろさん」を歌う際、「ヴァース」と呼ばれる歌詞つきの序奏を作詞家に無断でつけたことからその作詞家の「大先生」の逆鱗に触れ、「今後一切じぶんが作詞した楽曲は歌わせない」などといって大騒ぎしている件である。何十年も毎日ずっと「卵かけごはん」を食べていたひとが、ある日ふと「なんかちょっと飽きちゃったよなぁ」などと思い「納豆ごはん」にしてみたところ、突然こっぴどく叱られてしまった。まあ、外野的にはその程度の認識しかないわけだが、どうやらことはもっと重大らしい。

それはそうと、テレビなどでこの騒動を目にするにつけ気になるのは作曲家の存在がみえないことである。怒った「大先生」が「じぶんが作詞した楽曲は歌ってくれるな」とJASRACに訴えるのはまあ、理解できるとしても、それによって実害を被る(たとえば「印税」が発生しなくなるとか)作曲家たちだって少なからず存在するはずである。ある日、ボーイフレンドを連れてきた娘に対して「父さん、あんな男と付き合うのは絶対に許さんからな!」と言ったとしても、ふつうなら「ちょっと、お母さんからもなんとか言ってヨ!」という展開になるのではないだろうか。ところが、今回の騒動にかんしていえばそうした方面からのコメントはあまり取り沙汰されていないようだ。

そう思ってちょっと調べてみたところ、この「おふくろさん」という歌の作曲家、つまり音楽についての著作権を有しているのは猪俣公章というひとであった。このひとはすでに他界しているのでテレビ等に登場しないのは当然としても、著作権はまだ生きているのだからそれを管理しているひと(猪俣氏の家族とか)は一連の事態に当惑しているにちがいない。どうなっているのだろう?あるいは、もし他の作曲家がおなじような状況に巻き込まれたとしたら、いったいどのように対処するだろうか?・・・気になる。

そう、気になるといえば、この渦中の作詞家の大先生だが、かなり気になる。なにが気になるって、耳である。厳密に言えば、耳の毛が気になる。いや、耳じたいも立派なのだが、その立派な両方の耳の穴からフサフサの毛がものすごい勢いで飛び出しているのだ。「怒髪天を衝(つ)く」という言葉がある。辞書によれば「激しく怒って髪の毛が逆立ったすさまじい形相」という意味だが、この「大先生」の「耳の毛」はまさにかれの怒りの度合いを象徴している気がしてならない。「天を衝く」べきはずが両脇を衝いてしまっているのが気にならないでもないが、この場合の「両脇」はおそらく森進一と猪俣公章にちがいない。天国の猪俣氏にはお気の毒なことである。

ともかく、あの「耳の毛」の勢いを見るかぎり作詞家の怒りは並大抵のものではなく、よってこの騒動もしばらくは収束しそうにもない。「『おふくろさん』問題」の今後をめぐるカギは、まちがいなくあのジェット噴射のような「耳の毛」にあるとみた。

「熱狂の日」音楽祭
2007.3.22|music

ラ・フォル・ジュルネ~「熱狂の日」音楽祭。ひとことでいえば、それは「サマソニ」や「フジロック」のクラシック版。フランスのナントで毎年ひらかれ、人気を博しているフェスティバルの日本公演がことしもGWに開催される。 lafolle

この日本版「熱狂の日」音楽祭の舞台は、有楽町にある東京国際フォーラム。期間中は、一日じゅう国際フォーラム内の六つの会場のどこかでつねにさまざまなクラシックのライブがおこなわれる。このあたりも、いわゆる「ロックフェス」とおなじ。いちばん早い時間だと朝の九時十五分スタート、遅い時間は夜十時半のスタートと、仕事帰りでもぜんぜんOKなタイムテーブルがうれしい。しかも、ひとつのコンサートはおよそ四十五分で、そのかわりチケットの値段もワンステージ千五百円~三千円とめちゃくちゃ安い。メンツも、フランスを中心に世界中からあつまったなかなかの顔ぶれ。人気、実力兼ね備えた若手アーティストも多いのだ。しかも、ほとんどのコンサートは三才以上入場可、なかにはゼロ才児でも入場できるコンサートもあり家族で楽しめる。

ところで、この「熱狂の日」音楽祭のことしのテーマは「民族のハーモニー」とある。つまり世界各地の、とりわけ民族色の濃い作曲家の音楽を演奏しようということらしい。もちろん、北欧の音楽もたくさん登場する。なかには演奏される機会のすくないレアな楽曲も含まれている。北欧ものの中から、特に面白そうなものをピックアップしてみるとこんな具合↓

シベリウス/5つの小品(樹木の組曲)ほか 小菅優(pf)
グリーグ/抒情小品集よりほか 仲道郁代(pf)
トイヴォ・クーラ、シベリウスなど北欧の合唱作品 アクサントゥス合唱団
グリーグ/ヴァイオリンソナタ第2、第3番 樫本大進(Vn)
グリーグ/「ホルベアの時代より」ほか オーヴェルニュ室内管弦楽団
シベリウス/ヴァイリン協奏曲ほか R・オレグ(vn)ほか
シベリウス/弦楽四重奏曲「親しい声」 古典SQ

などなど・・・もちろん、もっといろいろあるのだが。街で配布されているリーフレットをみるとプログラムに国旗マークがついているので、それでチョイスしてみるという手も(ちなみに5/4のタイムテーブルには、フィンランドとデンマークが各二つ、ノルウェーが四つ、スウェーデンがひとつある)。

すでに人気公演はソールドアウトになっていたりするので、興味のあるかたは早めにチケットを手に入れたほうがいいかもしれない。

エヴァ・アルクラ Live
2007.5.2|music

フィンランドのカンテレ奏者エヴァ・アルクラ(Eva Alkula)さんのソロ・ライブが今月24日[木]、青山のLAPIN ET HALOT(ラパン・エ・アロ)で開催されるそうです。

シベリウス音楽院に学び、2003年の国際カンテレコンクールのソロ部門で優勝した経験をもつアルクラさんは、いまもっとも注目すべきカンテレ奏者のひとりといえそうです。日本で「琴」を学んだり、39弦のエレクトリック・カンテレ(エレキギターならぬエレキカンテレ?)も演奏するなど新しいサウンドへの意欲も旺盛な彼女のライブ、きっとはじめてカンテレに触れるという方にも楽しめるものになるでしょう。

LA FOLLE JOURNEE au JAPON 2007
2007.5.7|music

三日の日、店をサボって(?)有楽町の東京国際フォーラムでおこなわれていた《ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン》に行ってきた。

この《ラ・フォル・ジュルネ》、ひとことで言えばフジロックやサマソニのクラシック版ということになる。そして、フランス発祥のこの「音楽祭」の日本での「引っ越し公演」はことしで三回目。以前からウワサには聞いて気になっていたもののGW中ということでなかなか行くことができなかったのだが、「エイヤッ!」とことしは思いきって出かけてみた。じっさいに足を運び、参加してみて気づいたのだが、これはめちゃくちゃ完成度の高い、よく練られたイベントである。わずか三回の開催にして、すっかりこのイベントが「定着」しているのが実感できる。かつて仕事でこうしたイベントに間近に触れていた身としては、たったの五日間で七十万人弱を動員し二十万枚ものチケットを売り切ってしまうなんてただただ驚き感心するばかりだ。

そもそもビギナーにも楽しめるクラシック音楽の企画というのは、コンサートにせよCDにせよ本にせよ、これまでにも数え切れないくらいたくさんつくられてきた。そしてそのほとんどがことごとく失敗してきた。どうしてか?ビギナーでないひとが、その思い込みだけで安易に企画をつくるからにほかならない。「ビギナーにはこういう音楽がわかりやすいだろう」とか「きっと子供はこういう音楽が好きなはずだ」といった具合に。ところが、こうした思い込みはたいてい的を外しているものなのだ。たとえば、なにかの機会にふとモーツァルトの音楽を耳にして気に入ったというひとがいるとする。こういうとき、企画をつくる側としてはついつい『はじめてのモーツァルト』といったものをつくってしまいがちだ。ところが、往々にしてそういう企画は不発に終わることがおおい。ちゃんと聴いてみようと思ったひとは、ちゃんとしたものを求める。つまり、気に入った曲が収録されたふつうのCDを買ったり、その作品が演奏されるコンサートに出かけたりするのである。

話を《ラ・フォル・ジュルネ》に戻すと、そこにはビギナーとマニアとがともに楽しめる周到な仕掛けが用意されているのがわかる。まず、演奏される曲目や出演者にはマニアックな視点を感じる。めったに実演では接することのできない作品やCDもあまり出ていないような作品が目白押しである。さらに登場する出演者たちも超ド級のアーティストこそいないものの、実力派のヴェテランやこれから注目を集めるであろう若手など食指をそそられるラインナップとなっているのだ。

反対に、この音楽祭の運営方法にはビギナーにやさしい工夫がいろいろほどこされている。たとえば、ひとつのプログラムはすべて約四十五分間であったり(ふつうは休憩ふくめて約二時間)、チケット代金が千五百円から三千円と格安であったり(ぼくは八千五百円で四つのコンサートを聴いたのだが、ふつうの価格設定だったらこの四~五倍の出費は覚悟しなければならない)、あるいはまたほとんどのコンサートで原則として三歳以上の子供の入場可能であったり(ふつうは未就学児童の入場不可)、と。つまり、ビギナーにとっては安価で、しかも飽きることなくクラシックを「つまみ食い」できるというわけだ。そしてここが「満足度」といったところでとても肝心なのだが、「つまみ食い」といってもカップラーメンや冷凍食品や甘口のカレーなんかではなく、ちゃんとしたシェフのつくった本格的な料理の数々を「つまみ食い」できるのだ。そして当然いちど味をしめたお客たちは翌年もリピートすることになるのである。内容や出演者の顔ぶれに左右されることなく動員が保たれるのは、つまりみんなこの《ラ・フォル・ジュルネ》のファンだからにちがいない。いままでのこうした企画とのいちばん決定的なちがいはまさにその点にあるだろう。

個人的に、これは「好きなカフェ」にも共通していることなのだが、ぼくが気に入ったのはやはりいろいろなひとたちがカジュアルに音楽を楽しんでいるところ。家族連れもいれば、子供もいて、中学生や高校生の友だち同士がいる。ふつうのクラシックのコンサートとはまたちょっとちがった光景だ。会場のフリースペースなどでは、出演アーティストがぶらぶら散歩しているのに出くわしたりして楽しい。ほんとうに「お祭り」なのだ。ちなみに来年のテーマは『シューベルトと同時代の作曲家たち』だという。きっと、すでにいまから心待ちにしているひとも多いのではないだろうか?もちろんぼくもその一人なわけだが。

ふたたび銀座へ
2007.5.8|music

ことしのゴールデンウィークはいつになく暇だった。とはいえ、相変わらずPCは不調(というか壊滅状態)なので退屈しのぎのネットサーフィンすらもままならない(ひさびさにメールソフトを立ち上げるとニ百件とかのバルクメールが平気で届いていて気が遠くなる)。家に戻ってCDなど聴いているのにもなんとなく飽きたので、店を閉めた後またまた《ラ・フォル・ジュルネ》に行ってきた。

とりあえずニ十一時半すぎに店を出れば、二十二時三十分からの最終公演に間に合うという計算だが、運よく(?)二十一時前に出れたので思いのほか会場に早く到着することができた(この公演は全席自由なので早く着いたほうがよい席に座れることになる)。プログラムは、シャニ・ディリュカというモナコのピアニストによるリサイタルで、グリーグの《抒情的小品集》というポストカードブックのような作品を演奏するというもの。夜更けにこんな愛らしい音楽をナマで聴けるなんて、ある意味とても幸福な体験じゃないだろうか。

演奏はどこかショパンを思わせる感興豊かな印象。北欧の音楽なのだからもっと素朴で鄙びた感じだったらよかったのになどと思わずかんがえてしまいそうになるが、ちょっと待てよと踏み止まる。北欧=素朴といった図式はいわゆる「フジヤマゲイシャ」とおなじ、外の人間からみたイメージというか思い込みにすぎないのだから。じっさいライプツィヒの音楽院に学び、シューマンやリストといったロマン派の音楽をたっぷりと吸収してきたグリーグのこと、かつて吉幾三がプレスリーになりたかったように、グリーグがショパンになりたかったとしてもぜんぜん不思議ではないのだ。

いずれにせよ、仕事と仕事のあいまにグリーグの生演奏を聴くという、ある意味GWならではの奇妙な過ごし方も気分転換としてはなかなかいいものではあった。

THE GARDEN
2007.5.15|music

カレンダーには二種類ある。日曜日で終わるものと、日曜日から始まるものと。つまり日曜日は、一週間の終わりであると同時に一週間の始まりでもある、ということ。どちらにせよ、日曜日をどう過ごすかは一週間すべてにかかわる大切なこと、なんじゃないだろうか?

で、日にちが迫っているのだけれど、そんな「日曜日」のためのとっておきのイベントが開かれる。RONDADE presents THE GARDENがそれ。

恵比須の気持ちいい空間limArt annexを会場に、THE YOUNG GROUP、中島ノブユキが登場、ライブをおこなうほか、会場ではU-ZOによるオーロラ映像も楽しめる。

日時は今週の日曜日20日の18時スタート。気持ちのいい空間で、おだやかな音楽と神秘的な映像に囲まれてすごす庭園のようなひととき。なんといっても、このイベントのオーガナイズをしているのが以前いっしょにイベントをやっていた仲間なので、内容のよさについては保証済み。お時間のある方はぜひ足を運んでみてください。

Boston Promenade フリーライブ!
2007.10.1|music

フィンランド発のホットなビッグバンド「Boston Promenade(ボストンプロメナーデ)」がこのたび初来日、きたる10/19[金]午後6時より上野恩賜公園野外ステージにてたった一夜限りのフリーライブを決行する。

この「Boston Promenade」はヘルシンキ商科大学(HSE)の学生とミュージシャンによって結成されたグループで、レパートリーはジャズのスタンダードナンバーからスティービー・ワンダー、ブライアン・セッツァーといったソウル、ロックのヒットチューンまでと幅広い。もちろん実力の方もお墨付きで、フィンランド国営放送のテレビ局に定期的に出演しているほか、国内外でも数多くライブ活動をおこなっているそうである。

秋の夜長に北欧のビッグバンドジャズを「生」で聴く。しかも入場無料!!!これは、ちょっとというか、かなりいい感じとはいえないだろうか?ぜひぜひ応援がてら、10/19は上野にかけつけよう!

◎ Boston Promenade Live at Ueno Park

 日 時:10月19日[金] 午後6時~
 会 場:上野恩賜公園野外ステージ
 出 演:Boston Promenade(ボストンプロメナーデ)
 入場料:無料
 問い合わせ:japan boston promenade

R・グードのモーツァルト
2007.10.31|music

本当にいいなあと思える演奏と出会ったとき、つくづく音楽について語るなんて意味のないばかげたことだなあと感じる。それでもなお、そうせずにはいられないほどにリチャード・グードが弾いたモーツァルトのピアノ協奏曲はすばらしい。

ぼくはピアノの音色についてまったくといってよいほど自信が、ない。にもかかわらず、グードの弾くピアノの音色がとても独特であることはよくわかる。粒立ちがよく透明感にあふれてはいるけれど、けっして線が細いわけではない。ときに男性的で力強くもあるが、重厚というのとは少しちがっている。軽やかさにしても上滑りするような感じではなく、馬のギャロップのようにしっかり脚が地についている感じだ。とてもリリカルに歌う部分もけっしてその歌に溺れることはしない。粘らないのだ。ことばで追っかけようとすればするほど、その本質は影法師のように逃げてゆく。ことばからもっとも遠いところにグードのピアノは、ある。

音が濁らない、それもグードのピアノのきわだった特徴といえるかもしれない。言い方を変えれば、その演奏はとても明快である。ふつう赤と青、ふたつの色が混じりあうと紫になる。音楽でいえば和音、赤と青は紫色の和音を生む。ところが、グードが弾くと赤は赤、青は青のままふたつの音は持続し両立する。紫にならない(どんどん感覚的で意味不明になってゆくなあ)。ではどうなのかというと、赤と青によって紫色を暗示するのがグードのピアノだ。油絵のようなベタついた色彩はどこにもなく、どこまでも淡くさわやか。

そして、この演奏のもうひとつの聴きどころといえば競演しているオルフェウス室内管弦楽団にある。彼らのサウンドもまた、とても明快だ。すべての音が透けてみえるかのような見通しのよさがあり、リズムも生き生きと弾んでいる。グードのピアノとのかけあいもまさに絶妙というほかなく、全編にわたって音楽するよろこびにあふれている。ピースフルな、かけがえのないモーツァルト。

それにしても、こんなにすばらしいCDがなんと日本では廃盤になったままとはひどい話だ(たまに中古CD屋で千円前後で売られているのをみかける)。レーベルはニューヨークにあるNonesuch、地味ながら隠れた名盤をたくさんリリースしている知る人ぞ知るレコード会社である。ちなみに、以前べつのコラムで紹介したことのある名盤もここからでている。

アンデルジェフスキの「ディアベリ変奏曲」
2007.11.15|music

アンデルジェフスキというピアニストが目の前で「ディアベリ変奏曲」を弾いている。ベートーヴェンの曲だ。場所は紀尾井ホール。

ベートーヴェンのピアノ曲といってまず思い浮かべるのはピアノソナタかもしれない。情感に訴えかけるメロディーや情熱的なパッセージ、あるいは後期の作品にみる極限まで純化された音による孤高の世界は聴くものを圧倒し、惹きつけてやまない。それにくらべると、この「ディアベリ変奏曲」というのはどうもいまひとつ分が悪い。

タイトルからも想像がつくとおり、これはディアベリ(ディアベッリ)という作曲家がつくった短いワルツを下敷きにした変奏曲集である。変奏曲という性格からすれば、独創的でインスピレーションに満ちた楽想からなる一連のソナタにくらべてどうしても退屈に感じられがちなのは無理もない。ベートーヴェン自身も、この曲で変奏曲をつくってほしいと頼まれたものの気乗りせず、しばらくほったらかしにしていたと云われている。「靴屋のつぎはぎ」。この曲を評してベートーヴェンはそんなふうにも言ったらしい。

ところが、気づいてみたらベートーヴェンはこの「靴屋のつぎはぎ」と呼んだ曲をもとになんと33曲(!)もの変奏曲を書いてしまったのである。いったい、なにが起こったのか?

料理人魂に火がついた

そうかんがえるべきだろう。変奏曲というのはそもそも、「一個の素材」をもとに手を変え品を変えする「料理のようなもの」ではないだろうか。明石でとれた天然物の「鯛」を独創的な料理に仕立てるというのは、ある意味「料理人」としてはしあわせな仕事だろう。じゃあ、手渡されたのがごくふつうの、ありきたりの「里芋」だったらどうか?

里芋かよっ

はじめベートーヴェンはそうつぶやいたのかもしれない。しかし(おそらく)途中で気がついたのだろう。「里芋」で極上の一皿をつくってみんなの度肝をぬかしてやろう。それでこそ一流の料理人じゃないか、と。そうして、一個の「里芋」は33皿もの料理として新たないのちを吹き込まれた。「エッ?これ、ほんと里芋ですかぁ?」そんな眞鍋かをりの感嘆の声もきこえてきそうである。

しかしここが難しい。「里芋」は「里芋」だ。15品めともなると、さすがに驚きを通り越して飽きてくる。「せめてジャガイモありませんかぁ?」さすがの眞鍋かをりも当惑気味である(かたわらで、ギャル曽根だけは黙々と食べつづける)。それはともかく、なにが言いたいのかというと、変奏曲にいちばん重要なのは「ライブ感」だということだ。器にきれいにもられた完成作だけでなく、一個の「里芋」がザクザク刻まれ、こんがりソテーされ、あるいはぐつぐつと煮込まれることでいままさに驚愕の一皿に生まれ変わらんとするそのプロセス、その躍動感を想像させることができなければ、この60分ちかくにもおよぶ33の変奏曲を一気に聴かせることは無理といっていい。

「うわぁセンセー、いっそこのまんま食べさせてほしいわぁ」と思わず調理の途中で口にしてしまう、上沼恵美子のあの感じを思い出してほしいのだ。じっさいベートーヴェンは作曲家としての名声を確立するよりはるか以前から、貴族のサロンなどを中心に「ピアノの名手」として名をはせていた。とりわけその初見演奏の腕前と自由自在な即興演奏で人気を博していたという。いきなり誰かから手渡された一個の素材をあっという間に思いもつかないような見事な作品に仕上げてしまう、そういういわば華麗なる天才料理人ぶりを夜な夜なあちらこちらで見せつけていたわけであって、禁欲的かつシリアスな姿勢でソナタを作曲するのとはまたべつの、そういうベートーヴェンのある一面をもっともよく伝えてくれているのがこうした変奏曲だと考えられる。

さて、では今夜の「ディアベリ」はどうだったか?CDで耳にしてきた並み居る巨匠たちの演奏よりも、もちろん全部が全部とはいわないまでも、ぼくにははるかに面白く感じられた。何人かの「巨匠」たちの演奏ではいまひとつ伝わりづらかった「ライブ感」が、たしかにそこには感じられたからにちがいない。全般にフレッシュ、ときに大胆でときに繊細、そうした振幅の広い演奏のせいだろう。最後の変奏、34曲目などはまさに口直しのシャーベットのようだったのだ。

荻窪音楽祭
2007.11.17|music

《荻窪音楽祭》というイベントがひらかれている。この週末、荻窪のあちらこちらでは大小さまざまのクラシックコンサートがおこなわれる。

そこできょうは、午前中原稿の直しをしたりメールを送ったりした後で、家から徒歩5分くらいのところにある杉並公会堂でコンサートを聴いてきた。以前、常連のOサンからこの日ピアノを弾くという話を聞いていたのを思い出したのだ。

曲はサン=サーンスの「オーボエとピアノのためのソナタ」。はじめて聴く曲だ。サン=サーンスの最晩年、八十五歳のときの作品だそう。サン=サーンスといえば「保守派の頑固オヤジ」というイメージが強く、じっさい曲もロマンティックで重厚という印象だったのだが、この曲はちょっとちがう。活きのいいリズム、深呼吸するかのような旋律の大きなうねり、素朴な歌心など、老人になってむしろ若返ったような感じすらある(とはいえ、けっしてカジュアルになりすぎることはないのだが)。歳を重ねて肩から荷が下りたということなのだろうか?それとも、もしかしたら背中に羽が生えてきたせい?

おなじ年に書かれたクラリネットやバスーン(ファゴット)のためのソナタもすごく聴いてみたくなった。

十年後
2008.2.27|music

ことしは「ボサノヴァ誕生五十周年」なのだそうだ。打ち合わせの席上、bar bossaのはやしさんからそう教えられた。そうか。そういえばそうなのだなあ。ということは、「ぼくが熱心にボサノヴァを聴くようになってから十周年」という話でもある。なぜかというと、ちょうどそのときは「ボサノヴァ誕生四十周年」を記念(中途半端な「記念」だな、しかし)して一挙に名盤の数々がリリースされ、そうしたCDをいっしょうけんめい買い漁っていたからだ。

はじめて「bar bossa」にお邪魔したのもたしかその年だったはずで、その意味では、はやしさんとも十年来のおつきあいということになる。渋谷で仕事をし、プライベートでは友人とイベントなどやっていたころだ。そういえば、そんな十年前に買ったCDの一枚にナラ・レオンのアルバム『美しきボサノヴァのミューズ』がある。原題は、いみじくも『十年後(dez anos depois)』。軍事政権による圧力から逃れるためブラジルを離れパリへと移ったナラが、十年前のリオでの日々を慈しむかのように歌ったボサノヴァ・ソングブック。ナラの「十年」には到底およばないまでも、その後の「十年間」に会社員を辞め、荻窪に店を開き、吉祥寺に店を移転したことを思うと、たかが十年されど十年、その「重み」みたいなものについクラクラしてくる。そしてついでに、十年後に自分がなにをしているかなんて考えることがいかに不毛なことかと思えてくるのだ。

美しきボサノヴァのミューズ/ナラ・レオン

ボサノヴァとシューベルト
2008.2.29|music

ボサノヴァの話が出たついでに。

いちいち理由を挙げていったらキリがないのだが、クラシックの作曲家でもっともボサノヴァ的な存在といえばシューベルトである。たくさんの愛らしい歌曲はもちろん、かれがヴァイオリンとピアノのために書いたソナチネなんかもすごくボサノヴァっぽい。

そして、ことしの《ラ・フォル・ジュルネ》のメインテーマはまさにそのシューベルト。GWとはいえ最終日の火曜日ならなんとか行けるかな。オフィシャルサイトではすでにプログラムも発表されていて、三月にはチケットの一般発売も開始される。

怒濤のGWの打ち上げは《ラ・フォル・ジュルネ》と早くも心に決めている。ていうか、問題は今週末をどう切り抜けるか?なのだけれど。

World Music Styles~Bar Bossa
2008.3.14|info

さらりと以前お知らせしましたが、文化放送のデジタルラジオ「UNIQUE!」のプログラム「World Music Styles~Bar Bossa」のためにほんの少しですが選曲のお手伝いをさせていただきました。この番組は雑誌『カフェ&レストラン』の連載でもご一緒させていただいている渋谷bar bossaのマスター林伸次さんが選曲&ナビゲーターをつとめられている番組なのですが、3月放送分の「ゲスト選曲家」をぼくが担当させていただいています。

なお、お店で選曲したものをかけていたとき何人かのお客様から曲名についてのお問い合わせをいただきましたので、ここに載せておきます。参考にしてください。

1. Radames Gnattali,Tom Jobim,Paulinho da Viola etc / Meu amigo Tom Jobim
2. Sylvia Telles / Discussao
3. The Recyclers avec Ignatus/Samba Saravah!
4. Nouvelle / Decidete Mi Amor
5. Baden Powell / Manequim 46
6. Laercio De Freitas / Brioso
7. Cassia Eller e Nelson Faria / Garota De Ipanema
8. Caetano Veloso / Pra Todo Efeito

ちなみに番組の聴き方ですが、左上の「Listen Now」の部分をクリックするとかんたんなアンケート画面(生まれた年、利用環境など)が出てきます。チェックをいれて「登録」を押すと放送中の番組を聞くことができます。なお、このプログラムは週四回のオンエアで、ぼくの選曲したものは今月放送分でお楽しみいただくことができます。ネットのつながる環境であればどこでも聞くことができますし無料なのでぜひこの機会に聞いてみてください。放送は、火曜日の6:00~8:00、12:00~14:00、20:00~22:00、そして土曜日の9:00~11:00です。

3+1
2008.5.24|music

すっかり更新を怠けている。書きたいことはたくさんあるし、最近は書く時間がないと言うほど忙しくもないのだけれど、たとえどんな駄文にせよ(ぼくの場合)「書く」にはそれなりの時間と集中力を要するものだということをあらためて自覚した次第・・・。

ところで、ジャズを中心に幅広く活動されているピアニストの新澤健一郎さんが、ここ数年フィンランドのギタリストニクラス・ウィンターとフィンランド、そして日本のステージで共演を重ねていることは新澤さん本人の口から聞いてはいたのだけれど、つい最近そのコラボレーションの成果ともいえるCDがリリースされた(フィンランド大使館のニュースリリースでも紹介されていたので目にしたひともいるかもしれない)。

ニクラス・ウィンター(Niklas Winter)のアルバム『Beautopia』がそれで、新澤さんは全11曲中7曲でピアノ、そしてキーボードを弾いている。フィンランドからはユッカ・エスコラ(Tp)、セヴェリ・ピューサロ(Vibe)らThe Five Corners Quintetのメンバーも参加しておりいわゆる「ジャズ好き」ならずとも興味を惹かれるところ。ぼくはこの手のサウンドにけっしてふだんから親しんでいるわけではないが、この『Beautopia』はThe Five Corners Quintetをはじめとする一連のヘルシンキ発のクラブジャズと比べるとより「室内楽的」な緻密さ、そして親密さを感じさせてくれる。

それにもうひとつ、ぼくには思い出したことがある。初めて訪れたヘルシンキで、真夜中近くに半分迷子になりながら散歩したときのことを、だ。まだまだ吐く息は白く、街は見慣れた東京とは比較にならないほどに暗かった。石畳の舗道は、歩くたび足下から小さな「違和感」をコツコツと伝えてくる。そしてこの「違和感」は、アスファルトの舗装に慣れた旅人に異国の土地にいることをコツコツと執拗に思い知らせるのだった。硬質な抒情?なぜかはわからないのだが、ニクラス・ウィンターのCDを聞きながら不意に、ぼくはあの「心細い散歩」のことを思い出したのだ。

それにしてもなんとタイムリーなことだろう。スペシャルゲストとしてそのニクラス・ウィンターをフィーチャーした新澤健一郎トリオのライブが都内でおこなわれる。

あさって5/26[月]が丸の内「コットンクラブ」、そして5/29[木]が大泉学園のジャズスポット「in F」である。店さえなければ、なにはさておきぼくも駆けつけるところなのだけれど。お時間のあるかたは、ひとまずあまりむずかしいことは考えず、日本とフィンランドのミュージシャンが織りなす「3+1」の愉悦をぜひ体感していただきたいのです。

寝た子を起こす
2008.7.29|music

はたしてそれがいまほんとうに必要なのか、そうかんがえてしまうような買い物がある。たとえば「オーディオアンプ」がそうだ。もしこれが「歯磨き粉」なら、悩む必要なんてない。すぐさま買うべきだ。あすの朝には困ったことになるのだから。

ところが、「オーディオアンプ」となると問題はちょっとばかり複雑になってくる。かんがえてみれば、自宅のアンプが壊れてすでに半年ほどもたつのだが、もちろん不便にはちがいないが、日々の暮らしに支障をきたすほどかといえばまったくそういうことはないのである。実際、いまアンプを新調したところで、現在の自分の生活のリズムを思えば、けっきょくのところスイッチすら入れない日のほうが多いことは明らかだ。ならばいっそのこと、ぼくのささやかな買い物リストから削除してしまえばいいのかもしれないが、やはりそういうわけにもいかない。世界は生活必需品と不要品と、ふだんはそれほどでもないが時折ものすごく必要と感じられるような膨大な数にのぼるグレーゾーンの品々からつくられている。

そもそも、音楽というのは不意に聴きたくなるものだし、これは音楽好きならきっと分かると思うのだが、聴きたいときに聴きたいように音楽を聴けないというのはものすごく苦痛なことなのである。たとえば真夏の休日の昼下がり、あまりクッションのよくないソファーの上で微妙に身体をずらしつつなんとかベストポジションをみつけ、半分まどろみながらジェイムス・テイラーだったりボッケリーニだったりを聴くよろこび、これは何物にも代え難い。にもかかわらずそれができない。なぜって、家ではいまパソコンで音楽を聴くほかなく、しかもパソコンのある部屋で横になるのは不可能だから、である。なんという不幸!

そんなこんなで、いつになるかわからない買い物にむけて、いま「オーディオアンプ」を物色中である。オーディオ好きの友人に相談したところ、廉価な真空管アンプなどというマニアックなものも含めいくつか候補になりそうな品をピックアップしてくれたのだが、なかでも気になっているのが下に挙げたこれだ。イギリスのメーカーのものだが、デザインと開発はデンマークでなされたという代物。一切の余計な装飾を排したアルミ製ボディーの軽快さに必要最小限のツマミ類というシンプルさがいかにもいい感じだ。けっして力強い音を出すアンプではないようだが、自分が好んで聴く音楽からすればかえってそれも都合がいい。

などと書いていたら、どうやらまたまた寝た子を起こしてしまったようだ。

tangent AMP-50(シルバー) プリメインアンプ

エラールを聴いてかんがえる
2008.8.8|music

水戸ではまず、「ラ・カンパネラの生まれたころ」と題されたコンサートを聴いた。

「ラ・カンパネラ(鐘)」というのはパガニーニがつくった曲をもとにリストがピアノ用に編曲したもので、この曲がつくられた時代、つまり十九世紀半ばに活躍したリストやショパンの名曲を、その当時につくられたピアノ(フランス・エラール社1845年製)の音色で聴いてみよう、という企画である。

この十九世紀半ばのピアノと現代のグランドピアノとでは、ずいぶんいろいろな点でちがっている。たとえば大きさも三分の二くらいだし、鍵盤の数も三つ少ない。いちばんちがうのは駆体の構造で、現代のピアノにくらべるとはるかに木材から作られた部分が多いのだそうだ。そのため音量はより控えめだし、音色も現代のピアノに聞かれるような金属的なものではなく、もっと柔らかい響きがする。いままで当たり前のように耳にしてきた現代のピアノが、楽器というよりはなにやらフル装備の超合金ロボットめいたいかつい物体にさえ見えてくるのだった。

じっさい現代のピアノというのは低い音から高い音まで、すべてがムラなくきれいによく鳴る。ある意味、「優等生」というか。それに対してエラールだと、高い音や低い音はちょっと辛そうというか、相当キツいんだけど頑張って音出してます的な感じがするのだ。リストのような超絶技巧の曲を聴くと、その感じがいっそうリアルに伝わってくる。リストにせよショパンにせよ、彼らの創作意欲はその時代のピアノという楽器がもつ可能性をはるかに凌駕し、その枠組みを飛びだそうとしていたのかもしれない。

たとえば、ものすごく高い音や低い音、はたまた猛スピードでかけぬけるようなパッセージは聴くひとをハラハラさせドキドキさせ圧倒する。ものすごいことをやっているのだから、ものすごいことをやっているということが聴くひとにちゃんと伝わっていなければ意味がない。楽器が軋むくらい、音にムラがあるくらいのほうがかえってエキサイティングだ。ことにライブのような場であったなら。

すぐれた作曲家であると同時にすぐれた演奏家でもあったリストは、そういう《魔法》を誰よりも熟知していたにちがいない。エラールで弾かれた「ラ・カンパネラ」を聴きながらぼくはそうかんがえていた。ものすごいことも、やけにきれいに無理なく聞かせてしまう現代のピアノでもって聴き手を熱狂させるというのはじつはなかなか大変なことなのかもしれないな、とも。ピアノの弦にゴムや木片やらを挟んで、むりやり優等生にくわえタバコをさせる不良のような真似をするジョン・ケージみたいな作曲家もいなくはないけれど(じっさいある時代にはそれで熱狂するひとも大勢いたのだし)。

これまでショパンもリストもぜんぜん興味ないというか、むしろ嫌ってさえいるようなところがあったのだけれど、彼らの音楽をその時代の楽器で聴いたことでなんとなくツボがみえたというか、たまには聴いてみるのも悪くないなと思えたのは収穫だった。

などとかんがえつつホールを出て、水戸芸術館のミュージアムショップをのぞいたら『大作曲家名鑑』などというとんでもないガチャガチャを発見してしまった。旅におみやげはつきもの、しかも後々振り返ったとき、なんでこんなもん買っちゃったんだろうと後悔の念を抱くようなものほどよい、というわけのわからない理由からついつい手をだしてしまった。出てきたのは、よりによってショパン。しかもなんか不気味なんですけど。《つづく》

百年「と」ピエール
2008.8.23|music

友人で、音楽家・ギタリストの高橋ピエール君のイベントが明晩、吉祥寺のブックストア「百年」でひらかれます。

ピエール君はなんというか、ムーミンのお話に登場するスナフキンのような人物です(本人はきっと顔をしかめるだろうけれど)。ひょろっと背が高くて、いつもよっこらしょとギターをかついでいて、おまけに寒くなる季節にはマントを羽織ったりしています。そしてそれがすごく似合ってるのです。まあ、そんな雰囲気もあるのだけれど、それ以上にかれの登場の仕方がなんともいえずスナフキン的で、ふらっと遠くから帰ってきたように、いつも不意にモイを訪ねてきてくれるのです。

じつはきょうも閉店の片づけをしていたら、薄暗い店内にニコニコ立っていてほんとビックリさせられました(笑)。ひさしぶりにもかかわらず、おたがいの近況報告などよりも「耳鳴りの話」とか「おたがい白髪が出てきたね」などといった雑談で盛り上がってしまうゆるさも、まあ相変わらずでしょうか・・・。

今回のイベントでは、高橋ピエール君のギター演奏を中心に映像や効果音、詩の朗読なども織り交ぜた多彩な内容になるとのこと。個人的には、ちいさなブックストアでひらかれるというだけで、もうなんだかどこか遠い異国の匂いなどがしてきて、いてもたってもいられない気分になってきます。モイから歩いて三分くらいの場所なので、ぼくも片付けが早く済んだら駆けつけたいと思ってます。ここを読んでくださっているようなみなさんにもおすすめですヨ!

詳細は、OLD/NEW SELECT BOOKSHOP「百年」さんのホームページをご覧下さい。

ホセ・ゴンザレス
2008.10.9|music

スウェーデンのシンガーソングライター、ホセ・ゴンザレス Jose Gonzalezのソロによる再来日が決定したようです。けっして大声で叫ぶわけはないけれど、その内に秘めたパッションはまるで氷がじわじわと溶けるみたいに確実に聴くものの心をほどいてくれます。

Pump Pump
2008.11.4|music

連休明けでちょっとお疲れ気味なひとに。

このフィンランド発のソフトロックFredi&The Friends のごきげんなナンバーでアゲて行きましょう!(ABBAのパクリなんて言わないで)。 さあ、みんなで歌いましょう。英語対訳つきでフィンランド語の学習にもうってつけ?!

▷ YouTube

モニカ・ドミニク『ティレグィナン』
2008.11.13|music

雑誌などの取材でよくたずねられる質問にこんなのがある。「北欧のどういうところにいちばん惹かれますか?」

こんなとき、迷わずぼくはこう答える。「空気です」。はっきり言って、試験におけるダメな解答例みたいな答えだ。キッパリ言っているようでいて、じつはあまりに抽象的すぎてほとんどなにも語っていないに等しい。けっきょくはあれこれ補足しなければならなくなるのだ。それでもやっぱり、どこに惹かれるかと言われれば「空気」としか答えようが、ない。それほどまでに、ぼくにとって北欧の空気はそこで暮らすひとびとや、街の印象と切っても切れないものなのだ。

いけないいけない、話がまわりくどくなってしまった。

スウェーデンのジャズピアニスト、モニカ・ドミニクの曲「ティレグィナン・エット」の最初のフレーズを耳にしたとき、「あ、これは北欧の空気そのものだ」、そう思った。

ところで、はじめてヘルシンキを訪れたのは四月の初めのこと。もう何年前になるのだろう。港も街の中心部にあるトーロ湾も、まだ一面真っ白く氷に覆われていた。はじめて触れるフィンランドの空気はきりっと冷たくて、それでいてなんて気持ちがいいのだろうと思ったのをおぼえている。身震いするような寒さというよりは、ちょっと硬度が高めのミネラルウォーターを口に含んだときのようにさわやかで、その瞬間もうぼくはこの土地のことが大好きになっていたのだった。

六月のストックホルムも、また格別だった。東京はまるで蒸しタオルで体をぐるぐる巻きにされているみたいな鬱陶しさだというのに、セーデルマルムの街はまるで高原のようにさわやかで、夏の太陽は街のあちらこちらに光と影の強烈なコントラストを生み出していた。古い石造りの建物も尖塔をもつ教会も、公園の木々もすべてがまるで精確にピントのあった写真の中の出来事のように、カリッとした輪郭をともなって色鮮やかに浮かび上がっていたのだ。

そしてふたたび、モニカ・ドミニクのCDに耳を澄ます。

さっきも書いた、このCDのオープニングを飾る「ティレグィナン(献呈)」はスウェーデンではよく知られた曲だそうで、ライナーノートによれば歌詞をともなうバージョンは定番のウェディングソングとして広く愛されているそう。なるほど、清楚な花嫁姿にとても似合いそうな素朴で親しみのあるメロディーだ。甘い旋律ではあるが、けっして湿っぽくならないあたり、さすがは北欧といった印象。夜のそぞろ歩きを思い出させるような「シャーレキャン(ラブ)」、グルーヴィーで力強いリズムの「デット・ヴォール・ソム・フンケン(ジャスト・フォー・ファンク)」「カルセル(カルーセル)」といった曲を経て、アルバムはふたたび一曲目の「ティレグィナン」の別バージョンによって締めくくられる。ちょうど、ノルウェーの作曲家グリーグの『抒情小曲集』が「アリエッタ」という可憐な小品にはじまって、ふたたびその別バージョンである「余韻(残影)」によって締めくくられるときのように。その意味で、ぼくにとってこのアルバム、モニカ・ドミニクの『ティレグィナン』は、北欧の空気から生まれたピアノのための可憐な花束のような作品集としてグリーグの『抒情小曲集』とともにかけかげのない音楽といっていい。

このあいだ、ある音楽家の手になるエッセイを読んだのだった。世の中には「なくてはならない」ものと「なくてもよいが、あればなおよし」といったものとがあると、そこにはそう書かれていた。そしてその音楽家は、「なくてもよいが、あればなおよし」の代表みたいな音楽が、じぶんにとって身近だったり楽しみだったりになればなるほどかけがえのない「なくてはならない」ものになると言う。そういえば、カフェだってまた音楽とおなじである。「なくてもよいが、あればなおよし」。でも、じぶんにとってはカフェですごす短い時間は生活の中の、いってみれば「句読点」みたいなものとして「なくてはならない」存在だし、それをたくさんのひとと分かち合いたいからこそこういう仕事をしていると思う。だからこそ、音楽を仕事にしているひととカフェを仕事にしているひとは、どこかそういう部分ーなくてもよいもののなかに価値を見いだすーでつながっているような気がしてならない。

またまた話がまわりくどいのだが、このアルバムをぼくに紹介してくれた土本さんも、ぼくにとってはまた、そんな「仲間」の匂いをプンプンさせているひとといえる。土本さんは、この一九八〇年に自主レーベルからリリースされ、その後コレクターズアイテムとしてひっそり愛聴されてきたアルバムを再発した神戸のプロダクション・デシネの広報として、日々音楽を通じてたくさんのひとびととコミュニュケートされている方である。その土本さんが、moiにモニカ・ドミニクのアルバムを紹介してくださったときの話をブログに書いてくださっているので、よろしければぜひ。

思えば、音楽やカフェのおかげでどれだけたくさんのひとと出会い、そこからいろいろなことを感じ学んできたことか。「なくてもよい」どころか、音楽もカフェもぼくにとっては欠くことのできない大切なものだと、このCDを聴きながらあらためてかんがえていた。

Niklas Winter & Jukka Escola meets 新澤健一郎トリオ
2008.11.26|music

ピアニストの新澤健一郎さんが率いるトリオ[鳥越啓介(b)、大槻KALTA英宣(ds)]とフィンランドからやってきたふたりのアーティスト、ニクラス・ウィンター(g)そしてユッカ・エスコラ(Tp)とのコラボレーションによるライブツアーがいよいよ今夜スタートします。

このライブは、以前このブログでも紹介したCD「Beautopia」の発売記念としておこなわれるもので、今回はクラブジャズ・シーンでは泣く子も黙る(?)The Five Corners Quintetのメンバーとしても活躍するユッカ・エスコラも参加しての豪華メンツによるツアーなのです。ちなみにユッカは、数年前フィンランドカフェのイベントとしてライブをおこなっているのでご存じの方も多いはず。一方、新澤さんも密かに(?)NHKのテレビ番組「ピタゴラスイッチ」の音楽なども手がけていたりする方なので、案外知らず知らずのうちにその仕事を耳にされている方もいらっしゃるかもしれません。

ジャズって難しそうだなあとか、いままで聴いたことないんだよなあ、という方も、旅の途中の北欧のどこかの街の、たまたま勇気をだして扉を開けて入ったクラブやバーで偶然すてきなライブをやっていた・・・みたいなシチュエーションをイメージして楽しんでみてはいかがでしょう?外もようやく北欧っぽくひんやりしてきたことですし、ね。

ライブは今夜の新宿の後は、27日名古屋、28日京都、29日大阪、30日横浜ときて、最終日は12月2日の舞浜クラブ イクスピアリ(お、ラッキー、火曜日だ!)とおこなわれる予定です。詳細は公式サイトをチェックしてください。

THE YOUNG GROUP『14』
2008.11.27|music

若かったころ音楽は、もっと自分にとって近しいものだったような気がする。音楽を聴くことには、ヒリヒリとする痛みやドキドキする高揚感、トンネルの暗闇で立ち往生しているかのような不安や焦燥感が、いつもともなっていた。音楽を聴くときぼくは、あるいはそこに自分自身の姿を見ていたのかもしれない。音楽を聴くことは「楽しみ」である以上に、もっとなにか切実な欲求に裏打ちされた行為だったような気がしてならない。音楽を「よく聴く」という意味でいえばむしろ、経験という便利な「ものさし」を手に入れた今のほうがはるかに音楽と器用につきあい、くつろいで「聴けて」いると断言することができるだろう。でも、音楽は若かったころ、「聴く」よりは「生きられる」ものとして、ぼくの手のひらの中にしっかりと握られていたのだった。

いま、ぼくの手元にはTHE YOUNG GROUPという、でももうそんなには若くない二人組のユニットによる二枚目のアルバムがある。

水流のように柔らかく絡み合い、ほどけてはふたたび絡む、そんな二本のアコースティックギターの響きと、色づけされることを拒むかのような無垢なヴォーカルが生む独自のグルーヴ感はファーストのときとなんら変わらない。でも、この『14』というセカンドアルバムには、音楽がまだ「生きられる」ものとしてぼくらを支配していたあの頃へと、聴くひとを瞬時に連れ戻してしまうような強烈な引力が、ある。この「若さ」ときたら、いったいなんなんだ。痛々しいまでに無防備な魂が、確かにそこにはある。CDを聴いて、こんなふうに感じたのはほんとうにひさしぶりのことだった。そしてこれはあくまでも想像にすぎないのだが、それはとりもなおさずTHE YOUNG GROUPのふたりが、音楽とはじめて出会ったころの衝動を(まったく奇跡みたいな話だが)いまもけっして失うことなく持ちつづけているからにちがいない。

こんなにも純音楽的なアルバムをつくったのが友人であることを、ぼくは心から誇りに思う。

新澤健一郎トリオ introducing Niklas Winter & Jukka Escola
2008.12.2|music

スタッフと連れだって、クリスマスイルミネーションもにぎやかな「舞浜」へと行ってきた。先日、このブログでも紹介したニクラス・ウィンター&ユッカ・エスコラwith 新澤健一郎トリオのライブがクラブ・イクスピアリであったのだ。

いやあ、楽しかった!聴きながら、とてもハッピーな気分だった。

演奏はニクラス・ウィンターの楽曲を中心に、ユッカ・エスコラの楽曲、さらに新澤さんとドラムスの大槻さんの楽曲もまじえておこなわれたのだが、ニクラスの曲は透明感があってメロディーも親しみやすい。娘さんのために書いたという「For Sofia」なんてとてもメランコリックな佳曲で、ビル・エヴァンスが姪っ子のために書いた「Waltz For Debby」をちょっと思い出した。長身のスキンヘッズというゴツいルックスとは裏腹に(失礼)、きっとナイーヴな精神の持ち主なのだろう。いっぽう、ユッカの曲はクールで洗練されている。

新澤さんの曲はその昔、ヨーロピアンジャズの世界にあこがれてつくったという「Quiet Leaves」。移ろうハーモニーがまるで幻灯を見ているかのような気分にさせてくれる美しい音楽。晩秋からいまごろにかけてのこの季節にまさにぴったりだ。バロック音楽とファンクを融合させてしまったという大槻KALTA英宣さんの「Bach-logy Shift」は、バロック音楽を改造車ばりにチューンナップしましたという感じの面白い曲で、叩きまくるというよりは、むしろ歌いまくるかのようなKALTAさんのドラムスが圧巻。

じつは、なにを隠そうぼくはジャズのライブを体験するのははじめてのことで、ふだん好きなアルバムをBGM的に流しっぱなしにしたりはするのだが、なんの知識もないところではたしてライブを心から楽しめるのだろうかと内心ちょっと不安でもあったのだ。ところが、実際のところはものすごく楽しかったわけで、その理由はどうやら新澤さん率いるトリオの演奏にあるということが途中でだんだんわかってきた。新澤さんのピアノとKALTAさんのドラムス、それに菊地成孔をはじめさまざまなアーティストと共演を重ねている鳥越啓介さんのベースのやりとりが、波長のあった友だち同士の気のおけない会話のようですごく楽しい気分にさせてくれたのである。それは丁々発止というよりは、むしろ絶妙なボケとツッコミの応酬のような・・・。。気楽に冗談を言ったり軽口を叩いたりするには、当然おたがいのあいだにそれなりの信頼関係がなければならないわけで(そうでなかったらすぐケンカになってしまう)、この三人のやりとりにはそんな固い信頼の上にあってはじめて可能になる「闊達さ」が感じられた。そしてそんなやりとりに誘われてニクラスのギターが、ユッカのトランペット(とフリューゲルホルン)が自由に花を添えてゆく。その意味で、今回は新澤健一郎トリオintroducingニクラス・ウィンター&ユッカ・エスコラと呼ぶのがふさわしく思えた一夜だった。なんだか、あしたからも頑張ろうって気分になってきた。

ところで、もともと新澤さんを紹介してくれたのは常連のT内サン(別名「アラビヤン」さん)で、三年前ぼくが「突発性難聴」を患ったとき、以前おなじ病気をやったことのある新澤さんがいろいろと親身になってアドバイスしてくれたのだった。その後、近くでライブがあるときなどちょくちょく顔を出してくださったりしていたにもかかわらずなかなかライブに足を運ぶ機会に恵まれず、ようやく今回はじめて生で演奏に接する機会をえたのだが、新澤さん、ほんとむちゃくちゃカッコよかったです!終演後ちらっと紹介してもらったニクラスとユッカもとても気さくなナイスガイ(?)で、「moi、moi」と連呼してくれたのはFCQ好きとしてはうれしかった。いろいろなことがさまざまに重なってこういう出会いを引き寄せてくれるのだから、なんだか世界は、やたらと面白い。

ちなみにユッカ・エスコラは、THE FIVE CORNERS QUINTETのライブのため来年1月にも来日するそうです。

ヨハン君のこと
2008.12.4|music

いつだったか(三年くらい前?)、「メガネをかけたベン・ワット」なんて紹介の仕方をしたスウェーデンのシンガーソングライター、ヨハン・クリスター・シュッツ君(彼の万年青年風ルックスをみると、知り合いでもないのに「君づけ」したくなる)。

ブラジル・ミーツ・スウェーデン、なんて言ってもピンとこないかもしれないが、スウェーデンといえば六十年代からブラジルのミュージシャンとの交流が盛んだった国。であればこそ、こんなふうになんのてらいもなくボサノヴァを自分のスタイルとして消化してしまう若者が出てくるのも、いってみれば当然といえば当然の話である。

実際のところ、このヨハン君もべつにジョビンをカバーしているわけでもないし、ブラジル音楽のフォーマットをストイックに追い求めているというわけでもなく、ごくごく自然体で、まるで「道具」を選ぶようにボサノヴァやサンバを選びとっている、といった印象。良くも悪くも、こだわりがないのだ。そしてそのあたりがいかにも、ぼくに言わせれば「ブラジル・ミーツ・スウェーデン」的なのである。

そして、そのヨハン君の三枚目となるCD『C'est La Vie(セラヴィ)』がリリースされる。

じつは二枚目は聴いていないのだけれど、デビューアルバムのいかにもナイーヴな青年風といった感じはすっかり影をひそめ、よりたくましく変化しているのが印象的だ。それをひとことで、よりポップになった、と表現してもいい。思うに、「ポップ」とは強さの問題であって、それは真夏の太陽の光のようになんの疑いも生みえないような揺るぎなさのことでもある。ボサノヴァもサンバももはや関係なく、ただひたすら「自分の歌」へと近づこうとしているかにみえる。すべて英語だったデビュー盤に対し、このアルバムでは半数以上を母語であるスウェーデン語で歌っているあたりにも、やはりなにか確信めいた心境の変化のようなものを感じずにはいられないのである。

ところで、「表現者」ということを思うたび、ぼくはギリシャ神話に登場する「イカロス」のエピソードを思い出す。イカロスは、蝋で留めた羽であることを知りながら、それでも空の中ほどを飛んでいるのでは気が済まず、太陽をめざし高く高く飛翔して、遂には海へと真っ逆さまに落ちてしまうのだった。中ほどを飛んで満足しているような表現者の作品は、けっしてぼくらを満足させてはくれない。向こう見ずと言われながらも、より高みへと登りつめてゆくその姿にこそ表現の凄みを感じ、感動させられるからだ。

だからこそ、『C'est La Vie』に収録された「Jabuticaba」の呼吸の深い歌を聴きながら、ヨハン君、ちょっと楽しみになってきたなあ、とすっかりニヤけてしまったのだった。

ちなみに、そのヨハン君のアコースティック・ライブツアーが明日から東京、名古屋、大阪、姫路、そして神戸のカフェやレコードショップではじまります(火曜日がないっ・・・泣)。ボサ好きもスウェディッシュポップ好きも、とりあえず北欧フリークも、たくましく成長中のヨハン君のライブに接してみるのもよいのではないでしょうか?

FIKA?~あたたかいスウェーデンのジャズ
2008.12.5|music

コーヒーブレイクを意味するFIKAというスウェーデン語、近ごろ日本でもよく耳にするようになりました。コーヒーカップ一杯分のひとときがいかに一日のくらしを豊かなものに変えてくれるか、それをよく知っている北欧の人々のこころの豊かさを象徴することばかもしれません。そしてそんなFIKAの時間にぴったりなスウェーデンのジャズをあつめたコンピレーションCDが発売されます。

北欧ジャズ最前線というよりは、もっと気楽に、デニッシュやクッキーをつまみながらコーヒーや紅茶を囲んで聴きたいスウェーデンのシンガーやミュージシャンによるおだやかなジャズ、ボサノヴァ、それにおなじみのナンバーの数々が並んでいてぐっと親しみやすくなっています。そしてCDのブックレットには日本でFIKAを楽しむヒントになりそうなショップも紹介されています。そうです、そこでここmoiもご紹介いただいておりますので、よろしければ手にとってみてください。

気になる内容についてはまたあらためて紹介させていただきますが、とりあえず試聴などできるサイトをリンクしておきます。

広上淳一の「第九」
2008.12.23|music

年末といえば「第九」。

べつにそんな習慣、持ち合わせているわけではないのだが、最近はなかなか行きたいライブにも行けないのでせめて年末くらいはと、すみだトリフォニーホールまで「第九」を聴きにいってきた。

指揮者の広上淳一と新日本フィルの組み合わせによる「第九」は以前にもいちど聴いている。そのときの演奏は作曲家マーラーによる編曲版での日本初演というちょっと風変わりなもので、クリムトの『接吻』ばりにキンキラキンの「第九」をここぞとばかり広上がブンブン腕を振り回し、指揮台の上でぴょんぴょん跳びはねながらオーケストラを煽りに煽り立てめちゃくちゃ面白かった(ちょっと調べたら一九九二年、なんと十六年も前の話だった)。

ことしの「第九」はふつうの「第九」。変な言い方だが。そして広上の指揮もここ何年かでだいぶ変わった。かつてのように力まかせにオーケストラをドライブするようなことはなくなり、あくまでも作品がもつ音楽の流れを大切にしつつ、同時に細部に彫琢をほどこしてゆく感じ。指揮のアクションも、(これでも)かなり控えめになった。

演奏の好みというのもまたコーヒーの味の好みといっしょで、いいとかわるいとか一概に言えるものではないけれど、広上の指揮ならできればべつの、もうちょっと音に厚みのあるオーケストラとの組み合わせで聴いてみたかったというのも正直ところ。広上淳一という指揮者は、思うに、このあいだのコロンバス交響楽団の音楽監督辞任をめぐる騒動からもわかるとおり、こっちがもどかしくなるほどに愚直なひとである(福山雅治のCM風に言えば「自分、不器用だな」といったところか)。指揮者というのは競馬の騎手とおなじで、よいウマに乗って勝ち星を重ねることで初めてその才能が正当に評価されるようなところがある、とぼくは信じている。その意味で、よいウマにありつくために器用に立ち回るということもまた(じぶんで音を出すことのできない)指揮者にとっては不可欠な才能のひとつなのかもしれない。じっさい、器用さで実力を上回るポストを得たようにさえみえる指揮者だっているのだ。だから、今後おそらく日本で広上の演奏に触れるチャンスは増えるだろうけれど、その才能を評価する者にとってはうれしいような悲しいような、ちょっと複雑な心境だったりするのである。

もし、オーケストラを生で聴いてみたいけれどどの演奏会に行ったらいいかわからないというひとがいたら、個人的には広上淳一がタクトをとるコンサートをぜひおすすめしたい。とりあえず、このブレンド絶対おすすめだから飲んでみて、というくらいのノリでおすすめしておこうと思う。

14歳
2008.12.31|music

このあいだのことだ。THE YOUNG GROUPのどしだ君から、彼らのあたらしいアルバム『14』のタイトルがもつ意味を教えてもらったのだった。

どしだ君いわく、「中2、14歳ってことですよ」とのこと。なるほどね。

たとえば音楽でいえば、それまでは親だったり兄弟だったり、ともだちだったりと誰かの影響で受け身で聴いてきたものを、自分の力で、レコード屋に行ったり、深夜のラジオから必死にエアチェックしたりして積極的にアプローチしお気に入りをみつけにゆく、そんな行動を自発的にとるようになるのがまさに中2、ちょうど14歳のころだと思うのだ。

ところでぼくが中2のころ夢中になっていたのは、佐野元春だった。彼が「アンジェリーナ」という曲をひっさげて颯爽とデビューしたとき、ぼくはちょうど14歳だったのだ。

いま、NHKの「青春ラジカセ」というウェブサイトで、その当時佐野元春がDJを担当していたFM番組『サウンドストリート』の音源を聞くことができる。毎回、週一回の放送を首を長くして待っていたものだ。そうしてリクエストカードもせっせと書いた。4回カードを読まれたというのはぼくのちょっとした自慢(うち一回は代打で登場した伊藤銀次)だが、いま三十代半ばから四十代はじめの音楽好きの男なら、きっとそれがいかにすごいことかわかってくれるんじゃないだろうか。

高校生になると、ライブにも足しげく通った。東京でやるほとんどすべてと、彼がアマチュア時代にライブをしていた「聖地」横浜でのライブは欠かさず足を運んだ。薄暗い会場に入ると、そこにはグレン・ミラーのビッグバンドジャズが流れている。PAから流れる「イン・ザ・ムード」の音が突然大きくなると客電が消え、パーマネントバンドであるThe Heartlandのメンバーが登場。

ライブのオープニングを飾るのはきまって「Welcome To The Heartland」。当日集まった聴衆にむかって、「ハートランドへようこそ さあ、今夜は一緒に踊り明かそう」と誘うナンバーだ。

Hey Hey Baby, Want You Dance With Me ?
いつもの友達も はじめてのヤツも
Tonight こんなに集まってくれて Thank You
Hey Hey Baby, Want You Dance With Me ?

かつて14歳だったぼくは、ときどき店に立ちながらときおりこの音楽を思い起こす瞬間がある。「いつもの友達も はじめてのヤツも」ひとつの同じ空間で、それぞれがくつろぎ楽しんで帰ってくれたらいいな、食い入るようにステージをみつめていた14歳のぼくみたいに。いかにも中2らしい考えではあるけれど、あのころ、同じライブを体験したヤツとならぼくはいまでもすぐにでも友達になれそうな気がするのだ。

さて、来年はどんな顔、顔、顔と会えるのだろう。2009年、いまから楽しみでしかたない。

Harvey's Tuneをめぐるちょっとした事柄について
2009.1.26|music

あまり書くこともないのでひさしぶりに音楽ネタでも。

清水の舞台から飛び降りるというほどではないにせよ、たった一曲のためにCDをまるまる一枚買うには二階建てのアパートの屋根から飛び降りるくらいの勇気は必要とするもので、そんなにまでして手に入れたCDはさほど多くはないのだが、この、サヒブ・シハブというちょっと不思議な響きの名前をもつマルチ・リード奏者がデンマークのミュージシャンたちとともに吹き込んだCDはぼくにとってそんな数少ない一枚である。

何年か前、CDショップの試聴機でこのCDの六曲目に収められたHarvey's Tuneという曲を耳にしたとき、いつもなら迷わずレジへと持ってゆくところがつい躊躇してしまったのは、ほかでもない、その他の曲の全部がぼくの好きなタイプとはちょっとちがっていたからである。だいたい、トランペットとかサックスとかがいまいち得意じゃない。トロンボーンやホルンはOK、フルートならむしろ大歓迎なのに。そしてこのHarvey'sTuneという曲では、サヒブ・シハブはそのフルートを吹いている。心浮き立つようなベースのイントロにのって軽快にフルートが歌い出す、都会の冬の朝にとてもお似合いのナンバー。ジャズというよりは、以前ここでとりあげた『裸足で散歩』みたいな、どちらかというと六〇年代の軽いコメディー映画のサウンドトラックにも通じるしゃれた楽曲である。

結局ぼくは三ヶ月くらい散々悩んだあげく、このアルバムを手に入れたのだった。「気に入った曲をダウンロード」ではなくて、いまだにCDショップや中古レコード屋でお気に入りの音楽を探し歩くようなぼくと同じ「古いタイプの音楽好き」ならば、きっとこんなふうに悩んだ経験を持っているんじゃないだろうか。

このあいだ、とてもひさしぶりにこのCDを引っ張りだして聴いてみたのだが、やっぱりというか、相変わらず他の楽曲はぼくにはピンと来なかった。だから、ぼくのPCにはいまだにこのHarvey's Tune一曲しか入っていない。もちろん後悔なんてしていないほどに、この一曲はすばらしく気持ちいいのだけれど。

ところで、このCDのジャケットを眺めると、レコーディングスタジオで共演者たちとともにフルートを吹く白いセーター姿のサヒブ・シハブが写っている。スタジオの壁には丸い時計が掛けられていて、時計の針はちょうど十一時四十一分を指している。午前か午後か、時計だけでは定かでないが、もしもそれがHarvey's Tuneの録音中だったとするならば(なにせ写真の中のシハブはサックスではなくフルートを構えているのだし)、断然それは午前中なんじゃないだろうか。なんといっても、ぼくが抱くこの曲のイメージに「午前十一時四十一分」はまさにぴったりなのだから。

◎ YouTubeに、その「Harvey's Tune」の音源がアップされているのを発見。いつ削除されてしまっても不思議ではないけれど、とりあえず。 https://youtu.be/zPyY2KPyDJE

METライブビューイング『つばめ』
2009.2.3|music

早朝からノコノコと新宿まで出かけ、METライブビューイングでプッチーニの歌劇『つばめ』を観てきた(新宿ピカデリー)。

ライブビューイングというのは、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演されたオペラ作品を高画質&高音質で収録し、上演後1ヶ月足らずで世界中の映画館に配信するという試み。ずっと気になってはいたものの、チケットがふつうの映画の約2倍(3,500円)もするのでなんとなく躊躇していたのだ。だいたい、オペラ自体そんなに好きではない。

ただ、今回の演目はめったに上演されることのないプッチーニの『つばめ』。プッチーニのオペラのなかでは(蝶々夫人とかボエーム、トスカ、トゥーランドットなどと比べて)ひどくマイナーな作品とはいえ、バカラックもミシェル・ルグランもアンドリュー・ロイド=ウェーバーも真っ青という美メロなアリア「ドレッタのすばらしい夢」でよく知られる作品だ。映画『眺めのいい部屋』のキス・シーンで使われた曲といえば、「ああ、あれね」と思い出すひともきっといるはず。

でも、早起きをしてまでぼくが観てみたかった理由はほかにもある。それは、完璧なまでに1920年代のアールデコ様式を再現した舞台装置と衣裳のすごさ。いかにもメトらしいお金のかかったプロダクションだ。

社交界の女性たちが着こなすドレスは、例の、ポール・ポワレに代表されるコルセットのないストンとしたフォルムのもので、自由に海を渡って新しい世界へと飛び立つツバメにあこがれる彼女たちを象徴しているかのよう。第三幕での軽快なリゾートファッションも要チェックだし、カフェが舞台となる第二幕の乱痴気騒ぎなど、まさしく『グレート・ギャツビー』の世界そのもの。第一幕、パトロンの邸宅の内装、たとえば幾何学模様にタイルを配した壁や床に、いかにもルネ・ラリック風な扇形の暖炉の柵などディテールにも手を抜いていない。ハイビジョンでたくさんのカメラを駆使しての撮影だけに「どこにも手を抜けない」というのがほんとうのところかもしれないが。極めつけは第三幕の別荘で、背景一面をぶどうをモチーフにしたステンドグラスが覆っている。これはもう完璧にルイス・C・ティファニー。逆にいうとちょっとやりすぎなくらいで、まるで美術館の「黄金の一九二〇年代展」の中で歌手が演じているようにさえみえる。

後になって調べたら、衣裳デザインはFranca Squarciapinoというひとで、ジェラール・ドパルデューが主演した映画『シラノ・ド・ベルジュラック』の衣裳でオスカーを獲っているらしい。舞台美術のほうはEzio Frigerioというひと。このひとはFranca Squarciapinoのだんなさんで、映画やオペラなどおなじ現場で一緒に仕事をする機会が多いとのこと。

ところで、いま気づいたのだが、オペラの記事なのに音楽のことにまったく触れていない(笑)。最初に書いたとおり、ぼくはふだんほとんどオペラを観ないし歌モノも聴かないので、ヒロインを演じたゲオルギューがどうだったとか、相手役のアラーニャがどうだったとか書く資格もないし、そもそも正直なところ書けるほどの印象もない。ゲオルギューはあたかも「着せかえ人形」のようだった。とはいえ、近くで見るとそんなには似合っていないけれど。いや、全然これも音楽の話じゃない。

はじめて接したMETライブビューイングは、舞台の映像だけでなく、幕間に出演者たちにインタビューしたり、客席の様子を映したり、あるいは休憩中、装置の転換のために立ち働く舞台スタッフたちの姿を延々と見せたりと、「オペラ」をより深く知ってもらうためのさまざまな工夫が凝らされているのが特徴的。オペラにかぎらず、演劇だとかミュージカルだとかいわゆる舞台ものが好きなひとなら楽しめるんじゃないだろうか。3,500円はけっして安くはないが、これは面白そうというプログラムであればそれほどには高くない、そんな印象であった。

パトリシア・プティボン
2009.2.6|music

いま、ジャンルを問わず実際にいちばん観てみたいのはパトリシア・プティボンのステージだ(ついこのあいだ歌モノは聴かないと書いたばかりなのに)。

きょう家に帰ってテレビをつけたら、ちょうどそのプティボンの、去年の初来日でのステージが始まるところだった。ラッキー!

ぼくの場合、音楽を「技術」という「ものさし」で計る耳をもっていない。演奏が上手いからといって感心するようなことがないのだ。それはたぶん、ぼくがほとんどなんの楽器も弾けず、それどころか楽譜すらまともに読めないということと無関係じゃないだろう(要は、ジャッジできないってこと)。そのかわり、「技術」がないぶん、べつのアプローチから音とつきあう術が自然と身についてしまったらしい。ロックもジャズもクラシックも、まったくおなじように聴けて楽しめてしまうのは「ケガの功名」ってヤツだろう。むしろ腹立たしいのは、たとえ技術的に万全でも、そこに精気が、覇気が感じられない演奏である。

話を元に戻すと、テレビで観たプティボンのステージは予想をはるかに超えてエキサイティングな、すばらしいものだった。

このひとのステージからは、歌に魂を宿すためならどんなことだって厭わない、そういう意志がバシバシ伝わってくる。夢遊病のようにステージの上や、時には客席まで降りて歩き回ったり、くるくると表情を変えてみせたり、奇声をあげたり、ヒマワリのかたちをしたヘンなサングラスをかけたかと思えばピエロのような鼻をつけてみたり、そういう行動はすべて音楽のためになされるのであって、音楽へのその執着はむしろ「凄み」すら感じさせる。それは以前観て、そのパフォーマンスの完成度に度肝を抜かれたブラジルのミュージシャン、カエターノ・ヴェローゾのライブにも近しいものである。スタッフの《カトリーヌ》をはじめ、世代を超えた音楽好きが口をそろえて大絶賛していた先ごろのデヴィッド・バーンのライブもたぶん、きっとそんな感じだったのだろう。

次回の来日が、いよいよ待ち遠しい。

サティのこと
2009.2.11|music

アーモンド入りチョコレートのワルツ
かれの鼻眼鏡
大きな階段のマーチ
横着者の小さなろくでなし
輪まわし遊びの輪をこっちのものにするために、かれの足の「魚の目」を利用すること・・・

これらはぜんぶ、エリック・サティが書いた曲のタイトル。ついこのあいだ中古CDショップでみつけた、ピアニスト高橋アキによるサティの作品集『童話音楽の献立て表』に収められた曲の一部だ。念のためつけくわえるなら、サティはもちろんあのスーパーマーケットのサティではなくて、20世紀の初頭に活躍したフランスの作曲家の名前である。

それにしたって、なぜサティはこんなおかしなタイトルの曲ばかり作ったのだろう? いや、それに負けず劣らず曲じたいもずいぶんと風変わりなのだけれど。

ひとつ考えられるとすれば、サティは音楽の伝統的な「文法」を無視するために詩的な、そしてシュールなタイトルを必要としたのかもしれないということ。もっといえば、サティは作曲家であるよりはむしろ、「ことば」の代わりに「音」で詩を書く「詩人」なのかもしれない。文法を無視した言語がもはや「ことば」たりえないように、たとえ五線譜を使っていようとも、サティの「音」はあまりにも「音楽」から遠くはなれてしまっている。それにくらべれば、ロックもジャズもよっぽど「音楽的」だ。なぜならそこにはロックの文法、ジャズの文法がたしかにあるから。もちろん、たぶん、ぜんぜんちがった「文法」に則ってつくられる現代音楽だって。サティは、どうなんだろう? 詩の「ことば」のように、「音」をぱつん、ぱつんと音楽の「文法」から外してみせた?

サティの音楽を聴くことは、そう思うとかなり独特な体験に思えてくる。それはまるで、となりのベンチから聞こえてくる詩人の独り言を聞くようなものかもしれない。はっとさせられたり、いっこうに意味がわからず混乱させられたり、突然の鋭いひとことに驚嘆させられたかと思えば、次の瞬間には思わずプッと吹き出してしまうといった具合に。そして「となりのベンチの詩人」とおなじくらい、(たぶん)サティも孤独だ。

と、これはぜんぶ個人的なメモのようなものなものなのでここまで読んでしまったひとには本当に申し訳ない気分なのだが、ここにきて、ようやくサティを聴くことがおもしろくなってきたみたいだ。

ところで(おそらく)誰もが聞いたことのあるサティの曲といえば「Je Te Veux」をおいてほかにない。邦題だと「おまえが欲しい」、英訳したら「I Want You」。なにやらとたんに、「スローなブギにしてくれ」という気分になってしまうから不思議である(←アラフォー限定)。

カジヒデキがスウェーデンで
2009.4.10|music

「カジヒデキ スウェーデンで強盗の被害 」

歌手・カジヒデキ(41)が仕事で滞在中のスウェーデンで4日(現地)に強盗に襲われて、25万円相当の撮影機材を奪われていたことが6日、分かった。関係者によると、カジは新曲「パッションフルーツ」(5月20日発売)のプロモーションビデオ撮影のため、スウェーデンに滞在。撮影の合間にカジがひとりで機材のそばにいたところ、いきなり後頭部を殴られて失神し、望遠レンズなどを盗まれたという。現地の病院で診察を受けたが問題はなく、5日には仕事を再開した。

↑デイリースポーツonlineより

この事件は南スウェーデン市のKroksbäck地区の路上で、カジヒデキのビデオクリップを撮影している最中に起こったもの。撮影チームが休憩を取って、カメラマンがチームに同伴した彼らの子供の写真を撮るために現場を離れたとき、カジはパイナップルのような衣装を着たままで機材を警備するためにその場に残された。

そこに3人組の男が現れて彼を襲撃。警察によると、彼は衣装がはじけて中の詰め物がなくなるほどに力強く殴られ一時的に気を失い、意識を取り戻したときには2万クローネ(25万円相当)の撮影機材が強奪されていたとのこと。

スウェーデンの警察は現在犯人を捜索中だが、5日朝の段階ではまだ容疑者を特定できていないとのこと。

↑natalieより(傍線は筆者ですが・・・)

手の込んだ宣伝?いや、やっぱりエープリルフールはこれくらい気合いいれなきゃね・・・と思ったら、

どうやら本当だったみたいですね。無事で何よりでした。

と同時に、

四十過ぎても「パイナップルのような衣裳」を着てもいいんだ!

ちょっと、勇気づけられました(着ないけど)。

Bill Evans Finland 1970
2009.5.14|music

ビル・エヴァンスをしっていますか? いわずとしれたジャズ・ピアニスト。ジャズを聴かないからビル・エヴァンスを知らないと言うことは、ディズニーランドに関心がないからミッキーマウスも知らないと言っているのに等しい。本当に? いや、たぶん。

それはさておき、ビル・エヴァンスのライブDVDを手に入れたのだった。題して『Bill Evans Finland 1970』。毎度マニアックなネタですいません。

タイトルから分かるとおり、ビル・エヴァンスが1970年にフィンランドを訪れた際の演奏を収めたものなのだが、いくらふだんからフィンランド好きを公言しているとはいえ、さすがにそれだけの理由ではこのDVDを買うってことはなかっただろう。最大のポイントは、なんといっても

演奏している場所

にある。このDVDでビル・エヴァンスは、どういう経緯かは不明だが、ヘルシンキの西、ラウッタサーリという場所にある作曲家イルッカ・クーシストの自宅に招かれ、そのリビングで演奏しているのだ。

窓の外に海が広がるその家はいかにも北欧のアーティストの家らしく、シンプルながらもモダンな造りとなっていていかにも快適そうだ。ゲストが腰掛けている椅子も、たとえばアルヴァー・アールトのNo.45だったりハリー・ベルトイアのダイアモンドチェアーだったり。冒頭、ちいさな女の子がイタズラしているのはアールトのあの愛らしいティートロリー。テーブルに並べられているのがビールやワイングラスではなく、コーヒーというのがまたなんとなくフィンランドらしくうれしいところ。

観ているうち、まるでクーシスト家のホームパーティーに紛れ込んだかのような気分になるこのDVD、じつはフィンランド国営放送(YLE)がなにかのテレビ番組のために収録したものらしい。ミュージシャンへの短いインタビューを挟みながら、バート・バカラックの「アルフィー」やアルバム『Explorations』に収められた「Nardis」など3曲が演奏されているのだが、演奏シーンもミュージシャンたちだけでなく音楽に耳傾ける客たちの表情やおどける子供、秋だろうか、ちょっと寒々しい窓の外の景色までもしっかりとらえてくれていて雰囲気十分だ。映画『真夏の夜のジャズ』にも通じる、と言ったらすこし言い過ぎかもしれないけれど。

ちなみに、イルッカ・クーシストにはよく知られたふたりの息子がいる。ふたりともヴァイオリニストだ。ヤーッコはラハティ交響楽団のコンサートマスターで最近は指揮もしている。弟のペッカは有名な「シベリウス国際コンクール」で一等賞を獲るほどの実力派ながら、クラシックのみならずジャズ、ロック、そして民族音楽とさまざまなフィールドで活躍中だ。ビル・エヴァンスがかれらの父親の家を訪れたのはまだ二人が生まれるより前の話とはいえ、このDVDを観るとアーティストの家にアーティストが育つ理由(ワケ)がなんとなく判るような気になるのだった。

演奏は、、、もちろんすばらしい。とりわけ「Nardis」の冷たい抒情とフィンランドの景色はとてもよく似合う。音も予想外にいい。

青いコートの女
2009.5.19|music

原宿で雑誌の打ち合わせ。その後、買い物のため銀座へ。移動の地下鉄で、向かいに座っていた女子高生が友だちに向かって「浅草って、何県?」と訊いていた。いいなあ、高校生。まったく高校生は無敵だよなぁ(唯一の敵といえば新型インフルエンザくらいか)。

銀座でとりあえず一服したい気分だったので「カフェーパウリスタ」へ。なんとなく気楽なので、銀座ではわりとパウリスタ率が高い。そしていつも「パウリスタオールド」ばかり飲んでいる。

買い物をして、なんとなくぐるっと裏通りへまわってみたら、バイト真っ最中の知り合いにばったり出くわしてビックリした。たしかに以前そのあたりでバイトしているという話は聞いた憶えがあるのだが、すっかり忘れていたのだ。そこでバイトしているのは週に一日だけというから、もし覚えていたとしても会う確率は相当に低かったろう。東京が広いのか、ぼくに知り合いが少ないのか、外でばったり知り合いと出くわすということがふだんあまりないので「やや」テンションが上がる(笑)。

夜も次第に更けてきてお腹もへってきて、しかも湿度が低かったせいか夜風がとても心地よかったので「AUX BACCHANALES」に行くも、自分がますます呑めなくなっていることがわかり愕然とする。カールスバーグの小瓶、一本さえも飲めないんだもん。

ところで、お酒とタバコに消えるお金が、ぼくの場合どうやらすべてCDに消えているような気がする。きょうも、一見1950年代のジャズのアルバムのようにみえるルービンシュタインのピアノのCDをついついジャケ買い。「銀座」の雰囲気にのまれたような気もなきにしもあらず。

『リスト:Pソナタ』ルービンシュタイン(アルトゥール)

ジャケットは、ルービンシュタインの顔のイラストをあしらった巨大な広告の前を足早に通り過ぎる青いコートの女性をとらえたもので、John.G.Rossというフォトグラファーの名前がクレジットされている。広告には赤い文字で

 シャンゼリゼ劇場
 10月25日・11月2日
 パリ音楽院管弦楽団
 指揮アンドレ・クリュイタンス(10/25)
 ピアノリサイタル(11/2)

と書かれていることからコンサートの告知であることがわかる。

これはあくまでもぼくの推測で、そんなことどこにも書かれてはいないのだけれども、もともとJohn G. Rossの作品としてこの「パリの街角の、ルービンシュタインのポスターの前を通り過ぎる女性の写真」があって、たまたまそれを発見したレコード会社のディレクターがその写真にインスパイアされてこのレコードを企画したのではないだろうか? じっさい、このアルバムは晩年のルービンシュタインの録音から選曲し編集した「企画盤」なのだ。もちろん選曲も、パリのルービンシュタインに対するこのディレクター氏の「夢想」をじゅうぶんに反映したものとなっている。

前半にはブゾーニ編曲によるバッハ、フランク、リストのソナタ、そうして後半にはリスト、ドビュッシー、ヴィラ=ロボスの小品といった、いわゆるアンコールピースが並べられたプログラムで、まさしく「架空のリサイタル」といっていい構成となっているからだ。

195×年11月2日。パリ。快晴。時刻はたぶん、女性の影の長さから想像するに15時半から16時半の間くらい。晴れてはいても、街ゆくひとびとはみな自然と足早になってしまうような、そんな冷たい風が吹き付ける一日だったのではないか。

「フィガロ」紙には、ひさびさに当地を訪れ今夜シャンゼリゼ劇場でリサイタルをひらくことになっている世紀の大ピアニストの記事が、政治家のスキャンダルとおなじくらい大きく扱われている。当然というべきか、チケットはすべてソールドアウト。それでもあきらめきれないファンたちは、何百分の一くらいの確率でチケットが自分のもとにまわってくる幸運を信じて劇場のまわりをウロウロと徘徊している。

そしてたぶんこの夜の客席には、香水のむせかえるような匂いの中、あの「青いコートの女」もきっといるはずなのだ。

ザ・サウンド・オブ・ドナウ
2009.5.26|music

シューベルトのソナチネ、ヴァイオリンとピアノのために書かれた三つのちいさいソナタが気に入っている。とはいえ、家におなじ曲のCDが五種類もあったのにはさすがに驚いたけれど。

なんといっても、この曲から感じ取られるボサノヴァ的な感覚がとてもいい。時代背景とか、色彩のグラデーションを思わせる微妙な転調であるとか、そのほとんどが家で家族や親しい友だちと楽しむためにつくられたところなど、ボサノヴァとシューベルトの音楽とのあいだには意外なほど共通点が多い。いや、少なくともぼくにはそう思われる。

シューベルトにはまた、たくさんの歌曲がある。聞いた話では、シューベルトはこうした曲を書くときピアノではなくギターを使っていたらしい。ぼくはまだちゃんと聞いたことはないのだが、シューベルトの歌曲のギター伴奏バージョンによるCDなんかもあるくらいだ。貧しくてピアノが買えなかった、というのがどうやらその理由のひとつ。とはいえ、真夜中にちいさな部屋で、寝ている家族を起こさないよう気遣いながらちいさな音で、ろうそくの灯りをたよりに譜面にペンを走らせるといった作曲風景は、リオ・デ・ジャネイロのナラ・レオンのアパートメントを引き合いに出すまでもなく、またしてもボサノヴァとシューベルトの近しさを想像させる光景である。

じっさい、ぼくはときどき iTunes でシューベルトのソナチネと、カルロス・リラとポール・ウィンターによるボサノヴァのアルバムをシャッフルしながら楽しんでいるほどだ。ポール・ウィンターのサックスは有名な『ゲッツ・ジルベルト』のスタン・ゲッツとはちがって、けっして大声で叫ぶことなく、終始ほほえみながらカルロス・リラの声に寄り添うようにプレイしていてまさにシューベルト的。

シューベルトのCDは、手元にあるCDをあらためて聴きくらべてみたけれど、シェリングやグリュミオー、シュナイダーハンといった巨匠たちを差し置いて、個人的にもっともしっくりくるのはボスコフスキーとリリー・クラウスによる演奏だった。ボスコフスキーの、華やかさとは無縁の控えめなヴァイオリンの表現が、かえってボサノヴァにおける「クルーナー唱法」のようで誰よりもハマっている。そしてなんといってもリリー・クラウスのピアノが、その優しい響きが本当にすばらしく、カルロス・リラとポール・ウィンターのアルバム同様いつまでも聴いていたい、そんな気分にしてくれるのである。

NIKO ja TAPSA あるいは顛末記
2009.7.27|finland

どうやら、フィンランドの「毒」がカラダにまわったらしい。

ヘルシンキの街角で偶然フライヤーを目にしたフィンランドのヒップホップユニット、NIKO ja TAPSA(ニコ&タプサ)のことが、帰国後、気になってしかたない。こんなことならCDを買っておくべきだったと後悔することしきり。断っておくが(断るまでもなく?)、ぼくがヒップホップのCDを欲しいなんてかんがえることはめったにない。けれども旅で耳にしたフィンランド語のあの独特の「語感」を思い出し、また楽しむのにまさにヒップホップはうってつけ、である。それにあの、ポップといえばいえなくもないジャケットのアートワーク、若いんだかオヤジなんだか見当のつかないふたりの風貌もまた、ある意味チャーミングだ。まあ、そんなふうに感じてしまうことからして、すでに全身に毒がまわっている「なによりもの証拠」なのだが。

もちろん、かれらのCDを手に入れる方法がないわけじゃない。じっさい、この6月から9月上旬にかけて身近なひとびとが誰かしらフィンランドを訪れている。頼もうと思えば頼めないこともないのだ。しかしモノがモノだけに誰にでも頼めるものじゃないということは、ぼくがいちばんよくわかっている。

だって、ちょっと恥ずかしいじゃないですか。

たとえば、死ね死ね団の『Greatest Baka Hits』を買おうとしているニュージーランド人。はたまた、「蒲焼きさん太郎」を箱買いしようとしているナミビアのひと。ちょっと恥ずかしくはないだろうか? となると、そんな恥ずかしいお願いをできそうな(=そんな恥ずかしい思いをさせたところで平気そうな・・・笑)ひとといって思いつくのはせいぜい3、4人といったところ。そのなかで近々フィンランドに行く予定のあるひとといえば・・・、そうおなじみのみほこさんである(笑)。断っておくが(断るまでもなく?)、みほこさんはヒップホップは聴かない。だが、フィンランド語のできるみほこさんなら「なんか、友だちに無理矢理頼まれちゃって」とか、「甥っ子がヒップホップ好きなのよね~」とか、とにかく流暢なフィンランド語で「言い訳」できるだろう。これなら無闇に恥ずかしい思いをさせることもない。

こうして、いまぼくの手元にはNIKO ja TAPSAのCDがある(ありがとう、みほこさん)。

70年代のソウルミュージックからサンプリングされたバックトラック。ニコとタプサによる、どことなくおっとりとしたMC。もともとが韻を踏みやすい言語のせいか、フィンランド語のラップはやけに「調子よく」聞こえてしまうのだが、その「調子のよさ」がかえって面白く聞こえてしまうのはこちらがたぶん、ふだんヒップホップになじみがないせいだろう。

物は試しとさっそく店でかけてみたのだが、スタッフからのブーイングを俟つまでもなくほんと、まったくmoiの空間には合いませんね・・・。どうやら、店主の密かな愉しみとするしかないようである。

それではどうぞ、NIKO ja TAPSAで「すばらしい日々」。

Blossom Dearie『Sings: Blossom's Own Treasures』
2009.7.29|music

ひと頃、小鳥の声が入ったCDを探していた。カフェのBGMに使えるんじゃないか、そうかんがえたのだ。

探してみるとたしかにないこともなかったが、残念ながら店でかけられそうなCDとなるとほとんどなかった。ヒーリング、っていうんですか? なんのひねりもない陳腐な音楽が重ねられているものだったり、あるいは、さまざまな種類の鳥たちがさながら「紅白歌合戦」のごとく次々に登場しては美声を自慢げに披露するようなものだったりと、どうもぼくの抱いているイメージとはかけはなれたものばかり。

ぼくが欲しいのは、森のどこか一カ所に集音マイクを立てて鳥の声や木立を吹き抜ける風の音をそのまま、できうるかぎり最小限の加工しかほどこさずに収録したようなCDなのである。だが、ひと握りの物好きのためにCDをつくってくれるほどレコード会社はヒマではない。じぶんが集音マイクを担いで森にゆくか、さもなくばどこかの親切な音の採集家がプライヴェート音源を譲ってくれるのを待つしかないだろう。早い話、あきらめろ、ということだ。

その代わり、と言ってはなんだが、いま、ぼくの手元にはブロッサム・ディアリーのCDがある。

大好きな「Sunday Afternoon」をはじめ、可愛らしい楽曲がならんだ1973年発表のアルバム『Sings』に、さらにブロッサム自身が書いた曲ばかりを合計8枚のアルバムからあつめた2枚組のCDだ。

低音の鳴らないモイのスピーカーで薄めの音量でこのCDを流すと、なかにはグルーヴィーなベースラインをともなう曲なんかもあるのだが都合よく? カットされて、もともと小鳥みたいな彼女のヴォーカルばかりがあたかも本当に、小鳥のさえずりのように聞こえてくるのだった。そしてカフェの空気もわずかばかり鮮度を増すのだ。

余談。

このアルバムにはブロッサム本人と親交のあった音楽ライター、高田敬三氏の文章が寄せられていて、そこにはごく近い距離で接したひとしか知りえないような貴重なエピソードも披露されており興味深いのだが、個人的に「うれしい発見」だったのは次のふたつ。

その1。1978年にブロッサム・ディアリーが来日した際、吉祥寺のジャズクラブ「サムタイム」でも公演がおこなわれたということ。モイの前の通りをまっすぐ進んでサンロードとぶつかる手前の地下に、「サムタイム」はある。もしかして店内のどこか、壁かなにかに彼女のサインが残されていたりするのだろうか・・・
その2。ブロッサム・ディアリーのお母さんはノルウェーからの移民だということ。じぶんが惹かれるものはいつも、どこかでほんの少しだけ北欧とつながっているのだ、という意味で。

グレン・グールド『アンド セレニティ』
2009.7.30|music

ここはひとつ、音楽の力に頼るほかなさそうだ。

よりによってこの時期に、自宅のリビングのエアコンが壊れるなんて。なんとか交換してもらう手筈はついたものの、こちらもこちらで昼間家にいる時間が少ないため、果たしていつになったら無事新しいエアコンが設置されるのやら見当もつかない。

とりあえずは、いますぐ体感温度を2度ばかり下げてくれる、そういう音楽が必要だ。

雪やこんこに雪の降る街を、歌われている情景はたしかに涼しいが、口ずさんでみたところでいっこうに涼しくはならない。ただバカにみえるだけだ。おなじ理由から、「津軽海峡・冬景色」もおすすめしない。かえって暑苦しい。どんなに寒々しい情景を歌っても暑苦しい、これはある意味、演歌のスゴさであると「発見」した。

そしてたどりついたのは、グレン・グールドの『... And Serenity 瞑想するグレン・グールド 』。J・S・バッハからブラームス、シベリウスにいたる音楽から、「静謐さ」というキーワードのもとセレクトされたさまざまな楽曲がならんでいる。

じつをいえば、ふだんこういったたぐいの企画盤にはほとんど食指をそそられないのだが、このCDはべつ。そこには、「グールド」というブランドで一儲けをたくらむ浅知恵とは明らかに異なる「深い共感とリスペクト」のようなものが感じられるからだ。じっさい、ライナーノーツにはこんなグールド自身によることばが引用されている。

芸術の目的は、アドレナリンの瞬間的な放出ではなく、驚きと穏やかな心の状態を、生涯かけて築いてゆくことにある。

一時的な熱狂よりも、静かに持続する内面的な感興こそを追求した音楽家が、ひとつひとつの音符と誠実に対話するその模様を収めたドキュメント、それがこの『... And Serenity 瞑想するグレン・グールド』というアルバムに結実している。

夏でもコートと手袋を手放さなかったという逸話の残るピアニストは、「心頭滅却すれば火も亦た涼し」という禅師の言葉のような境地を、じっさい生きていたのだろうか。グールドの弾く硬くひんやりしたピアノの音色が、心とからだの火照りをゆっくり鎮めてくれる、すくなくとも、そんな気がする。

これでエアコンのない夏を快適に過ごせるなら言うことないのだけれど。

Sliding Hammers『ボッサ&バラード』
2009.8.3|music

── トロンボーン

と聞いて、たいがいのひとが思い浮かべるのはたぶん

── 谷啓の顔

ではないだろうか?(やや断言) いっぽう、

── ハマー

と聞いてほとんどのひとが思い出すのは、まちがいなくあのTVドラマ

── 「俺がハマーだ!」

であるにちがいない(ほぼ断言)。ところがこの「鉄板」かと思われた「谷啓」×「ハマー」の組み合わせが、なぜか北欧スウェーデンの地ではミミとカリンというハマー姉妹によるトロンボーン・デュオ「スライディング・ハマーズ」になってしまうという、この不思議!?

そんな彼女らのアルバムから、スローな曲ばかりをセレクトして一枚にまとめたのがスライディング・ハマーズの『ボッサ&バラード』である。曲はオリジナルに加えて、アントニオ・カルロス・ジョビン、ガーシュィンからビートルズまでと幅広く親しみやすいが、それ以上に、ふたりのトロンボーン(姉のミミはヴォーカルも担当)が奏でるまあるい響きが耳に心地よく、夏の夕暮れから夜半にかけてのBGMとしてかなりいい感じなのだ。

ただ、これはどちらかといえば「カフェの音楽」ではない。こういう音楽を聴くと、アルコールがほとんど飲めない自分の「不運」を嘆きくなる。もっと音楽を愉しみたいがためにお酒を飲みたいなんて、どうにもおかしな話ではあるけれど。シャンディ・ガフか、スプリッツァーか、いずれにしてもビール好きが聞けばひんしゅくを買いそうなカクテルでもこしらえてお茶を濁すのがやっとのところか。

そんな、人生を28パーセント程度しか楽しんでいない幸薄い人間の話はさておくとして、

まとまった夏休みがあって、お酒が好きで、音楽はジャンルを問わず楽しめるしあわせな耳を持ち、そんなふうに音楽を聴きながらうたた寝するのがなによりも好きといった「果報者」もしくは「快楽主義者」ならば、きっとこのアルバム、気に入るにちがいない。

高橋ピエール『ア・トンノレイユ』
2009.10.16|music

本日、メールマガジン「moi通信~日々のカフェ」第3号を配信しました。今号もイベント速報、それに読者限定のサービスなどご案内しております。まだの方、ぜひご購読よろしくお願い致します(↑上のリンクより携帯電話&PCで登録できます)。

さて

友人の音楽家/ギタリスト、高橋ピエール君よりあたらしいCDが届けられました。

ア・トンノレイユ

フランス語で、「君の耳元で」という意味だとか。クラシックギターの柔和な響きと控えめに奏でられるその他の楽器、そして効果音とが出会い、あたかもフランス映画のサントラのような独特の「波動」を感じることのできる一枚です。

休日の午後、ほどよい音量でこのCDを聴いたなら、きっとジャック・タチの映画を観たあとのようなやさしい気持ちになれることでしょう。

高橋ピエール CD『ア・トンノレイユ』 1,470円

君と僕との色々な角度/針金のワルツ/水玉のワンピース/組曲「les calendriers」より/一度だけ (全5曲入り)

moiにて好評発売中、です。

パトリシア・プティボン リサイタル
2009.10.27|music

10月になって2度目の台風の影響で、朝から土砂降り。しかも冷たい風まで吹いている。ロジャニコの名曲に「雨の日と月曜日は」という曲があるけれど、まさにそれを地で行くような憂鬱な空模様である。それでもそんななか、わざわざ足を運んでくれるお客様がいるのは本当にありがたいことだ。しかも早じまいだというのに・・・

そんなわけで、なんだか申し訳ない気分になりながら銀座の王子ホールにやってきた。フランスのソプラノ、パトリシア・プティボンを聴くために。

こんど来たときにはぜったい聴きにゆかなきゃと思っていたプティボンの来日が決まり、曜日の確認もせずにとりあえずチケットを押さえたのがたしか、半年くらい前のことだった。コンサートのための早じまいなんて、思えばジョアン・ジルベルト以来である。2、3年に一度くらいなら・・・そんな「甘え」があるのも、事実。スイマセン。

今回のプログラムでは、前半にヘンデル、ハイドン、モーツァルトといったバロックから古典派にかけてのオペラアリアが並んでいる。黒いドレスに身を包んだ赤毛のプティボン、最初の3曲を情感豊かにしっとりと聞かせる。

ついに「お笑い」は封印か? と思いきや、つづくモーツァルトのアリアではいきなり伴奏者とともに

ファッション誌片手に、ド派手なヅラをつけて登場(笑)。

その後も、客席に潜んでいた謎のおっさん(コメディアンだと思ったらじつは立派な方だった)相手にコミカルな演技をしながら歌い踊ったり、ピアノの上に足を投げ出したり、客席に浮き輪やらなにやらを放り投げたりと相変わらずの暴れっぷり。やはりプティボンはプティボンなのだった。

つまり、とにかくプティボンは自分の好きな歌を、あるいはいま自分がいちばん聴き手に届けたい音楽を、歌う。それはたとえば、ぼくのような聴き手にとっては縁遠いハイドンやヘンデルの歌曲、アリアであったり、現代の作曲家による雲をつかむような響きのラブソングであったり、あるいはまた本来はテノール(つまり男声)によって歌われるべきバーンスタインの『キャンディード』からのアリアだったりする(パンフレットによれば「好きなメロディーを自分なりに歌いたい」というのがその理由)。

客も客で、プティボンの歌に新たな「たのしみ」や「発見」を見いだすことを心から楽しんでいる。ステージ(やときには客席内)を歩き回ったり、さまざまな小道具を繰り出したかと思えばコスプレまがいの扮装をしてみたり、そんな彼女のアイデアがたんなる奇抜さやウケ狙いではなくて、聞き慣れない曲を120%楽しむために大いに役立っているということをよく知っているからだ。聴き手は、プティボンという「キャラクター」を通すことで、作曲家の名前や有名な曲だからといった理由を忘れてとてもフレッシュな心持ちで音楽に心を開いている自分に気づく。

音楽を聴くたのしみって、つまりこういうことなんだなあ。

強風で傘があおられそうになるのを必死でこらえながら、帰り道かんがえていたのはそいうことだ。

↓ちょっと前の映像から。フランスの作曲家シャブリエによるオペラ『エトワール(星占い)』からのアリア「くしゃみのクプレ」。

尾池亜美・内田佳宏デュオリサイタル
2009.11.3|music

風こそ冷たいものの気持ちよく晴れた午後、家から歩いて15分ほどのところにある大田黒公園へ行った。

ここはもともと音楽評論家の大田黒元雄の屋敷があった場所で、いまはこじんまりとした日本庭園となっているが、庭の片隅には昭和8年に建てられたという大田黒氏のかつての「アトリエ」がいまもポツンとたたずんでいる。そしてきょうは、そのアトリエでコンサートがひらかれる。出演は、

尾池亜美(ヴァイオリン)/内田佳宏(チェロ)

のおふたり。ヴァイオリンの尾池さんは、じつはモイが荻窪にあったころからのお客様のひとりである。とはいえ、実演に接するのはきょうが初めて(なにせ、こっちのお休みが火曜日だけなもので)。今回火曜日にコンサートがあるということで、出演が決まると同時にご連絡をいただいていたのだ。

尾池さんが初めてモイに来てくださったのはたしか3年ほど前のことだったと思う。カギを忘れて外出してしまい家に入ることができず、ご家族が戻られるまでの時間つぶしで……、そんな感じだったはずだ。ちょうどヴァイオリンケースを抱えていらしゃったので「ヴァイオリンをやってるんですか?」と尋ねたら、「こんどベートーヴェンの8番のソナタを弾くのでその練習をしていて」といったような話になり、たぶんかなりの腕前の持ち主なのだろうと予想はついたけれどそのまま名前を伺っていなかったので、ぼくの中では

「ヴァイオリンをやっているカギを忘れちゃった女の子」

ということになっていた。その後モイが吉祥寺に移って、ご本人から「あのー、荻窪のときの、カギ忘れちゃったヴァイオリンやってる子ですけど……」という電話をもらって、このままどんどん長くなっていったらえらいこっちゃ! というワケで、晴れてお名前を伺ったのだった。

演奏はいくつかの小品のほか、前半にラヴェルの二重奏曲、後半にコダーイの二重奏曲とピアソラの「ル・グランタンゴ」(アレンジはチェロの内田さん)というかなりヘヴィー(笑)なプログラム。

ヴァイオリンというのは、豆の種類や焙煎の度合い、抽出するひとの技術で味がまったく異なってしまうコーヒーという飲み物とどこか似ている、そうぼくは思っている。ひとくちにヴァイオリンといっても、弾き手の個性でほんとうに聞こえてくるものがちがってしまうからだ。当然、好き嫌いもでやすい。なので、尾池さんのヴァイオリンはどんな響きを聞かせてくれるのだろうかと、きょうも内心ちょっとドキドキしながら出かけたのだった。そして最初の曲を聴いたとたんうれしくなったのは、ぼくにとってとても好きなタイプの音だったからだ。旅先で偶然入った喫茶店で飲んだコーヒーの味がとても好きな味だった……そんな感じ、わかるだろうか?

まず、なにより、強い。音にしっかりと芯が通っていて重心が低い。ぼくは、こういうタイプの音を耳にすると一気にその演奏に引き込まれてしまう。そして、さらに、歌心がある。ぼくは声の通らないひとなので、声のデカいひとに会うとそれだけで「負けた」という気分になってしまうのだけど(笑)、大きな呼吸で気持ちよさそうに歌うヴァイオリンを聞いて、正直「負けた」と思った(どんな勝負なのかまったく意味がわからないが……笑)。

演奏された曲のなかでいちばん印象に残ったのは、ラヴェルの二重奏曲。尾池さんと内田さんのふたりは、この複雑な難曲を前にしても猫背になることなく、堂々と自信をもってアプローチしていてとても痛快だったのだ。つい先だっておこなわれた「日本音楽コンクール」のヴァイオリン部門で、尾池さんは見事「第一位」を、そしてあわせて聴衆の投票によって選ばれる「岩谷賞」を獲得されたわけだけれど、その「理由」がよくわかるような「キャラクターのしっかりある」充実した演奏だった。

もちろんぼくの中では、これを機に

カギを忘れちゃった女の子
改め、
かっこいいヴァイオリンを弾く女の子

に変わったことはいうまでもない。

なお、おなじプログラムの公演が

11/14[土] 荻窪・かん芸館
12/20[日] 京都・青山音楽記念館

でもあるとのことなので、ご興味のある方はぜひ!

絵になる
2009.12.9|music

ひさしぶりに御茶ノ水の中古レコード屋へ行ってみたら、フランスの往年のピアニスト、ロベール・カサドシュのCDが廃盤のものなどいろいろと出ていた。

さては、だれか死んだのか? そんなふうに思ったのは、ついこのあいだ入ったレストランでたまたまこんな会話を耳にしていたからである。ワインのコレクターとおぼしき男性がおなじテーブルの知人に話していたのだが、ワインをコレクションしている人間はコレクター仲間が死ぬと、そのコレクションが市場に出回るのでつい浮き足だってしまうのだという。えげつない話だなあ、なんてそのときは聞きながら思ったのだが、レコードやCDにしたって事情はおなじだろう。

そんなわけで、幸運なハイエナのようにしてカサドシュのCDを手に入れた。一枚は、カサドシュが奥さんのギャビーと連弾したモーツァルト、シューベルト、それにフォーレの録音。もう一枚はやはりギャビーと共演したバルトーク、サティ、ドビュッシーに、おなじくドビュッシーのヴァイオリンソナタとチェロソナタを加えたもの。それぞれ八百円くらいだった。

演奏は、きっと「巧さ」という軸でいえばもっとべつの選択肢もあるだろうけれど、ちょっとしたフレーズのチャーミングなこと、頑張りすぎないからこその洒脱さといった点では抜きんでた存在という気がする。それに、このロベールとギャビーのカサドシュ夫妻ほど絵になるデュオというのもなかなかいそうでいない。買ったCDのリーフレットには、ギャビーとパイプを口にくわえたロベールがふたりでピアノにむかっている様子を収めた写真がのっているのだが、できるものなら引き伸ばして部屋に飾りたいくらいである。海辺を傘をさして歩くカザルスの後ろ姿とか指揮者のピエール・モントゥーだとか、昔の演奏家には「絵になる」人物が多い。

減点方式の時代ゆえか、演奏もふくめこういう鷹揚な「いい顔」に出会える機会もめっきり少なくなってしまった。

Hyvä! ヴァンスカの『第九』
2009.12.23|music

土用の丑の日、バレンタインデーのチョコレートとならび、うまいこと仕掛けがハマってこの国に定着した「風習」のひとつに「年末の第九」というのが、ある。土用にうなぎを食べる習慣がなく、バレンタインデーにチョコをもらうことも少なくなったこのぼくも、ここ数年「年末の第九」だけは欠かしていない。ことしも残すところあと・・・というこの時期「第九」を聴くと、いいこともよくないこともひとまずぜんぶリセットして、また新しい気持ちで一年を迎えましょうという気分になれるのがいい。まさに「一年の節目」。ことしはきのう、読売日本交響楽団の「第九」に行ってきた(サントリーホール)。指揮はオスモ・ヴァンスカ、フィンランド人である。

それにしても、ヴァンスカ、いい! ヒュヴァ!ヒュヴァ! である。なにより「痛快」、全体はコンパクトながら音楽の端々にまで力が漲った、いわば「逆三角形」のマッチョな「第九」だ。とはいえ、繊細なピアニッシモや短いフレーズのなかでのクレッシェンドの多用、アーティキュレーションの自在さなどどこをとっても考え抜かれていてたんなる「筋肉バカ」じゃないところがいい。さすがは思慮深いフィンランド人(←身びいき 笑)である。

とくに今回はじめて、「対向配置」という、指揮台をはさんで両側に第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンを配置した編成で「第九」を聴いたのだが、それがこの曲では驚くほどの威力を発揮していて、これまでなんでこういうシフトをとっていなかったのだろう? とむしろ不思議にすら思えてくるのだった。第一楽章の主題のかけあい、第二楽章の冒頭の受け渡し、第三楽章での音楽の対話と、挙げていったらキリがない。それは、こういう効果を期待してベートーヴェンはこの曲を書いたのだろうと考えさせるに十分な説得力があった(一説によると、ベートーヴェンが生きていたころはこの「対向配置」が一般的だったらしい)。

合唱が入るあの有名な終楽章でも、ヴァンスカは独特だった。ふつう「喜び」を勇ましく歌い上げるようなところでも、あえて出だしをソフトにはじめてみたり、ふだんは埋没しがちなアルトの合唱の歌声がくっきりと浮かび上がってきたりと、ちょっと聴いたことのないような響きがそこかしこに顔をだして息つくひまを与えない。いつもの「歓喜の歌」が高らかに「喜び」を歌い上げる(ある意味かなり楽天的な)演説のようなものであるとしたら、ヴァンスカのは「祈りの歌」である。そしてそれは、先行きの見えないこの時代に生きるものにとってはより「リアル」と言ってよく、それだけ「現代的」でもある。

あれだけのフィナーレだけに演奏後の客席は盛り上がらないはずもないが、この日の白眉はもしかしたら第三楽章のアダージョだったかもしれない。透明感あふれる音色の弦楽器が精緻に奏でる旋律が、あたかも教会のコラールのようにホールに響く。終楽章の「祈りの歌」は、すでにここから始まっていたのだ。

ちなみにこの日ホールではテレビの収録がおこなわれていて、28日[月]深夜2時4分~の『深夜の音楽会』(日本テレビ系列)で全曲ノーカットで放映されるとのこと。

HAUS of PIANO
2010.1.15|music

ぼくがまだ会社勤めしていたころ一緒にイベントをやっていた友人たちが、来月2/11(祝)に「HAUS of PIANO」というタイトルで音楽イベントを開催します(Cay@表参道)。

言葉より先に響きがある。

3組の奏者たちが織り成すピアノの音色にそっと聞き入ってほしい。

と、コピーにあるとおり、このイベントのキーワードは「ピアノ」。出演は、中島ノブユキ、トウヤマタケオと生駒祐子、そしてARAKI Shinの3組。いずれもジャンルにとらわれることなく、「ピアノ」という楽器を通してみずからの音楽の可能性を探り、表現しているアーティストばかり。ゆえに、日本のみならず海外での評価も高い。

休日の夕暮れ時、ゆったりとくつろいだ雰囲気の中で先鋭的な響きと出会う。そんな、ありそうでなかったコンサートでもクラブイベントでもない一夜限りの「ピアノの家」。なにを聞かされるのか、それは幕が開いてみなければわからない。でも、騙されたと思って「もてなされて」みるのも悪くないと思うのだが。

イベント「HAUS of PIANO」のチケット入手方法などは公式サイトでご確認ください。

無題
2010.3.11|music

ツイッターで「moi」をフォローしてくださっているみなさんには、先日そのみなさんのタイムラインを汚してしまったことを謝らなきゃならないかもしれない。火曜日の夜、DOMMUNEのUSTREAMでライブ中継されたDJ「L?K?O」のパフォーマンスのあまりのすばらしさに、ついついはしゃいでしまったのだ。

とはいえ、ぼくはこのL?K?OというDJについてなにか知っているかというと、どこかのフライヤーでたびたびその名前を目にしていたくらいで、正直なところなにひとつとして知らないのだった。じゃあなんで聴いたのサ、と言われれば、それはぼくがフォローしている@easygo33さんが「と思ったら、こっちも凄い!」とつぶやいていたからにほかならない。この@easygo33さん、プロフィールからは現在なにをなさっているのか判らないのだが、じつはぼくが十代のころ愛読していた某音楽誌でライターをなさっていた方で、この方が書いたレビューを読んで手に入れたレコード(CDじゃなくって、ね)もたくさん、ある。なので、いま彼がどんな音楽を「すごい!」と思うのか、そんな好奇心からクリックしたのだが、結果は21時すぎからラストの0時まで3時間近くPCの前で釘付けになってしまった…… 。

それにしても、この夜のL?K?Oのパフォーマンスときたら、音楽をカテゴライズして聴くことを嘲笑うかのような自由奔放さでぼくらをガンガン揺さぶってくる。その揺さぶりかたがもうハンパじゃないのだ。

ぼくが聴き始めたときにはラヴァーズロックのようなやや甘めの選曲だったのだが、気づけばアラビア語? のダンスミュージックとなり、かと思えばいきなりメタリカ(笑)がかかるといった具合。その後インドの歌謡曲風が続いたと思えば、なにを思ったかいきなり山城新伍の「鞍馬天狗」である。どうなっているんだ、まったく! そうしてさらに日本語のレゲエなども交えつつ、ふたたびスイートな歌モノで締め括る。一見支離滅裂にも映る、というかじっさい支離滅裂なのだけれど、そんなジャンルを超えた音楽が、でも、抜群のテクニックに裏打ちされた「つなぎ」によってまったくそんなふうに感じさせないのは見事としか言いようがない。だって、ふつーメタリカじゃ踊れないでしょ!? そんなわけで3時間以上も飽きることなく、まるで万華鏡のように次から次に姿を変える音の渦に翻弄されっぱなしだったのである。

けれども、もうひとつ感激したのはこのライブパフォーマンスを実現可能にしたUSTREAMという動画共有サービスだ。USTREAMではブラウザの左側にライブ映像が流れ、右側にはその映像に寄せられたコメントがツイッターの形式でリアルタイムに表示される。もし動画を見るというだけであれば、生放送のYouTubeやニコニコ動画といった感じに過ぎないのだが、このUSTREAM最大の魅力はこちらのコメントがリアルタイムに流れ、それを映像の流し手もチェックすることができるという「双方向性」にこそがあるといえるだろう。今回のL?K?Oのパフォーマンスでは、ぼくが見始めたときにはまだ1,000人ほどだった視聴者数が、ライブに感動したひとたちが自分のツイッターをつかってどんどん告知してゆくことで、最終的には4,500人以上にまで膨れ上がっていた。「おっ、なんか面白そうなことやってるぞ」と言ってどんどんひとが広場に集まってくる、そんなイメージである。しかも世界中にいるひとびとが、自宅なり職場なりに居ながらにして、である。

たぶん、この日ライブを観ていたのはクラブにしょっちゅう足を運んでいるようなひとたちばかりではなかったはずだ。時間がなくて、あるいは地方に暮らしていて行きたくても行けないひともいれば、音楽は好きだけれどもクラブに行くのはちょっと…… というひともいたことだろう。どんどん流れてゆくコメントをみて知ったのだが、中学生や高校生もいたし、とりあえず好奇心からクリックしたというひともいたにちがいない。そんな世代も趣味もちがう4,500人あまりのひとたちが、ひとつの「音楽」を共有していることのスゴさ。そして、観ている者たちが口々に感想を述べあい、それを確認しあうことでいままさに同じひとつの音楽を共有していることを体感し、そのとき「視聴者」は「参加者」へと変わる。「点」でしかなかったひとりひとりの「視聴者」たちが、「参加者たち」として面的な拡がりを手にするのである。

折しも、このパフォーマンスを視聴していたいとうせいこう氏は思わずこんなふうにつぶやいている。

── これはもう空間とか超越したフェス

まさに言い得て妙。ほかにも、コメントでは「サマー・オブ・ラブ」について触れる者、「10年代の幕開け」と述べる者もいて、「音楽」を介したなにか新しいムーブメントの胎動を口にする者たちが大勢いたのだった。すくなくとも、こう述べることはけっして間違っていないはずだ。

これはたんなる「ライブ」じゃない、「フェス」なのだ。

Niklas Winter & Jukka Eskola from フィンランド meet 新澤健一郎 Trio 2010
2010.3.31|music

フィンランドのジャズの、あの青白い光を放つような響きはいったいなんなのだろう? おととしの暮れ、ニクラス・ウィンターとユッカ・エスコラ(The Five Corners Quintet)というふたりのフィンランド人ミュージシャンを迎えておこなわれた新澤健一郎トリオのライブに接したとき、ぼくはたしかそんなことを考えていたのだった。

ジャズには全然くわしくはないけれど、その「感覚」は知っている。フィンランドの「空気」だ。湿度のないキリッとしたあの空気、すべての事物の輪郭をくっきりと表出させる、あの明晰な空気である。彼らの演奏を聴いたとき、そんな北の空気、もっといえば北の夜の空気を思い出してぼくはわくわくしたのだ。

音楽の説明としてはあまりにも舌足らずなのを承知の上で、あえてぼくは彼らが奏でるジャズのむこうにフィンランドを感じに出かけようと思っている。こんな聴き方も許してくれるような懐の深さが、彼らの演奏にはあると思うから。

ぜひ、いっしょに北欧の夜の気配を感じてみませんか?

くわしくは、以下をご覧ください(コピペですいません)。ちなみにぼくは、4/6のJZ Bratにお邪魔する予定。

──

◎ Niklas Winter & Jukka Eskola from フィンランド meet 新澤健一郎 Trio 2010

北欧ジャズの”現”体験へ。
森と湖の国フィンランドの実力派ギタリスト、ニクラス・ウインターと
「The Five Corners Quintet」で名高いユッカ・エスコラ(tp)。
大好評を博した新澤健一郎トリオとのコラボレーション再び!

公式サイト:http://www.finnishmusic.jp/niklaswinter/

Niklas Winter(g),
Jukka Eskola(tp,flh)
新澤健一郎(p)
鳥越啓介(b)
大槻KALTA英宣(ds)

4/3[土] 横浜JazzSpot DOLPHY
開場 午後6:30 開演 午後7:30
前売¥3500/当日¥3800
予約・問:045-261-4542
横浜市中区宮川町2-17-4 第一西村ビル2F
http://www.dolphy-jazzspot.com/

4/4[日] 本厚木Cabin
開場 午後6:00 開演 午後7:00
チャージ¥3500
予約・問:046-221-0785
神奈川県厚木市中町2-7-23ふじビル5F
小田急線「本厚木」駅北口 徒歩3分
http://cabin.sgr.bz/

4/6[火] 渋谷JZ Brat
開場 午後5:30 開演 午後7:30(1st),9:00(2nd) 入替無し
予約¥4200/当日¥4500+オーダー
予約・問:03-5728-0168
http://www.jzbrat.com/

Gary Mcfarland『Butterscotch Rum』
2010.6.26|music

もんやりとした曇り空の朝、コーヒーを飲みながらゲイリー・マクファーランド+ピーター・スミスのレコード『バタースコッチ・ラム』を聴いた。

きのうは早朝、日本が決勝トーナメント行きを決めたサッカーの試合を観たおかげで、一日中「時差ボケ」並みのひどい眠気に悩まされた。そのせいもあってゆうべは早めに眠り、そのぶんいつもよりレコード一枚分、つまり45分ほど早く起きた。そしてまだ、なんとなく「時差ボケ」の残るアタマが選んだ一枚がこのレコードだったというわけだ。

ところでこのアルバム、ゲイリー・マクファーランドの遺作にして異色作である。1971年、このアルバムをリリースした数ヶ月後にゲイリー・マクファーランドは亡くなっている。38歳だった。そして「異色作」というのはほかでもない、このアルバムが全編「歌モノ」であるということにある。

たしかにゲイリー・マクファーランドの他の作品にもボーカル入りの曲はすくなくない。けれどもたいていは、みずからヴィヴラフォンを演奏しながら、そのメロディーにユニゾンでふわーっとスキャットを被せているのがほとんど、こんな風にアルバム全体が歌詞つきの歌で構成されているのは唯一の例外といえる。しかも、このアルバムではゲイリー・マクファーランドと画家で詩人でもあるピーター・スミス(ジャケットのイラストも担当)とが交互にリードボーカルをとっているのだ。歌手が「本業」ではないふたりがつくったボーカルアルバムだなんて、制作の経緯をかんがえればかんがえるほどミステリアスな作品である。そして、そんなミステリアスな作品を残してゲイリー・マクファーランドは逝ってしまった……。

針を落とし、聞こえてくる音に耳を澄ます。なんとなく頼りない(「本業」じゃないのだから当たり前だが)ふたりの歌声のせいか、全体が生暖かい靄につつまれたかのような印象である。でも、けっしてドリーミーというわけではない。そこには「甘さ」が、決定的に欠けている。むしろ、バタースコッチ・ラムの味? 味わったことないからよくわからないな。どちらかといえば、きっとそれは「ほろ苦い」のだろう。

このアルバムでは、とりわけオープニングを飾る一曲「All My Better Days」がすばらしいということになっている。じっさい、胸やけするくらいいい曲だと思う。けれども、アルバムの中から一曲だけ取り出してうんぬんするのは愚かしいとも思う。たとえばビーチボーイズの『ペットサウンズ』がそうであるように、この『バタースコッチ・ラム』もまたアルバム全体であまりにも儚く美しいひとつの世界を現前させているからだ。歌うことを「本業」としないふたりのアーティストが、あえて歌うことによって世に問いたかった世界、そのどこか危なっかしい魅力が耳をとらえて放さない。

ターンテーブルをお持ちの方はぜひレコードで、そうでない方は廃盤になってしまっているCDをぜひ中古で探してみてください。

7月20日はそんな一日。
2010.7.21|music

午前中、いつものように鍼にゆく。もう口にするのもイヤなくらいに、暑い。中杉通りのケヤキ並木を抜けて阿佐ヶ谷駅に出る。駅にほど近いレコード屋をのぞくと、何枚か欲しかったレコードが手頃な値段でみつかる。

ところで、『バード★シット』に感激した理由のひとつにその音楽が挙げられる。ママス&パパスのジョン・フィリップスがかなりの割合で楽曲を提供していて、そのひとつひとつのナンバーの完成度がとても高い。そんなわけで、ここのところ『バード★シット』のサントラが欲しくてしかたないのだが、見つけるのは多分そうたやすくはないだろう。そのかわり(?)、タイミングよく『M*A*S*H』のサントラを手に入れることができた。言わずとしれたロバート・アルトマン監督の代表作のひとつで、彼が『バード★シット』に先立って監督した作品である。ふつうのサントラとはちがい、役者の台詞や効果音までがコラージュ風に収められていてまるで一本の映画を短く編集し直したようになっている。手に入れた国内盤は、版権かなにかの都合だろうか、オリジナルにはボーナストラック的に収録されているアーマッド・ジャマルが演奏するテーマソングが収められていないのが残念。

あまりの暑さに、いったん自宅に退避。夕方からまた出かけようともくろんでいたのだが、食事をし、買ってきたレコードを聴いて、そのままうとうとしてしまったのがいけなかった。意識が戻ったときには、すでに夜。おまけに、うつぶせ寝の状態で気を失っている間に首を寝違える。

7月20日は、そんな一日。

8月4日はそんな一日。
2010.8.5|column

少しずつ街にひとが戻りはじめた。やっぱり街っていいですよね、新しい発見や楽しい出会いはすべて街の中にこそあるのだから。というのは、ペトゥラ・クラーク「恋のダウンタウン」の「Down town, Everything's waiting for you」という一節をほぼ言いかえただけの話だけど。

いまは、そう「部活動」をやりたい気分。イベントっていうよりは部活のほうが、よりモイには似合っているかも。などと考えつつ、ニヤニヤと。

8月4日はそんな一日。

8月20日はそんな一日。
2010.8.21|music

相変わらずバカみたいに暑い。ただ、早朝と深夜、ほんの少しだけだが心地いい風が吹くのがせめてもの救いか? とはいえ、温度計を見ればバリバリ熱帯夜であることには変わりないのだが……。

タイムラインでは、今週いっぱいで閉店するHMV渋谷の話題で、厳密にいえば、閉店にあわせて連日おこなわれている豪華メンツによる無料インストアライブの話題で持ちきりである。なかには「いまさら騒ぐくらいなら、ふだんからCD買ってあげればいいのに」といった、ある意味もっともな意見もリツイートされてきたりもするが、そうはいってもそれが時代の趨勢というか、要請なのだから仕方ないんじゃないか、という気もする。

とはいえ、1993年から2001年までの8年間(つまり90年代のほとんど)、旧「HMV渋谷」から200メートルほどの距離のところで仕事をし、足しげく通っていた身としてはやはりいろいろ思うこともある。「渋谷系」の「聖地」とまでいわれたHMV渋谷店だが、それはお店J-POPコーナーの一角を仕切ってつくられた売場(いわゆる「太田コーナー」)の話であり、HMVというメガストアの中にあってそこだけは一種独特の、「太田商店」とでも呼んだほうがふさわしいような空気が流れていた。

そこには、国籍、ジャンル、インディーズ/メジャー、時代の新しい古いにかかわらず、太田氏の「ものさし」に基づいてセレクトされたCDがいつも陳列されていて、客も「ここでオススメしてるCDなら、まあ、騙されたつもりで買ってみるか」といった具合におカネを落としていたのだった。じつは、メガストアにもかかわらず、かつてHMV渋谷のその一角だけでは、こんな昔ながらの「個人商店」のような関係が保たれていた。

そもそも商いとは、そんな店と客との信頼関係の上ではじめて成立する取り引きだったはずだ。そしてその関係は、ときにちょっと面倒くさくもあった。「面倒くささ」を取り払って、お店が単純におカネとモノとを交換するためだけの場所になったとき、コンビニエンスストアが生まれ、セルフサービスのカフェが生まれ、音楽配信が生まれた。店がそれを望んだのであり、客がそれを望んだからだ。

そう思えば、厭な言い方になるが、HMVが街から消えるのは当たり前のことである。八百屋さんや魚屋さん、喫茶店が消えるのも当たり前である。お店は、おカネとモノを交換するためだけの場所なのか、それともおカネの代わりにモノ+αをを手に入れることのできる場所なのか、そのどちらを望むのか、ここいらでもう一度考えてもいいんじゃないか? 店も客も……

8月20日は、そんなことをふと考えてみた一日。

I'M FROM BARCERONA
2011.11.23|music

先日、TWEE GRRRLS CLUBさんのイベント「Twee TV Club~Nordic Night」に呼んでいただいたのをきっかけに、ここ数年ほとんど聴くことのなかったスウェーデンのポップミュージックをインターネットとこの辺りの音楽にくわしいスタッフの知識を総動員しつつ怒濤の如く聴きこんでみた。

聴き込んでみたはいいが、気づけばそうして溜め込んだ情報をアウトプットする場がない……(笑)。当初親切に教えてくれたスタッフもいまやうんざりした様子だ。気づけばとんでもなく遠くまで来てしまったらしい(まあ、いつもの話ではあるけれど……)。そこで、ここ一ヶ月弱ほどのあいだに出会ったスウェーデンのポップミュージックのうち、自分の「お眼鏡」にかなったいくつかのバンドを紹介していきたいと思う。あわせて、その「お眼鏡」がどんなものなのか? についても語れればともくろんではいるのだが…… さて、どうだろう?

というわけで、第一回(第二回があるかどうかはわからないけど)。

世の中には、ふと気づけば手に取ってしまうレコードというものがある。たとえばぼくの場合、「大所帯」のグループによるレコードがそれにあたる。こんなジャケットやあんなジャケットに思わず胸がときめく。メンバーは、最低でも10人は欲しい(笑)。で、探したらいました、そんなステキなグループがスウェーデンにも! その名は、

I'M FROM BARCERONA(アイム・フロム・バルセロナ)

れっきとしたスウェーデン出身ながらバンドの名前は「バルセロナ出身」。バンドの結成は2005年、ヴォーカルのエマニュエル・ルンドグレンの楽曲を彼の友人がよってたかって(笑)レコーディングしたところ、思いがけず話題になりあれよあれよという間に超メジャーレーベルのEMIと契約することになってしまったというウソのようなホントの話らしい。で、そのときのメンバーがなんと!

29人!!!

しかし、1stアルバムを聴いたかぎり聴こえてくるのはせいぜい10人分くらいの音…… というのは、まあ、ご愛嬌(笑)。ほとんどの楽曲はリーダーであり、リードヴォーカルを務めるエマニュエルが書いているのだが、甘酸っぱさの薫る覚えやすいメロディーはソフトロック好きにはなかなかたまらないものがある。

ところで、個人的には「大所帯」「ソフトロック」というキーワードからまず思い浮かぶのは70年代のいわゆる「宗教ソフトロック」とか「CCM(Contemporary Christian Music)」だったりするのだが、じっさいこのアイム・フロム・バルセロナからももそんな「匂い」がプンプンと漂ってくる。とりわけ、よく新聞受けに投函されている「その手の」パンフレットを思わせる1stアルバムのジャケットなんていかにもあやしい。あやしすぎる。そう思ってちょこっと調べてはみたものの、いまひとつその正体はわからない。あるいは、ただたんにソフトロック好きで、勢い余って疑似CCM的な世界を演じているだけだったりして!?

それはさておき、彼らのつくる音楽のなんてポップであっけらかんとしていることよ! たとえば、このバンドの「テーマソング」ともいえそうな「We Are From Barcerona」。正直、アホくさいほどの能天気さにふと微妙な気分になりつつも気づけばいっしょになってコーラスを口ずさんでいる。そう、そうなのだ。こういう「シング・アロング」的なわかりやすさこそが彼らの「持ち味」であり、「芸風」なのである。

とりわけぼくが好きな一曲は、1stアルバムに収められた「This Boy」

ここでもなにかとりたてて「ひねり」があるわけではないのだけれど、その「青さ」がなんとも魅力的なポップソングになっている。

このなにかと生きづらい世界にあって、たった3分だけ夢を見させてくれるのがポップミュージックであるとするなら、彼らアイム・フロム・バルセロナの音楽こそはまさに「王道のポップソング」と言っていいのではないだろうか。

Vampire Weekend
2013.7.25|music

ヴァンパイア・ウィークエンドの3枚目のアルバムを聴いているうち、ふと〝ペイズリーアンダーグラウンド〟などという、とっくの昔に忘れたはずの単語が思い浮かぶものだからすっかり可笑しくなってしまった。

思うに、60年代と80年代はあるメンタリティーを共有しているという点において〝地続き〟であった。レインパレード、グリーン・オン・レッド、ドリームシンジケート…… 80年代初頭、アメリカ西海岸のカレッジシーンに突如巻き起こった〝ペイズリーアンダーグラウンド〟は、まさにそのことを裏付けるムーヴメントといえた。当時、彼らが奏でる60年代後期風のガレージサウンドを〝時代錯誤〟とかんがえるひとは少なかったのではないか。それほどまでに、それはごく自然に80年代の空気になじんでいたのだった(全体的にスパイスに乏しすぎるきらいはあったけれど)。

これといった根拠があるわけではないが、60年代、80年代は、つぎに00年代と〝地続き〟になるだろうという漠然とした予感があった。じっさいのところ、00年代にそれらしい動きは感じられなかった。ようやく00年代の後半になって、80年代のヒットソングの安易なカヴァーやあけすけなサンプリング、ペナペナなシンセサウンドが目立つようになってきた程度だろうか。

それがいま、やや到着は遅れたものの、10年代は60年代、80年代と〝地続き〟となったことを、最近リリースされた『Modern Vampires of the City』というヴァンパイア・ウィークエンドのCDを聴いて確信した次第。そのサウンドがどうのこうの ー60年代ぽいとかNWぽいとかー いったことではなく(もちろんそういう〝匂い〟はたしかにあるにせよ)そこには、あのメンタリティーが、〝柔なくせに時代にむかって牙を剥いてみせるような〟メンタリティーがわんわんとアルバム全体にわたって五月蝿いほどこだましているからである。

私立探偵は「いつもの」と注文することで自身の選択の自由を担保する
2016.2.28|music

◎ ついに、いきつけの肉屋でひとことも発することなく品物が出てくるまでになってしまった。「楽でいいか」と思う反面、「いつもの」くらいは言わせてくれ、そんな気もしないではない。「いつもの」とはつまり、たくさんの「いつものじゃないヤツ」の中から選びとられた〝このひとつ〟のことを指すのであって、その意味でハードボイルドに登場する私立探偵は、(いつも同じものにしか口にしないくせに)バーのカウンターで「いつもの」とオーダーすることでじつは選択することの〝自由〟を担保しているわけである。

◎ デイヴ・ブルーベックのアルバム『タイム・アウト』(1959)をひさしぶりに聴き、またしても冒頭の「ブルー・ロンド・ア・ラ・ターク」にやられる。「ブルーなロンド、トルコ風に」。モーツァルトやベートーヴェンは、初めて耳にするオスマントルコの軍楽隊によるエキゾチックなリズムに霊感を得て「トルコ風」の作品を書いたわけだが、20世紀の作曲家デイヴ・ブルーベックはその18世紀のモード(流行)に、さらに「ブルース」という1950年代式のエキゾチックなモード(流行)を異種交配することでこんな曲を生み出した。さすがはダリウス・ミヨーの弟子である。ミヨーには、西欧音楽にブラジルのダンスミュージックをかけあわせた『屋根の上の牝牛』という名曲がある。もしも「ジャズピアニスト」という肩書きでここまで有名になっていなかったとしても、デイヴ・ブルーベックの名前は「コンポーザー」という肩書きで音楽史の上に輝いていたにちがいない。

20世紀のサロンで「トルコ風」を披露する(?)デイヴ・ブルーベック・クワルテットのライブ映像。

Dave Brubeck Quartet - "Blue Rondo à la Turk," live

◎ 平日の営業時間内をひとりで切り盛りするようになってからそろそろ一年が経つ。たまたまお客様が集中するとどうしてもバタバタしてしまうのだが、先日、そんな気配を察した常連のお客様が注文後にひとこと、「ゆっくりでいいわよ」と声をかけてくださった。ゆっくりでいいと言われて「はい、そうですか」とあからさまにスピードダウンするわけではないのだけれど、気持ちにゆとりが生まれ落ち着いて作業に集中できるのでこういう状況にあってはまさに「救い」のひとことといえる。この仕事、こういう生身の人間とのふれあいなくしてはとてもじゃないが続かない。

◎ ここのところ繰り返し、ハインリッヒ・シュッツの「わがことは神に委ねん」SWV.305を聴いている。クラシックはそこそこ聞きかじってきたつもりだったが、まだまだこんな凄い音楽があったのだ。正直ビックリしている。

この曲は、シュッツの「小宗教コンチェルト第1集op.8」のなかの一曲である。この作品集をシュッツは、そのためにドイツの人口が三分の一にまで減ってしまったとされる「30年戦争」のさなかに発表している。まさに、戦時下の音楽。厳しいながらも、ざわついた心を鎮め、きっぱりとした歩調で正しい道筋へと人びとを導いてゆく小さな灯火のような音楽である。タイトルは、ごく少ない人数でも演奏可能であることを意味していて、じっさい、ぼくが聴いているのもテルツ少年合唱団の数名のソリストたちによる演奏だ。人数が少ないぶん、そこには切々とした魂の叫びがあり、「歌」というよりもむしろ「声によるドラマ」といった印象を抱く。

思うに、シュッツはこの曲集をドイツ各地の村の教会で信仰心の厚い人びとによって演奏されることを前提に作曲したのではないだろうか。この作品を演奏することで、たとえ荒廃したドイツ全土に離ればなれになっていようとも、人びとの信仰は守られ、心をひとつにすることができる。戦時下の音楽の果たすべき役割について、シュッツは深いところでかんがえたひとだった。それは、おなじく乱世にあって、「御文(おふみ)」というかたちで各地に散らばった門徒たちに弥陀の教えを正しく伝えようと心を砕いた蓮如にも通じている。

Tölzer Knabenchor - SCHÜTZ(SWV 305)

林さんが選曲したバーで聴きたい音楽
2016.11.20|music

ポストをのぞいたら、bar bossaの林さんが選曲した、最近出たばかりのCDが投函されているのをみつけた。おなじく最近出たばかりの林さんの本『バーのマスターは、「おかわり」をすすめない』(DU BOOKS)の〝サントラ〟とのことである。林さん、いつもお気遣いありがとうございます。

ところで、前々から、こと音楽の趣味にかんするかぎり、ぼくと林さんの好みとではずいぶん隔たりがあるように思ってきた。たとえて言えば、林さんはぼくよりも大さじ一杯分くらいロマンティックかつウェットである。あるいは、ぼくにとっての〝快適〟より、林さんのそれは平均して2℃から3℃くらい高い。

今回、林さんが選曲したCD『Happiness Played in the Bar』(ユニバーサルミュージック)の曲目を眺めてみると、音楽について話しをするとき林さんの口からたびたび挙がるアルバムやアーティストがずらりと並んでいる。ブロッサム・ディアリーしかり、ヴィンス・ガラルディのスヌーピーものしかり、バカラックしかり、ビル・エヴァンスの『フロム・レフト・トゥ・ライト』しかり……。予想に反して収録されていなかったのは、シンガーズ・アンリミテッド。もしかしたらレコード会社の絡みだろうか。

そんななか、やはりこれは紛れもなく林さんの選曲だなと思わせるのはクラウス・オガーマンが編曲した楽曲がいくつか収められていることだ。なぜといえば、やっぱり林さんといえばオガーマンだから。そしてじつは、何を隠そう、ぼくはオガーマンのアレンジがあまり好きではない。

とはいえ、ポール・デズモンドやカル・ジェイダーはぼくも大好きだし、とりわけゲイリー・マクファーランドが編曲した女流ジャズオルガニスト、シャーリー・スコットの曲が収録されているのもうれしい。全体の流れからすると〝破調〟ともいえる、「へぇ~ここでこんな選曲するんだ」と思わせるニック・デカロやビーチボーイズも個人的に「まんまとしてやられた」感じだ。思っているほどには、林さんの嗜好とぼくのそれとの間に開きはないのかもしれない。これは、うれしい発見。

はじめに書いたとおり、ぼくはこのCDを林さんから頂戴したのだが、いくら日頃から世話になっているとはいえ義理を感じて宣伝するというのではぼく自身の信条に反するし、おそらく林さんだってそんなことは望んでいないにちがいない。だから、聴いてもしピンとこなかったなら、とりあえずメールで直接感謝の意を伝えておしまいにしようと考えていた。ところが、意外にも(?)ここに選ばれている曲やアーティストはぼく自身選びそうなものばかりである上、そこに林さんらしい〝スパイス〟が振りかけられていて新鮮な驚きがあったのでこうしていまここで紹介させていただいている。

ところで、このbar bossaではおなじみの音たちが並んだCDを聴いてまず思ったことは、林さんにとって「バー」とは好きな(かならずしも異性というわけではなく、気のおけない同性もふくむ)誰かといっしょに過ごす場所だということである。ひとりグラスを傾けながら耳をすますよりは、ここに聴かれる音楽は、会話の背景に適度な音量で流れ、ときには途切れた会話をそっと繋いでくれるようなものばかりと思うからだ。

いま、ぼくはこのCDをひとりで、じぶんの部屋で聴いているのだが、なんだかとても人恋しくなってきてしまった。思わずバーにかけこみたい心境だ、下戸なのに。こうしてまた、今夜もbar bossaはにぎわっているにちがいない。

2016年に出会った音源から
2016.12.9|music

2016年は、ぼくにとっていままでとはまったく違う音楽との出会い方をした一年となった。それは、Amazonの音楽聴き放題サービス「プライムミュージック」を使うようになったことが大きい。

元々、こと音楽にかんするかぎりぼくは〝雑食系〟ではあったのだけれど、興味をもった音源から枝葉を伸ばしてゆくような仕方で少しずつ世界を拡げてゆく聴き方をもっぱらしてきた。それが、プライムミュージックによってより直観的というか、とにかく目についたもの、なにかしら引っかかったものはとりあえず片っ端から聴いてみるという、いってみれば〝ロシアンルーレット〟的聴き方に変わったのである。その結果、いままでだったらおよそ耳にする機会のなかったような音源や、また、かならずしも興味がないわけではないけれどなんとなく後回しにしてきた音源を、さながら腹をすかした子どもがゴハンをかきこむように聴きまくることになった。

そこで、ことし2016年、そんなふうにして出会った音源の中からとりわけ個人的に面白く、また心に残ったものを3つ選んでみた。3つに共通するのは、溢れだす表現のもとではもはや形式は意味をなさない、ということか。

Frank Ocean『Blonde』

音楽というよりも、この肌合いはむしろ「文学」に近い。この『Blonde』というアルバムは、フランク・オーシャンという一作家の手になる〝私小説〟と言ってよいのではないだろうか。サウンドひとつとっても、すでにいわゆる「R&B」の範疇を大きく逸脱している。そして、そんな「形式」なんてもはやフランク・オーシャンにとってはどうでもいいことなのだろう。まるで彼のプライヴェートを覗き見しているかのような生々しさに、初めて耳にしたとき思わずたじろいだ。

リリカルスクール『RUN and RUN』

近頃アーティスト指向のアイドル周りでよく耳にする「彼女たちはアイドルじゃないんだ、アーティストなんだ」みたいなエクスキューズがどうも苦手だ。そんななか、ヒップホップを取り入れたアイドルである彼女たちは、ここで女の子の心情をラップで表現する。それ以上でも以下でもない。そして、むしろそこがいい。なにか特別なことをやっているような感じ、変に尖ったところがまったくないのだ。とはいえ、それで成立するのはもちろんフツーに楽曲がいいからではあるのだけれど。中井貴一のCMから30年の時を経て、カワイイとカッコイイが無理なく融合した『RUN and RUN』収録の「S.T.A.G.E2016」は必聴。

魚返明未トリオ『STEEP SLOPE』

東京藝術大学作曲科に在学中の学生にして、ジャズピアニストとしても注目をあつめる魚返明未(おがえり・あみ)のデビューミニアルバム。これはAmazon経由ではなく、常連のT・Y嬢から教えていただいた。収録された全5曲がすべてオリジナル。ピアノトリオというもっともオーソドックスでジャズらしい編成でありながら、精緻なアンサンブルや実験的な響きがそこかしこに仕込まれた楽曲にはラヴェルの室内楽曲のような知的興奮がある。ひょっとしたらこのひと、かならずしも「ジャズ」という形式には固執していないのではないか。コンポーザーとしての今後に期待がふくらむ。

http://tower.jp

野の羊
2017.4.14|music

このあいだの雨の日、フィンランドで研鑽を積んだ声楽家駒ヶ嶺ゆかりさんのミニコンサートを聴いてきた。「野の羊」という曲がよかった。大木惇夫の詩だ。

男がひとり草原にやって来てつぶやく。
「野っぱらはいいな。いつ来てみてもいいな。」

気づけば、遠くにポツンと放し飼いにされたヒツジが一匹たたずんでいる。独りだな…… 毛並みはいいけれど、あまり目はかけられていないらしいな…… ひもじそうだな…… でも…… 恨まない目をしているな。男は思う。なんだ、オレと同じじゃないか。

「野っぱらはいいな。さびしくていいな。」

「ジャズる」と「ロックンロール」
2017.4.21|music

フランス・ギャルに「ジャズる心」というタイトルの曲があることは、わりかし多くのひとが知っていそうだ。〈ドキドキする〉とか〈ワクワクする〉、あるいは〈ザワザワする〉とか、きっとそんなニュアンスだろう。原題は「Le Cœur Qui Jazze」。「Jazzer」という動詞が使われているので、なるほど「ジャズる」というのは素直な訳なのだなとわかる。英語にも当然「ジャズる」に対応する動詞はあるはずだ。

日本では、浅草「電気館レビュー」昭和4(1929)年の演目に「サロメはジャズる」という作品をみつけることができる。内容は、あの『サロメ』を大胆に翻案したオスカー・ワイルドもびっくりのドタバタ喜劇であったらしい。観てみたい。いずれにせよ、1920年代にジャズが流行るとともに「ジャズる」といった表現も世界中で同時多発的に、パンデミックと言っていいような勢いで蔓延していったと考えてよさそうだ。

それに対して「ロック」はどうだろう。クイーンの有名な「We Will Rock You」の「Rock」の部分は、「オマエのハートを打ち震わせるぜ」みたいに訳されているのを見たことがあるが「ジャズる」みたいな意味なのだろうか?

日本語では、だが、「ロックする」というような使い方はあまり見かけない。なんとなく語呂が悪く落ち着かないし、だいたい「ロックする」では「え、なに? 鍵かけんの?」と勘違いされそうだ。

そこで思い出されるのは、なにかにつけて「ロックンロール!」と口にする内田裕也である。ただ名詞を連呼しているだけにもかかわらず、彼の口から発せられると「叛逆」とか「反骨」といったニュアンスが伝わってくるような気になってしまうのがなんとも不思議だが、じつのところなんの内容も伴われていない。ことあるごとに「グルコサミン!」と叫ぶのとあまり変わらない。すべては内田裕也の《オーラ》のなせるわざであって、「ジャズる」といった用法とはまったく無関係だ。

ふと思い立って、ぼくの大好きなYahoo!知恵袋をのぞいてみたらやっぱりありましたよ、「内田裕也さんがよく言う『ロックンロール』とはどういう意味ですか?」というトピックが。ちゃんと回答もついていてそこにはこう書かれていた。「柳沢慎吾さんの『あばよ』みたいな例えだと思います。」 本当かよ。

盆回り
2017.4.28|music

まったく<刷り込み>というのは恐ろしい。

たとえばオーダーが立て込むなどして取っ散らかっているとき、脳内で自動的に再生される音楽がある。それは、昭和に育ったよい子なら誰でも知っているあの曲だ。そう、毎週土曜日の夜放送されていたドリフターズの番組『8時だョ‼︎ 全員集合』の前半、セットの「家」がバタバタ崩壊するお決まりの大団円で流れるあの古いチャンバラ映画のBGMみたいな曲。無性に駆け出したい気分のときにはオッフェンバックの『天国と地獄』が、道に倒れて誰かの名を呼び続けたいときには中島みゆきが流れ出すように、ドタバタ取っ散らかっているときにはあの『8時だョ‼︎ 全員集合』の音楽が流れ出す。

せっかくなので調べてみた。そうか、あの曲「盆回(ぼんまわ)り」という題なのか。ステージ転換のときに流す音楽だから「盆回り」。なるほど。

こうしてまた無駄な知識がひとつ増え、かわりに大事な事柄をひとつ忘れる。

「楽曲派」といわれるフィロソフィーのダンスだけど、じつは最大の武器は4人の「声」にこそあるんじゃない?と思った話
2017.5.22|music

ここのところ毎日2回ずつくらい、最近知った《フィロソフィーのダンス》というアイドルグループの『Funky but Chic』というアルバムを聴いている。

収録された全10曲、さすが<楽曲派>と呼ばれているだけにマニアックかつ完成度の高い楽曲が並び、しかも変化に富んでいるのでまったく飽きさせない。

曲は、たとえばパワー・ステーションの「Some Like It Hot」を彷彿とさせるファンク「アイドル・フィロソフィー」、「オール・ウィ・ニード・イズ・ラブストーリー」では70年代のソウルテイスト、ハイテンションなディスコチューンの「好感度あげたい!」やカーティス・メイフィールド「Move On Up」っぽいアレンジに思わずニヤリとさせられる「コモンセンスバスターズ」、さらには山下達郎の「スパークル」を思い出させる軽快なギターのカッティングのイントロが印象的な「すききらいアンチノミー」といったぐあいに、70年代半ばから80年代後半くらいまでの洋楽、あるいはそういった音楽から多分に影響を受けた日本のシティポップへのオマージュになっている。最近はCDや配信に併行してアナログレコードを出したりするのが流行っているけれど、ぼくだったらフィロソフィーのダンスは<カセットテープ>で聴いてみたい。FMでエアチェックしたり、友だちから借りたレコードをせっせとダビングしてウォークマンに入れて聴いていた、そんな時代の音楽との<距離感>がこの『Funky but Chic』というアルバムには感じられるからだ。

とはいえ、サウンド的に好みだからこんなに繰り返しこのアルバムを聴いてしまうのかというと、それはどうも違う気がする。ぼくの場合、とにかくまあジャンルはどうでもいいから、いままで聴いたことのないような、どんな音楽とも似ていないおもしろい音楽と出会いたいという欲求がいつもあるのだけれど、このフィロソフィーのダンスのアルバムにはそういう欲求をみたしてくれるオンリーワンな楽しさがあるのだ。そしてそのカギは、なによりメンバー4人の<声>にあるのではないだろうか。彼女たちの<声>だからこそ、ただ<アイドルがこだわりの楽曲を歌っている>というのとは明らかにちがうフィロソフィーのダンスならではの世界が生まれている。そう思って、彼女たちひとりひとりの<声>に耳を傾けて『Funky but Chic』を聴いてみた。

奥津マリリさん(青)は、羽毛のような軽さと微かな震えが特徴的な美声の持ち主。「アイムアフタータイム」の歌声にはいつもゾクゾクさせられる。何度聴いてもやっぱりゾクゾクする。と同時に、表現力という点でもマリリさんは群を抜いている。彼女のパレットにはたくさんの種類の「色」があって、曲によって、またときにはひとつの曲の中でもその「色」を使い分ける。こうした使い分けについては天性の感覚による部分もあるだろうけれど、やはり熱心な研究の賜物なのではないかという気がする。マリリさんの<声>には、その意味でどこか<理知的>なイメージがある。

それに対して、本能的というか野性的な<声>で対称的な世界をつくりだしているのが日向ハルさん(赤)だ。その小柄な身体とは裏腹に、パワフルでエネルギッシュなストロングスタイルの彼女の歌声はは聴くものを等しく圧倒する。どこかのインタビューで彼女を「日本のエタ・ジェームス」と紹介しているのを見たけれど、いまだかつて「エタ・ジェームス」を引き合いに出して紹介されたアイドルがいたであろうか(いやあるまい。反語調。)。けれど、たとえば「VIVA運命」の、音が歪んでビリつくほどの圧倒的な歌唱力を耳にするとき、そんな大仰な例えにも思わず頷いてしまう。実際ハルさんは、もしいまが2000年前後であったなら〝ディーヴァ系〟という括りでMISIAやbirdのような売り出し方をされていたかもしれない。そんな彼女が、「アイドル」という肩書きで活躍しているところに2017年の痛快さがある。先日、ハルさんのツイッターにクリトリック・リスのライブにゲスト出演(!)したときの写真が公開されていた。こ、これは一体…… いろんな意味で〝規格外〟なアイドルである。

ところで、『Funky but Chic』に収録されている「アイムアフタータイム」はこのハルさんとマリリさん、ふたりのボーカルをフィチャーしたスティーリー・ダン風のシティポップなのだが、音だけ聴いてこれをアイドルの曲と思うひとはまずいないのではないか。ぼくだったら、この曲がラジオや店で流れていたら「これ誰?」とあわてて調べると思う。

フィロソフィーのダンス「アイム・アフター・タイム」

その一方で、楽曲のもつ世界とふたりの<声>とがあまりに合致しすぎていて「優等生」的というか、なにかちょっと食い足りない、そんな感想もまた個人的には抱いてしまう。俳句の世界に、「五七五」という定型のリズムを作為的に壊す「字余り」や「字足らず」といった技法がある。<破調>という。<破調>は、ことばの世界に新しい<リズム>、新しい<色彩>、そして新しい<ゆらぎ>をもたらす。フィロソフィーのダンスをつむぐ4つの<声>のなかで、この<破調>にあたるのが十束おとはさん(黄)のアニメ声(ご本人は「電波声」という表現が気に入っている様子なので以後「電波声」と表記)だ。

アルバムのオープニングナンバーである「アイドル・フィロソフィー」は、硬派でファンキーなイントロに続いていきなりおとはさんがその<電波声>で歌い出すという意表をつく展開。これがもしマリリさんやハルさんの<声>で始まっていたら、この曲の印象はまた違ったものになったろう。おとはさんの<声>ともはやほとんど<咆哮>とすらいえるハルさんの歌うサビ、そのあいだの落差はものすごく大きい。そのため歌い出しからサビまで時間的にはわずかにもかかわらず、一気にとんでもない時空を移動したかのような〝めまい〟に近い感覚をおぼえる。かならずしもフィロソフィーのダンスの音楽性とは合っていないように思われるおとはさんの<電波声>だが、じつはその<声>こそが、あやうく「楽曲派」という優等生的で閉じた世界に引きこもってしまいそうなところをぐいっとつかまえ、扉をこじあけて解放するというだいじな役割を担っている。そういえば、おとはさんは自身のブログで〝中のひと〟の視点からアルバムの全曲レビューをされていて、それがとてもおもしろい。「アイムアフタータイム」の印象を「例えるなら、もずく。」とか(笑)。

最後になったけれど、じつはフィロソフィーのダンスに絶対欠かすことのできない<声>、それは佐藤まりあさん(ピンク)の<声>だと思う。どちらかといえば、マリリさん、ハルさん、おとはさんの3人とくらべるとき、まりあさんの<声>は印象に残りにくい。けれども、フィロソフィーのダンスという世界の中で個性的な3人の<声>がバラバラに空中分解せずにいられるのはまりあさんの<声>があってこそである。

色にたとえるなら、まりあさんの<声>は「白色」だ。「白」はどの色にも混ぜて使うことができるけれど、他の色を混ぜ合わせても「白色」をつくることはできない。そしてまた、白い絵の具がなければ絵は描けない。たとえ描けたとしても、どきつい原色ばかりの絵になってしまうだろう。まりあさんの<声>は、仮にまりあさんが歌っていないときも、そんなふうにしてオブラートのようにいつもフィロソフィーのダンス全体を包み込んでいる。みんながてんでバラバラな方角に飛んでいったとしても、まりあさんの<声>が真ん中にあるかぎりちゃんと同じひとつの世界に戻ってこれるのである。

最初は、それこそ楽曲を聴いて「お!」と反応したぼくではあるけれど、聴き込むほどに4人の<声>がそれぞれに押したり引いたりしながら絶妙なバランスで《フィロソフィーのダンス》という唯一無二の世界を存在させていると感じるようになった。大人がよろこびそうなマニアックな楽曲をかわいい女の子たちに歌わせただけのニッチな企画モノでしょ? などと舐めてかかると手酷い目にあう。楽しくておもしろくてカッコイイ、そんな音楽に興味のあるひとならスルーするのはもったいないと思うぞ。聴こう。

A・C・ジョビンの秘密の<中庭>へ
2017.6.1|music

伊藤ゴローさんの新譜『アーキテクト・ジョビン』を来月5日の発売に先がけて聴かせてもらいました。

「バラに降る雨」「ルイーザ」「インセンサテス」といったおなじみの曲をふくむ全編インストゥルメンタルによるアントニオ・カルロス・ジョビンのソングブックなのですが、いままでのジョビン集と明らかにちがうのはドビュッシーやショパンなどクラシック音楽を偏愛し影響を受けた彼の横顔に光をあてていることにあります。ギターの村治佳織やチェロの遠藤真理といったクラシックの演奏家たちをフィーチャーした特別編成のアンサンブルによる演奏は、聴きなれたジョビンの曲の中にまだこんな<響き>が隠されていたのか! という新鮮な驚きと喜び、発見をもたらしてくれます。

と、同時にその作業を通して<作曲家・伊藤ゴロー>の顔が見られるのもファンとしてはうれしいところ。作曲家としてのゴローさんには、アマゾンのそれとはちがうしっとりとした<湿り気>を感じます。思うにそれは、ゴローさんが生まれ育った<雪国>のそれなのではないかな。ブラジルの巨匠の作品を取り上げながらも、ゴローさんの手にかかると雪に閉ざされた無音の世界や雪解け水をあつめた春の渓流、むらさき色に霞んだ山々や色やかたちを刻々と変えてゆく夏の雲といった日本の景色が目に浮かんでくるのがなんとも不思議です。

アントニオ・カルロス・ブラジレイロ・ヂ・アウメイダ・ジョビン。敬意と親しみを込めてトン・ジョビン。彼を一軒の<屋敷>にたとえるなら、そこには外からは見ることのできない実は秘密の<中庭>があって、その<中庭>にはジョビンが偏愛し大事に育ててきた可憐な花々が咲き乱れているのです。このアルバムを聴くとき、だからぼくらはゴローさんの手引きでそんな<中庭>に案内されているような気分になります。

いい眺めでした……

思わずそんな感想をつぶやきたくなるこの『アーキテクト・ジョビン』。ボサノヴァ好きだけでなく、クラシック好き、いや五線紙の野に咲く花々を愛するすべての人たちにぜひ耳傾けてもらいたい作品です。

12.07.2018-13.07.2018
2018.7.14|music

◎ 12.07.2018

どういうわけか、真夏になるときまってマイルス・デイビスの『マイルス・アヘッド』とフェデリコ・モンポウの『内的な印象』が聴きたくなる。真夏といえば、光の強さであると同時に、また影の濃さでもある。思うに、この2枚のアルバムには、そんな光と影の強烈なコントラストが刻み込まれているからじゃないたろうか。

たとえばモンポウの『内的な印象』の第2番「哀歌」では、貞淑で美しい旋律に暗鬱な低音のオスティナートが影のようにつきまとうのだが、以前この作品を編曲したある音楽家が、ばっさりとこのオスティナートを取り除いてしまっていて、そのため安っぽいムード音楽のようになってしまっていたのにはひどく落胆した。影は光がないところには存在しないが、光もまた影のない場所ではその意味を喪ってしまうものなのだ。

同世代のひと相手にしゃべっていると、そうそう、あるある、わかるわかるで話が済んでしまうのでとても楽だなと思う反面、このままではバカになってしまうのではないかと軽い恐怖心に襲われる。

その点、上でもいいし下でもかまわないが、年の差のある相手だとうまく伝えることを考えながらしゃべらないといけないのでアタマを使うことになる。さまざまな年代、背景をもったひととフリートークをする機会に恵まれているこの仕事は、そういう意味でなかなかに手強く、またそこに面白みがある。

◎ 13.07.2018

お休みをいただき、早朝から病院。さすがに病院に15時間はキツかった。時間がかかるのは覚悟していたので、堀江敏幸『郊外』、田村泰次郎『わが青春文壇記』、小西康陽のコラム集を抱えていったのだが、まともに腰掛ける場所すらない状況では、せいぜい読めるのも最初の3、4時間といったところ。23時帰宅。

フィロソフィーのダンス「ライブ・ライフ」
2018.8.3|music

本日公開されたフィロソフィーのダンス「ライブ・ライフ」MVの最後に映し出されるマルティン・ハイデッガー『存在と時間』からの引用の邦訳です。ご参考まで。

「生命は一つの固有な存在様式であるのだが、本質上現存在においてのみ近づきうるのである。生命の存在論は欠性的な学的解釈という方途をたどって遂行されるのであって、この生命の存在論は、たんなる生命活動といったようなことがありうるのは、いかなることでなければならないのかを、規定する。生命は純然たる事物的存在でもなければ、それだからとて現存在でもない。現存在は、これはこれで、ひとが現存在を生命として──(存在論的に規定せずに)、しかも、そのうえなお何か別のものとして発端に置くというふうには、けっして存在論的に規定されえないのである」
マルティン・ハイデッガー『存在と時間』第10節より(『世界の名著74 ハイデガー』原佑・渡邊二郎訳)

live life 愛を歌わせて 生きる、ってそのことだ

ジョアン・ジルベルトが死んでも、ジョアン・ジルベルトをこれからも聴き続けてゆけるというしあわせ
2019.7.9|music

ジョアン・ジルベルトが死んだ。

ボサノヴァの神様。ボサノヴァの法王。パジャマを着た神様。これは、ボサノヴァの歴史をあつかった本のタイトル。その長い隠遁生活を想起させる、なかなか巧みなキャッチフレーズだ。

幸運なことに、ぼくはジョアン・ジルベルトのステージを2003年の初来日時に3回、そして翌年の再来日時に1回の計4回観ている。生きてゆくということは、その道すがらどれだけたくさんの「宝物」を見つけられるかということでもある。とすれば、ボサノヴァと出会い、もっとも熱心に聴いていた時期にジョアンの生演奏を体験できたことは、ぼくの人生にとってまちがいなくかけがえのない「宝物」であった。

しかし、そこまで敬愛するアーティストであるにもかかわらず、ジョアン・ジルベルトの訃報を聞いて悲しみだとか、寂しさを強く感じているかというとそうでもない。自分でも、それはちょっと意外なほどに。

ジョアン・ジルベルトという存在を、ぼくはおそらくはじめから別格というか、別次元というか、うまく言えないけれど大気とか宇宙といったような、そういう「空虚を満たしてくれるなにか」としてとらえていたように思う。すくなくとも、その死に打ちのめされたり寂しさを募らせるほど、ぼくにとってジョアン・ジルベルトというひとは近しい存在ではなかった。彼の死は、あらためてぼくにそのことを確かめさせてくれた。

そんなぼくが、いま抱いているのは「感謝」の念である。英語には、ひとの死にあたって「celebrate」という表現を使うことがあるとツイッターでフォロワーの方から教えていただいた。その人の功績を讃え、生涯を祝福するのだという。音楽を通してのみジョアンに触れてきた自分には、まさにそれがもっとも自然でしっくりくる。

ある日突然パソコンのハードディスクが壊れ中身のデータがすべて飛んでしまうように、死によってひとの身体がこの世界から消えてしまうことでそのひとの創造物もまた失われてしまうとしたら・・・。それはつまり、ジョアン・ジルベルトの死とともにボサノヴァの大部分も消失してしまうということだ。しかし幸福なことに、宇宙はそのようにはできていない。たとえそのひとの身体がこの地上から消えてなくなってしまったとしても、ひとがその生涯を通じてつくりあげた作品はかならずなんらかのかたちで残る(戦争のような愚かな行いさえしなければ)。

仮に、エジソンの死によってこの世界から電球が失われたり、ベンツやダイムラーの死によって自動車が消えたとしても、遅かれ早かれべつの誰かが似たようなものをつくりあげるにちがいない。科学は、自然の観察と注意深い洞察によって導き出された結果だからである。だが、ベートーヴェンやピカソの死によって失われてしまった「第九」や「ゲルニカ」は、もう二度とつくられることはないだろう。そこに、芸術の気高さがある。

神様によって選ばれたひとの手によって生み出された芸術は、確かに、この世界に生き続ける。本当にありがたいことだ。なぜなら、そのことによってぼくらはわずかな手札だけでなく、多様で豊富な切り札をポケットにしのばせて人生を歩んでゆくことができるのだから。

ジョアン・ジルベルトは死んでしまったけれど、ぼくらはこれからもジョアンの優しい歌声と柔らかなギターの音色をずっと聴き続けることだろう。

ムイト オブリガード また会いましょう。