moicafeの本棚。東京都吉祥寺・ヘルシンキのカフェ「moi」店主。
世界進出をはかる北米発祥のコーヒーチェーンを横目に、ひたすら我が道を往くイタリアのバール。
著者はイタリア各地のバールでのエピソードはさみつつ、その歴史と発展の陰には、他人と違っていることをよしとするイタリア人ならでは価値観、そして人間力があると指摘する。
ナポリのバールに残る美しき慣習「カフェ・ソスペーゾ」、いまだに地元の樫の木による薪焙煎にこだわるロースター、誇り高きバールマン(バリスタとは異なる)など、この本を通じて知ったことがらも少なくない。
街がバールをつくりバールが街をつくる。
きょうもイタリアの街のいたるところで、ちいさなお店が胸を張って生き生きと仕事に励んでいる。なんと清々しい光景だろう。
在野の思想家、波多野一郎が残したちいさなブックレット『烏賊の哲学』を地図がわりに、すべての存在が等しくもつ「実存」に立脚してより恒久不変の平和学、ひいてはエコロジーの可能性について探った意欲作。
そのカギは、そもそも人間に備わっていながら、自然を貨幣価値を生む資源とみなす資本主義経済のなかで見失ってしまった「比喩」の能力にある、と著者はいう。
比喩とは「意味と意味とを重ね合わせることによって、あたらしい意味を表現する力」であり、いわば、別のジャンルにあるもの同士をひとつにつなぐ「蝶番」なのである。
そうして、そもそもそれは人類の生命そのものにセットされた奥深い知性として、いざというときにはいつでも発動させられる状態に保たれてきた。その「奥深い知性」が発動することで、ぼくらがコンタクトできる「共感にみちた宇宙」を示したのが「神話」なのである。
戦争が終結し一応の平和が訪れたようにみえる陽光降りそそぐカリフォルニアの港町で、学費を稼ぐため捕獲された夥しい数のイカを加工していた波多野は、ある日突然イカの「実存」に気づき、その途方もない比喩の力に押し出されるようにして「世界平和のための鍵」を手に入れる。
なんとなく荒唐無稽に感じられなくもない仮説だが、使用済み核燃料を地中深くで10万年先まで保管するという壮大なプロジェクトを取り上げた映画『100,000年後の安全』で、未来の人類に危険物の存在を示すためSFまがいのアイデアを真剣に討議するフィンランドの科学者たちは、そのときたしかに、比喩の力がつなぐ神話的な宇宙にはからずも彼らは押し出されているのであり、それゆえこのプロジェクトの10万年先の完結を信じたい思いにかられたのだった。
「自分の心に「森」と響いたら、そこは森」…… 翻訳家、コーディネーターで、映画『かもめ食堂』のアソシエートプロデューサーとしても知られる森下圭子さんが、みずからを「森の民」と称するフィンランド人にとっての「森」の存在から、季節ごとのアクティビティ、オススメの森へのアクセスなどについて懇切丁寧に語った一冊。
「指さし会話帳」のシリーズではあるけれど、語学書というよりむしろ読み物と美しい写真からなるフィンランドの森を知るためのハンドブックといったところ。
もちろん、フィンランド旅行を計画しているひと、とりわけ自然と触れ合いたいと考えているひとには必携の一冊だが、たとえ都会に暮らしていても、つねに身近な自然を日々の暮らしに上手に取り込むフィンランド人のライフスタイルは、いま価値観の転換を求められている3.11以降を生きるぼくら日本人にとっても少なからず参考になるはず。
90年代のフィンランド、空前の不況にあえぐなか弱冠29歳という若さで「教育大臣」に就任、一連の「教育改革」を断行しわずか10年あまりでフィンランド経済を立ち直らせる礎を築いたオッリ=ペッカ・ヘイノネンへのインタビューを中心にまとめた一冊。
東日本震災以後、新しい価値観をもつことを迫られているぼくら日本人にとって、ひとつの「提言」となりうるかもという淡い期待を抱きつつ手にとったのだが、読了後はただただため息ばかり……。
まず、補佐官としての経験はあったとはいえ議員経験のまったくない29歳の若者に「教育大臣」として国家存亡の危機を託してしまう大胆さ。しかも本人によれば、議会で足を引っ張られるどころか、大臣就任の決議も含めほとんど全会一致で決まったという。日本では、まずありえない話だ。
そしてさらに、大不況のまっただ中での改革が、すぐには結果の出ない「教育改革」だっという点も驚かされる。付け焼き刃の改革ではダメだという大いなる判断の下とはいえ、「そんな悠長なことをやっていたらその間にたくさんの国民が飢え死にしてしまう」といった反対意見はなかったのだろうか?
フィンランド人の「不思議さ」でもある。
しかし結果的に、産業社会からポスト産業社会への転換期ということが後押しになったとはいえ、この「教育」に始まる一連の改革は大成功をおさめ、おもにIT分野での成功というかたちで国を再生させる。
では、日本とフィンランドとの差はどこにあるか?
ひとことでいえば「機会の均等」ということへの国民全体の意識の高さ(「誇り」といってもいいかも)であり、政府の国民に寄せる「信頼」(裏を返せば、国民の政府に寄せる「信頼」の)高さである。
カタチを踏襲するのではまったく意味がない。成功する「改革」には、その足下に成功させるための地平が広がっているのだと納得させられた。
北欧のライフスタイルに関心のあるひとは、ぜひ熟読すべき一冊。
震災以降ずっと、こういう本の登場を待っていた。
原発事故は、「原子力発電所の事故」にはちがいない。けれども、事故は事故でも、この事故の解決はただ技術の問題でなんとかなるものではない、震災以後そういう予感がずっと続いている。だからこそ、物理や経済ではなく、哲学や宗教学といった方面からの真摯な発言を聞きたかったのだ。そしてこの一冊は、まさに原発の扱いから東北の復興ヴィジョンに至るまで、現在進行形でぼくらが直面しているさまざまな問題についてきわめて示唆に富んだ提言とともに論じられている。
たとえば、地球の生態圏の外側から持ち出してきたものである原子核の中に操作を加えることで成立する原子力発電を「第七次エネルギー」としたうえで、これまでのエネルギーとまったく別次元のものであると定義する。そして、生態圏の中に存在しないという理由から原子力を「一神教的な神」に類するものだとし、思想的な理解を疎かにしたまま技術だけでコントロールしようとしてきたことにそもそもの問題があったと指摘する。
さらにそこから、東北の復興、エネルギー問題、首都機能の分散、新しい農業の提案などをふまえた中沢新一による「緑の党のようなもの」の提唱にまでつながってゆく……。
大胆でありながら、きわめて腑に落ちる発言が散りばめられた、想像力を刺激される一冊。
北欧デザインや建築を紹介する本はあまたあるけれど、この本『北欧デザインの巨人たち あしあとをたどって』は、デンマーク、スウェーデン、そしてフィンランドの「巨人」〜 すなわちヤコブセン、アスプルンド、そしてアールトの三人の「あしあと」を辿りつつ、唯一無二の北欧デザインの個性がどこから来て、どこへ行くのかを数々のエピソードから示してくれている点で興味深い。
ぼく自身は、数あるエピソードのなかから選び出されたエピソードのひとつひとつにとりわけ著者ならではのセンスの鋭さを感じたし、かならずしも作品紹介にこだわらない写真の数々も、美しくも短い北欧の秋をとらえている点でよりいっそう輝きを増している。
デザインや建築に関心があり北欧を旅するひとは、これを手に取ることで一段「深い」旅になることうけあい。
一陣の風のようにさわやかで、愛おしく、かつ鈍くさい男、横道世之介。あるいはまた、偉大なる凡人の物語。
世界、世界と言うけれど、その実体は自分と自分を取り巻く人々からできた案外ちっぽけで退屈なものにすぎないのかもしれない。主人公の「世之介」もまた、そんな世界の一部としてごくありふれた平凡な人物にすぎない。とはいえ、機械がたった一本のネジを失っただけで動作しなくなってしまうように、彼を取り巻く人々の世界もまた、世之介という存在がなければかけがえのないなつかしい光を失ってしまうのだ。
後半、世之介の目に映るありふれた風景のうつくしさ、その儚さに涙がこぼれた。もちろんそれは、著者の構成がパーフェクトゆえの効果。
ちなみに、80年代の東京で青春を過ごした読者にとっては、その固有名詞だけで時代の空気を感じ取り、物語の細部まで手に取るように伝わるだろうが、もちろんそうでないひとにとってもなんら支障はないはず。個人的には、あの『パークライフ』の吉田修一と同一人物とは思えないほど(自分にはまったく肌が合わなかったので)、その世界に引きずり込まれた。
なぜぼくらは音楽を愛するのか? その「答え」を、無類の音楽好きとして知られる小説家とイラストレーターが教えてくれるのがこの一冊。
ふたりがそれぞれの音楽遍歴のなかで出会ったたくさんの歌から29曲を選び、和田誠による挿絵と村上春樹による訳詞&エッセイ、それに原詞が添えられる。どれも味わい深く、好奇心をくすぐられるが、いまはYouTubeという優れたメディアのおかげで手軽に実際のサウンドに触れることができるので、この本の楽しみは何倍にもふくらむ。そして、
── 優れた音楽はいろんなことを『音楽的に』考えさせてくれる
という村上春樹のことばこそは、冒頭の疑問への「答え」になっている。
音楽は文学の代わりにならないし、文学は絵画の代わりにならない。そして絵画は、けっして音楽の代わりにはならない。それぞれが、それぞれのやりかたでいろんなことを考えさせてくれるのであり、それゆえぼくらは本も読めば、絵画を観るし音楽も聴くのだろう。
日本のすべてのカフェのルーツここにあり。
いまからちょうど百年前、ブラジル移民の「父」水野龍は、コーヒー文化の紹介&普及、宣伝を条件にブラジル・サンパウロ州政府より12年間にわたりコーヒー豆の無償提供を受けることになる。そのために水野がつくったのが、いまも銀座に現存する喫茶店「カフェーパウリスタ」である。
そもそも日本にコーヒーという飲み物の需要がなかった時代に、水野らは徹底したパブリシティ戦略と(無償提供の豆だからこそできる)安価での提供により、あれよあれよという間に「カフェ」を時代の先端をゆく業態として都市に定着させてしまう。こうした「使命感」にも似た尽力がなければ、日本のコーヒー文化、喫茶文化はもっとちがったものになっていたかもしれない。つまり、「カフェーパウリスタ」こそは日本のすべてのカフェの「父」であると言っても過言ではないのである。
雑多な種類の人々が集い、文化人の「たまり場」としてリベラルな空気を漂わせていた「パウリスタ」こそは、日本のベルエポックともいえる「大正デモクラシー」の象徴といってよく、さまざまな文化人のエピソードは読んでいてとても愉しかった。また、貧しい若者のコーヒー代を見知らぬ客が立て替えてやるというナポリに残る人間味あふれる慣習「カフェ・ソスペーゾ」が、大正時代の「パウリスタ浅草店」にもあったと知ったのもうれしい発見であった。
「東京カフェマニア」のサマンサさんいわく「カフェは5年続けば老舗」だそうだが、「カフェーパウリスタ」は今年の6月25日で一号店である箕面店の開業から数えて満百歳を迎える。数々の喫茶店やカフェがことごとく息絶えてゆく昨今、細々とでも日本独自の喫茶文化が生き残っていってくれることを現場に身を置くひとりとして祈るばかりである。
個人的に、今年上半期のベストワンに挙げたいピチカートワンこと小西康陽のソロアルバム『11のとても悲しい歌』。そのリリース前におこなわれたインタビューをここで読むことができる。
基本的に、これはピチカートファイヴとして人気を博していたときから一貫して言えることだと思うのだが、小西康陽には「孤独なひと」というイメージがつきまとう。幸福のうちに、その幸福が消え去る悲しみを同時に見てしまうひと、とでもいうか。ピチカートファイヴ時代、いつか野宮真貴が辞めると言い出す日が訪れると思うと心が痛む、なんていうエッセイを書いていたのが心に残っている。
「ソロ・アルバムとは”自分ひとりで作る音楽”じゃなくて、”自分ひとりのために作る音楽”なんだっていうことに気付きました」という本人の言葉どおり、この『11のとても悲しい歌』は「孤独なひと」小西康陽が自分の「孤独」と向き合うことから生まれたとても内省的なアルバムといえる。でも、その「ひとり」が同時にほかの誰かの「ひとり」と重なるとき、それは「名盤」と呼ばれるのだろう。
一筋の希望の光とともに、この先のエネルギー問題について考えたいひと必読の一冊。
ここでは「3.11以後の日本」について、社会学者の宮台真司氏と環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也氏ふたりの対話を通じて、おもに「エネルギー」面から論じている。
宮台氏はここまで原発社会をつくってきた日本人の「心性」について、「《悪い共同体》とそれに結合した《悪い心の習慣》」「知識社会」「ガジェットの集積を尺度とした豊かさ」といったキーワードから語っているが、まさに核心をついている。
一方、もともと技術者として原発開発の現場に身を置き、原発行政にも深く関わってきた飯田氏の話も生々しく興味深い。その後訪れたスウェーデンで出会った自然エネルギーについて、ヨーロッパのみならずアジア諸国の導入例や、日本における可能性や過去の失敗例まで紹介されており勉強になる。
そして、この先のヴィジョンとして提唱される「小さな統治ユニットによる共同体自治」は、エネルギー問題だけでなく、この先の日本、とりわけ東北〜北関東の早期の復興のためにもぜひ実現してもらいたいと思う。もちろん、あわせて電力の固定価格制度の早期導入もまたれるところ。なぜか福島県や新潟県に「東京電力」の原発があるという不自然を是正するためにも。
靴の中の小石みたいに、3.11以降それまでまったく気にもかけていなかった物事が気になって仕方ない。たとえば、「天皇制」について。
震災後の天皇陛下のお言葉やふるまいには、たしかに、なにかしら日本人の琴線に触れるものがあったように思う。その正体はいったい何なのだろう? 自分なりに探ってみる必要がありそうだ。
著者は日本中世史の研究者であるが、みずから「日本共産党」の党員であったこともあるだけに、「天皇制」については一貫して批判的な立場を貫いている。とくに、このブックレットの元となった講演が行われた80年代当時は中曽根政権のもと日本の右傾化が懸念されていた時期だけに、かなり直裁的な表現もみられる。
・歴史上、単一民族による統一国家としての「日本」が存在していたことはない。
・歴史上、天皇家が「日本」を統治していた時代もほぼ存在しない。
・皇国史観などを通じて、天皇家が重要視する「後醍醐天皇」という存在の「特異性」。
といった「視点」がここでのキータームになっている。これだけをもとになにかを判断することはまったくできないとはいえ、コンパクトながら日本人と天皇制(とりわけ中世の)を知る上で大変に興味深い論考。後醍醐天皇とその治世について論じた『異形の王権』もぜひ読んでみたいところ。
理想と現実とのギャップに翻弄されながらも、文字通りその生涯を「芸術」のために捧げた孤高の音楽家ビル・エヴァンス。
その苦悩に満ちた人生を、さまざまなかたちで彼に関わった人間たちの証言を引き合いに出しながら、ときに大胆な推理も交えつつ描いた評伝。読みながら、まるでテレビのドキュメンタリーでも観ているかのように鮮明なイメージを結んでゆく構成のおもしろさは、きっと著者の手腕によるところも大きいのだろう。
全幅の信頼を寄せていたベース奏者スコット・ラファロが不慮の事故により突然この世を去って以降、ビル・エヴァンスはソロ以外で「I Loves You, PORGY」を演奏することがほとんどなくなった。その「理由」は……
と言ってポール・モチアンが明かすエピソードは、その真相はともかく、哀しく、そして美しい。
わずか15mlのエスプレッソに溢れんばかりのパッションとプライドを注ぎこむ、これは下北沢「BEAR POND ESPRESSO」のオーナー田中勝幸氏によるエッセイである。
大学時代はスキーやサーフィンにのめり込み、卒業後は大手広告代理店に勤めるも語学を磨くため仕事を辞め、渡米。その後、NYで一流企業に働きポストも得るが、ある日ダウンタウンで出会ったエスプレッソの味にノックアウトされ、気がつけば仕事をしながらバリスタの訓練を積む日々……。そして、「骨を埋める」気でいたアメリカの地を離れ下北沢にわずか6坪のカフェを開き、現在に至るまでのストーリーが熱い口調で語られる。
他人の目には波瀾万丈に映るかもしれないその過去も、本人にとってはたまたま情熱を傾けるべき対象が変わっただけで同じ一本道、いまの姿もことによったら「通過点」に過ぎないのかもしれない。チェーン店ではけっして味わえない、ちいさな個人店の魅力に触れるとともに、その「熱い」生き方に共感をおぼえるひとも少なくないだろう。ただしかなり熱いので、ヤケド注意!?
3.11をきっかけに「生き方や考え方を変えようとしている人々は、誰もがエネルゴロジストになれる」と中沢新一は言う。
エネルゴロジストとは、「地球科学と生態学と経済学と産業工学と社会学と哲学とをひとつの結合した、新しい知の形態」としてのエネルゴロジーを理解しようというひとのことであり、そうした視点から「この先」を見ようとするひとのことである。
そこで、まずこの本の前半では、いわゆる石炭や石油といった「化石燃料」と「原子力」との「ちがい」について語られる。太陽の恵みを、あくまでも生態圏の範囲内で長い時間とたくさんの媒介を経てつくられる化石燃料に対して、原子力は、ほんらい太陽圏の活動である核反応の過程をなんの媒介も経ずにそのまま生態圏のなかに持ち込んでしまう技術である。
石炭や石油について、限りある資源を大切にしよう、電気は大切に使おう、といわれるのは、それが自然によって与えてもらったものだというリスペクトがはたらいているからである。ところが、人間が科学技術によって自力でつくっている(と思い込んでいる)原子力については、オール電化を例に出すまでもなく「電気はどんどん使って、どんどんつくろう」ということになる。資本主義と原子力が「セット」であるゆえんだ。
それに対してエネルゴロジーは「第8次エネルギー革命」だと、中沢新一は言う。そのことは、補遺として収められた「太陽と緑の経済」でより具体的に説明が試みられている。
そこでは、原子力+資本主義から、自然の理法に則ってつくられるエネルギー+「つぎのかたち」の経済(ケネー=ラカン・モジュール)へと大きく舵を切ることの必要が、「贈与」「農業」「カタラテイン=交換」「地域通貨」「キアスム構造」といったキーワードとともに宣言される。
もし、このマニフェストがぼくら日本人に勇気をあたえてくれるとしたら、それは、今回の悲惨な災禍を体験したぼくらだからこそ、この大きな「使命」を成し遂げることができるのだと信じさせてくれる点にあるように思う。具体的な動きとして、著者が提唱する「緑の党のようなもの」が近々リアルな活動として始動し、この本はいわばその「マニフェスト」にもなるようだ。ぼく自身、よく考え、自分にできるかたちで積極的に関わっていこうと思っている。
「ピアノ嫌いのためのピアノの楽しみ方」という視点で書かれた、とにもかくにも刺激的なピアノ音楽の指南書。
ところで、ピアノという楽器は古くから人気の習い事である。なので、ここ日本にはピアノ学習経験者が山ほどいて、ピアノ曲愛好家の多くはじつはそうした人たちだったりする。けれども、伊達にピアノを知っているがために、ときにはそこでいわれる「感動」がじつは「感心」とイコールだったりもする。つまり、(自分が弾けないような)難解なパッセージを超絶技巧によってさらりと弾いてしまうとそれだけでひどく感動(じつは、それは「感心」なのだが)してしまうということである。なので、ピアノ好きのひとのおススメや解説書の多くは、そうした「技巧」という視点から評価され、紹介されることがとても多い。でも、ぼくのようにピアノを「知らない」人間にとっては、そうしたオススメや解説は「だからなに?」ってことも少なくないのである。
この本がピアノ曲を楽しむための指南書として画期的なのは、そうしたいわば「感心」と「感動」とをきっちり切り離した上で評価しようという意図が根底にあるところだろう。なので、シューマンやリスト,ラフマニノフといったピアノ学習者ウケのする作曲家の名前も、ここにはまったく登場しない。
そして、そうした「ルール」(?)をのみこんでさえいれば、ここで書かれている内容はけっして挑発でも過激でもなく、至極真っ当な意見と感じるはずである(もちろん、取り上げられたピアニストや演奏すべてに共感できるかどうかはまた別の話だが)。
個人的には、筆者のケンプに対する評価のツボは心からの共感をもって読んだ。
表題どおり、この小説はなによりも美しく、なによりも儚いもの、つまり「きれいな女の子との恋愛」と「デューク・エリントンの音楽」に捧げられている。
ひさしぶりに読み直して感じたのは、精緻に描かれたコントラストの妙。物語は、街から色彩の消える冬に始まり生命が躍動する新緑の季節に終わるのだが、登場人物たちの世界はそれとは反対に、徐々に色を、そして音楽を失ってゆく。彼らはいってみれば、彼らの住む世界との「同期」に失敗したのだ。その残酷さと不条理さ……。
破天荒なファンタジーのような顔をもつこの小説をはたして「読める」かどうかは、ボリス・ヴィアンの「感性」にどこまで肉薄できるかにかかっているような気もするが、そのいちばんの方策はまず、解説で訳者が言うように「奇天烈さをごくりと飲み込」んで、そこに繰り広げられる「いっさいを受け入れる素直さ」をもつことだろう。
はたして、私立探偵フィリップ・マーロウの淹れるコーヒーの味は?
朝、フィリップ・マーロウはコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。それが習慣、というより彼にとって「決まり」なのだ。訳にはコーヒーメーカーとあるが、細かい描写を読むかぎり、それはパーコレーターのようだ。40年代、アメリカの一般家庭でよくみかけられたパイレックスの直火式パーコレーターかもしれない。一見ストーリーとは無関係のようでいて、そのじつコーヒーを淹れる所作はそのまま「フィリップ・マーロウ」という人間の説明にもなっている。
タフにみえて繊細、物事を順序立てて考える習性が身についている。すべてにおいて用意周到、こだわりが強く細かい部分もないがしろにしない。反面、頑固で、少しばかり融通のきかないところがある…。
すでに家庭ではふつうにインスタントコーヒーも普及していた時代だと思うが、毎朝わざわざパーコレーターを使ってコーヒーを淹れるような男、それがフィリップ・マーロウなのだろう。
さながら山下清は、直球しか投げないピッチャーのようである。
「裸の大将」として知られる彼は、誰彼かまわずその言葉に疑問符を投げつける。なぜなら彼は、すべての言動の背後にはそう言われて然るべき理由があるとかんがえるからである。しかし、たいがいのひとは「なぜ」という理由を知らないで言葉を発していることのほうがずっと多い。
たとえば、道後温泉に行った清は、案内してくれたひとに「女ぶろ」を見学したいと申し出て断られる。そこで彼は、「なぜできないのですか?」と訊ねる。案内人は当然のように「キソクですから」と返答する。だが、納得のゆかない彼はさらにこう問いかける。「キソクは守らねばなりませんか?」。困った案内人はこう返答する。「(キソクを)もし守らなかったら温泉をやめさせられます。だからキソクはちゃんと守ります」。もちろん、これは「なぜ女ぶろを見学できないか?」の本源的な答えにはなっていない。なので彼はまったく納得していないが、場の空気を読んで「それ以上ぼくはききませんでした」となる。
こんな案配で、ときに清の投げる直球は胸元を鋭く抉って相手をのけぞらせる。それは、相手がよって立つ足場まで揺るがせかねないアナーキーな問いかけだからである。いつも清の問いかけに対してみんながどっと笑うのは、笑うことで問いじたいを無効化しようとしているからであり、いってみれば防衛反応にほかならない。けれども、彼は「どうしてみんなが笑うのか」いっこうにわからないのだ。ここに、山下清の孤独がある。
「ぼくだけがどうしておかしいのか、そのわけをきいてみたいが、きくとまたわからない返事にぶつかるので、ぼくはわからんでもだまっていようということにしている…」こんなにも笑えて、その後哀しくなる本もすくない。
再読。いや、再々読? ときどき思い出しては読み返す深沢七郎のエッセイ集。
なかでは、「とてもじゃないけど日記」がいい。うっかり(?)小説『楢山節考』がベストセラーになってしまったことで巻き込まれる珍騒動の数々、そして、本人の思いとは別のところでひとり歩きするイメージに苦悩する日々…。とてもじゃないけどやってられないよ、というわけだ。
『楢山節考』が芝居化された折り、役者による迫真の演技を目の当たりにして「おっかなく」なってしまい、思わず結末を変えようと作者みずから言いだして周囲から止められるエピソードには失笑せずにはいられないが、そんななかすべてを心得た尾上梅幸のふるまいには一流の役者ならではの含蓄を感じさせてくれて感激する。そしてこういうところに、むしろ、深沢七郎というひとの観察眼の並々ならぬ鋭さを発見するのである。
それにしたって、文中に登場する石原慎太郎ときたらなんとも「いいひと」なんだがなぁ…(笑)。
唐突に「落語」に興味をもって一ヶ月そろそろ寄席や落語会に出かけてナマの高座にも触れてみたい…… この本と出会ったのは、まさにちょうどそんなタイミングのことだった。
著者はヘヴィメタ専門誌「BURRN!」の編集長にして、年間1500を超える高座を観続けてきたというライブ至上主義の、筋金入りの「落語好き」である。著者によれば、現在の落語シーンは「名人」と呼べるような存在こそ極端に少ないものの、その一方で若手や中堅の噺家のなかに数多くの逸材が存在する、いわば「黄金時代」なのだという。そして、そのせっかくの「黄金時代」を満喫するために、いままさに寄席や落語会で聴くことのできる噺家たちを取り上げ、紹介したのがこの本『この落語家を聴け!』である。
寄席や落語会に出かけようと思ったが、いったいいまどんな噺家がいて、どんなネタを高座にかけているのか皆目見当がつかない。寄席の番組表を見たはいいが、なじみのない名前ばかりで誰を目当てに足を運べばいいのかわからない。そんなとき、この本はとても役に立つ。なぜなら、いくら百花繚乱の「黄金時代」とはいえ、すべての噺家が面白く、わざわざ時間を割いてまで聴くに値する噺家とはかぎらないからである。
しかしぼくらの生きるこの時代には、幸いなことにインターネットという文明の利器がある。まずはこの本でとりあえず聴いてみたい噺家をチェックした上で、ネットでさらに検索をすればその噺家のさまざまな情報(プロフィールや本人によるSNS、落語会の情報から、場合によっては高座の動画まで)にかんたんに触れることができる。これだけで、初心者にとってはひどく「敷居が高い」と感じていた寄席や落語会がぐっと身近なものになる。そして寄席や落語会といったライブ空間では、ときには新たな魅力的な噺家との出会いが待っているかもしれない。
落語をまったく知らないひとではなく、落語にちょっと興味をもったひとがさらなる深みにハマろうというとき紐解くと恰好の手引書になるにちがいない。
いまをときめく人気落語家がその地獄の修業時代をつづった半生記は、カラッとした文体もあいまってそんじょそこらの青春小説も吹っ飛ぶおもしろさ。
「本当は競艇選手になりたかった」少年は、課外授業の寄席に登場した立川談志の「芸」(というかその「存在」?)に打ちのめされ、高校を中退し半ば勘当状態のまま立川流に入門する。そんな彼を待ち受けていたのは、「個としての自由も権利も認められない」、つまり「人間」として扱われない「前座」としての地獄の修業……。もちろん、その「地獄」の実体はといえばほぼ100%師匠(イエモト)である立川談志という破天荒な人物にあるのだが。
ちなみにタイトルの「赤めだか」とは、談志が可愛がっていた金魚のこと。いくらエサを与えてもいっこうに成長しないその金魚をみて、弟子たちが密かに名付けたのがこの「赤めだか」という呼び名である。当時、落語協会を飛び出した草創期の「立川流」の内情はというと、まさにカオスそのもの。そんなカオス状態の中、未来への展望もなく溺れそうになりながら必死にあがいている自分たちの姿を、水がめの中で大きくなれずにいる「赤めだか」の姿に重ね合わせたのだろう。
とかくハチャメチャと思われがちな師匠「立川談志」という人間を、「いや、そんなことはないのですよ、実は……」というのではなくハチャメチャなままに談春は描く。じっさい談春にとっての師匠(イエモト)とは、離れて忘れたほうが身のためと知りながら忘れきれない、思いきれない魅力をもつ「悪女」のような存在だと言う。そしてここに、師匠と弟子とが「愛憎」によってきつく結ばれた「立川流」の特殊性があるのかもしれない。
一見したところ優等生的な印象のある談春が、まさかこんな無頼派とは…… その「意外性」もこのエッセイをいっそう楽しくしている。
ある日突然「落語の国」に迷い込んでしまったビギナーにとって、この一冊はなかなか便利な「道しるべ」となっている。
ここでは落語の歴史やあらすじ、おすすめの噺家などが紹介されるかわりに、落語に登場する人たちー 熊さんや八っつぁん、長屋のご隠居や与太郎といった魅力的な人物たち ーのことばや動きの背景をなす「感覚」について、「時間」「金銭」「結婚」「恋愛」「酒」「死」といったキーワードを通して語られる。
たとえば「時そば」という有名な噺(はなし)の下げ(オチ)は、「九ツ」と「四ツ」という江戸時代の時間の数え方を知っているか知っていないかでその面白さがずいぶんとちがってくるように思えるし、現代よりもずっと「一年」という区切りの単位が重かった時代の噺(はなし)だからこそ、「芝浜」のおかみさんは「大晦日」に真実を告げるのだと合点がゆく。「夢」が「現実」に変わるとしたら、そのタイミングはまさに一年の変わり目にしかありえないからである(以上は、読みながら勝手に感じたぼくの解釈)。ほかには、じっさいに著者が「東海道」を日本橋から京都まで歩いたときの体験から語られる江戸の人々の「歩き」にかんする考察も、ふだんそんなこと考えたこともなかっただけにおもしろく読んだ。
ぼく自身は知らなかったのだが、著者は週刊誌などで活躍する人気コラムニストとのこと。読むひとのなかにはその軽い口調が気に障るひともいるかもしれないが、落語や町人が活躍する時代劇などに関心のあるひとにとっては、おそらくきっと興味深く読めるのではないかな?
さいしょ「江國滋」という名前からなにやら堅苦しい評論めいたものをイメージして身構えたのだが、いざ読み始めてみればなんてことはない、とても軽やかな落語コラム集。
なるほど江國滋というひとは「落語」についても書くのかぁと思ったら、もともとフリーとして出発したときの肩書きは「演芸評論家」だったのですね…… 無知でスイマセン。そしてこれは、さまざまなところに発表したコラムをまとめて単行本化した『落語三部作』のなかの一冊とのこと。
批評をしようというのではなく、ひとりの落語愛好家として「落語の世界」に「生きる悦び」を思いのままに語るその言葉は、やはりおなじように「落語の世界」に魅了されるものの心にまっすぐ届く。音楽でいえば「嬉遊曲(ディヴェルティメント)」のような肩のこらない愉しさが、この本にはある。
「間(ま)の芸」を特徴とする江戸落語に対し、上方落語の最大の特徴にして魅力を「饒舌の芸」とする「上方落語の魅力と特質」と題された短い論考でも、著者は、その特質を知ることで「上方落語」というまた魅惑的な風景と出会えることを約束してくれる。否定したり、貶したりくさしたり、そういった言説の一切登場しない読んでいてとても気持ちのいい一冊だった。
まず、「雨の降ることに感謝し、晴れて、喜び、風が吹いてもありがたいと思い、雪が降っても、ああそうか、と思う」そんなふうに淡々と、ただ「芸」にのみ生きる講釈師「桃川燕雄」の端然とした佇まいが魅力的だ。
変わりゆく昭和の東京の片隅で、ただ一カ所、講談の定席としてその灯を守りつづける「本牧亭」がこの「ものがたり」の舞台。「生まれたときからの寄席の娘で、それがもう血になっている」と自他ともに認めるおかみさんの「おひで」をはじめ、寄席の常連や「芸」のこと以外はからっきしダメ人間といった風情の芸人たちの愛すべき姿が、ここではまるで子供がだいじな「宝物」を抱きしめるかのように、やさしく描かれていて感動する。そうだ、そうなのだ、寄席はたんなる劇場(ハコ)ではない。寄席とは、さまざまなひとがそれぞれに、ちいさな喜びや悲しみによって結ばれたとてもとても人間臭い、ちいさな「町」のような場所なのだと、この「ものがたり」は教えてくれる。
ある日、若い興行師「湯浅」は、思いを寄せる娘義太夫「桃枝」のたっての希望で生まれて初めてローラースケート場を訪れる。カラフルな洋服を身にまとった若者たちに混じって、大音響で流れる流行の音楽にのって颯爽と滑る「桃枝」。その姿をひとり2階の見学席から見守りながら、「湯浅」はてっきり自分と同じ世界で同じ空気を吸っていると信じていた「桃枝」が、あたかも変わりゆく東京の風景のように自分からどんどんと遠ざかってゆくような気分にとらわれ、その恐怖とも孤独とも言いがたい感情におののく。そしてその焦燥が、やがて「湯浅」の人生を思わぬ方向へと狂わせる。
移りゆく時代の波に翻弄されながらも、不器用に自分らしく生きようとする心やさしき人たちの姿がここにはある。
ナルホドソウイウコトカ。「落語」の最大の特徴を、「歴史」とは切り離された「時間」、語り手と聴き手とが回転木馬のように「同じ時間を生きる」ことにあるとして、歌舞伎や演劇、講談や能、アニメやコミックなどと比較しながら解説したとても興味深く、説得力のある一冊。
日本史の知識も時代劇への関心もさっぱりないにもかかわらず、うっかり「落語」にハマってしまった超初心者としては、かねがねこんなことでは「落語」を存分に楽しめないのではないか? というコンプレックスにも似た感情があったのだが、伝統芸能としての「落語」はいまひとつの過渡期にさしかかっていると著者が言う第8章「現代の落語」を読んで、ほんのわずか救われた気になったのだった。
ここで著者は、現代の噺家が担わなければならない課題として「距離」という問題を挙げる。つまり、落語に描かれた情景や風俗からすっかり遠ざかってしまった現在、落語の語り手は「みずからの位置とはなしの距離を ー その遠さを ー 」厳密に定め、示さなければならない。そうして、その「距離感」から「遠景としての八五郎や与太郎を、あるいは隅田川や長屋を現在に出現させる」ことではじめて、現代の落語は「芸」として成就するのだ、と。
つまり、落語の語り手がしっかりその「遠さ」を定め、示すことさえできれば、江戸時代や明治時代の情景や風俗とはさっぱり無縁な現代を生きているボクのような聴き手でも、いっしょに「回転木馬」にのって八五郎や与太郎の暮らす長屋を訪ねたり、春の隅田川でのんびり船遊びに興じたりすることができるというわけだ。
ひとまずは、目の前にそんな「情景」を出現させてくれるような噺家を追いかけてみようと思う。
ダールが好きだったりブラッドベリが好きだったりするのと同じように、落語のSF的な、奇想天外な噺に惹かれると言うイラストレーター和田誠。
ここには、そんな和田誠による創作落語が5編(うち4編は『和田誠寄席』にて実際に小三治、小朝、扇橋、二ツ目時代の雲助らによって口演されたもの)と、口演時に催された際におこなわれた山藤章二らとの座談会、そして落語にまつわるコラムのいくつかが収められている。
コラムでは、ホール落語の企画にかかわっていた若いころの話(このあたりの話は自伝的エッセイ『銀座界隈ドキドキの日々』でも触れられているが)が中心。まだ志ん朝が朝太、談志が小ゑんと名乗っていた時代の話だ。当時のジャズメンの落語好きをとりあげた「落語とジャズ」などは、落語家とジャズマン、その双方と交流のあった著者ならではのエピソードで「或る時代の証言」としても興味深い。
正直、個人的には、すでに存在する「古典」にスパイスをふりかけたかのような和田誠の「落語」はさほど面白いとも思えなかったのだが、おなじ噺を著者による「原本」と小朝による「口演バージョン」とで並べて読むといろいろなことに気づかされて興味深い。そこで小朝は、サゲを含む全体にわたって「換骨奪胎」と呼んでいいほどの大胆な改変をおこなっているのだが、その一方で、そこにこそ「書かれたもの」から「語られるもの」への跳躍、そのためにことばが必要とする筋力のようなものが垣間見られてただただ感心させられるのである。
「待つこと」をめぐる私小説風の考察。
「待つ」ということにかんしていえば、たしかにぼくらはふだん、「なにがしかの静止状態」という程度のざっくりとした捉え方しかしていないかもしれない。ところが、主人公である「私」はそうではない。「おなじ静止状態でも『待機』と『待つこと』の内実には天と地ほどの開きがある」とかんがえている。そのうえで、「なんの役にも立たない拱手(きょうしゅ)とは無縁の待機」こそが「『待つこと』の本質」なのだと言う。では、待機ではなく、待つこととは?
回遊魚、生き方を左右するような思考の足首、心ののりしろ……
ポツポツ顔をのぞかせるこれら独白とも謎掛けともつかないフレーズに、作者はいつもながらなにがしかの「正解」を用意してくれているわけではない。だから読者もまた、カステラの箱を抱えて途方に暮れながら正吉さんの戻りをただ待つほかない「私」ともども、じぶんにとっての「待つこと」がもたらす「無為の極み」について、舌の上で飴玉を転がしてはその存在感を確認する子供のように、ただただ思いめぐらすことになるのである。
ところで、最初の数ページを開いただけで部屋の片隅に放り出したままになっていたこの本を数年ぶりに掘り出してきたのは、先日そのタイトルにもなっている街で開かれる落語会にたまたま出かけることになったからにほかならない。東京に生まれ育ちながら初めて降り立ったその街を、小雨の降る中しばし散策し、遠回りを覚悟でわざわざ路面電車に揺られて帰路についた。それゆえ、あらすじとは無関係とはいえ「先代は品川辺の、通いの旦那とほがらかな心中未遂でも起こしたくなるような店に勤めていて」というあきらかに滑稽噺の「品川心中」を思い起こさせる一節を文中に発見したときには、この作者との相変わらずの相性のよさを(勝手に)確認し、思わずにやりとさせられた。
落語家、5代目春風亭柳朝の伝記小説ではあるけれど、ある典型的な「江戸っ子」の破天荒な一代記として読んでも面白い。
一時は志ん朝、談志、円楽とともに「四天王」などと呼ばれながら、他の3人とくらべるとどうも地味で影の薄い印象のある柳朝だが、この本を読むとそれもまたこのひとの「江戸っ子気質」に理由があったのか、と納得できる。
「自分が主役でないと思ったら、一気に隅のほうに引っ込んで悪あがきを見せない。石にかじりついてでも、ここで逆転してやろうなどという根性がない。淡白、見栄坊、恥ずかしがり屋……」
とはいえなにより落語が大好きで稽古熱心、「芸」で他の3人に劣っているというわけではまったく、ない。とりわけ「大工調べ」や「宿屋の仇討」といった噺では、その切れのいい江戸っ子口調や啖呵で魅せてくれる。そしてまた、惣領弟子の一朝師匠をはじめ現在寄席で活躍しているお弟子さんたちに、その「粋」な芸風がしっかり受け継がれているのはまったくもって素晴らしいことだと思う。
「私と円紫さん」シリーズの第2作とのこと。初夏から梅雨、そして盛夏のころが舞台となる。
前作とのいちばん大きな違いはといえば、物語の世界の規模が主人公を「軸」にぐっと狭まり、そのかわりより深くなったことだろうか。前作ではホームズとワトソンのようであった「円紫さん」と「私」の関係も、本作では主役はあくまでも「私」、「円紫さん」は謎解きの指南役といった役どころで一歩引いたかたちに収まっているように感じられる。その点、読後の印象も、ミステリよりは人情噺的な色合いを強く受ける。
読むことで感じるある種の生々しさは、前作よりも一段と「私」の内面に触れていることから生じるたぐいのものだろう。当然、その余韻もまた変わる。それは蝉しぐれのように、いつまでもシーンと頭の中に残響する。
トリックは読み解けてもそこにカタルシスはない。むしろ残るのは、息苦しさ…。
幼なじみのふたりは、なぜこのような「事件」に巻き込まれなければならなかったのか? ふたりの出会い、なにげない会話や思い出…… そうしたエピソードがていねいに描かれ、それによって読者はそれが起こるべくして起こったこと、「偶然」のひとことでは片付けることのできない出来事だったことを思い知らされる。それはまた、主人公である「私」にも、そして読者にも、いつ起こっても不思議ではないということでもある。その厳然たる事実が、読むものを不安にし息苦しくさせるのだろう。
「私と円紫さん」シリーズ第3弾であるこの『秋の花』は、いわゆる「事件らしい事件」が起こる点、そして長編であるという点で明らかに前2作とはちがっている。物語の「軸」はますます「私」の日常へとシフトし、終盤近くなって登場する「円紫さん」もトリックを解明しはするが解決はしない。とはいえ、推理小説の体裁をとりながら、人間の感情の深い部分に触れようという著者の意志は第3作であるここでも一貫している。
へぇ、こういう「ミステリ」もアリなのか…… と驚き、戸惑いつつも一気に読み終えた。
いかにして芥川龍之介は短編「六の宮の姫君」を書くに至ったか? が、この「円紫さんと私」シリーズ第4弾となるこの作品をなす「謎」である。とはいえ、その底に流れるものは(よりミステリらしい風貌をした)前作『秋の花』から変わっていない。それは「操られるように巡り会い別れる」人と人との「繋がりの不思議さ」である。
コテコテの文学少女(死語? いま風に言えば「本ガール」?笑)である「私」が、親友の「正ちゃん」やバイト先の上司「天城さん」、文壇の長老「田崎先生」、そしておなじみ「春桜亭円紫師匠」らとの問答(キャッチボール)を通して徐々に「謎」の核心に近づいてゆくさまを描いた、静かに高揚してゆく唯一無二の「文壇ミステリ」。
最後に引用される親友にあてた無邪気な手紙の一節が、なんともいえない切なさをもって心に迫る。
霧の中にあるものの姿は見えないけれど、そこにあるはずのものを思い、心を寄せることはできる。
北村薫の「円紫さんと私」シリーズはこれが第5作にして、いまのところ最終作。最後に収められた『朝霧』は、このシリーズを象徴するかのような珠玉の短編。
ひとを想うことの尊さが、そこにはある。
──
◎ 追記〜「円紫さんと私シリーズ」を読んで
これは、《探偵》と《探偵見習い》の話だと思った。
《探偵》はナゾを解く。でも、それは難解な殺人事件などではなく、ひとが生きてゆくなかでしばしば出会うナゾである。そのナゾは、人と人とが出会い、また別れる中でさまざまな姿をもって出現する。だから、そのナゾを解くには誰かが書いた《知識》に頼るだけでは解くことはできない、ヒントにはなりえたとしても。ひとを想い、心を寄せることではじめて解き得るナゾなのだろう。知識だけでなく、ひとの心の機微に精通した「円紫さん」は、そのことを辛抱づよく《見習い》である「私」に教えてゆく。「私」の成長とともに「円紫さん」の出番が減ってゆくのは、だから当然のことなのだ。ふたりはまさに「師匠」と「弟子」なのだ。
ところでこのシリーズはまだまだ続くのだろうか? たしかに、「朝霧」の最後のセンテンスは「続き」を暗示するようにもみえる。けれども、と同時にそれはまた「リドル・ストーリー」なのだとも思える。「その後」は読者の手にゆだねられた。きっと、そしてそれは少しばかり淋しいことではあるけれど、これで「完結」なのだろう。
うーん、「21世紀の」というよりも「天の邪鬼のための」落語入門?
本文中うなづける箇所も少なからずあるのだけれど、読み終わってなんとなくモヤモヤっとした感じが残るのは、かゆいところにあと一歩のところで手が届かないからだろうか?
たとえば、「私は『現場主義』というのが嫌いなのである」と主張する著者が「寄席に行かずともよい」と言うとき、当然というべきかその「理由」を聞きたいと思ってしまうのだが、それがすっきり明かされないのである。名画は、やはり海外の美術館へ行ってでも「現物」に触れなければという意見に対する著者の回答は、こうである。「飛行機に乗れないこっちとしては、けっと言うほかない」。うーむ。著者がなぜ飛行機に乗れないのかはよくわからないが(タバコが吸えないから?)、「現物」に触れずとも名画を楽しむことができるという説得力十分な「理由」を知りたいところではある。これだとむしろ、もし飛行機に乗れたらホイホイ行っちゃいそうな印象すら受けるのだけど……。
著者は、「落語を聴くには寄席に行くべし」とか「現在活躍している落語家を聴くべし」といった思考が(じっさいはわからないが)最近の落語好きのあいだの「主流」と感じていて、そういう「風潮」に対して「いや、落語にはもっとちがう楽しみ方もあるよ!」というのが言いたくて、勢いでこの本を書いたんじゃないだろうか? そんな気がした。
ちなみにぼくは「録音」、しかも「志ん生」の録音(「品川心中」)から入ってまったく聞き取れず、悔しくて何度も聞き返しているうち7回目か8回目で突然、頬にサーッと品川の海風を感じたような気がして、それをきっかけについ半年ほど前から落語にハマった人間なので、著者が言うように過去の名人の録音でも十分落語はおもしろいと思っているが、行けるものならできるだけ寄席にも足を運びたいと思っている。著者とちがって寄席の雰囲気が好きということもあるが、それ以上に、「テキストが確定していない」落語ならばこそいまこの時代の聴き手として、自分の感覚に合う落語と出会いたいという気持ちが強くあるからである。
「人間 天皇」の《プロデューサー》とまでは言わないが、侍従・入江相政の目からみた昭和天皇にまるわるエピソードの数々は、終戦後のあるエポックに、かなりの破壊力をもって「現人神」という神秘のヴェールを取り去り、国民に人間味あふれる人物として天皇を印象づけるに十分だったのではないか。たとえば、御巡幸で訪れた四国の片田舎での「事件」は、「現人神」から「人間」への過渡期(昭和25年)に人々が「天皇」という存在をどう受容したかを物語るとても興味深く、かつ可笑しいお話だ(「お上とお風呂」)。
収められた文章ではやはり、「皇室」での知られざるエピソードを綴ったものが断然読んでいて楽しいが、一方、この本の後半、「侍従」という特殊な立場から離れて書いた文章にもこのひとのエッセイストとしての豊かな天分は感じられる。個人的に印象に残ったのは、他人の評価にいともかんたんに押し流されてしまう「日本人のたよりなさ」について書いた「流されて」、戦後、焼け跡にできた防空壕を改装して一家4人、庭でジャガイモやカボチャを育てつつ暮らした際の思い出をつづった「壕舎記」など。特に「壕舎記」からは、敗戦後の日本人の腹をくくった強さ、したたかさのようなものがある種の手応えとともに伝わってくる。
「今から考えればあのころは『なりふり』をかまう必要はないし、教養とかなんとかいうものはとっくにどぶに捨ててしまったし、ただ食うことだけ考えていればいいような、いっそすがすがしい時代だった」
こういう心持ちをバネにしてこそ、ほんとうの「復興」はかなうものなのかもしれない。著者がまだ若かった折、父親が建ててくれた家とともに息子に贈った「この家がお前の競争者だ…」という言葉の重みもすごい。すごすぎる。むかしの市井の人というのは、こんなにもすごいことを言うものなのか。すっかり感心してしまった(「中間搾取」)。
ただの紀行文ではない。それはたとえて言えば、《武田百合子カメラ》がとらえたスナップ写真を集めた一冊のアルバムである。
武田百合子という「カメラ」は、グルジアの首都にゆったり横たわる川をこんなふうに写し撮る。
「クラ河は緑青色に光って流れない。この河はいつ見ても流れていない。」
クラ河は「まるで流れていないように流れる」のではなく、彼女のレンズにはそれは「流れない」のだ。そこになにがしかの「意志」でも潜んでいるかのように。
また、彼女のレンズには降り立つカモメの姿態に思いがけず「官能性」を見出す瞬間もある。
「灰色と白のぼかしの胸もとや羽のつけ根が、女の二の腕や脇の下を見せられたようで、はっとする」
読んでいて、武田百合子の文章があたかも無造作に撮られたスナップ写真のように感じるのは、それがときに非情なまでのクールなまなざしに貫かれているからというのももちろんあるのだけれど、それと同時に、彼女が「旅の時間」の非日常性を理解しているからではないだろうか。彼女は旅の途中、幾たびもこんなふうにつぶやく。
「いまは一体、本当は何時なんだろう。今日は何日なのだろう」
そうつぶやきながら、彼女は「旅の時間」とは日常から切り離された瞬間、瞬間のただ積み重ねにすぎず、いま体験しているこの時間さえもテーブルにばらまかれたスナップ写真の一枚に過ぎないのだと悟るのだ。そしてそれは「クラ河」の水面同様に、流れない。
「いくつもの睡蓮の花のかたちの中から水を湧きこぼしている噴水。アメリカ人らしい旅行者の一団がやってきた。池のまわりを歩き、ベンチに腰かけたり、あたりを見まわしたり、写真を撮り合ったりしている、喉をのけぞらして笑ったりしている。
『旅行者って、すぐわかるね。さびしそうに見えるね』
『当たり前さ。生活がないんだから』」
武田百合子と武田泰淳。この会話に、ふたりの心の固い結び目をみる思いだ。
同タイトルの落語会をシリーズで開催する噺家3人による対談集。
「教育委員会」という看板をタテに(?)なかなか踏み込んだ会話もしているあたり、ふだんそういった類いの話がこちら側には伝わってこないぶん興味深い。
そういえば、登場する3人のうちのひとり柳家喜多八師匠が出演した落語会に出かけたときのこと、終演後会場にいた主催者にむかって「なんで落語って事前にネタを予告しないの?」と食ってかかっている客がいたのだが、奇しくも喜多八師本人がこの本の中でその「答え」を語っている。
「でもほんとうは、トリというのは格好をつけなきゃいけないのよ。見栄をはらないとね。(中略)前にどんな噺が出てきても、それにかぶらないネタは持ってるぞ、と。まあ、ハッタリというか、見栄というか」(118頁)
つまりは、噺家の「美学」ってことですね。
他に、芸人という立場からお客さんについて語っている「噺家の了見、お客さまの了見」も面白い。個人的には、それがライブである以上よりよい芸と出会いたければ「よい客」になるのが早道とかんがえるので、ここに語られている内容はいろいろ参考にもなった。なかには、
「ツイッターとかブログとか、個人の自由だからいいんですけど、責任とらなくていいのに発言できることを知っちゃったでしょ?
憶測でものを書くくせに記名制じゃないから、責任をとらない」(喬太郎師)
などという辛口の意見も。そういう「無責任」な発言が勝手にひとり歩きしてゆくのがインターネットの世界であるというのは飲食店をやっている人間として身にしみて知っているだけに、まったく同感。発言することが問題なのではなく、匿名で、責任をとる必要のない環境で言いたいことだけ言う風潮が問題なのですよね、つまり。
「やあ、しぐれだしぐれだ」と相好を崩してはしゃぐ六代目菊五郎。初めて京都を訪れるという著者に、「まず京都の時雨を見せたい」と張り切って案内する歌舞伎の名優。ついに願が通じたのか、ある古刹で時雨に遭遇した折、その口をついて出た「ことば」がこれだ。
役者の台詞と思えばいかにも作為的なものを感じなくもないが、そうではない。むかしのひとの、それは世界への感受性の豊かさを物語る台詞であり、思わず口をついてでるこうした日々の「ことば」が、反対に名優の台詞を豊かに肉付けしてきたのだろうと思わせる。
紺屋の倅に生まれ、浅草橋場で生まれ育った著者はこうしてさまざまな人々と交流し、その豊かな「ことば」に触れてきた。植木屋や大工といった職人、物売り、志ん生をはじめとする芸人たち。だからこそ、この本を読むと、そうした市井の人々の暮らしが手に取るような感触をもって伝わってくる。
しかしそんな市井の人々の暮らしは、ある出来事を機にふっと消滅する。「戦争」である。著者はけっしてここで戦争について語っているわけではないが、市井の人々の暮らし向きの変化を物語るエピソードを介して、ぼくにはこの本がなにげに立派な「反戦歌」になっているような気がしてならないのだけれど……。
ときに「浮世の学問所」とも呼ばれる「寄席」という場所にスポットをあてた興味深い一冊。
著者は寄席で、「江戸や明治のころの職人や、武士や、さまざまな人たちの考えかた、生活ぶりなどの知識を得た」ばかりではなく、それらを通じて「人間として生きてゆくうえでの価値判断、そういったことまで教わりました」と語る(「はじめに」)。それはおそらく、いまもむかしも変わらないのではないだろうか?
ただノスタルジーをかきたてられる場所というだけでは、三百年以上も「寄席」は生き残れなかったろう。
カラーブックスらしく、寄席や寄席を支える人々の姿、そこに登場する芸人たちの表情、客のたたずまいなど興味深い写真も多数。だが、それ以上に興味深かったのは『醒睡笑』に始まり、上方、江戸における「中興の祖」たちの存在、そして三遊亭円朝から現代へと至る落語の変遷を、色物もまじえつつ「寄席」という場所が形成されてきた歴史としてまとめた巻末の解説文。たとえば、いまでも頻繁に口演される「野ざらし」という有名な落語が、明治期に活躍した三遊亭円遊によって現在のような滑稽噺として改作されたのはよく知られるところだが、そこには円遊なりのやむにやまれぬ「事情」があったことなど、この一文を介して知ることができた。
このミステリには、「洒脱」の風が吹いている。昭和30年代に女性雑誌の連載モノとして発表されたのがもともとだそうだが、「古めかしさ」は50年という時間を経てかえってほどよい「異国情緒のようなもの」に転化している。
さらりとした文体にも、日常のなかにちいさな「気づき」として表れるトリックを見破るカギにも、作者が、肩肘張らず必要最小限の「ことば」でもってこの小説を書こうと試みていただろうことが感じられる。最初のうち、あたかもそれが重要な小道具であるかのように扱われる「太い赤い縁のロイド眼鏡」がいつのまにか登場しなくなるあたりは、連載が進むにつれ主人公「ニシ・アズマ」のキャラクターがそれじたいで十分に魅力的に成長したせいだろうか。
たとえばジャック・ロジエが撮った短編映画のような、12本のかわいい探偵小説集。
時計の針でいえば20分くらい、この物語の登場人物たちはズレている。
だいたい、事件のナゾを解くのは、割烹着姿でオリーブの木にやってくるミミズクを餌付けするような主婦なのだ。
「天然」と呼ぶにふさわしい中年小説家の夫も、その友人も、みんな一定の幅でズレている。ついでにいえば、食卓に並ぶ旨そうな食事の数々も、いわゆる家庭料理と呼ぶには微妙にズレた凝り具合だ。
いってみれば、そこは時計の針で20分くらいズレた世界、異次元なのだろう。むしろそこでは事件に巻き込まれる人々はみな、ふつうに映る。
ふつうの人々がふつうに生きようとあがくとき、そこに「事件」は生まれる。ふつうの世界とは、そういう「哀しみ」に溢れた世界なのだ。
登場人物にあわせて「20分」くらい視線をずらすとき、読者は自分の生きるこの世界の「哀しみ」にはじめて触れ、驚愕する。
「落語は季節感と情景と人物が描ければ自然に面白くなる」「無駄なことは絶対に言うな」……。
この本は、五代目小さんの内弟子として、師匠の高座のみならずその「ことば」に数多く接してきた柳家小里んへのインタビューを通じて、五代目小さんの「芸」の精髄を後世に伝えるべくまとめようと試みた意欲作。
小さんがたびたび高座にかけた噺54席について、
①その噺の「型」がどこから伝わってのか?
②五代目を介してどのように広まっていったか?
③それぞれの噺の「勘所」はどこにあるのか?
を探ってゆく。五代目小さんについていえば、一般には芸談をあまりしないと思われていたというが、弟子が直接もしくは間接的に耳にしたその「ことば」は、簡潔でありながら物事の胸ぐらを瞬時にとらえるような迫力にみちていて、まさに噺の「急所」といったところ。落語を聴きこめば聴きこむほどに味わいを増す一冊といえそう。
「落語は大衆芸能じゃない。落語を本当に好きな奴のもんだ。大衆に合わせると落語のよさはなくなるよ」。コンビニとファミレスだけの世界なんて、たしかに便利にはちがいないが味気ないよね。
僧侶が囲碁の相手をしながら、そこで耳にしたわずかな情報をたよりに事件の謎解きをするという、いわゆる《安楽椅子探偵》モノの短編集。
北村薫の「円紫さん」にせよ、戸板康二の「中村雅楽」にせよ、「黒後家蜘蛛シリーズ」の「ヘンリー」や『九マイルは遠すぎる』の「ニッキイ・ウェルト教授」、『黒いハンカチ』の「ニシ・アズマ」にせよ、こちら側の世界に属していながらもどこか超然とした浮世離れしたところがあるのがぼくの考えるところの《安楽椅子探偵》の魅力であるのに対し、たぶんに狙ってのことではあると思うが、この阿刀田高の作品に登場する「方丈さん」はその個人的な理想像とはあまりにもかけ離れている。というよりも、むしろ正反対。ぼくにとってはその存在がややノイジーに感じられるが、これは完全にぼく個人の趣味嗜好の問題なのでなんともいえない。面白くないわけでは全然ないのだけれどね……。
読書にも、登場人物との相性というのがあるのだなと再確認。
詐欺をテーマにしながらも、黄金時代のハリウッド映画を彷彿とさせる軽快かつ洒脱な娯楽小説。些細なスキャンダルをきっかけに次々と不幸に見舞われる(ちょっとカウリスマキっぽい)とあるテレビマンが、はからずも戦後の混乱期からバブル直前の80年代にまで及ぶ壮大な詐欺(コンゲーム)に巻き込まれてゆく。
カドカワ黄金期のアイドル映画の原作というイメージが強くなんとなく手を出さずにきたが、読んでビックリ最後の最後までダレさせない展開で面白いし、なにより犯罪小説ながら後味が悪くないのが好み。そして、薄っぺらくも、まだキラキラしていたころの東京の街の描写がなつかしい。
探偵、というよりはナゾトキスト!?
いつものカフェのお気に入りの席に陣取って、若き女性記者相手に楽しげに事件の謎解きをしてみせる怪しげな風貌の老人が主人公。最後の最後まで老人のプロフィールはおろか、名前すらも明かされない。
ミステリ好きの間では、この主人公をして「安楽椅子探偵」の最初期の一人と位置づけるひとも少なくないようだが、事件のたびに「検死審問(インクエスト)」まで出かけては、証言のみならず証言台にあがる人々の表情からその心理を読み取りつつ複雑に入り組んだ謎を解き明かしてゆく老人は、強いていえば「半=安楽椅子探偵」ということになるかもしれない。
ところで、おなじ「怪しげな風貌の老人」でも、「きょうはね、私は、ちゃんとやりますよ」と言いながら手にした紐を器用に操るのは寄席に登場する奇術師のアサダ二世だが、この老人も謎解きの「付属物」としていつも手にした紐に結び目をこしらえたり、ほどいたりしてみせる。そして、あたかも固い結び目をほどく仕草が謎解きの暗喩であるかのように、隅の老人は言うのだ。「あらゆる謎には解答がある。そしてわたしの経験によれば、もっとも単純な答こそ、つねに正しい答であるのさ」。
舞台は19世紀末から初頭のロンドン、上流階級の人々が次々と登場する物語は、ミステリ初心者にして、現代ニッポンの一般庶民には少しばかり分かりづらいものだったが、『黒後家蜘蛛の会』同様、繰り返し読むことで面白さが増してゆく本だと思う。
境界上の人々。奇体な香具師たちが巣食う江戸きっての巣乱(スラム)、ひと呼んで「なめくじ長屋」。その「なめくじ長屋」の住人にして砂絵師の「センセー」が、仲間たちの手も借りつつ江戸の町に起こる怪事件の謎を解き明かしてゆく短編集。
フィンランドで活動していたプロダクトデザイナー梅田弘樹さんとおしゃべりをしていたとき、日本人のつくるものには《湿度》がある、とおっしゃっていてなるほどと納得したおぼえがあるのだが、たしかに以前読んだ阿刀田高(『Aサイズ殺人事件』)にせよ大阪圭吉(『銀座幽霊』)やこの都筑道夫にせよ、不思議とその行間から《湿気》が立ちのぼってくるような気がする。主人公の「センセー」も、「センセー」をたよりに手柄を立てる岡っ引き「下駄常」もけっしていわゆる「善人」ではなく、人の心の光と闇をそのまま映し出す「鏡」のようなキャラクターとして描かれる。それゆえ、たんなる趣向としての「江戸時代」ではなく、庶民のあけすけな「生」への意志が充溢する「闇鍋」のような空間として、作者は舞台を「江戸」に選んだのではないだろうか。現代が舞台では、こんなふうに生き生きとマージナルな人々は活躍できなかったろうから。
主人公の生業が「砂絵師」であることから、推理に砂絵が役立つのかと思えばそうではないところが意外といえば意外。収められたもののなかには、「首つり五人男」や「らくだの馬さん」のように落語から着想を得たと思われるものも。作者と「推理小説マニアの従弟」とのゲームから生まれた「天狗起こし」「小梅富士」は、それゆえ「必然性を見いだすのに、かなり苦労した」と言うが、読者としてはその迷走しながら結論へと向かう道筋にむしろスリリングな読みごたえをおぼえる。最後に収められた「人食い屏風」のみがやや毛色が異なるが、物語的な面白みはいちばん。
痛快冒険活劇風ミステリ。欧化政策と国粋主義のはざまで揺れ動く明治時代の東京を舞台に、何者かによって盗まれた秘密文書のゆくえをめぐりイギリス人の探偵サミュエル・ホック氏(S・H氏)と医者の榎元信のふたりが協力して秘密の捜査に乗り出すという話。
幾多の障壁に行く手を阻まれながらも、西洋の知性と東洋の知性とが互いに補い合いながら事件の核心へと近づいてゆく、その様がなんといっても楽しい。また、大物政治家や男爵夫人、見世物小屋の人々、歌舞伎役者、壮士、警官、芸者などさまざまな「人種」が入り乱れて事件をややこしくしているのも、文明開化直後の東京の、そのメルティングポット的な様相を伝えるようで刺激的。
たまたま蔵の中から発見された、曾祖父の手記とも創作ともつかない文章をひ孫である「私」が現代語訳するという趣向が、読み手にほろ苦さを感じさせるエピローグで生きてくる。個人的には、いつも肝心なところで……
な梶原刑事がツボ。
1855年の「安政江戸地震」を題材に、その発生前後の市井の人々にスポットをあてた短編小説集。
赤鯰も、群れをなす百足や季節外れの蒲公英も、夜鷹が口にする土のぬくもりや幕末の藩士が酒毒のせいと思う「揺れ」も、振り返ればすべて大地震の前兆にちがいないのだが、そのそれぞれが登場人物たちの人生に重ね合わせられることで、いつしか読者は人間の「生」について深く考えている自分に気づくことになる。巧いなぁ。
大地震や度重なる大火に幾度となく家や仕事を失いながらも懸命に生きる江戸の人々の姿は、だが、けっして哀れでも惨めでもない。むしろこの世の無常を理解しているからこそ、いまを生き抜く彼らの姿は強く、たくましい。
ロンドン市警の腕利き刑事が、その巧みな推理力によって犯人と目された《男》の疑惑を晴らし、真犯人を追い詰めてゆく……。というと、ごくありきたりな推理小説に思われるが、その疑惑の人物というのがイングランド王《リチャード3世》という歴史上の人物、しかも刑事は不慮の事故により現在入院中、ベッドに寝たきりの身というところが、なんといってもこの小説の設定のユニークなところ。
まず、「捜査の基本」に立ち返って歴史的なエピソードから不確かな伝聞を剥ぎ取ることで、登場人物たちを「ひとりの人間の姿」に戻してゆく手際が鮮やか。助手役をつとめるアメリカ人青年とのやりとりにもユーモアが感じられる。途中、英国史に無知ゆえとっつきにくい箇所も多々あったが、それでも一気にラストまで読んでしまった。さすが、ミステリ通のあいだで「名作」と呼ばれる一冊だけのことはある。
歌舞伎役者「中村雅楽」が、不可解な事件の《なぞ》を解く人気シリーズ。老優・雅楽のたたずまいがとにもかくにも魅力的で、つい手に取ってしまう。
この第一巻に収められているのは、江戸川乱歩の後押しで世に出ることになった「車引殺人事件」をはじめ、初期に書かれた18の短編。なかには、第42回直木賞を受賞した表題作「團十郎切腹事件」も含まれる。これは、ナゾの自殺を遂げた八代目市川團十郎の有名な事件を、およそ百年後に「中村雅楽」がなぞ解きするというもの。若い時分に耳にした知人の昔話をきっかけに、次第に切れ味を増してゆく「雅楽」の推理に圧倒されるが、じつはこれ、ジョセフィン・テイの古典『時の娘』への秀逸なトリビュートとなっている。過去の歴史的事件のなぞ解きという構成はもちろんのこと、「雅楽」がその推理を披露するシチュエーションも、人間ドッグで入院中のベッドの上という凝りよう。
どうやら、戸板康二という作家は「無」からなにかをひねり出すよりも、実在するさまざまなものを巧みに組み合わせて新たな魅力的な存在を生み出す天才のようで、それはまた「中村雅楽」というキャラクターの造形にも活かされている。巻末に収められた自身による作品ノートによると、「雅楽」の名は中村歌右衛門と酒井雅楽頭を組み合わせたもの、老優の語り口などは親しくしていた歌舞伎界の古老・川尻清潭から、そのほかにも岡本綺堂『半七捕物帳』やエラリー・クイーンのミステリに登場する「ドルリー・レーン」などもヒントにしているとのこと。こんな具合にさまざまな影響を直接的間接的に受けながらも、「中村雅楽」がまったく独自の魅力的キャラクターとして生き生きしていることに感心せずにいられない。品格と威厳を兼ね備えた老人でありながら、無心で推理に没頭するその様子はなんとも無邪気で微笑ましい。
「善意のサスペンス」(by訳者)。あるいは、「善人だらけの毒薬さがし大会」!?
全体は、大きくふたつに分けられる。主人公の男が自殺を決意するまでを描いた前半は、心理描写が中心で登場人物もごく少なくやや退屈でシリアスな印象。とはいえ、時折あらわれるフレーズが後半になって生きてくる。再読推奨。一転、失われた毒薬の行方をめぐって一挙に登場人物がふえる後半は、突如にぎやかに、そしてコミカルに。映像的にいえば、前半はモノクロで後半はフルカラーという感じかな?
ハッピーエンドということもあるが、とにかく読んでいてじわじわ楽しくなってくる。話の発端は奇妙だが、落語のようでもあり、モーツァルトのオペラブッファのようでもある。
もっさり、愚直な珍探偵。ルックスも性格も鈍臭い上に、ワケあって定職にもつかず日々ぼーっと過ごす「軍平クン」のもとには、どうしたわけか続々と美女から難事件が持ち込まれてくる。
鈍臭い軍平クンのこと、当然その推理力も「カミソリのように」というわけにはいかない。あくまでも愚直に、ひたすら奥歯にはさまったモヤシの筋を取り除くかのように、あるいは牛が食物を反芻するかのようにモゴモゴとゴニョゴニョと事件のナゾを解いてゆく。その細々とした事柄をスルーできないじれったい性格が、彼のもっさりとした印象のゆえんであると同時に、また誠実さの証しでもある。
トリックはどれも凝っているが、ひとの先入観のウラを突いてくるという点でどれも共通している。そして、そういうトリックに「あっ」と「気づく」ことができるのは、なにより軍平クンの愚直さあってこそ。ミステリであると同時に、たいがいのひとがスルーしがちなそういう軍平クンの魅力をよりによって美女たちが見抜いてくれるという点で、この小説はまたなかなか甘やかなファンタジーでもある。
※「北村薫が選ぶミステリー通になるための文庫本100冊」からの一冊。
1956年のロールプレイングゲーム。七つの橋を、ひとこともしゃべらず、また誰からも声をかけられず渡り切ることができれば願い事が叶う。そんな迷信を信じて、四人の女たちが夏の宵闇へと繰り出すのだが……。
「橋を渡る」という単純な行為が、一つクリアしたのをきっかけに他愛のない《遊戯》から、いつしか興奮と陶酔、抜き差しならない緊張を孕んだ《儀式》へと様変わりしてゆく。そのプロセスの描写がじつに見事。「願事(ねぎごと)」にみずからの幸せを託すしか生きようのない女たちが繰り広げる、静かなるスラップスティックコメディー。
※『橋づくし』のみ
噺が身についているから、落語家は噺を忘れない。
その「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」的なタイトルから、《落語家が明かすマル秘暗記術》のような内容を期待するときっと肩すかしを食うだろう。落語家が噺を忘れないのは、ただ台詞を暗記しているだけではなく「立体的に」覚えているからだと著者は言う。それが「噺が身につく」ということであり、それはただただ稽古の賜物でしかない。ではいったい、落語家は噺を身につけるためにどんな具合に稽古を重ねているのか?この本の「肝」は、そこにある。
個人的には、花緑師が演じる『笠碁』がいままで聴いた誰の『笠碁』とも違うため、いったいその「型」がどこからやってきたのか知りたくて手にしたため、最後まで興味深く読むことができた(第4章「自分のネタを作る〜『笠碁』への挑戦」が、そのまま花緑版『笠碁』の誕生秘話(?)となっている)。これを読んで、花緑版の『笠碁』が、いわば伸び縮みする「時間」感覚という視点から再構築されたものであることがなるほど、よくわかった。ただ、「時間」という視点なら、従来どおりのサゲでもけっして矛盾はしないようにも思うのだけど。水滴が落ちてくるのも忘れて笠をかぶったまま碁盤にかじりつくおじいちゃんの大人げない様子から、碁を打とうにも相手がいない、そんな「待った」の日々の長さが手に取るように伝わってくるから。
落語家はどのようにして噺を自分のものにするか。落語好きなら読んで損はない、落語家の「了見」がよく伝わる一冊。
ミステリという「形式」を借りながら、テーマはいよいよ骨太に、作家はますます饒舌になってきた印象。《ベッキーさんとわたし》シリーズ第2弾。
1930年代、軍国主義に突き進む日本。その渦中に否応なく巻き込まれてゆく上流階級の人々を描きながら、そこはさすがに「日常のなぞ」の名手、けっして韓流ドラマ的臭さを読者に感じさせないのはさすがである。むしろ抑制された筆致だからこそ、かえって徐々に暗雲に囲まれてゆくような不穏さがあるのもたしか。
主人公が、ある宴で出会った若い軍人にむかって思わず語る言葉こそ、また、作者北村薫の思いでもあるのではないか。「わたしのいう自由とは、基本的な徳に向かう行進の中で、右を向き左を向く自由です。鳥の声に耳を傾け、空の雲を見る自由です」。
ここでその正体が明らかになった「ベッキーさん」こと別宮みつ子が、続く第3弾でどのような役回りを演じることになるのか、ますます楽しみになってきた。
☆5つでは足りないくらい。《ベッキーさんとわたし》シリーズ第3弾にして、完結編。
最後に収められた表題作が、圧巻。シリーズ3作を立て続けに読んだせいもあるが、すべての物語が、まるで大きな時計を見ているかのように、ここに向かって刻々と運命の時を刻んでいたのだとわかる。第一作が「服部時計店」に始まり、この最終作がおなじ「服部時計店」で終わる構成も、そう思えば時計のように精巧だ。
月、能面、カメラ……さまざまなメタファーを通じて、この『鷺と雪』では目にみえるものの向こうには、じつは広くて深い目にみえないものが存在していることが暗示される。ことばの向こう側に、ことばにできない「思い」を汲み取ること。それは、(目前に迫った)自由にものが言えない時代にこそ大切な「力」であり、また「生きる糧」ともなるだろう。それを、ベッキーさんはその職分を超えてまで、わたしに教え諭そうとする。
「その日」を前にして、桐原侯爵の長男で軍人の「勝久」様が「ベッキーさん」に問いかけたことば、叩き上げの陸軍少尉「若月」が三冊の詩集を介して「わたし」に託したことば……。そのことばの向こうにある、思い。勝久と若月、ベッキーさんとわたしの、ドッペルゲンガー。そしてドッペルゲンガーには、不吉なイメージ、死の前兆が重なるという。
ことばの向こうには思いが、ある。その思いは、往々にしてことば以上に多くを物語る。その思いをひとが汲み取る手がかりは、ただことばしかない。その意味で、北村薫というひとは「ことば」のもつ力を信じている。
とぼけた味わいと軽みが身上の、コミカル・ミステリー・ツアーへようこそ。
「笑い」とは「緊張と緩和」だと言ったのはたしか、哲学者カントだったろうか?
イケメンなのに不器用で運動神経ゼロというこの小説の主人公にして探偵役「亜愛一郎」の存在は、まさにこの小説では破壊力抜群な「緩和」そのものとして機能している。だから、陰惨な殺人事件が起こるにもかかわらず、読者はたびたび読みながら吹き出さずにはいられない。巧妙なトリックに裏打ちされたミステリと脱力系ユーモアとが奇跡的なバランスで両立しているのだ。
地味な飛行機爆破予告を発端に、残忍な殺人事件の背後に潜む思わぬ動機が明かされる第一話「DL2号機事件」などは、いきなり意表をつくようなタネ明かしにキツネにつままれたような気分にさえなるが、それが日頃「雲」や「虫」など多くのひとがあまり気にもとめない自然観察にばかり熱中しているカメラマンによる推理と聞けば、なるほどその推理力というよりも並外れた観察眼に脱帽してしまう。ここには8つのストーリーが収められているが、全編そんな常識や先入観の裏をかくようなトリックが目白押しで飽きさせない。
ただ、毎回登場する「三角形の顔をした老婦人」はともかくとして、第一話に登場する柔道家の女の子とはいったい何者なのか?
あまりに意味ありげに登場するわりにトリックにはまったく関わってこないという……不思議。
*北村薫が選ぶミステリー通になるための文庫本100冊
自称《本格原理主義者》、アアルトコーヒーの庄野さんにすすめていただいた一冊。
北村薫が、《謎》をキーワードに選んだ古今東西の16人の作家による短編を収めたアンソロジー。さまざまなタイプの作品が含まれるが、CDにしても個性的な選曲家の手によるコンピレーションを好む自分としては、そこに「北村薫」というひとの個性も感じつつ最後まで楽しく読書した。
「謎の部屋」というこの本のタイトルにふさわしく、宇野千代/東郷青児コンビによる超現実的で、しかもどことなく淫微な匂いを放つ物語でいきなり冒頭から読者を煙に巻く。その余韻を引きずりながら読む阿部昭『桃』は、なんというかとても官能的に映る。同じトーンは次の作品『俄あれ』(里見弴)にもつづく。途中で気づく、「にわかあれ」というタイトルのダブルミーニングはなかなかパンチが効いている。終わり方はあまり好みではないとはいえ、吉祥寺が舞台の『遊びの時間は終わらない』は、落語「だくだく」を想起させるストーリーともども親しみをもって読んだ。
「昔、私が柘榴の実の中に住んでいた頃……」と始まる『柘榴』を書いたカリール・ジブランというひとは、「あとがき」として収められた宮部みゆきと北村薫との対談によればレバノン出身の作家とのことなのだが、その寓話のような語り口といいアルメニア出身の映像作家パラジャーノフの『ざくろの色』を彷彿とさせる。レバノンとアルメニアがおなじ文化圏といえるかどうかはわからないが、メタファーとしての「ざくろ」はこの一帯においてはなにか特別な意味を持つのだろうか?
これはまた、べつの《謎》。グロテスクでありながら、神話のようでもある『豚の島の女王』、星新一のショートショートにも似た『どなた?』もおもしろい。おなじ立場に追い込まれたら、たぶんぼくもこの主人公とおなじ態度をとるだろう。諦観こそ幸福への近道、か?
タネあかしの見事さに思わず唸らされるのは、ハードボイルドな『定期巡視』。『猫じゃ猫じゃ』『埃だらけの抽斗』のふたつは、銀行もの。どちらも後味があまりよくないのは「カネ」にまつわる話だからだろうか。最後に収録されたゴフスタインの絵本『私のノアの箱船』は、いってみれば映画のエンドロール。「謎の部屋」を後にして日常へと読者が戻るきっかけ。一服の鎮静剤!?
なかでも、マージャリー・アランというひとの『エリナーの肖像』は個人的にいちばんおもしく読んだ一編。イングランドのマナーハウスを舞台に、そこで変死した少女の遺志を一枚の肖像画から読み解いてゆくという本格ミステリー。恣意的に感じられた要素のすべてが、彼女を愛していた周囲の人々の記憶の助けを借りつつジワジワと焦点を結び、最後には犯人の姿をくっきりとあぶりだす。探偵の登場しないこの物語では、《謎》は彼女を慕う人々の《愛情》の力があってはじめて解き明かされるのだ。そこに言い得ない感動が生まれている。
それでも、退屈至極な日々はつづく……。将軍家の蔵書番、御書物同心の「退屈至極な日々」を描いた大好きなシリーズの第3弾。
前作に続きこの《虫姫》でも、丈太郎は「本の虫」に似つかわしからぬ勇猛な一面を見せる一方(「虫姫」「州崎」)、恋愛については相変わらずの奥手ぶりが微笑ましい(「鷽替」)。
このシリーズ、けっきょく事件らしい事件はなにひとつ起こらない。事件というよりもそれは、市井のひとびとの日々にポツンとついた「しみ」のような出来事にすぎない。けれども、読み進むにつれて登場人物のひとりひとりがそれぞれ、心の裡になにがしかの《なぞ》を隠したミステリアスな存在に思えてくるのがおもしろい。ひとの心の奥底に秘められた《なぞ》は、あるとき不意に顔をのぞかせることもあるが、むりやり暴き立てたり解き明かしたりしないほうがよい類いのものなんじゃないだろうか?というのも、「安穏さ」とは、その「暗黙の諒解」の上にあってはじめて成立しうるものだと思うからだ。だから、丈太郎を取り巻く世界の節度をもった「安穏さ」が、ときにとても美しく、かけがえのないものに映るのだろう。
たとえば、第3章「師匠の食事」。
なんて「美しい」朝食なのだろう。名人・八代目桂文楽の「芸」から受ける ─端正、緻密、モダン、色気─ といった印象のすべてが、毎朝「黒門町」の長屋で繰り返される、さながら「儀式」のようなその食事風景からも同じように感じられたのは驚きである反面、また当然のような気もした。まさにその「人」こそが「芸」そのものであり、そういう生き方が許された時代、いわば「巨匠の時代」の芸術家なのだろう(その点で、「修業中の弟子の目からみた師匠」という切り口は同じでも、立川談春の『赤めだか』とは決定的にちがっているように思われる)。
その意味で、この『べけんや』に綴られた桂文楽というひとのことばや振る舞いは、その芸をより深く理解する上で役に立つことはあっても、けっして邪魔になるということはないように思う。
また、「伝説」ともいえる「勉強し直してまいります」というよく知られる台詞がとっさに口をついて出た文句ではないと知るとき、文楽というひとの「引き際」に対する美意識に感心するとともに、その、自身をみつめるまなざしの峻厳さには凄みすら感じる。師匠の死後、著者(柳家小満ん)が五代目小さんの元に引き取られることになった経緯なども静かに感動的なエピソード。
なじみのない人種(カトリックの神父さん)が主人公ということでなんとなく敬遠していたのだが、読んでビックリ問答無用のおもしろさ。
ぜんぶで5冊、51編あるという「ブラウン神父」シリーズのうち、この『ブラウン神父の童心』はその第一作である。
最初に収められた「青い十字架」では、その後「相棒」のようにたびたび登場する「フランボウ」との馴れ初めが語れる。読者の予想をいきなり裏切るかのような思いがけない結末を迎える「秘密の庭」、密室の中で、聞こえてくる足音だけをたよりに見事犯人をつきとめる「奇妙な足音」と前半3つのエピソードだけでも十分楽しめる。変わったところでは、プロファイリング的手法で歴史上の「英雄」の意外な素顔を暴き出す「折れた剣」なども面白い。
古風な文体やさまざまな宗派を揶揄したような人格描写など分かりづらい部分、ピンとこない部分も多々あるものの、イングランドの牧歌的風景の中で繰り広げられる推理譚は昼下がりや夜更けの読書にまさにうってつけ。主人公の「ブラウン神父」は、いかにも鈍重な印象の人物が事件に直面するやいなや冴えた推理力を発揮するという典型的なタイプの探偵だが、どこか人を食ったようなとぼけたキャラクターがたまらない。個人的には戸板康二の「中村雅楽」同様、長くつきあいたい人物である。
いよいよ面白くなってきた…のは、たぶんこのシリーズを読むのも2作目となり、《ブラック・ウィドワーズ》の面々の多彩なキャラクターがこちらの頭になじんできたせいもあるだろう。
じっさい、作者のトールキンやコナン・ドイルへの偏愛から生まれたとおぼしき『殺しの噂』や『終局的犯罪』、文字や発音など言語のもつさまざまな側面がカギとなる『三つの数字』『省略なし』などアシモフの博覧強記ぶりがますます冴える、言いようによっては重箱の隅っこを突くかのような作品が前作以上に並んでいる。よって、ミステリというよりは、《ブラック・ウィドワーズ》の面々&ヘンリーの会話を部屋の片隅からワクワクしながら聞き耳立てる知的好奇心を刺激するストーリーとして楽しんだ、といったほうが正しいかもしれない。そして、けっきょく3作目にも手を出してしまうのだろうな…(アシモフの思うツボ)
「落語中興の祖」三遊亭円朝が「翻案」を手がけたミステリ(あるいはサスペンス)仕立ての物語5編を収めたアンソロジー。
円朝といえば「真景累ヶ淵」「鰍沢」「死神」「怪談牡丹燈籠」といった名作落語の作者として、また円山応挙をはじめとした幽霊画のコレクターとして知られる大名人であるが、ここでは翻訳ではなく翻案というとおり、モーパッサン『親殺し』(→『指物師名人長二』)などの海外文学を人づてに聞き知った円朝が、同時代の市井の人々にも理解しやすいよう舞台や登場人物を日本に移し、また言文一致体に直すと同時に、部分的に原典にはないシーンや人物を登場させることでよりテンションの高い作品にまで磨き上げた珠玉の《創作》作品が取り上げられている。
収録されているのは、
『英国考子ジョージスミス之伝』
『松の操美人の生埋』
『黄薔薇』
『雨夜の引窓』
『指物師名人長二』
の5作品。表題には「探偵小説」とあるがべつに誰かしら「探偵」が登場し謎解きをするわけではなく、どれもどちらかといえば「ミステリ的要素、あるいはサスペンス的要素の強い人情噺」といった趣きである。
円朝というひとはつくづくモダニストであったのだと、ところで、このアンソロジーを読むとよくわかる。ひとつには、やむにやまれぬ事情があったといはいえ芝居噺の世界を離れ、扇子と手ぬぐいのみであとは「ことば」の力だけによる素噺へと転向、近代落語のひとつのスタイルを築き上げた改革者であるという点で。もうひとつには、みずから江戸時代に生まれ江戸の美学を貫くことに執心しつつも、明治維新後の近代国家の礎を築いた思想家や文学者などと積極的に交わることで、異文化をどん欲にみずからの「芸」に吸収していったという点で。円朝による《翻案》のプロセスについては、それが比較的明らかな「指物師名人長二」についての考察「『名人長二になる迄』〜翻案の経路」が余録として収められているので、それを読むと面白いと思う。
江戸から明治へ、その移り変わりを「激動の時代」と呼んで片付けてしまうことはかんたんだが、実際そこに居合わせた人々にとってはとても容易には受け容れがたい、しかし差し迫った大問題であったにちがいない。思うに、この《翻案》という作業は三遊亭円朝にとって、「落語」という芸を「要」として、江戸と明治というふたつの時代を結びあわせ、乗り越え、受容するためのひとつの試みだったのではないか。その意味で、円朝はその翻案物を通じて同時代の、同じ境遇を生きる市井の人たちのための「水先案内人」をみずから買って出たのだ、とぼくはなんとなくかんがえずにはいられない。心やさしき名人の姿がそこにある。
雨音に催促されるようにして、積ん読の山から掘り出してきてポツポツと読み始める。
堀江敏幸の書く散文は、どこか音楽に似ている。ポンと心を打つ響きもあれば、よそよそしく響く和音もある。時間を経て、抽象的な響きの奥からひょっこり顔をのぞかせるひとなつこい旋律がある。そしていつもこのひとの散文を読むとき思うのは、そこに置かれた「ことば」を読むことでもたらされる余韻のようなものに浸りたくて読むのだ、ということである。そこで鳴らされる音以上に、それによってもたらされる余韻に浸りたくて聴くモンポウの音楽のように。
個人的に大好きな天野忠翁の詩とともに、柔らかく、軽い「むかし」が行間からこぼれ落ちる「メロンと瓜」、身の回りの壊れたものを必要にせまられて「取り繕う」行為から日々を送るということへ、アナロジーの飛躍が不意に視界が開けたかのような錯覚をもたらす「日々を取り繕う」など、いつもながらちいさな「気づき」に満ちた散文集。
戸板康二の評伝。
① 名探偵「中村雅楽」のルーツを探って。
② 大正デモクラシーの落とし子たるモダニストの肖像。
ふたつの《視点》から読む。
① 作者みずから探偵「中村雅楽」シリーズのあとがきなどで明かしているように、このキャラクターは数人の実在する人物たちによるモザイクとして生み出されたものらしい。この評伝では、「推理小説作家」戸板康二についてはわずかしか触れられていないものの、その人柄に「親炙」する「若い友人」矢野誠一の目に映った戸板の言動は、どことなく、と言う以上に「中村雅楽」に似ている。著者、矢野誠一が強調するいかにも「山の手の東京人」らしい品格、人間関係における絶妙な間合いなど、まさに中村雅楽に通じる部分であり、大きな魅力のひとつといえる。
ちょっとしたことだが、この本の冒頭で披露される少年時の改名にまつわる戸板本人による安楽椅子探偵的な「推理」などに触れると、まさしく雅楽本人のようでついうれしくなってしまう。交友関係については、著者をふくむ「若い友人」たちに慕われ、始終にぎやかに囲まれていた反面、久保田万太郎や折口信夫のような一癖も二癖もある年上の「怪人」からも信頼され可愛がられていた。他方、同年代との腹を割った付き合いは苦手だったのか、あまり登場しないような印象を受けた(実際のところはどうだったのだろう?)。
② 物心ついたときに大正デモクラシーの空気を吸い込んで育った人物には、軽快で、やわらかい心のモダニストが多い。著者も本文中でその人柄をたびたび「しなやかな自由人」と評しているとおり、1915年生まれの戸板康二はまさにその世代の人物の特徴を持ち合わせているように思われる。じっさい本人にもそうした意識はあったようで、そのことは「兄は、つねづね自分がとてもいい時代に育てられたことを感謝していました」という弟の言葉からもわかる。戸板康二の「人のよさ」を説明するのに著者はおもに「山の手育ちの東京人」という点を強調しているように思えるが、それにくわえてやはり徒花のようにいっとき花開いた「大正デモクラシー」という時代の影も同じくらい大きな要素として取り上げられてよいだろう。
父親に連れられて行った「平和祈年東京博覧会」など本文で引かれているエピソードからも、その時代の開放的な空気や幼少時の甘い記憶が伝わってくる。だから、植草甚一や吉田健一といった東京という場所と大正という時間が生んだ稀代のモダニストとして、個人的には「戸板康二」という人間に魅力を感じずにはいられないのである。
「いまの洋食のまずいのは、その匂いの良さを失っているからである」と映画監督であり、食通としても知られる著者は力説する。明治〜大正にかけての東京下町の食卓にあがる「下手(げて)な味」への郷愁、その味以上に魅力的な洋食の「不思議な魔法のような芳香」、その土地でしか出会えない味の数々……。
一章まるごと「親子どんぶり」に捧げた第2章では、「におい」を失った親子どんぶりを嘆き、「親子が退廃したのではない。文明が敗退したのである。いまの世の食物のまずさが、親子どんぶり一碗のなかに結集しているのである。昭和元禄文化の劣性が、親子どんぶりで象徴されているのである」などと壮大に持論を展開してみせる。
その一方で、酒を「コキン、コキンと飲んだ」、「紀州沖をすぎると、サンマはドカッと不味くなる」といった言語感覚もおもしろい。椎名誠じゃないよ。明治生まれ、執筆当時69歳のおじいちゃんの言葉である。ウスターソースの「A・ペリンズ」(リーペリン?)、「まめさんたいさん」(まめさんたいたん?)など記憶ちがいと思われる箇所もままあるが、ここは昭和のおおらかな仕事ということで大目に見ておくべきかもしれない。
しかし、「食べものダンディ学」などという素敵な副題を備えておきながら、それを打ち壊すかのような永六輔によるコメントを冒頭に引用するあたり、いかにも東京っ子らしいユーモア精神である。
東京を、モダニストたちの歩幅でぐわしぐわしと闊歩したくなる一冊。『日本のアールヌーヴォー』で世紀末の、『モダン都市東京』で20年代の「東京」の姿をみごとに浮き彫りにした海野弘が、ここでは1910年代の東京をとりあげる。
20年代に花開く大正デモクラシーへの、どちらかというと過渡期とかんがえられてきた10年代だが、芸術家たちの意識の上である大きな変化が起こったのがこの時代であると著者は言う。具体的にいえば、00年代の画家たちにとって芸術とは「職業」を意味していたのに対し、10年代の画家たちにあって芸術とは「みずからの生き様そのもの」であった、と。
交通手段や複製技術の進歩によって相互に交流が生まれ、西欧の芸術運動と時間差なくリンクすることができるようになったことで「個」としての意識が日本の芸術家たちの中に芽生えたのがこの時代なのである。西洋/東洋という「空間軸」、明治・大正・昭和という「時間軸」ではなく、日本の近代アートを「年代」によって西欧のアートとひとつかみで捉える必要を著者が説くのはそのためである。
それぞれのエッセイすべてがするする読み進むことを邪魔するくらい刺激的であるが、たとえば「川端康成の都市彷徨」、東京をみつめる川端の「まなざし」のデリケートな変化をみごと逃さず捉えた論考の鋭さには思わず唸らされる。モダン都市東京の「へそ」がすでに浅草から銀座へと移った二十年代の終わりに、川端は浅草への「回帰」を力説する。「欧米の直訳」にすぎない銀座に対して、東京のどん欲な「胃袋」であり「大胆な和洋混合酒」である浅草に川端は日本独自の都市文化を生み出す可能性の中心をみたのである。そして、それはまぎれもなく三十年代の先鋭的な文化人ならではのまなざしといえる。日本主義や西洋と東洋の融合といった彼らのイノセントな思想は、やがて軍国主義にのみこまれることで骨抜きにされるだろう。
文学や美術が、「個」としての芸術表現であると同時に、その時代に生きた人々の息づかいを生々しく刻みこんだすぐれた都市表現でもあるということをこの本は教えてくれる。
ナゾ多き人物ではあるが、現代に続く「お笑い」の種をまいた人物であるという点ではまちがいないだろう。
三井財閥の発展に貢献した明治の大実業家の御曹司にして、数々の喜劇、レビュー、落語、小唄や端唄の作者として人気を博した益田太郎冠者こと益田太郎の評伝である。著者は元毎日新聞社学芸部の記者で、「ハイカラ通人」なるタイトルで獅子文六が連載する予定だった太郎冠者を主人公とした新聞小説の担当記者だった。ところが、いよいよ連載が始まろうというそのときに獅子文六が他界、獅子のために準備した取材ノートを元にいわばその遺志を継ぐようなかたちで書かれたのがこの本である。
太郎冠者のホームグラウンドは、みずから取締役を務めていた帝国劇場の「女優劇」だった。洋行帰りならではのバタ臭い笑いのセンスに大正期の観客たちは拍手喝采し、劇場はつねに大入りだったという。制作費が足りなくなると、毎度ポケットマネーで補って思い通りの舞台をつくるというほどの熱の入れようで周囲を唖然とさせた。なにせ、中学生の身分で品川の芸者を総揚げして自宅で宴会を開いてしまうほどの規格外の金持ちゆえ、そんなこともできたのである。しかし反面、それゆえ同時代の演劇人やインテリからは評判が悪かった。曰く「金持ちの道楽」。
太郎冠者は、帝劇の経営が松竹の手に渡った1930年を機に筆を折る。それにはさまざまな事情があったようである。個人的には、軍国主義へと向かう小さな足音が太郎冠者の耳には聞こえていて、もはや自分の出る幕ではないという思いがどこかにあったのではないか(時の警視総監、丸山鶴吉によるカフェー大弾圧は1929年のことである)。しかし一方で、太郎冠者のまいた種はあちらこちらで確実にその花を咲かせようとしていた。金龍館時代の浅草オペラの第一回興行では太郎冠者の手になる「唖旅行」が取り上げられているし、後には「コロッケの唄」や「おてくさん」が取り上げられ庶民の間でも大ヒットしている。また、関係者の証言をもとに、宝塚の『モン・パリ』や『パリゼット』といったレビューが太郎冠者の作品を下敷きに誕生したことを突き止めたのは著者である高野氏による大発見である。益田太郎冠者は、やはり日本の1920年代をつくったひとりであった。
それが「何か大正といふ時代を象徴してゐるやうな気」がするという理由で、久保田万太郎は自身が社長兼編集責任者を務める雑誌「日本演劇」に益田太郎冠者についての論評を書くよう渋沢秀雄に要請する。言論統制下にあった昭和二十年の話だ。なんの思想もなく批判もない、ただただ「笑のための笑、娯楽のための娯楽」(渋沢)をめざした太郎冠者の作品にあえてその時期スポットライトを当てようと考えた久保田の「思い」について、少し深く考えてみたい。少なくとも、そんな罪のない爽やかな「軽さ」に人々が笑い転げていた時代を、しばし振り返ってみたかったのかもしれない。
太郎冠者作の落語については、現在よく取り上げられるのは「宗論」「かんしゃく」「堪忍袋」といったところだろうか。寄席で頻繁に遭遇する「動物園」も太郎冠者の作だとする声もあるようだが、それを裏付ける証拠はいまのところないとのこと。晩年の太郎冠者から贔屓にされていた六代目春風亭柳橋は、「洋行帰り」という噺を太郎冠者に直接稽古をつけてもらったのだそうだ。「女天下」は、正岡容によれば、初代三遊亭圓左が舞台をみて落語化したとのことだが、正確なところはやはりわかっていない。現在では、六代目の蝶花楼馬楽を経て柳家小袁治師がしばしば高座にかけているようである。いつか聴いてみたいものだ。「かんしゃく」に登場する口うるさい主人は、なんでも太郎冠者にそっくりだそうである。つねに同時代や同時代人を容赦なくネタにして笑いをとることで人気を博してきた太郎冠者だが、ときには自分自身ですら笑いのタネにしてしまうその道化精神に、「余技」と呼ぶにはあまりにも徹底した《喜劇人》としての矜持を感じずにはいられない。
ぜいたくってなんだろう?「私自身は、ぜいたくな生活をほしいままにできる人間ではないし、また、しようとは思わない」と言う著者が、それでも魅力を感じずにはいられない「正しい意味で、ぜいたくな生涯を送った先人」たちを取り上げ、戸板流「ぜいたく」の定義を示してみせたのがこの本。
光村利藻の愛妾
十一代目片岡仁左衛門の豪遊
谷崎潤一郎の四季
吉田茂の白足袋
横山大観の富嶽図
大倉喜七郎のホテル
藤原義江の女性
内田百閒の御馳走
長谷川巳之吉の出版
徳川義親の虎狩り
西条八十のかなりや
小林一三の宝塚
堀口大学の月光
梅原龍三郎の北京
鹿島清兵衛のぽん太
花柳章太郎の衣裳
御木本幸吉の真珠
福地楼痴の團十郎史劇
益田太郎の喜劇
志賀直哉の座右寳
五代目中村歌右衛門の下げ髪
薩摩治郎八のパリ
西園寺公望の清雅
明治の大富豪から実業家、歌舞伎や新派の役者、芸術家らのそれぞれの「ぜいたく」が紹介されるが、そこはなんというか「戸板マジック」とでもいうのか、読み進めてゆくうちになぜかその人物に対して好感をおぼえてしまうのが不思議である。戸板康二は、人物を語るときつねに「加点評価」するひとである。ある人物の繊細なところ、独特のところ、鋭いところ、新奇なところばかりを巧みにすくいあげてゆく。意図的にというよりは、それはきっと戸板康二というひとの「人間のよさ」に由来しているという気がする。あとがきで「ぜいたく自身が人徳になっている人たちが、私にすがすがしい余韻を残してくれた」と語っているが、戸板康二というフィルターを透してこそ、読者もまたここに登場する人物たちの豪放な生き様に「すがすがしい余韻」を感じるのである。ぜいたくとは、「物質的な奢り」ではなく、ある人物をその人物たらしめている心の棲み処のようなものなのだろう。
ここで語られる東京の20年代は、なぜこうも《苦い》のだろう。
大学生のとき夢中で読んで以来、ひさびさの再読。あらためて読んでも、やっぱり十分に刺激的な論考だ。明治期の画家のしごとから日本の世紀末を探った『日本のアールヌーヴォー』、おなじく大正デモクラシーの胎動期といえる1910年代を論じた『東京風景史の人々』とくらべると、この『モダン都市東京』は少しばかり読みにくい。小説や詩といった文学作品における都市表現から《20年代》(著者の定義によれば大正7、8年から昭和7年くらい)の東京を読み解くという試みのため、どうしても観念的にならざるをえないせいもあるだろうけれど、それ以上にやはりそれは《20年代》という時代のとらえどころのなさによるところが大きいのではないか。
「日本の《20年代》は失われている。それはまるで、存在しなかったかのように、切りとられ、前後がそれをはずして縫い合わされてしまっている」と海野弘は言う。多くの作家たちが東京という都市にあこがれ、東京を描こうと格闘しながらも、結果的に彼らは十分に都市を表現することでその時代を描き出す技法を編み出せないまま《都市》に別れを告げてゆく。その原因は、「ファシズムへと傾斜してゆく国家権力の弾圧による沈黙という外的なものであると同時に、都市表現の未成熟と行き詰まりという内的なもの」でもあった。じっさい、テクノロジーやメディアの進歩により東京は20年代、いまだかつてないスピードで変転していたし、作家たちにとっては影法師のようにするするとその手から逃れていってしまうような感覚だったにちがいない。そのあたりは、20年代を象徴する都市である「銀座」の特徴を、郡司次郎正、上司小剣、貴司山治らの作品から「すべてのものを出会わせ、混ぜ合わせ、媒介する」という空間性にあるとする第5章、第6章にくわしい。また、「雨の降る品川駅」という中野重治の詩に鋭い解釈をほどこした第11章は、「詩」を文学という局面からだけでなく、川柳や盛り場案内記、ルポルタージュなどをふくむ「都市表現」のひとつとしてとらえるべきと主張する海野弘の真骨頂で、全体の中でももっとも読み応えのある一章であった。
個人的な関心はこれまで、大正デモクラシーをつくった世代/大正デモクラシーを享受した世代にあったのだが、ここで取り上げられているのはいわば「大正デモクラシーを懸命に生きた世代」である。その多くは19世紀末に生まれた地方出身者であり、東京にあこがれ、その理想と現実のはざまで揺れ動きながら20年代に創作に打ち込み、30年代には失敗や挫折を経験する芸術家たち。この本は、彼らの格闘と挫折の痕跡に東京の《失われた20年代》を発見しようという試みであり、読みながら通奏低音のようにつきまとう《苦さ》の理由もまた、そこにある。その中では、雑草のように新宿に根っこをおろししたたかに生き抜こうとする林芙美子や平林たい子の姿は印象的で、一服の清涼剤となっている。
なぜか、この短編集では作家による「あとがき」が作品ごとに付されていて、このシリーズを読み出した当初こそ「これって必要?
蛇足じゃね?」と思っていたのだが、いつのまに、むしろちょっと楽しみに読むまでになってしまったのは、しばしば語られる初出時のタイトルをめぐっての《応酬》がことのほか愉快だからである。そして、その相手こそ、「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の当時の編集長フレデリック・ダネイなる人物。
《応酬》とはいえ、作家本人によるあとがきゆえ攻撃は一方的なもので、たいがいは原稿を受け取ったダネイ氏によってあたえられたタイトルが「よろしくない」というものだが、ごく稀に、ダネイ氏によるタイトルの方に潔く軍配をあげることもある。けれども、その《応酬》の背景にふたりの強い信頼と友情が感じられなんともほほえましい限りなのだ。そう、ちょうど黒後家蜘蛛の会のメンバーにして、「犬猿の仲」であるルービンとゴンザレスのように。
内容は、第一巻から読んできたなかではこれがいちばん読みやすかった(逆に読みにくかったのは前刊)。読みやすいというのは、たぶんよりスノビッシュではないという意味で、そのぶん切れ味もやや鈍くなった印象もあるし、この巻ではこれまでにはなかった「椿事」が起こったりとそろそろ遠くに「黒後家蜘蛛の会」の終焉が感じられて愛読者としてはややしんみりした気分にもさせられる。残された最後の楽しみをいつ読もうか、目下思案中である。
PS.「フレデリック・ダネイ」なる人物について知りたくて調べてみてはじめて、エラリー・クイーンが「藤子不二雄」だという事実を知る。ハハハ
″A House is not a Home″というバカラックの名曲を思い出す。明治から大正、そして昭和という激動の時代を舞台に、ひとりの「異端の」建築家の姿を6つのエピソードからあぶりだした不思議な風合いをもつ物語。
「家」とは奇妙なものである。たいがいの「家」は地面に建つ。物理的にはもちろんのこと、メタフォロジカルな意味でも、また。だから、ときに「家をもつ」ということはそのまま、そこに暮らす人間の〝現世への執着の現れ〟でもある。ところが、主人公・笠井泉二のつくる「家」はちがう。それは、現世に定着できず、ふわふわと宙空に舞っている依頼人の「思い」をかきあつめ、そこに納めてやるための「うつわ」、あるいは「モニュメント」のようなものとして描かれる。その意味で、主人公はみずから宙空を舞いながら人々のやりきれない「思い」を回収する、まさに天使的存在なのである。
彼の建築は普遍的ではないが、だれか一人のために役立つと語る、笠井の理解者である卯崎教授のことばが心にしみる。その後の主人公は、大陸でいったいどんな「街」をつくったのだろうか?
ほんのりとあたたかい心持ちで本を閉じた。
余談。主人公が暮らしているのは小石川植物園にほど近いところとなっているが、そこは当時「貧民窟」として知られた場所である。華族や実業界の大立て者をクライアントとし、みずからもけっして貧しくはなかったであろう主人公に自身の「家」としてあえてこうした土地を選ばせたところに、作者の、天上と地上とを自由に行き来する中間的存在に対する考え方を透かし見ることができておもしろい。装幀は、有元利夫が描いた作品であったなら……と個人的には思わずにいられない。
人間のよさ。戸板康二が描く「中村雅楽」という人物の魅力をひとことで言えば、そういうことになるのではないか。
鋭い観察力と洞察力とで身の回りに起こる「面白い」事件(「日常の謎」と言ってもいいが)を鮮やかに解決しながらも、そこにはいつも人間のあたたかい血の流れが感じられるのだ。それは、主人公「中村雅楽」が歌舞伎役者(しかも名門の出ではない)として人生の大部分を劇場で過ごしてきたことと無関係ではないだろう。役者はひとりでは生きられない。相方や脇役、裏方としてはたらくたくさんの人々、そして劇場に足を運ぶ観客がいてはじめて、舞台の上でスポットライトを浴びることができる。雅楽の、事件の当事者に対する慈愛にみちたまなざしはまた、そのように人は人を支え、人に支えられているという事実を彼がわきまえていることの証左であるだろう。
中村雅楽探偵全集の第3弾となるこの『目黒の狂女』では、これまで以上にそうした雅楽の「善さ」を感じさせる作品が多いような印象を受けた。このシリーズが発表年代順に収録したものであることからかんがえれば、そのような傾向にはこの時期(おもに昭和50年代)の作者の心境が映し出されているといえるかもしれない。この巻のおしまいに収められた『木戸御免』など、まさにそんな戸板流ヒューマニズムにあふれた佳作ではないだろうか。
そのむかし新劇が盛んだったころ、シェイクスピアの戯曲なども歌舞伎にならって見せ場だけを上演するようなことが行われていたらしい。雅楽の口を介してそんな大正期の演劇界の姿を知ることができるのもまた、このシリーズを読む愉しみのひとつである。
はたして『銀河鉄道の夜』へのオマージュなのだろうか……?忌まわしい記憶とともに抹消された「まぼろしの廃線跡」をめぐるパラレルワールド譚。ふだんこの手の小説に縁がないため、こうした設定が古いのか新しいのかはまったく判らず。
人の一生というのは鉄道に乗るのと似ている、と鉄オタの平間さんは語る。「どこへでも自由に行けるかのように見えて、じつはそれほど自由があるわけではない」。すすむべき線路は一本ではなく、ところどころに乗り換え駅もあるけれど、うっかりすると「目指しているのとは全くちがう場所へ連れていかれてしまう」のだ。そんな平間さんが、ある日、忽然と姿を消してしまう。そして若い友人である菜月さんと主人公であるぼくは、わずかな手がかりをもとに消えた平間さんを捜して「まぼろしの廃線跡」をめざすのだが……。
ラスト、主人公の抱く不安は、菜月さんへの愛情と表裏一体をなすものであり、その意味で、大切な誰かを愛するということはまた、そこから逃げることのできない一本のレールの上にあって不安とたたかい続けることでもあるのだろう。
この世に産み落とされ、その後数奇な運命を辿るのはなにも人間だけの専売特許ではない。「もの」だって同じこと。いや、むしろ自分の意志で移動できないぶん、「もの」の一生のほうがじつははるかにドラマティックといえるかもしれない。
というわけで、これは一個の青磁の経管をめぐる物語である。壷が「主人公」というので、壷がいきなり自分の人生についておしゃべりを始めるのではないかと心配したが、もちろん、そういうことはない。さまざまな偶然が重なり、さまざまな「家」を転々とする青い壷。そうしてその壷は、それぞれの場所で、思いがけずそのときどきの持ち主の心(それは美しい思い出であることもあれば、ときに醜悪な虚栄心だったりもするのだが)をまるごと映し出す鏡になる。最後、一見無関係と思われるエピソードが唐突に挿入されるが、そこから一息に導き出される決意が清々しい読後感をあたえる。
「弓香と律子は手を繋いで部屋を出た」。ごく短いセンテンスだが、50年ぶりに再会した女学校時代の旧友たちの時間を一気に巻き戻してしまうあるエピソードの後ろに置かれるとき、そこに彼女らの歳月が凝縮されて鮮やかに立ち上がる。いまの感覚からすると、それぞれの物語の描き方は往年のホームドラマのように大仰で滑稽な印象を拭えないものの、こういうハッとするような瞬間とたびたび出会えるのが、読んでいてなんとも楽しい一冊だった。
トラウマ?
はたまたナントカ症候群?
運よく「巨匠の時代」に居合わせてしまったがために、その後ずっと食い足りない気分を抱えながら過ごさざるを得ないこういう《不運》のことをはたしてなんと呼ぶべきか?
この『落語家の居場所』という本について、志ん生や文楽、圓生ら往年の「巨匠」たちと身近に接してきた筆者は、「むかしほど落語にのめりこむことのできないでいる自分」を発見し、それでも断じて「團十郎爺い」にはなりたくないと抵抗をみせながらも、けっきょくは「世紀末落語論」をめざしたつもりが「『よき時代の落語讃歌』にかたちを変えてしまった気味がある」と告白する。
とはいえ、この本からは年寄りの昔話に付き合わされたようなうっとうしさはほとんど感じられない。ひとつには、それは筆者が過去と現在とを比較するような書き方を意識的に避けているからだろうし、もうひとつには、現在にも通じるや寄席の「気分」といったものが、さながらRPGの「アイテム」のようにこの本の随所に隠されて(?)いて、そのつどいろいろなことにあらためて気づかされるからではないか。
「つまり、ふだん着で、ふだん使っているものを手にして、ふだんの声で、ふだんの言葉ではなすのが、落語なのである」(「古今亭志ん生の執念」)
これからの新作落語について。三遊亭圓歌の「中沢家の人々」や林家木久蔵(現木久扇)を引き合いに出しながら(風俗描写やナンセンスな状況ばかりにたよらない)「ますますパーソナルな色彩を加えていくような気がする」(「寄席」94.2.16)
三代目小さんと圓遊についての夏目漱石による評をとりあげ、小さんの方を持ち上げるのは漱石が「なにより江戸趣味のひと」だっかからと指摘、むしろ「新しい時代にふさわしい感覚」にあふれていたのは圓遊の方であった(「世紀末落語論」)
今日の落語を取り巻く状況について、聴衆をふくめた当事者たちのその危機感の薄さは四半世紀前とまったく変わっていないと指摘する一方で、そのぬるま湯につかっているような居心地のよさがかえって「激しい世の移り変わりという時間の流れのなかで、少しも動かない静かな時間をつくり出していたことに、じつは最近になってやっと気づいた」(「世紀末落語論」)
生涯つつましい長屋暮らしを通したことで知られる彦六の正蔵師匠に、反面、コーヒーは自分で挽いた豆をサイフォンでたて、食堂車でオートミールの食べ方を著者に得意げに教授し、「落語家のなかでホームスパンのジャケットを最初に着」るようなモダンな横顔があったことをはじめて知った。へぇ〜(「林家正藏の反骨精神」)
その他にも落語好きには刺激的なエピソードや指摘が多数。
「江戸」と「東京」とがせめぎあう、さながら汽水湖のような1920年代の浅草。その浅草に生きる人々の暮らしを、ひとりの少女の目を通して活写した素晴らしいエッセイ。季節の到来を告げる年中行事の数々、無駄を出さない生活の知恵、どんなときにも背筋をシャンと伸ばした浅草の女たち…… そうしたひとつひとつが、まるでその場に居合わせているかのようにくっきりと像を結ぶ。少女時代の沢村貞子の観察眼、文章の腕前も見事だが、ひとりの大女優を育んだ1920年代の浅草の庶民の暮らしの《豊かさ》を見抜き、筆をとることを勧めた花森安治の編集者としての目利きぶりにも拍手をおくりたい。
《ブラック・ダリア》とは、ロサンゼルスで惨殺されたひとりの女に献じられた呼び名である。
猟奇的な殺人事件とその核心に迫ろうとする警官が主人公という点で、これはれっきとした犯罪小説であるが、と同時にこのフィクションの肝はもっと別のところに、《ブラック・ダリア》という女の存在によってはからずも自身が抱える心の闇に向かい合わざるをえなくなった人々の孤独な葛藤とその悲劇的結末を容赦なく描き出すところにあるようだ。ひとつの事件をきっかけに、平和な日常がアリ地獄のようにグズグズと崩落してゆくことの恐ろしさ。息をのむようなスピード感とは無縁。物語は、からまった糸を忍耐強くほどいてゆくようにジリジリした歩みで進んでゆく。
全編を貫く生々しさ、不吉さは、ロサンゼルスの暗部を身をもって知りつくした著者ゆえだろうか? 読者にもそれ相応のタフさが要求される。
父権的なるものを失ったとき、ひとりの女としてどう生きるか?
母娘3代の生き様のちがいを描くことで、この3部作はあざやかに明治から大正、そして昭和という時代を映し出す。
3作通じてif(「もし…」)の用法を使うことで、「男」の死、あるいは消失によって「女」の生を描くという手法がおもしろいが、同時にそれぞれの時代を象徴するものとして、独自の工夫で一目置かれる湯葉屋、芸術的な染織にこだわりをもつ呉服商、そして当時「一丁倫敦」などともてはやされた丸の内ではたらく「タイピスト」といった仕事がえらばれているのが興味深い。
海野弘にならって1910年代、20年代、30年代という区分で読んでゆくと、またひと味ちがう眺めがひらけてくるのも印象的。第3部『丸の内8号館』の主人公・恭子は、じぶんの母や祖母とちがい、最後にはみずから父権的なるものに引導を渡すことでみずからの人生を歩き出そうとする。物心ついた時分に、浅草という当時の東京の「へそ」で道楽者の父親に溺愛されて育つことで大正デモクラシーの甘い蜜の味を知ったいかにも30年代の女らしい生き様だし、またそういう道しか選べないことでひとつの時代の終焉をまざまざと知らしめるのだった。
迷惑千万な人々。「商売を始めたら、手伝ってくれるね?」「ああ、いいですよ」うっかり返事してしまったばかりに、ある日突然、詩人・草野心平が開いた居酒屋の板前をやらされることになってしまった千代吉さんの怒涛の日々を綴った回想記。
しかし、それにしても、そこに集う人間どもの、揃いも揃ってなんと迷惑千万なことか。営業時間は完全無視、深夜に板前を拉致して他人の家を強襲、店主も入り乱れての殴り合いの喧嘩は日常茶飯事、増える一方の借金……ハッキリ言って常連客のほぼ全員が酒乱である。それがまた、みな綺羅星のごとき作家や文化人、事業家ばかりなのだから空いた口もふさがらない。そしてその喧騒に付き合わされ、尻拭いをさせられるのはいつもきまって千代吉さんときまっている。
それでも、たとえどんな目に遭わされようとも、千代吉さんの心平さんに対する忠誠心、忍耐強さ、心優しさは変わらない。本当に、千代吉さんは心平さんのことが大好きなんだなァ。
PS.思いがけず、戸板康二の名前が出てきたのには驚いた。彼もまた、酒好きらしく「火の車」の客人だったのである。
上巻
史上最悪の夏休み。白夜の北欧スウェーデンのスコーネ地方が舞台のクライム・ノベル(厳密には”警察小説”というらしい)。
北欧が、表面的にはもっとも美しく明るく輝く季節に、その裏側で繰り返される凄惨な殺人事件。その極度のコントラストは、ごくふつうの生活を送っている人間がその裏では陰惨な事件を引き起こすもうひとつの顔を持っている、というこの作品の中の犯人像と重なる。
主人公の警部ヴァランダーの「繊細さ」「小心さ」が、ときに捜査の上では武器になっている反面プライヴェーとではぐだぐだなところが可笑しい。
下巻
ふだんは人一倍読むのが遅いのに、半日で読了。新記録。
センテンスが短いのでリズムよく読み進むことができる。淡々と進みながらもいや増してゆく緊張感。訳者の手腕かもしれない。
北欧のひとびとがいかに夏休みを楽しみにしているか?
彼らがどのように夏を過ごすのか?
マイペースで、いなたい登場人物たち……(事件は悲惨だが、なんとなくの〜んびりした印象なのはそれゆえ?)。「北欧の人と暮らし」という視点から読んでも、なかなか興味深い一冊。
フィンランドを舞台に、女性刑事マリア・カッリオが活躍する警察小説だが、主人公はもちろん、被害者や被疑者にいたるまでそのすべてが「女性」という一風変わったミステリ。作者レヘトライネンも当然、女流。
ある冬の日、雪に覆われたヘルシンキ近郊の森の片隅で、男子禁制のセラピーセンター「ロースベリ館」の女主人が死体となって発見される。さっそく捜査に乗り出す男勝りのマリア。ところが、犯人探しと平行して、マリアの身に、《女性》性を意識せざるをえないある事件が起こるのだった。そして、突然見舞われた状況に逡巡しながらも、星座をつなぐように事件の真相は徐々にその全貌を明らかにしてゆく。
世界的にも女性の社会進出が進んでいることで知られるフィンランドから、こうした切り口の作品が登場することが興味深い。必ずしも、男女平等の夢の国ではないという現実。社会制度とはべつのところに、厳然と存在しつづける性差をめぐる差別意識の根深さ。現代の北欧社会が抱えるさまざまな問題を知るうえでも、とても参考になった。
全体にほろ苦いストーリーであるが、そんな中がさつなマッチョイズムの権化のようでありながら、マリアに対して人一倍繊細な気遣いをみせる同僚ペルッティの存在が微笑ましい。
シリーズ「刑事マルティン・ベック」第一弾。犯人の動機に意外性があり、またそこに1960年代当時のスウェーデン固有の匂いのようなものが感じられる。
主人公が「頑固」「論理的」「沈着」という「警官として誇るべき3つの貴重な資質」に恵まれているのは本当としても、とはいえ、けっして「全能ではない」という点で警察小説ならではの醍醐味(?)は健在。じっさい、ここでも、地方の警察署や婦人警官、アメリカの片田舎の刑事などさまざまな個性的なメンツを巻き込みながら難事件の捜査は進められてゆく。それはけっしてすべてにおいて美しいチームワークとはいかないが、いざという場面でそれぞれが自分の役割を見事に演じ切っているところが気持ちいい。
美しく輝かしい夏に湖水地方で発生した事件が、なんの解決の糸口も見出せないまま季節は移ろい、秋を過ぎ、やがて不毛な冬へとさしかかる。この季節の経過がもたらすやるせなさに北欧人マルティン・ベックの焦燥感がシンクロし、沈鬱なムードを醸し出す。相手の性格を見抜き、巧みな尋問で自白を引き出してゆくマルティン・ベックの手腕はお見事。次作への期待も高まる。
持っているのは角川文庫の旧版。古書で探すなら新版(画像)より、日暮修一による装丁のすばらしい旧版の方をおすすめしたい。
刑事マルティン・ベック、シリーズ第2弾は東欧ハンガリー編。冷戦下のブダペストで忽然と姿を消したスウェーデン人ジャーナリストの行方を追って、夏休みを〝24時間〟で切り上げたマルティン・ベックは単身ハンガリーへと飛ぶ。彼をつきうごかすものはただ、「どんな任務でも引き受けて、解決にベストを尽くそうとする本能」、一種の「刑事根性」にほかならない。
東西が分断された冷戦下のヨーロッパにあって、政治的な思惑から思うように進展しない捜査、麻薬密売組織、尾行者の影……
とさまざまなに伏線を張りめぐらしながらも真犯人は意外なところに。前作『ロゼアンナ』のカフカ刑事につづき、ベックは今回もハンガリーですばらしい協力者を得る。幸運な刑事なのだ。〝水と油〟な印象の同僚コルベリとも、ますます不思議に息があってきた。
犯罪小説と呼ぶには、前のめりになった読者を軽くいなすような結末はあまりに淡白すぎる気もしなくもないが、いっぽうで、絵葉書のように風光明媚なブダペストの夏を堪能できるのがこの本の最大のポイントとなっている。それは、待ちに待った夏休みを取りあげたことに対する、作者からのベック刑事へのせめてもの「罪滅ぼし」だろうか?
土曜ワイド劇場的な観光気分も満点。ラスト、バカンスに戻ったベック刑事に対する妻の態度が、不気味(笑)。
〝刑事マルティン・ベック〟シリーズ第4弾は、ストックホルムが舞台。「都会」が舞台ゆえ、ここではさまざまなパターンの「目撃」がストーリーを生んでゆく。見ていないようで見ていたり、偶然に見たり、こっそり見たり、あるいはまた見ているようで見ていなかったり……都市では無数の視線が交錯し、事件はその網の目のすきまに起こる。いわゆる都市型犯罪である。
連続強盗事件と連続少女誘拐事件、ふたつの神出鬼没に発生する事件を追いかけるマルティン・ベックらいつもの面々(今回新たに「グンヴァルド・ラーソン」なるなかなか強烈なキャラクターが加わる)は、クモの巣のように複雑に入り組んだ無数の「視線」に絡めとられてしまったか、今回ばかりはいつになく切れ味が鈍いようだ。そのかわり、ここでは市中を巡回している警官たちが思わぬ活躍をみせるが、それは彼らもまた、ある意味〝都市の目撃者〟なのであり、ときに「見ること」にかけてはマルティン・ベックら以上に〝プロ〟と呼べるからである。しかしこの、あえて「ヒーロー」をつくるのを拒むかのようなラストの呆気なさは前作同様。そこがまた、いかにも北欧らしくもあるなぁ。
11月。長く厳しい冬の到来という〝現実〟を目の前に突きつけられる、北欧の人びとにとってもっと暗鬱な季節にその事件は起こる。ストックホルム市内を運行する路線バスの車内で発生した銃乱射事件。事件もまた、11月にふさわしく暗鬱だ。
偶然にも、その凶行の被害者の中にストックホルム警視庁の刑事マルティン・ベックの若い部下がふくまれていた。犯行の手がかりを探るため丹念に被害者たちの素性を洗ってゆくうちベックは、部下の死をたんなる偶然の事故として片付けるにはあまりにも不可解だという印象を抱く。やがて、捜査線上に16年前に発生し未解決のままとなっているひとつの殺人事件が浮上する……。
この『笑う警官』は、〝刑事マルティン・ベック〟シリーズの第4弾となるが、このシリーズの魅力は謎解き的な側面以上に、事件捜査にあたる個性豊かな警察官たちによる群像劇と必ずしもうまくいっていない夫婦間の心のすれちがいを描いたホームドラマというふたつの人間ドラマが同時進行してゆくところにあるのではないか。コルベリ、メランデルらいつもの面々は、それぞれの〝領分〟でいつも以上にその持ち味を発揮している。ノルディンやモーンソンら〝地方招集組〟もまた然り(ん?アールベリは?)。
前回から登場した〝憎まれ役〟グンヴァルド・ラーソンは今回もなかなかの舌好調ぶりだが、最後事件について語る言葉に彼に対する読者の印象も変わる。なお、タイトルの意味するところは、最後のページの最後のセンテンスで明らかになるのでお楽しみに。苦笑いと泣き笑いの青年刑事への鎮魂歌。
*北欧の名前になじみのない読者には、あるいは登場人物の名前に苦労するかも…。
〝スウェーデン・ミステリの原点〟といわれる「刑事マルティン・ベック」シリーズの第5弾。
ストックホルムのダウンタウンで発生したアパートの爆発炎上事故、時をおなじくしてメモにマルティン・ベックの名前を残したまま謎の自殺を遂げた男、忽然と消息を絶った第三の男の足どりを追う中でぼんやりと浮かび上がってくる大規模な自動車密売組織の影……
。事件性の有無さえはっきりとしないまま、ベックらいつもの面々はこの〝支離滅裂〟な事件にずるずると巻き込まれてゆくのだが、この『消えた消防車』最大のみどころはといえば、グンヴァルト・ラーソン〜新人ベニー・スカッケ〜マルメ市警のモーンソンによる〝華麗なる捜査リレー〟だろう。こうした「脇役」たちの渋い活躍ぶりこそがまた、このマルティン・ベックシリーズの魅力のひとつなのだ。
春から夏、夏から秋へと季節が移り変わるのとおなじく、妻との不和、家庭内で唯一の理解者ともいえる娘の自立などベックの家庭を取り巻く景色も様変わりしてゆく。それはまた、厳しい季節の到来を告げる声でもあるだろう。自動車の盗難と密売、家庭崩壊や児童にまで蔓延するドラッグ問題、そして銃器を身につけない主義のコルベリを見舞った不運……
ここではスウェーデンの「負」の側面が拡大鏡でみるように誇張される。このシリーズがしばしば「社会派」、あるいは「スウェーデン社会の変遷をも描くドラマティックな大河小説」(訳者)といわれるゆえんである。とはいえ、テーマは深刻ながらも、随所に散りばめられた北欧流ユーモアのおかげでけっして重苦しいだけの気分には終わらない。モーンソンがおこなった尋問のテープを聞きながら、その予想外の〝巧みさ〟に一同首をかしげるシーンなどすごく可笑しい。これはモーンソンと作者、そして読者だけのヒミツ。そしてもうひとつのナゾ「〝消えた消防車〟は無事発見されるのか?」もお楽しみに。
スウェーデン・マルメの高級ホテル、乱入したひとりの男によって射殺された〝ブラック企業〟のワンマン経営者。被害者は、国交をもたない国への武器の闇取り引きで巨万の富を築いたと噂される男だけに身内をふくめ〝敵〟は多い。それが捜査を攪乱させる。けっきょくは、些末な証拠の積み重ねとベテラン刑事の〝勘〟が事件を解決へと導くのは警察小説ならでは。しかし、事件の解決がかならずしも一警察官の気持ちを朗らかにさせるものではないというのもまた事実なのだった。「主任警視マルティン・ベックは、はなはだおもしろくなかった」(文庫版366頁)。
シリーズ〝刑事マルティン・ベック〟第6弾の特徴は、そこで起こる事件以上に、登場人物たちの〝私生活〟と彼らの〝心情〟がいつになくみっちり描かれている点にあるかもしれない。ついに妻との別居を決意したベックをはじめ、中途半端な夫婦生活もいよいよ終焉に近づきつつあるモーンソン、前作のアクシデントをきっかけにマルメに異動したスカッケ、コルベリ、オーサ・トーレル、そして独身主義者グンヴァルト・ラーソンがみせる意外なナイーヴさなどなど。このあたりの〝人間観察〟を楽しむために、読者はやはり第一作から順に読み進めるのがよさそうだ。
公安課のポールソンが道化役としておもに本作でのユーモア担当。そして、意外にモテるマルティン・ベック……うーむ、イメージの修正を図らねば。
被害者も加害者も、そして捜査にあたる人間もすべてことごとく〝警官〟ばかりという徹底ぶり。それも当然、警察という〝組織〟こそが、ここでの主役なのだから。シューヴァル=ヴァールー夫妻が、〝警察小説〟という形式によって10年の歳月をかけて現代社会を描きつくそうと挑んだモニュメンタルな作品であるこの〝刑事マルティン・ベック〟シリーズもこれで第7弾である。
組織とそこに属す人間が、個と公(©アアルトコーヒーの庄野さん)のはざまで見せるさまざまな顔。職務上、自我を抑圧することが求められる日々ゆえ、ときにはほんとうの自分の顔すらわからなくなってしまうようなことさえある彼ら。無関心はまた、そんな爆発しそうな自我を押さえ込むためのいってみれば〝処世術〟ともいえる。公>個の日本では、同じように組織を描けば硬派な社会派ドラマになるが、個>公、あるいは個と公がおなじレベルで拮抗しているスウェーデンでは、組織を描いてもけっきょくは泥臭い人間ドラマになるのが面白い。そのちがいが興味深い。
ちょっとした会話やふるまいから、水と油と思われていたコルベリとラーソンのあいだの関係に変化の兆しが窺われるのがうれしいところ。これは続刊でのお楽しみ。いつになくド派手な展開ゆえ、映画化に際してこの作品が選ばれたのも納得!?
でも、ラストはそこで終わっちゃって本当にいいの?!
〝密室〟を描くことで、作者は都会に暮らす人びとの深い孤独を浮き彫りにする。1972年当時のストックホルムを覆っていた重苦しい空気について、作者はこんな風に書いている。「暴力は反感や憎悪のみならず、不安や恐怖をも醸成するものである。人々はしだいに互いを恐れるようになり、ストックホルムは不安に怯える数十万もの人々を擁する都市となった。そして、恐怖にすくみあがった人々は危険な人々でもある」(73頁)。そこでは、誰もが被害者になりうると同時に、いっぽう加害者にもなりうる。
そんな、抑圧された現代社会のもとで畏縮した都会人の心もまた、ある意味〝密室〟のように閉ざされている。その点、主人公マルティン・ベックも例外ではない。ようやく負傷からは立ち直ったものの、心に負った傷はまだ癒えていない。そんな折り、現場復帰し不可解な密室殺人事件の捜査に乗り出した彼は、その過程でひとりの生き生きとした女性と出会う。殺伐とした都会にあって、なにより人間的な絆を尊重する彼女の存在にやすらぎを見い出し、少しずつ生気を取り戻してゆくベック。読んでいて思わずホッとする。
密室殺人と銀行強盗、ふたつの事件が複雑に絡み合いながらストーリーは展開してゆく。都会特有のエゴイスティックな情報に翻弄され、身も心も疲れきった警官たち。不注意によるミス、独善的な捜査、情報の読み違い、焦燥感…… そんな負の連鎖の中まんまと網の目をすり抜ける狡猾な悪人の姿もまた、ほかならぬ都会人のもつひとつの顔なのだ。ラスト、現代社会にむける作者の目は、いつになく厳しい。
文中、ドッグフードを食べて細々と命をつなぐ老人という描写がたびたび登場するが、それについてはぼくも以前フィンランド人の知人から聞いたことがある。女性の社会進出が進んでいる北欧の社会保障制度は、そのぶん専業主婦に対してはひどくシビアなのだという。そのため、夫に先立たれ年金の支給を打ち切られた年老いた専業主婦のなかには、やむなくスーパーで手に入れた安価なドッグフードで命をつないでいるひともいるのだとか。まさに〝福祉国家の光と影〟といったところか。
そのあたりの経緯は、巻末に付された訳者によるペール・ヴァールー女史へのインタビューでも触れられている。シリーズが進むにつれペシミスティックな色合いが濃くなってきたのでは?という問いかけに対し、社会民主党政権が導入した「社会主義と資本主義をミックスしたような経済システムはけっして良い結果を生まなかった」と指摘しつつ、けっして当初から社会批判的なものを書こうとしていたわけではないと語る彼女。「つまり、この十年間におけるスウェーデン社会の変化が、わたしたちにペシミスティックになることを強いたと受けとっていただきたいわ」。
過去に登場した警官や犯人の〝その後〟を描き、〝主役〟にコルベリを据えた、〝刑事マルティン・ベック〟シリーズのいわばスピンオフ的作品。
完結編を前に、ここで読者は作者とともにいったん立ち止まり、これまでの〝時間〟をあらためて確認することになる。よって、他の作品は単体でもじゅうぶん読むことができるが、この作品にかぎっては過去の8作品を読んでいないことには愉しみも半減してしまうにちがいない。
個人的に、このスウェーデンミステリの傑作シリーズで好きなのはシュールでアイロニカルな〝笑い〟の要素である。なので、前作に付された作者マイ・シューヴァル女史への訳者によるインタビューでそのあたりの〝秘密〟が触れられていなかったのがすこし残念だったのだが、ここでも『警官殺し』というタイトルふくめそうしたユーモアにあふれている。アキ・カウリスマキの映画にも通ずるこの〝笑い〟こそ、まさに北欧的だと思うのだ。
まさに「決定的瞬間ならぬ演芸的瞬間」!
時間調整のために入った本屋さんで、たまたま手にとりパラパラめくったが最後、そのままレジへ直行。よっぽどのことがないと、ふだん写真集は買わないんだけどなァ……。
ここで被写体となっている噺家の姿から伝わってくるのは、落語が、〝没入〟と〝俯瞰〟のギリギリの均衡の上に初めて成立する至芸であるということ。その所作は即興などではなく、練って練って、練り上げられてできたカタチなのだというのが手に取るようにわかる。その意味でも、オフショットではなく、高座での写真が多いのもうれしい。木之下晃が撮影した演奏家の写真からそのひとの音がきこえてくるように、橘蓮二というひとの写真からもまた、たしかに、そのひとの声がきこえてくるからだ。
「橘蓮二は十八年前、演芸に救われた写真家です」というあとがきの一節に集約されるような、それぞれの芸人に寄せたエピソードも淡々としているぶん、余計に心にしみる。いい買い物をしました。
1965年から10年間にわたり、一年一作のペースで発表されてきた北欧ミステリの傑作とされる〝刑事マルティン・ベック〟シリーズの完結編である。以下は、全10作品を通しての個人的印象。
◎定点観測としての警察小説
現代のスウェーデン社会が抱える問題について、〝定点観測〟的な手法で描き尽くしたいとかんがえた作者マイ・シューヴァル=ペール・ヴァールー夫妻が選んだのが「警察小説」というスタイルだった。犯罪こそは「高度福祉国家」のネガであり、それを職業柄誰よりも冷静にみつめているのが「警察官」という人種だからだろう。ひとによっては、ミステリ的要素よりもときに作者による社会批判的な要素が強調されることに違和感をもつかもしれない。たとえばこの『テロリスト』では、社会システムに翻弄される少女を登場させ、彼女のためにひと肌脱ぐ〝名物弁護士〟の言葉をかりて自分たちの考えを代弁させている。娯楽小説としてはノイズとなりうるこうした部分も、「となりの芝生はよく見える」的にふだん好意的に「北欧」を捉えているぼくらにとっては、〝内側〟からの眺めということで興味深い。
◎アンチヒーローとしての警察官
ここには、スーパーマンはひとりも登場しない。便宜上〝刑事マルティン・ベック〟シリーズとなっているが、他の警察官のほうが活躍する作品もあるくらいだ。全編をとおしてたびたび語られる警察官の〝素養〟とは「論理的な思考力、常識、律儀さ」であり、「すぐれた記憶力、ときとしてロバ並みと称されるほどの頑固さ、それに論理的な思考力」を兼ね備えたマルティン・ベックこそは実直で泥臭い、いってみれば〝警察官の中の警察官〟ということなのだろう。そうした警察官たちが、地道に、少なからぬミスもやらかし、ときに幸運に助けながらも難事件を解決してゆく様に、おなじくふつうの人間であるぼくらは共感をおぼえ、登場人物たちに対しヒューマンな魅力を感じるのだ。
◎笑い
シューヴァル=ヴァールー夫妻の〝笑い〟のセンスが個人的にツボであったことは、続けざまに全10作を読み通す上で大きな助けになった。緊迫した場面で、絶妙のタイミングで挿入されるアキ・カウリスマキ顔負けの脱力系ユーモアは、この〝マルティン・ベック〟シリーズのもうひとつの魅力である。ところどころに往年のコメディアン、ローレル&ハーディの名前も出てくるが、作者のふたりはきっとスラップスティックコメディーにも通じているにちがいない。『テロリスト』でいえば、たとえばテロとは無関係に唐突に起こる暗殺がいい例だが、階段から足を踏み外したかのような錯覚&失笑を読者にあたえ効果抜群。そうした仕掛けに、創作上のテクニックというよりは、むしろふたりの〝遊び心〟を感じる。
〝北欧〟と〝ミステリ〟という、個人的なふたつの関心事を同時に満たしてくれるという点で、このシリーズはまちがいなくぼくにとっては★★★★★だが、ここ最近注目されている「北欧ミステリ」の〝元祖〟ともいうべきこれらの作品が、現在『笑う警官』を除きふつうに書店で入手できないのはとても残念なことである。角川書店には、ぜひ新装版での復刊を願うばかり。
PS.このシリーズを読むことをすすめてくれたアアルトコーヒーの庄野さんに心より感謝!!
〝父と子の絆〟と言ってしまえば陳腐だが、その残された日記をここまで瑞々しく〝読む〟ことができるのは、読み手が「北村薫」という優れた作家だからという以上に、日記を残した人物の実の息子であるという事実の方がずっとずっと大きいだろう。
旧制中学〜大学予科にかけて、まさに青春時代まっただ中の「父」が記したことばの放つきらめき。それはときに、息子の知る、「謹厳実直を絵に描いたよう」な父親とはまるで別人のように映る。その驚き。冒頭の「スイカ」のエピソードが生きてくる。息子は、その日記のことばを媒介にして父と再会する。そして、その生前にはけっしてかわせなかったような親密な対話を果たす。
北村薫の父「宮本演彦」は、1909年横浜の生まれ。まさに多感な時期を大正デモクラシーとともに生きることのできた〝幸福な〟世代にあたる(同い年に、淀川長治、小森和子、山野愛子、野口久光、浜口陽三らがいる)。児童文学に熱をあげ、雑誌『童謡』の投稿コーナーの常連だった中学時代、おなじ投稿コーナーの仲間だったのが金子みすゞであり淀川長治であった。北村氏のていねいな注釈のおかげで、大正〜昭和初期、1920年代の横浜、東京の風景が鮮やかに立ち上がる。氏の「ベッキーさん」シリーズが好きなひとにはまた、たまらないものがあるだろう。
けっして楽な暮らし向きとはいえないまでも、医者で、地元の名士ともつながりのあった家庭で育った父はまだしも、その日の暮らしにさえ苦労している若者たちまでが熱心に童話や小説を書き、食べるものを食べずに同人誌をつくり、発表していたことにはひどく驚かされる。身銭を切ってまで『狂った一頁』を製作した衣笠貞之助もそうだが、市井の人々の中にもそういう胸に〝熱〟をもった人たちがたくさんいて、そうした人々がそういう時代をつくっていたのだろう。
風変わりな旅だ。梨木香歩は、なぜエストニアを目的地に選んだのか。〝理由〟はけっきょく明かされないまま。にもかかわらず、その旅はこってり濃厚だ。旅をつづけるうち、どんどんエストニアの波長に同期してゆく著者は〝魔法使い〟のようなふしぎな力を備えた者にみえる。そのなかで発せられることばもまた、魔法のことばのオンパレード。
「人が森に在るときは、森もまた人に在る」
「性にまつわるものでも、そうでないものでも、野卑や下品は、世界ぜんたいの豊さを深める陰影のようなもの。そこだけ取り去ることはできない」
「人が自分の生理的な『これ以上はできない』の線引きをする場所は、それぞれ違っていて、その線引きの場所がその人の個性そのものの発露のように思われ、愛おしく感じられる。」
フィンランドと同じフィン・ウゴル語系に属するエストニア人。登場する単語もフィンランド語の響きに近いし、サウナを愛し、森を愛し、孤独を好むというエストニアの人びとの気質は、またフィンランドの人びとのそれに重なる。けれども、その「血」はエストニアの人びとにあってより純度が高く思われる。
彼らにとっての祖国愛とは「おそらく国家へのものというよりも、父祖から伝わる命の流れが連綿と息づいてきた大地へのもの」のように思われる、と梨木はいう。たしかにそうにちがいない。700年あまりの長きにわたって他国の支配を受け続けてきたという過酷な歴史が、彼らエストニアの人びとに「国家」という存在の空しさを教えるとともにそこから引きはがし、結果、コウノトリとおなじようなまなざし〜祖国は大地〜をもたらしたからなのだろう。
もう一度、たっぷりとエストニアを旅してみたいとこの本を読んで思った。
「辻調」こと辻調理師専門学校の経営者にして、日本に〝本物のフランス料理〟を広めた伝道者、辻静雄の半生を描いた伝記風味の物語。
プロの料理人でもない男が、なぜ〝フランス料理の最高の理解者〟としてキラ星のごときフランス料理界の重鎮たちから慕われ、信頼されえたのか?
それは、稀有な「舌」と「探究心」をもつ辻の存在を、彼らが〝ガストロノーム〟として認めたからにほかならない。そこに、料理人と〝ガストロノーム〟と呼ばれる客とのハイレベルな〝共犯関係〟によって栄華を極めてきた、フランスの食文化の奥深さを垣間見ることができる。
実在の人物を取り上げつつ、おそらくはかなりフィクションの要素も多いと思われるが、まるで運命に導かれるように辻静雄が料理の世界へと引き込まれてゆく様は、読んでいてワクワクする。著者のストーリーテリングの巧みさだろう。
高度経済成長前夜、世界へと飛び出した日本人のサクセスストーリーという意味で、小澤征爾の『ボクの音楽武者修行』にも通じる爽やかさも。子供のころ、テレビで『オーケストラがやってきた』や『料理天国』を観るのを楽しみにしていた世代には絶対に手に取ってほしい一冊。
大正2(1913)年、東京・神田生まれのドイツ文学者によるエッセイ。この世代によくみられるモダニスト、やわらかい心の持ち主かと思い手にとってみれば、やや期待外れ。
文中しばしば登場する「昔の日本はよかった」「近頃の若いもんは」「女というものは」式な発言は、なんだかおじいさんのお小言に付き合わされているようで、現代のぼくらからするとあまり居心地のよいものではない。とはいえ、エッセイを読むということは、心にピタリとくる一文をみつけるいわば「宝探し」のようなものと思えば、著者のいかにも江戸っ子らしい歯に衣着せぬ物言いと人間への洞察力に富んだ見方には、読んでいて目から鱗が落ちる瞬間も少なくなかった。
たとえば著者は、「はっきり言うと、うまいものは民主主義的ではありえないのである。うまいものは、少数の人間の独占物なのである。いや、そうならざるをえないのではないかと思う」と、〝自称グルメ〟たちがメディアに影響されて一流料理店に押し寄せるような風潮に釘を刺す(「異説・食べもの考」)。この点は、辻静雄の半生を描いた先日読み終えたばかりの伝記小説から受けた印象とも通じる部分があり興味深く読んだ。
また、おなじ文脈から「おしゃれ」を論じるとこうなる。おなじ「平凡な」身なりでも、「さんざん衣裳道楽した揚げ句の果ての平凡」と「ただの何の変哲もない平凡」とではその中身がちがうとした上で、こう言うのだ。「『渋さ』に至るには、その前に華美、派手の段階を通過していなければならない」。
他にも、無用のものへの偏愛を綴った「北海の魚」、エピソードから〝師匠〟内田百閒の〝人物〟をユーモアたっぷりに語った「忘れ得ぬ人々」などもよかった。
文庫版のあとがきは常盤新平、装丁は柳原良平。
ジジュウチョウ。肩書きは硬いけれど、著者の心はとても柔らかい。
たとえば、趣味として楽しんでいた「書」について、その〝いきさつ〟をこう語る。「街をあるいていて、そば屋の看板の『そ』の字がすばらしいと思えば、すぐ手帳に書きとめる」といった手習いならぬ「目習い」を通して「書」に触れてきた。ゆえに「師はないが、またすべてが師でもある」と(「すべてわが師」)。
数え年というものがあったからこそ、すべての日本人が同じように感じ得た「大晦日」がもたらす「甘いセンティメンタリズム」(「歳末、正月」)など、戦前の日本人の心のありようについて触れた文章も、なるほどなぁと面白い。
せわしない現代に生きる読者にとっても、鷹揚なジジュウチョウの「ひとりごと」につきあうのは至福のひとときといえるだろう。
鷹揚な「千駄ヶ谷の小父さん」が、意外な〝童心〟をのぞかせる「中村雅楽探偵全集」第4巻。77年から91年にかけて発表された28篇が収録されており、これで「中村雅楽」が登場する短編はすべて出尽くしたことになる。
事件は、劇場やその近辺に生じるいわゆる「日常の謎」がすべて。血なまぐさい殺人などいっさい起こらない。戸板康二の関心は、劇的な事件そのもよりも、歌舞伎役者ら劇を演ずる人間の心の内側のドラマに迫ることにあったのかもしれない。
この第4巻であたらしいのは、若き編集者「関寺真知子」がひんぱんに登場し、中村雅楽にさまざまな影響をあたえるところ。わずか3ページ強で、二人の役者が重ねてきた長い歳月を読者に感じさせる「銀ブラ」、失意の雅楽のために竹野がひと肌ぬぐ「おとむじり」など、これまで以上に地味ではあるが味わい深い小品が並ぶ。
舞台裏なんてわざわざ見せる必要はない、と主張する人たちがいる。いま見えている舞台こそがすべて、だからだ。一理ある。けれども、お店の主人がどんなところに心を砕きつつ日々を過ごしているか知るとき、客として、その店への共感や愛着がますます強くなるということだってあるだろう。
ここには、とある渋谷のワインバーの「舞台裏」が、ときにちょっと生々しいくらい書かれている。もしかすると、それをちょっと厭だなと感じるひともいるかもしれない。けれども、夜な夜な笑い声に包まれるそのステージはこんな舞台裏なくしては存在しがたい儚い世界だというのも、また事実。店の当事者にして、こういうことがらをしれっと書くことができ、しかもそれが許されてしまうのは、もう、ひとえに著者である林さんの人徳以外のなにものでもない(真面目に笑)。
知り合いの書いた本だけに勧めづらいこともなくはないけれど、これから個人でお店を開くことをかんがえているひとはもちろん、客としてお店を利用する側の人たちにもぜひ読んでもらいたい一冊。お店という「ステージ」は、お客様の存在ひとつで輝きも濁りもするということを、きっとこの本を通じていっそう深く知ることになるだろうから。
「BURRN!」編集長として音楽評論の世界に携わってきた著者が、落語評論家としてのみずからのアティチュードをまとめた一冊。
ここで著者は、落語の本質を「同時代の観客の前で演者が語る芸能」としたうえで、評論家とは「ツウの客」「最も良い客」であろうとすることで「演者」と「客」の中間に位置する「媒介」として、客の側に語りかける者、いわば「水先案内人」のうような存在であるとする。それゆえ入門者に対しては、歴史でもあらすじでもなく、まず同時代の「誰を聴けばいいか」という情報を提供することこそが評論家の役割ということになる。そしてこうした立場から生まれたのが、著者の『この落語家を聴け!』(2008年、集英社文庫)である。ここでも、最後に特別付録として「『落語家』『この一席』私的ランキング2010」が収められており、本編と付録とで一応は(というのは、本人がこれは「落語ファンとしての2010年の総括であって「決して『お薦めの落語家』のガイドではない」とわざわざ断っているので)「理論と実践」のような構成がとられている。
「なぜ知っている噺を何度聞いても面白いのか?」「『ネタバレ』で問題無し」「マクラの意味」など、落語初級者にとって興味をそそられる内容もすくなくない。
ある夜、突然いっせいに空から星が消える。そのとき地球は、何者かによってすっぽり皮膜のようなものに覆われてしまったのだ。同時に、地球上の時間だけが一億分の一になってしまっていた…。
いったい誰が?何のために?という疑問は最後の最後まで明かされない。わけのわからない状況に直面したとき、ひとは「科学的に理解するか、それとも宗教的に認識するかの二者択一を迫られる」。前者がここではジェイソンであり、後者がサイモンである。その仕方は正反対だが、ふたりはこの《スピン》と呼ばれる不可解な現象を自分なりに理解しようと努める点ではコインの表と裏のような存在といえるだろう。
《火星移住計画》《仮定体》といったキーワードは登場するけれど、この小説の背骨にあたるのはやはり人間を描くこと、ゆるぎない存在と信じていた地球がもはやグズグズと崩壊してゆく頼りない足場に過ぎないと知ったとき、ひとはなにを考え、どう行動するか、という人間のドラマを描くことにあるようだ。
いわゆるSFを読んだのは2冊めだが、人間のありようがしっかり描かれていること、訳文がこなれていて読みやすかったこと、そのふたつのおかげで最後まで一息に読み進むことができた。
追記
ただし…
ぼくの理解力不足だとは思うが、皮膜の外側に移住した地球の人間がなぜ「外側の時間」の制約を受けないのか?最後までなんとなく腑に落ちないままだった。
ちゃんと読んだSFはこれで3冊め。SFの世界では〝古典的名作〟とのこと。
ある日とつぜん巨大な円盤が上空に現れ、静止したまま地球を制圧する。やがて人類はそれに「オーバーロード(最高君主)」という呼び名をあたえ、畏怖するようになる。たとえば、子供にとっての親もそうだが、ガミガミ怒鳴られているほうがまだ気安く、対処のしようもある。恐ろしいのはむしろ、ただじっと黙って見守られているほうである。「オーバーロード」とはその意味で、人類にとっての「親」であり「庇護者」なのである。
〝好奇心〟からなんとか「オーバーロード」の実体に迫ろうとする人間の姿をえがいた第1部、第2部(ちなみに、第1部に登場する国連事務総長はフィンランド人!)。
さらに、ちょっと想像を超えたかたちで〝進化〟のありようが描かれる第3部。フィクションとはいえ、進化論にかんするまったくべつの異なる視点からの仮説(?)という意味で、著者の構想力に度肝を抜かれた。
〝タイムトラベルもの〟と一言でくくってしまうには、あまりにもたくさんの仕掛けと色彩をもつ〝びっくり箱〟のような小説。
空襲のさなか、少年だった主人公に、18年後の同じ日、同じ時間にここに来るようにと言い残し絶命した隣家の〝先生〟。18年後、言いつけどおりその場所を訪れた主人公を待ち受けていたのは、人と人との不思議な縁(えにし)をめぐる時間を越えた旅であった……。
たとえどんな道を選ぼうとも、最後に辿り着く場所はひとつ。それが運命の赤い糸ならば、けっして途中でプツンと切れたりはしないものなのだ。
ちなみに、文中に登場するエピソードで個人的にいちばん好きなのは、自分に自分でごちそうを奢って少年時代の密かな思いを果たすところ。ちょっと乾いた洒脱な〝笑い〟もまた、この小説の魅力のひとつである。あとは、文字通り「現代っ子」らしい最後の娘の言葉。タイムマシンがあろうとなかろうと、けっきょく一番たいせつなのは「いま」なんだよね。
感想はひと言。「渋い」。
カナダのモントリオール、〝ザ・メイン〟と呼ばれる地区がこの小説の舞台である。一匹狼の〝警部補〟ラポワントは、移民や労働者、売春婦や浮浪者がひしめくこの吹きだまりの土地の秩序を、長いあいだ自分なりのやり方で守ってきたいわば〝番人〟のような存在。しかし、この街とそこに生きる人たちを誰よりも理解し愛しているのもまた、ラポワントそのひとなのである。そんな彼のホームタウンで、ある夜ひとりのチンピラが刺殺される……。
そこから話は二転三転……というわけには、ところが、全然いかないのである。事件の捜査に、動きらしきものが見えるのはようやく333頁になってから。全体の4/5は、濁った池の水面をじっと眺めているような案配。最後の1/5でその濁った水面が一気に透き通り、事件の全貌が明らかになるのである。
ただ、これはたぶんミステリではないのだろう。〝ザ・メイン〟という、時代から取り残された人々が身を寄せ合って暮らす時代から取り残された土地の物語だ。そしてその土地も、そう遠くない将来、近代化の波に押し流され消えてゆく運命にある。そしてそこに生きる人たちもまた。老兵しかり、モイシェしかり、心臓に手術不可能な動脈瘤を抱え、もはや警察署の中に味方がひとりもいない古いタイプの警官であるラポワントもまた、しかり。読了後、なんとも苦い後味が残る一冊。
たんに相性の問題だと思う。警察小説の金字塔(と呼ばれているらしい)「87分署シリーズ」のエド・マクベインが手がけたクリスマスストーリー、しかも和田誠によるカバーということでワクワクしながら手に取ったのだが……残念ながら読了できず。
雪のクリスマスイブ。NYのダウンタウンでひょんなことから事件に巻き込まれ、なぜか警察から追われる身となってしまったちょっと軽いフロリダからやって来た男。そこに現れたのがひとりの中国系美女……。
さながら、80年代製ハリウッドのラブコメディーといった恋あり笑いあり殺しありのお話。たぶん主人公はマイケル・J・フォックス(ちなみに主人公の名前は、マイケル・J・バーンズ!偶然じゃないよね、コレ)。
トリックは面白そうなので、とにかくノリが合わなすぎて先に進めなかった。ノリの合うひと限定でおススメ。
レコ屋のコメント的にいくと、まさに「必読!!北欧ミステリ最高峰!!」。
ジャーナリスト&元服役囚というスウェーデンの異色コンビ作家による第5作とのことだが、ぼくははじめて読んだ。これは凄い。読ませますね。
複数の登場人物たちの動きを、さながらカメラを切り替えるようにポンポンと見事なリズムで捉えつつ、巧みに読者をその特異で非日常的な犯罪世界に引き込んでゆく構成といい、それぞれ癖のあるキャラクターをさりげなく読者に刷り込んでゆくちょっとしたエピソードや振る舞いの描き方といい。
人々が生きるこの世界には表と裏、光と陰がある、という複眼的な世界観だけでなく、じつはそこにはそのふたつの世界を媒介するグレーゾンに生きる人種が存在するというのが、このストーリーのツボ。麻薬密売組織を壊滅するというミッションを担い、ある意味〝必要悪〟としてその存在の正当性を保証されている潜入者「パウラ」。ところが、彼は綱渡りのような危ういバランスの上に生きている。オモテの世界からもウラの世界からも切り捨てられたとき、「生き残る」という最後のミッションを賭けた「パウラ」の孤独な闘いが始まるのだ。そしてもうひとり、目の上のたんこぶ、昇進から永遠に見放された厄介者として上層部からも部下たちからも毛嫌いされている孤独な男、グレーンス警部もまた、その意味でグレーな存在にほかならない。この「簡単には諦めない男」と「命を賭けて生き残ることを決めた男」、ふたりの「執念」が火花を散らしながら重なり、爆発してゆくさまがたまらない。
そしてやはり、こんな重く暗いストーリーながら、そこかしこにあふれる北欧流のシニカルな笑いが好きだ。グレーンス警部と宿敵オーゲスタムのやりとりとか。
あっという間に読んでしまうので、買うときは上下巻まとめて購入するのがおすすめ。
ん?エッ?そういうことだったの!!最後の最後に用意されているオチに仰天させられることうけあい。
東北地方の寒村から上京し、いまや「先生」と呼ばれるほどの大物女性歌手に、ある日ひとりの雑誌記者が「先生が歌手にならなかったら、桶屋式につぎつぎと連鎖反応を起こして、だんだんひろがって、そのあとの日本の姿まで変わっていたかもしれない……」と言ったところから始まる、もうひとつの人生のストーリー。
ふたつの「現実」はそれぞれパラレルに進行してゆくが、この小説の独創的なところは、登場する人々の顔ぶれはほぼ同じにもかかわらず「演じる役割」が異なるだけで〝ほんとうに〟「そのあとの日本の姿」まで変わってしまうという点にある。しかしその結末がどうであれ、これは「みつ子」と「慎一」という男女が紡ぐ大いなる「愛」の物語なのであり、作者があえてこのタイトルにこだわった理由もまたそこにあると思うのだ。
薄めのカルピスを小説にしたような、つまりさっぱり爽やかだけどなんとなく物足りなくもあるような、そんな青春小説である。
舞台は長崎県の五島列島。とある島の、合唱部に所属する中学生たちとそこに赴任した音楽教師との交流を淡々としたタッチで描いた物語。
彼らが出場をめざすのはNコン(全国学生音楽コンクール)と呼ばれる合唱コンクール。Nコンには「課題曲」があり、彼らは、15歳の「ぼく」が未来の自分に宛てて手紙を書くというストーリーをもつ『手紙』という作品を歌うことになる。そして、作品と向き合うため出された宿題(じっさいに未来の自分に宛てて手紙を書くこと)を通じて、15歳の彼らもまた、それぞれがいま抱えている「課題」と向き合うことになるのだった。
感動はないが、ひんぱんに登場する「サクマ式ドロップ」のエピソードなどちいさな仕掛けが最後にジワジワと効いて心地よい余韻を残す。
第一話「ホームレスのグルメ帳」をもじって「ホームレスのグルメ事件簿」とでもすれば、そのままテレビドラマに仕立てられそうな小説。
訳あって銀座を根城にホームレスとして生きる「ヤッさん」。一方、サラリーマンからドロップアウトし成り行きまかせでホームレスになってしまった「タカ」。そんな「タカ」に、なにより「ありきたりな身の上話」を毛嫌いする「ヤッさん」は、その生き様を通じて〝背中で〟生きることの意味を教え込んでゆくのだった。
〝正論〟を吐く主人公を「ホームレス」にでも設定しないとそのことばが読者の心に届きにくいという現実が、ある意味、現代という時代のややこしさを象徴している。
エッセイ以外ではじめて読んだ池波正太郎の作品。
主人公は藤枝梅安。オモテの顔は腕の立つ鍼医だが、「世の中に生かしておいては、ためにならぬやつ」をカネで闇へと葬る仕掛人というウラの顔をもつ。過酷な生い立ちが、彼を裏稼業へと追いやったのだ。そしてもうひとり、同じく仕掛人という顔を持ち、梅安が唯一「友」と心をゆるす彦次郎もまた悲惨な過去を背負って生きているのだった。
作者は、梅安らに「正義のヒーロー」という顔をあたえないが、そのかわり、彼らの存在を認めることで彼らに「居場所」をあたえる。「ためにならぬやつ」を生かしておかぬためには、彼らは生きねばならぬのだ。作者の梅安らに注がれるまなざしはどこまでも優しく、あたたかい。
自信満々に誤った推理を展開する、尊大だがどこか憎めないモース主任警部と、お人好しで翻弄されてばかりな反面、モースの推理をたったひとことで崩してしまう意外な鋭さももつルイス部長刑事。そんなふたりの凸凹コンビぶりが相変らず楽しいシリーズ第5作(前回読んだ『ウッドストック行き最終バス』が第1作とのこと)。
イギリスの郊外が舞台だけに登場人物も限られ事件の内容も地味とはいえ、そういうことだったのか!!と唸らせる仕掛けはなかなか。
作者も訳者も『ウッドストック行き〜』と同じなのに、文章のリズムが異なり読みやすかった反面、モースのとぼけた笑いが薄まっていたのはすこし残念。ルイス部長刑事の登場も後半からでやきもきさせられた。
それにしても、このシリーズに登場する中年男性はなぜこうも揃いに揃ってモテるのか……。
あとがきで、読者から寄せられた原稿に手を入れた〝リメイク作品〟であると知り驚かされる。
収められた6つの作品はたしかにどれも手触りが異なるけれど、それぞれの舞台を【物語を紡ぐ町】というキャッチフレーズをもつひとつの土地に集約することで、見事、〝低体温の情念〟乙一ワールド全開の連作短編集に仕立てあげられている。
読み終わった後、つい雪の積もった日には〝しるし〟を探してしまうだろうなという作品、最後に収められた「ホワイト・ステップ」は、映像でもコミックでもおそらく伝わらないだろう、その意味で文字で書かれたものを読むことで〝なにか〟を受け取る小説ならではの表現の可能性をあらためて教えてくれる。
クラシック初心者がいきなりフルトヴェングラーに手を出すのがキケンなように、落語初心者がいきなり立川談志に手を出すのはマズいのではないか?
そんな直観から、なんとなくずっと遠ざけてきた談志の落語。正直、まだまだ手を出す気にはなれていないが、いつか「その日」がやってくるであろうことは間違いない。「その日」に備えて、この本を手に取ってみた。
この本では、談志の「追っかけ」を自称する著者が、談志の手がけた数多い噺の中から誰もが認める得意の大ネタ10個(「鼠穴」「居残り」「芝浜」など)に加え、古典落語、談志ならではの噺、滑稽話、その他というカテゴリーから8個ずつの計42個をピックアップ、世に出ている音源をもとに詳細に比較しその特徴を挙げることで、絶えず更新され続ける談志落語の魅力について紹介してゆく。
談志ビギナーにとっては、どのあたりから手を付けるかということの大まかな「地図」になるし、ある程度すでに触れてきたひとにとってはまだまだ未知の領域があることを知るきっかけになるのではないだろうか。
雲助師匠は、ぼくの中でちょっと〝ふしぎ〟な存在だ。他の噺家があまりやらない根多を持っていたり、他人から稽古をつけてもらわないという逸話もどこかで耳にした記憶がある。そういえば、二ツ目時代にはイラストレーター和田誠氏による新作落語も口演していたはず。〝一匹狼〟とでも言うのだろうか。さてさて、いったいどんな人物なのだろう?
そんな単純な興味を胸に読み始めた。
結果、ますますその〝ふしぎさ〟に輪が掛かったように思える。生まれ育った本所での暮らしぶり。情熱を傾ける対象をみつけると一気に燃え上がる青年時代のエピソード。十代目馬生の一門に身を置くことになったいきさつ。大師匠・志ん生の思い出や志ん朝一門に対する思い。古い速記本から根多を広げてゆくようになった背景には、師匠を失った孤独と同時に反骨精神も感じられる。また、入り浸っていたという浅草のハチャメチャな居酒屋の思い出や野坂昭如ら酒場で出会った人々との交友録からは、雲助師の意外な素顔も垣間見ることができ興味深い。
文中、みずからの生き様を称してたびたび言われる「成り下がり」という言葉については、その名前にふさわしく「雲」の如くひとところにとどまらず、自由に芸人としての一生をまっとうしたいという、雲助師による反ストイシズム宣言(?)と受け取った。
パリの百貨店に勤務するマロセーヌ。お客様のクレームを一手に引き受けるカリスマ苦情処理係といえば聞こえはいいが、真実は客の面前で上司から罵倒され、理不尽な処分を言い渡されることで同情を引き、寄せられたクレームをうやむやにするための「身代わりのヤギ」。そんな彼の目前で繰り返されるナゾの爆破事件。突然周囲から疑惑の目で見られるマロセーヌ。マロセーヌ危機一髪!はたして彼のヘンテコな友人や家族たちはマロセーヌの疑惑を晴らすことはできるのか……
というのが、この本のストーリー。もともと作者のペナックは児童文学の世界で人気の作家とのことで、この作品にもどこか童話のような残酷さやドタバタ騒ぎがあり、いわゆるミステリとは一線を画す。そば屋のエビ天よろしく、フランス文学臭たっぷりのレトリックが衣のごとくたっぷりまぶされふくれあがっているので読み進むにはかなり難儀した。そういうのが苦手じゃないというひとなら、ゲップの心配なくきっと楽しく読めるはず。
『偽のデュー警部』がやたらと面白かったラヴゼイのミステリ。舞台は60年代イギリスの片田舎。少年時代、疎開先の牧場で起こったある悲劇的な事件。
ある日突然、大人になり、大学講師となった主人公のもとをアメリカ人の若い女性が訪ねてくる。どうやら彼女は、その「事件」で彼の証言がもとで犯人と疑われ、絞首刑となった進駐軍兵士のひとり娘らしい。事件の真相を明らかにしようとする彼女の強引さに負け、封印したはずの二十数年前の記憶をいやいやながら辿らされるはめになる男……。慎重派で頑固なイギリス人男性vs奔放で強引なアメリカ娘、そんな対照的なふたりの「闘い」こそがこの作品のツボ。
タイトルにある「苦い」は、事件が発覚するきっかけとなったシードルの味と、孤独な少年の心模様とをかけあわせたダブルミーニング。読了後は、もちろんほろ苦い気分に。
英国紳士3人のテムズ河ぶらり途中下船の旅(犬はさておき)。
1889年に出版されベストセラーになったイギリスのユーモア小説。小説といってもストーリーらしきものがあるわけでなく、ただただ3人の男と犬1匹が水門(ロック)から水門(ロック)へ、テムズ河を船で下ってゆくというだけの長閑な話。
にもかかわらず、船に縁がなく、ましてや紳士でもないぼくが読んでこうも面白いのはどうしたわけか。それはきっと、いかにもイギリス流の笑いにコーティングされてはいるが、万国共通の人間の《本性》が描かれているからにちがいない。いわば、「あるある」ネタ。
「自然に帰れ」とばかりに船旅に出たはいいが、ボートを漕ぐのに疲れたといっては不平をもらし、隙あらばサボろうとし、都合の悪いことが起これば他人のせいにする。そんな「いい大人」の「大人げない」七転八倒ぶりがおかしくてたまらない。そしてまさかのエンディング。晴れた休日の午後のんびり読むのにふさわしい、楽しい本と出会った。
はたして犯人は「例の3人組」なのか?(犬はさておき)。
舞台は19世紀後半のイギリス。長閑なテムズ河で立て続けに水死体が発見される。よりによって目撃されたのは、ジェローム・K・ジェローム『ボートの3人男』そっくりの怪しげな「3人組」だった……。
「クリップ部長刑事とサッカレイ巡査」シリーズの一冊とのことだが、そういうわりには、ふたりの存在感はひどく薄い。どちらかといえば、犯人らしき人影を目撃したがために事件の捜査に巻き込まれる妄想暴走お嬢様こそが「主役」のような印象(シリーズの他の巻は未読なのでよくわからない)。
肩のこらない読書をご所望のみなさまに、ぜひラヴゼイ印のコミカルラブロマンスコージーミステリをどうぞ。
つねに腰が引けてるという点で、この『クロエへの挽歌』に登場する探偵キャンピオン氏はかなり風変わりな存在といえる。
劇場と劇場をめぐる人々による群衆劇。『クロエへの挽歌』はそうした体裁をとっている。生気には乏しいが、誰よりも人間観察に長けた探偵は、彼らが発する膨大な情報をひたすらインプットしてゆくことで、事件の背景にあるみえない相関関係をゆっくりゆっくりと可視化してゆく。
登場人物が多く、探偵に目を見張るような闊達さがなく、おそらくそれゆえにドラマに起伏が乏しいという点で、あるいはこの小説は読者を選ぶかもしれない。けれども、人間を描くことで事件の本質を描くという作者の手法にハマりさえすれば、淡々とした筆致のむこうに、ロバート・アルトマンの映画にも匹敵する〝コク〟を感じることもできるにちがいない。
愚直なフェローズ署長が、アメリカのサバービアを舞台に執念深い捜査を繰り広げる警察小説。
しのつく雨の晩、ひとりの農夫が、全身ずぶ濡れの突然の来訪者によって射殺される。いわく、「わしはおまえさんに肥料代を50ドル貸してある」……。人間離れしたひらめきには欠けるフェローズ署長だが、ありとあらゆる仮説を立て、それをひとつひとつ丹念に潰してゆく胆力にかけては誰にも負けない。同僚は、その中に混じるあまりにも突飛な仮説を「成層圏的」などと揶揄するのだが、フェローズは聞く耳をもたない。そして、彼が必死になって「成層圏」にある真実をつかみ取ろうと手をのばす様こそが、読者にとってはこの小説のツボであるだろう。
真犯人が意外にあっさり逮捕されて終わりかと思いきや、アメリカの裁判制度がもつ矛盾にまで触れ、容易には事件にピリオドを打とうとはしないフェローズ署長の骨太な〝警察官魂〟にしびれる。
戦前に発表された「乗り物」が登場するミステリばかり15編を収めたアンソロジー。
鉄道、乗り合いバス、円タク、汽船やモーターボートなどさまざまな「乗り物」がさまざまなぐあいに登場するが、1905年前後に生まれた作家たち(個人的には日本のモダニズムをもっともよく体現している世代と思われる人々)の作品では、それ以前の作家たちの作品のそれとちがい、明らかに「都市」(あるいは「現代」と言ってもいいかもしれない)を描写する上での重要なモチーフになっている点が見逃せない。
作品の完成度、風合いはさまざまだが、そうした視点から読んでゆくと時代の移り変わりを感じさせる、なかなかに興味深いアンソロジーといえそう。
『三秒間の死角』のコンビによる、勢いのあるスウェーデン産犯罪小説。
ある日、ひとりの刑務官が私情に走った末に、護送中の服役囚(児童を狙った性犯罪者)を取り逃す。すべてのドラマはそこから、その小さな「しみ」から始まる。
卑劣な犯罪を憎む気持ちは、誰にとっても変わらない。しかし、その「憎み方」と、負の感情が周囲にもたらす影響はさまざまだ。被害者とその家族、捜査にあたる警官たち、職務上あくまで法に則って裁かざるをえない人びと、マスコミ、日ごろから不安や不満、不平で破裂寸前の「世論」という名の風船のような存在、そして独自の掟とプライドをもって生きる「塀の中の人びと」……。さまざまな人間がさまざまなかたちで関わることで、はじめ小さな「しみ」にしか過ぎなかった事件は、思いもよらない規模に広がってゆくのだった。
一見したところ端正な表情にみえる現代社会が、ボタンをひとつ掛け違えただけでいかに凶暴な姿のモンスターへと変貌してしまうか、重厚なテーマを映像のような速度と鮮やかさとで一気に読ませる傑作。
落語家という仕事が、寄席という場所が、新宿末廣亭のネタ帳(=寄席の「セトリ」)7年分を紐解くことで見えてくる。
毎日20人を超える芸人が登場する寄席。よって、ひとりあたりの持ち時間はせいぜい15分といったところ。その短い出番に、誰がどんなネタを掛けたのかを淡々と書き留めたものが寄席の「ネタ帳」である。
「我々の商売は、15分座って独り言を喋ったらそれで業務終了」とは瀧川鯉昇師のマクラだが、そのわずか15分の出番のために、落語家は「ネタ帳」でその日すでにどんなネタが掛かっているのかを確認し、噺が重複しないよう、全体の流れを損なわないよう配慮した上でみずからの高座に挑む。つまり、それなくしては寄席という場じたいが成立しないくらい重要な、いわば《羅針盤》、それが寄席にとっての「ネタ帳」なのだ。
寄席はまた、落語家にとって大切な修練の場でもある。長い噺をエッセンスはそのままに寄席で演じられるサイズにまで刈り込む創意工夫、演じなれたネタにさらなる磨きをかけるための試行錯誤、それらは寄席という《ホーム》なくしてはなしえないと、インタビューに答える噺家たちは異口同音に語る。なかには、そうした日々の鍛錬の積み重ねから、寄席専用の「勝負」ネタを編み出した落語家も。
寄席を出るとき、思わず「あぁ、楽しかった」と口に出るのは、芸人ひとりひとりのネタよりも、むしろ全体の流れ(グルーヴ)が気持ちよかった日であることを、この本を読みながらあらためて思い出した。
読み終えた瞬間、眼前に大きな虹が架かったかのような気分になった。
昭和20年の中国、昭和36年の東京、そして「3.11」を経た現在の東京……
3つの時代が1羽の「伝書鳩」の活躍によってつながれるとき、そこに壮大な物語が完結する。
それにしても、なぜ「伝書鳩」なのだろう?
氾濫する情報や真実の意図的な歪曲や隠蔽によって、しばしば進むべき方向を見失いがちなぼくら現代に生きる人間がいまもっとも必要としている「力」、それを、あるいは彼ら「伝書鳩」が持ち備えているからだろうか。そしてその「力」とは、選び抜かれた言葉によって綴られた「真実」を、その直感と帰巣本能によって迷うことなく必要とする者の手にまっすぐ届ける力なのではないか。
過去に発表された2冊を読むかぎり、この作家はけっして声高に自身の主張を叫び読者に押し付けるようなひとではないが、そんな作者が「クロノス」という名をもつ伝書鳩に託したメッセージを、そしてしばしば彼を奮い立たせることになる「脚環」が放つ「光」の意味を、いま「3.11」以後の日本を生きるひとりの人間としてあらためて噛み締めてみたいと思う。
20周年を迎えた鎌倉のカフェ、「カフェ・ヴィヴモン・ディモンシュ」のマスター堀内さんの本である。
お店にとっていちばん大切なことは「続けること」である。いっとき脚光を浴びたとしても、一年や二年で消えてしまったとしたら、その店にはなんの価値もない、とぼくは思っている。続かない店は「店」ではなく、たんなる「イベント」に過ぎないからである。
お店をやっている人間はみな、ただただ明日もお店を無事開けられることだけを願い心を砕いて毎日を過ごしている。たとえばぼくのお店はようやく12年になろうというところだが、さて8年後となると、はたして続けられているかどうか正直なところよくわからない(もちろん続けられるものなら続けたいが)。それだけに、20年にわたりお店を続けてきた堀内さんに対しては、同業の端くれとしていつも尊敬の念でいっぱいである。
この本を読んだひとはきっと、「カフェ・ヴィヴモン・ディモンシュ」というお店が今日もここにあることの「すごさ」を理解するにちがいない。堀内さんが人知れず注いできた並々ならぬ努力と情熱、それに試行錯誤の繰り返しの「賜物」こそがディモンシュというお店なのである。
そして、「顔が見えるお客さんの笑顔のために続けてゆく」という、20年の歳月の中で堀内さんがたどり着いた「答え」こそはすべてのカフェオーナーの「思い」でもあるだろう。お店を「続けること」の中心は、お店に来てくださるお客様にほかならないのだから。
W浅野!! 冒頭、女探偵登場のシーンからそんななつかしのフレーズが脳裏をよぎる80年代フレーバー(というより、実際に設定が80年代なのだが)の本格推理小説。
永年の夢であった瀬戸大橋計画がようやく現実化しつつあった198×年、やがては瀬戸大橋の「橋脚」とならんとする瀬戸内海に浮かぶ小島に(岡山県ではその名前を知らないものはいない)〝孤高の天才建築家〟が酔狂なたたずまいの巨大な別荘を建てる。しかし、そのみずからが建てた別荘で、当の建築家が謎の転落死。さらに、真相はわからないままふたたび関係者たちが集った同じ場所で第二、第三の殺人が起こるのだった。
巨大な建築物をからめた壮大なトリックに舌を巻く一方で、登場人物たちがかわす会話のギャグセンスはどこまでも寒い。貴方はこの〝寒さ〟に耐えられるか?! W浅野!!
とある極秘プロジェクトの一員として《過去》へ行ってみないか?
ある日、イラストレーターとしてNYの広告代理店で平凡な日常をおくっていた主人公サイは、見知らぬ突然の訪問者からそう誘われる。
《過去》へ行くといっても、なにも「タイムマシン」のような機械が登場するわけではない。それは、アインシュタインの相対性理論に基づいた仮説に則っており、自己暗示による催眠術を援用することで狙いを定めた時空へと移動できるとするものである。職業柄すぐれた観察眼と描写力を備え、もともとノスタルジックな事物に人並みならぬ関心をもっていたサイはずば抜けた適応性を示し、プロジェクトの期待をあつめいよいよ《過去》へと向かうのだった。
向かった先は「1882年のニューヨーク、マンハッタン」。ガールフレンドの出自にまつわる謎めいた「遺書」の秘密を探るため、サイみずから志願したのだ。歴史を書き換えてしまう恐れから、「けっして干渉してはならない、観察に徹せよ」というのがこのプロジェクトの「鉄則」である。それゆえサイの「志願」に難色を示す上層部であったが、最後、このプロジェクトの発案者であるダンジガー博士の鶴の一声によってめでたく承諾される。そのとき、ダンジガー博士からひとつ「依頼」をされる。NYのとある場所へ行き、そこで自身の両親の「出会いの現場」を目撃、その様子を一枚の絵にしてプレゼントして欲しいというものである。この「依頼」が、最後、この小説全体のオチにつながる。
順調にタイムスリップしたサイは、まだ摩天楼も存在せず、街をひとや馬車が行き交う19世紀末の牧歌的なニューヨークの光景にすっかり心奪われてしまう。延々と続く細かい情景描写は、たしかにときに読み進めるのを辛くもするけれど、「タイムマシン」という便利な道具が登場しないぶん、読み手を物語の世界へ導く上では必要不可欠だとも感じる。とりわけ、そり遊びの情景は楽しく美しいし、乗り合い馬車の中で女性のスカートの裾がふわりと触れた瞬間の描写など、その「生々しさ」に思わず息をのんだ。
ガールフレンドから託された古ぼけた遺書の謎を解き明かすなかで、サイはひとりの女性ジュリアと出会う。やがて、遺書の謎がジュリアとも無関係ではないということがわかり、ともに行動するなかでふたりは思わぬ「犯罪」に巻き込まれてしまう。このあたりは、ちょっとしたミステリー風味である。いっぽう、おなじころ《現代》では、サイらによるタイムスリップの成功を受け、これを政治的に「利用」しようとする思惑をもつ一派と断固としてそれは認められないとするダンジガー博士とのあいだで激しい対立が起きていた。《現代》に戻り、この騒動を知ったサイはプロジェクトから離れる決意を固めるも、最後にひとつ「やり残した仕事」があると言い残し、ふたたびある決意を胸に「1882年」へと向かうのであった。
この『ふりだしに戻る』は、ジャック・フィニイによるファンタジーであり、ラブロマンスであると同時にときにミステリ、ときにサスペンスであるが、それ以上に「科学発明とその利用」をめぐるヒューマニズの物語でもあるのだと思う。
素行不良の《妊婦探偵》が活躍する、シュールな笑いにあふれたSFテイストのミステリ。
舞台は、東京都第七特別区。人呼んで「バルーンタウン」。そこは、「人工子宮(AU)全盛の世の中で、妊娠・出産という過程をへて子供を持つことをあえて選んだ女たちが、天然記念物なみの保護をうけて暮らす」妊婦の町である。そのちいさな、しかしかなり特殊な町で発生するさまざまな事件を、「妊婦のことは妊婦にきけ」とばかりに、見事な「亀腹」をもつ《妊婦探偵》暮林美央が鮮やかに解決する連作もの。
この妊婦探偵、厳密にいえばちがうのだろうが、分類としては《安楽椅子探偵》に入るのだろう。じっさい、電話口から示唆するだけのものもあるからだ(『バルーン・タウンの裏窓』)。「妊婦は透明人間なの。お腹以外は」などなど、全編をとおして名言(迷言)にもことかかない。
読書もまたひとつの《旅》であるとするならば、この本は著者による「ムーミン谷」への《旅》のいわばドキュメントであり、その足跡をたどることで、ぼくら読者もまた、べつの角度から捉えた「ムーミン谷」の新たな眺望を新鮮な驚きとともに手に入れることができる。
発端は、テレビアニメ「楽しいムーミン一家」を観て育った著者が、あるとき9冊からなる原作のシリーズを手にしたところからはじまる。本を読んだ著者は、当惑する。テレビアニメのなかでは「割愛」され感じることのなかった「ふたつの問題」が、原作ではシリーズ全体を貫く大きなテーマとなっていたからである。そして、著者はそこからひとつの仮説を導き出すのだった:「アニメ『楽しいムーミン一家』に描かれたムーミン谷は、原作において登場人物たちが直面するふたつの問題を克服した後のユートピア、いわば『省略されたユートピア』を描いたものなのではないか?」。
物語を丹念に読み解いてゆくことで、原作においてムーミン谷の住民たちが「克服」せねばならなかったふたつの問題ー「自然」と「住人どうしの関係」が浮き彫りにされる。読み解くにあたって、焚き火、ランタン、灯台、かまどなど物語に登場する《光》がもつ象徴的な意味に注目したのも面白い。「夏」と「冬」というふたつの季節が支配する世界の対峙も、北欧においては四季は日本ほど明確なものではなく、春は夏の、秋は冬のそれぞれ「露払い」程度にすぎないことを思えば納得のゆくところだ。
もちろん、ムーミン谷はフィンランドにあるわけではない。とはいえ、作者トーベ・ヤンソンが北欧の厳しい自然のなかで多感な少女時代を過ごし、物語を育んでいったことは紛れもない事実である。そして、そんな「北国のひと」トーベ・ヤンソンによる素朴な《民話》という側面から「ムーミン」を読み直すとき、著者は、現代の日本に生きるぼくらもまた未来を照らす《光》を手に入れることになるかもしれないと言う。まったく同感である。ムーミンの原作をいまこそ読もうと思う。
口下手にもかかわらず、かれこれ10年あまり接客業に携わっている。接客とはいえ対面販売ではないのも幸いしているし、それにもうひとつ、自分がどちらかといえば「しゃべる」よりも「聞く」ほうが好きなのも、いまの仕事には好都合なのかもしれない。
かつて荻窪に店を構えていたころは、店内が狭く密な分、いまよりずっとお客様と会話する時間も長かった。そして、ときどき茶々を入れながら聞くお客様の話はなかなか面白く、楽しいひとときであった。いまは、そうした時間をあまり持てないのが残念である。
『1万人インタビューで学んだ「聞き上手」さんの習慣』(飛鳥新社)は、先日、常連のサトコさんと一緒にご来店いただいた佐藤智子さんの著書である。いただいたチラシの見出しが興味深かったので、ふだんあまりこの手のハウツー本は手にしないのだが、さっそく購入、読んでみた。
著者の佐藤さんは女性誌の編集者として十数年活躍した後、独立。1万人を超える著名人、スペシャリストら(そのなかにはクルム伊達公子や矢沢永吉の名前も!!)へのインタビュー実績を生かして、現在は編集者としての仕事以外にもタレント養成や各種セミナーでの講師としても活躍されている。ひと呼んで「カリスマインタビュアー」。
「質問する」という行為は、ちょっとしたコツ次第で、「知りたいことがら」への近道にもなれば、反対に遠回りにもなる。それゆえ、この「コツ」を知っているか知らないかは大きい。そしてそうした「コツ」を会得しているひとを、佐藤さんは「聞き上手」と呼ぶ。
口下手だから接客や営業には向かないとかんがえているひと、話し上手なのになぜか周囲とのコミュニュケーションがうまくゆかないと悶々としているひと、その両方のタイプに佐藤さんが教える「聞き上手のコツ」は役立ちそうだ。読んですぐ、近くのひとをつかまえて「実践」できるのもいい。
それにしても、ぼくを見るなり「色白いですね〜北欧っぽいわぁ」と言った佐藤智子さん、面白すぎです!!
ハルキストでも熱狂的なオザワ信者でもないが、それでも、読み進むうちにどんどん膝を乗り出すように2人の対話に引き込まれてしまった。
音楽家は、楽譜に書かれた音符を通し作曲家と対話することで音楽と向き合う。それに対して、楽器を弾かず、ろくすぽ譜面も読めず、だが人一倍音楽を愛する人間は、とかく聴こえてくる音楽のむこうになにかしら文脈のようなものを読み取ろうとするものである。ここでの村上春樹の立場は、いわばそうした「音楽愛好者の代表」にほかならない。ぼく自身、まさにそのようなごくふつうの「音楽愛好者」なので、この本の中での村上春樹の発言やその意図については手に取るようにわかる。
ふつう、おなじ「音」について語ったとしても、こうしたまったく異なるアプローチの仕方で音楽とつきあってきた者同士の対話は失敗に終わることが多い。
ところが、会話が「滑ってる」という印象を受けないどころか、むしろ「奇跡」と呼んでよいほどに濃い対話が生まれているのは、それが一流の音楽家でありながら誰よりも強い好奇心と行動力をもつ小沢征爾と、音楽愛好者でありながら作家として誰よりも深い洞察力と多彩な語彙をもった村上春樹という選ばれた2人によるものだからにちがいない。元々、音楽を離れたところで2人が友人であったという事情も大きいだろう。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番をめぐっておこなわれた「第1回」のインタビューでは、村上春樹による巧みなリードの下、「指揮者という仕事」についてその手の内を明かすようなエピソードがさまざま語られていて興味深い。たとえば、太く長い「線」をつくることをなにより重視するカラヤンの音作りの指向性(文中、小澤は「ディレクション」と呼んでいる)は、たしかに指揮者カラヤンの音楽性を端的に表現したものである。
いっぽう、第3回「1960年代に起こったこと」を読んで、ぼくは、他にもたくさん優れた才能の持ち主がいるなかでなぜオザワが世界の頂点にまで登り詰めることができたのか、その「秘密」の一端に触れえた気がした。それは小沢征爾の天性の「人間力」、そしていい意味での「鈍感力」ではないか。
そのことは、第5回「オペラは楽しい」にもつながっている。しばしば「総合芸術」といわれ、音楽以外にも文学、美術、歴史などヨーロッパの文化や伝統に対する深い理解を求められるその特異な世界にあって、楽譜を深く読み込む力さえあれば十分通用することを小澤は証明してみせた。これは、もう、本当にすごいことだと思うのだけれど、ザルツブルグで、しかも『コシ・ファン・トゥッテ』(!)で彼をオペラデビューさせたカラヤンの慧眼にも驚かずにはいられない。
だが、いちばん興味深かったのは、小沢征爾がスイスで開催している若い音楽家たちのためのセミナーについて語り合った第6回「決まった教え方があるわけじゃありません。その場その場で考えながらやっているんです」。現地で視察した村上春樹によるレポートも併せて収められている。
技術を超えたところで、はたして「音楽」はどのように教えられるのか、教えられたものはどのように咀嚼され、継承されるのか。音楽家にとってはあたりまえでも、音楽愛好者にとっては秘密めいた儀式のようにもみえるそのやりとりが、「文字で」書かれていることにまず感動をおぼえる。目の前に、予期せぬご馳走を並べられた気分。
「それはちょっと僕には聞けないことだし、聞いてもきっと正直には言わないだろうな」。村上春樹が、セミナーに参加した東欧人+ロシア人からなるクアルテットに「どうして(自分たちのルーツとは疎遠な)ラヴェルの楽曲をあえて選んだの?」と質問したと聞いたときの小澤の反応である。
単身ヨーロッパに渡り、「東洋人がなぜベートーヴェンやモーツァルトを演るのか?
バッハは理解できるのか?」と言われながら現在の地位を得た小沢征爾の胸中には、そのときさまざまな思いがよぎったことだろう。そして、なによりも大切なのは、音楽と深いところで対話すること。それさえできれば、どこに行っても通用する。彼が若い音楽家たちに伝えたいのは、あるいはそういうことかもしれない。
文庫版の付録には、一度は引退を決めたジャズピアニスト大西順子を小澤がサイトウキネンフェスティバルになかば強引に引っ張り出し、共演を果たした際のエピソードが明かされている。そんな出来事があったとはまったく知らなかったのが、たまたま入った喫茶店で小澤・大西両氏の打ち合わせ場面に遭遇したぼくとしては、とても興味深かった。
たぶん、いずれまた読み返すであろう刺激的な一冊。
まるで、豪華な顔付けの「寄席」に出くわしたかのような満足感を得られる写真エッセイ。
開口一番に登場するのは、小三治師の弟子のなかでも若手真打ちの筆頭格、柳家三三師。本番前、高まる集中力の中まったくカメラの存在を意識していないかのような張りつめた表情、一転、高座の上での弾けるような活きのよさが印象的だ。
成城ホールで撮影された立川こしら師、鈴々舎馬るこさん、そして三遊亭萬橘師の3人会。馬るこさんのNHK新人演芸大賞受賞後のお祝いモード全開のこの日、こしら師がつけている「どくろ」紋の帯はポッドキャストで馬るこさんがプレゼントしていたものだなぁ。じんわりと感動。
既刊の『カメラをもった前座さん』でも思ったことだが、ぼくは個人的に橘さんが撮影した市馬師匠が好きだ。せせこましいところの一切ないゆったりとした高座が魅力的な師匠だが、被写体としての市馬師はこんなにも表情豊かなんだなぁ。
色物さんも多数。必殺仕事人の決定的瞬間がばっちり捉えられている。ふだんは見ることのできない寄席のお囃子さんたちの表情も新鮮。
そして、この本でトリに登場するのは柳家小三治師。「小三治師匠の高座は、ただ感じること。その一言に尽きる」。まさしくその通り。そしてそれは、写真を観るときの「作法」にもまた通じているのでは?
あ、そうか、だから小三治師がトリなのか。
『ボクの音楽武者修行』のような「読み物」を期待して気軽に手にすると、あるいは肩すかしにあうだろう。
著者の生い立ちやどうして料理人をめざしたかといった事柄は、ここでは一切触れられない。主題ではないからだ。技術論もまた、主題ではない。この本で語られるのは、「コミュニュケーション」をはじめ料理人が「現場」で生き残ってゆくために手放してはならない、いわば「矜持」のような事柄についてである。そしてそれは、右も左もわからないまま単身フランスに渡った著者が、およそ10年にわたるサバイバルのような日々のなかで理解し体得したものにほかならない。
インタビューをもとにリライトしたものなので読みにくくはないはずなのだが意外に読み疲れしたのは、おそらく硬派な著者の人柄から溢れ出る「圧力」ゆえではないか。
およそ30年ぶりの復刊。「東京建築探偵団」は、明治〜大正〜昭和(戦前)に建てられた「西洋館」のもつ《異物性》《用途の多様性》《デザインの多様性》に注目、そうした「西洋館」を自分の目と足で見つけ出し、生け捕りにしようという知的な狩猟のような試みである。
冒頭、「建築探偵『九つの心得』」が箇条書きにされているが、そのなかの「二、建物は手で見るをもって上とす」にはこんなふうに書かれている。「すぐ写真を撮るのは下」。町でこれという建物と出会ったら、まず眺め、手で眺め、そうしてペンを握りスケッチをすること。なぜなら「写真頼みの記憶は色褪せやすい」からである。納得。
ここに取り上げられた「西洋館」は、この30年の間にかなりの数が姿を消した。バブル期の再開発で取り壊されたものが多いような気がする。メンバーのひとり藤森照信氏があとがきに言うように、たしかにその意味ではもはやこの本はガイド本としては役立たずということになる。が、しかし、その後も、東日本大震災、2020年に開催予定の東京オリンピックを理由に古い建物はどんどん、なんの未練も躊躇もなく取り壊されている昨今、ぼくらも「建築探偵」にならって、自分たちが生きた時代を、ひとりひとりがその目と足と手で記憶に刻んでゆくべきときなのかもしれない。そういう意味で、いまだアクティブな一冊。
さしずめ、喜劇人ロッパの〝グルメブログ〟といった内容。
江戸っ子にもかかわらず蕎麦は食えず、寿司屋に行っても「こはだ、あなご、玉子」くらいしか食べられない。いっぽう、さすが男爵家に育っただけに物心ついたころからフォークとナイフを器用に操り西洋料理に親しむ反面、おでんや天ぷらといった「下司(げす)な味」をこよなく愛する。その偏食と大食が、こちら読者としてはかえってチャーミングである。
ロッパによれば、洋食や洋菓子の場合、おなじ店のおなじメニューでも戦争を境にすっかり味が変わってしまったという。もちろん「むかしの味」の方が、よかった、ということになる。ロッパとも親交のあった食通の映画監督.山本嘉次郎もたしか同様のことを言っていたと思う。戦争は、ことほどさように、ありとあらゆるものを変えてしまったのだ。
タイトルにあるように、1999年5月下席から2000年5月中席までの一年間、新宿末広亭に足を運んでの「定点観測」がこの一冊のテーマである。
読んで感じるのは「寄席は生きもの」ということ。お客さん、演者、天候……
さまざまな要素の組み合わせいかんによって寄席の表情もくるくる変わる。著者が通いつめた時期が、いわゆる「落語ブーム」前夜のもっともゆるみきった時代であったのも、逆に「寄席」が主役の読み物としてはかえっておもしろい。たとえば、いま2014年におなじことを試したとしても、こんな空気感は出ないのではないかなぁ。結果的に、ある意味しっかり「時代」を切り取ってしまっているところが興味深い。
本人による芸談、対談、志ん朝に縁のある、また志ん朝を愛する人物によるエッセイ、後輩芸人たちへのインタビューからなるアンソロジー。掲載されたインタビュー等の大半は石井徹也氏がおこなっている。資料として演目一覧も所収。
読み進めてゆくうちに、いくつかのキーワードが浮上。
◎ 黒門町
いわずと知れた八代目桂文楽。独自の美意識に貫かれ、磨き上げれた楷書の「芸」。若き志ん朝は、みずからの範をこの黒門町にしていたようである。父として、師匠として、草書の「芸」の巨人、志ん生を身近に見ていたため、逆方向に突き進んでいったようだ。談志いわく、よくもわるくも「作品派」。
◎ くどさ
あるいは、わかりやすさ。芝居が好きで、役者をめざしたほどの人ゆえ、客席からみたときのわかりやすさ、イメージの共有を徹頭徹尾考え抜いたひとであったようだ。たしかに、説明調でありくどいのだが、聴いているときにはあまりそれを意識させないのは志ん朝の生まれ持った「芸品」のなせる技なのではないか。
◎ 太陽
「志ん朝師匠と関わりを持ったことがある人は、師匠のことを話すとき、本当にうれしそうな顔をする」と編集後記にあるように、後輩芸人たちのインタビューはしばしば志ん朝のことを「太陽のようなひと」と語り、しくじったときの経験までもうれしそうに語っている。
志ん朝の人となりを知るにつけ、落語の世界をあっという間に吹き抜けた一陣の、爽やかな風のように思う。
「水面はさ、いっつもきれいだけどなんにも遺さず移り変わっちまうでしょう。でも水底で砂粒はねェ、しっかり跡を刻んでるんだねェ」
明治維新から十年、刷毛で塗り替えるように新たな慣習や思想が過去を覆ってゆくなか、その急激な変化についてゆけないまま谷底の遊郭で砂粒のようにうごめいている人びとの姿を彼らの焦燥や哀感とともに描いている。その中で、「駕篭の鳥」という身分ながら決然と時代に立ち向かう花魁「小野菊」、ある種の諦観をもって飄々と生きる狂言まわし役の「ポン太」が印象的。
まさに漂砂のような速度で物語が進行するなか、後半、現実が三遊亭圓朝の噺とリンクしてゆく部分がスリリング。はたして、その後の言文一致運動に小野菊は一役買ったのだろうか……。
昭和47年にスタートした地域寄席の老舗「かまくら落語会」。その代表世話人を引き継ぎ、26年間あまり運営に携わってきた人物による貴重な記録。
著者の岡崎氏は本職が物理学者ということもあり、過去の資料を引きながらの叙述は読み物としてのおもしろおかしさには欠ける反面、出演した噺家とのやりとりや失敗談も含め感傷を排し事実のみを綴る「実直さ」に世話人としての人柄や落語会の会員に対する思いが感じ取られる。
地域寄席の貴重なドキュメントであるとともに、世話人とお客様、そして演者の三位一体によってつくられてきた歴史の重みに敬意を表したくなる。
ザ・様式美!?
このシリーズも第5弾、ついに最終作になってしまった。本人は、命あるかぎり書き続けると高らかに宣言していただけに名残惜しい。
ルービンの不機嫌に始まり、ゴンザロが出すきっかけに応じてヘンリーが鮮やかに、だが控えめに謎解きをするという黄金のワンパターンがここにきて完全に定着した印象。形式が決まった分、読み手も(ブラックウィドワーズのメンバーになった気分で)いっそう集中して謎解きに「参加」できるようになった。
なお、毎回密かに楽しみにしていた訳者あとがきが、この巻にかぎって有栖川有栖氏による解説に変わってしまったことだけが唯一、個人的には残念。
ミルクティーの似合う英国産ミステリ。マージェリー・アリンガムの短編集が文庫本で愉しめるようになったのが、まずうれしい。表紙の酷さはともかく。
古今東西の探偵のなかで、ここまで腰がひけ、覇気の感じられないキャラクターというのも珍しいのではないか。そんなキャンピオン氏とは対照的に、ギラギラしたスコットランドヤードのオーツ警視。掛け合い漫才のような面白さが、そこに生まれる。
あれ?
という感じに一気に「答え」があぶり出されるのもいつものパターンで、ご都合主義な部分もなくはないのだが、そういった部分もふくめて休日の午後にうってつけのコージーミステリとして気楽につきあいたい。
いい大人たちが「ブタの貯金箱」を奪い合うお話。シャーロット・アームストロングの作品を読むのはこれで3作目だが、この「ほんわかさ」こそが彼女の真骨頂なのだろう。嫌いじゃない。
空港のみやげもの屋ではたらく平凡な貧乏女子大生が、ある日ひょんなことから事件に巻き込まれる。事件のカギを握るのは、そのみやげもの屋で売られていた赤、黄、緑、3個のブタの貯金箱。その貯金箱の行方をめぐって、イケメン資産家vsマフィアが激しい争奪戦を繰り広げる。なかば強制的に、イケメン資産家と「ブタの貯金箱」を求めて世界中を旅するハメになった彼女の運命やいかに……。ストーリーだけ書き抜くといかにもくだらない(失礼!)のだけど、軽〜い気分で読み進め読後感も上々なので、ぜひ旅のお供にどうぞ。
まるで、糸の切れた凧を追いかけるような……。
いにしえの昔より京都の貴族たちのあいだで密かに執り行われてきた私的裁判「双龍会(そうりゅうえ)」。その決着は、「龍師」と呼ばれる者たちの弁舌次第。そこでは真実よりも、いかに論理的に破綻なく、「火帝」と呼ばれるいわば裁判長を、そして群衆(ぐんじゅ)と呼ばれる観衆を魅了し、納得させるかが重要となる。その凄絶な舌戦は、まさにめくるめくドンデン返しの連続であり、ポンコツ読者にとっては追いついてゆくだけで精一杯なのである。フ〜フ〜息切れしながらも、しかしその懸命の追走はクセになる。読了後の爽快感、そして切なさ。
シリーズ第一作であるこの『丸太町ルヴォワール』では、祖父殺しの疑惑とその事件のカギを握る女性「ルージュ」との白昼のミステリアスな邂逅を通して、龍師の家系としての宿命を担ってきた「龍樹家」と、論語、達也、流ら後に龍師として活躍する者たちとの「因縁」が語られる。ややこしいがすこぶる面白く、青春小説としても読める。
天才肌の登場人物たちの中で、唯一〝人間臭い〟キャラクター流(みつる)。このシリーズは論語、達也、撫子らそれぞれがみな主役の青春群像劇でもあるのだが、個人的にはこれから先「流」がどのように成長してゆくのかが楽しみでならない。おそらく読み手の多くも、(とりわけ双龍会の場面では)「流」のいかにも〝人間臭い〟視点からドラマを眺めているのではないだろうか。その意味で、重要な狂言回しの役割を担っているのがこの「流」なのである。
シリーズ第二弾であるこの『烏丸ルヴォワール』では、「流」がその人間臭さゆえ敵方の陰謀に翻弄されることになる。伝説の龍師「ささめきの山月」、「流」同様コンプレックスを抱えたまま姿を消していた「烏有」ら新たなキャラクターも登場。双龍会における容赦ない騙し合いのスリリングさは相変らず、息を詰めて読み切ってしまった。
今後「ささめきの山月」はどのようなかたちでストーリーに絡んでくるのか?
はたして「黄昏卿」との直接対決はあるのか?
ますます楽しみになってきた。
「オ・ルヴォワール」というフランスの別れの挨拶は、〝別離〟と〝再会〟という反対の意味を一語のうちに孕んでいる。いっぽう、ふたつの通りが交差する点によってあらわされる京都の地名もまた、そこに〝別離〟と〝再会〟とを孕んでいる。「ルヴォワール」シリーズ第3弾の舞台は、大怨寺という怪しげな寺院のある「河原町今出川」。当然、そこは積年の〝別離〟と〝出会い〟の交差点となる。
メインが、私的裁判「双龍会」におけるディベート以上に「権々会」における「鳳」と呼ばれるカードゲームに変わるとはいえ、その息を呑むような壮絶な騙し合いの連続は相変らずだ。そして最後、登場人物らの人間ドラマにも大きな変転が……
文庫化されているのはここまでだが、こうなったらこの勢いで「BOX版」で最終章まで読んでしまうべきか、はたまたご馳走は最後まで残しておくべきか……
悩ましい。
「魔法の鏡」というお題で抜群に頭の良いひとが小説を書くと、なるほどこんなミステリが出来上がるのか……。
「あちらの世界」では王家を継承する血を引くママエは、それとは知らず「こちらの世界」で世話役の小人イングラムとともに暮らす中学生。そのいっぽう、母の形見の「魔法の鏡」を密かに駆使して探偵業も営んでいる。そんなある日、とある依頼人の手引きでおなじ探偵業を営むふたりのクセもの、緋山燃、そして「我こそは名探偵」と公言してはばからない三途川理と引き合わされたママエは、「あちらの世界」の戴冠式に絡んだ陰謀から思わぬ事件に巻き込まれてしまう……
ミステリーながら、いきなり「魔法の鏡」「小人」といった飛び道具(?)の登場に面喰らうし、年齢的に仕方ないとはいえ、ママエの幼さ、身勝手さに共感できないのも読んでいてつらいところ。とはいえ、「魔法の鏡」を縦横無尽に使い倒す三途川の頭脳には舌を巻かずにいられない。とにかく、読者に息つく暇をも与えない矢継ぎ早のトリックは面白く、おとぎばなし的な舞台設定もさほど気にならなくなってしまうのだ。ラストの種明かしは……う〜ん……ひとひねりせずにはいられない作者の性格が出ている感じ?
──
【以下、ネタバレ】
「白雪姫」的なオチというのは分からないでもないが、個人的には、とどめはママエ自身の手でお願いしたかったかな?
オトナへの階段として。シリーズものらしいので、そのあたりの事情からママエのキャラは変えたくないかもしれないけれど。
評判通り、ミステリの教科書のような精緻に構成されたストーリーに一気読み。
序ー記憶を失った男。ふとしたことから出会った女との蜜月。飄々としてつかみどころのない、しかし憎めない人柄の青年、御手洗潔との不思議な友情。
破ー失われた過去への執着とともに、理性を失ってゆく女。過去を辿るなかで知った、自身にまつわるおぞましい事件の存在。
急ー復讐。御手洗潔による推理。愛の完結。
ところどころで引っかかっていた事柄が、まさかこのようにつながっていたとは……そして、読了後にはその秀逸なタイトル(ロマンティック・ウォリアー)に感服。
全編をつらぬく、昭和の湿り気を帯びた空気感も重要な要素。
人一倍「執念深い」小山内サンと人一倍「口を出したがる」小鳩クンとは、おなじ高校に通う同級生。ふたりとも、どうやら過去にそんな性格が災いし手痛い目にあっている様子。高校入学を機にそんな「短所」を封印し、「小市民」として地味ながらも穏やかなスクールライフを送ろうと誓うふたりだったが、皮肉なことにそんなふたりの前に次から次におかしな事件が起こり……。
いわゆる学園を舞台にした「日常の謎」モノ。文庫書き下ろしの四部作。この『春期〜』は、第1作だけにまだまだプロローグといった印象。今後に期待をもたせる感じ。「おいしいココアの作り方」は、もっと単純なやり方もあるように思うのだが、賢吾のキャラクターに引っかけつつ、読者が思いもしないような方法を披露したかったってこと、かな?
※アアルトコーヒー庄野さんからのおすすめ本
生まれ変わったら、大学生活は京都で送りたい。是が非でも。鴨川の河岸に等間隔で並んだカップルを見て以来、ずっとそう思っている。もしも京都で大学生活を過していたら、この人生もまた相当ちがったものになっていたにちがいない。かえすがえすも残念である。
ひとことで言えば「青春小説」だが、こんな小説の舞台は京都をおいてほかにない。バカバカしさが(だいたい100匹のオニを引き連れた大学生って!)、奇妙にリアルでありうるのは、なによりもここでは「京都の大学生たち」が主人公だからである。憧れと嫉妬をもって読んだこの小説、かなり面白い。悔しいけれど。
最後に、大学生活を京都で送った人たちになにかメッセージするとするなら次のように言わせてもらう。人生におけるあなたのピークはすでに終わっている、と。
ちょっとクセのある高校生ふたりが身近なナゾに挑む地方都市を舞台にしたライトなミステリ……
と思いつつ読んだ前作『春期限定〜』だったのだが、この作品ではいい意味で読者の予想を裏切ってくれる。
前作では、主人公たちがしばしば口にする「小市民」とか「互恵関係」といった言葉がいちいち口実めいていて、なんだか喉に刺さった小骨のように鬱陶しくも感じられたのだが、今作ではその意味が少しずつ明らかになり輪郭を帯びてきた感じ。小佐内サンが暗黒すぎて不気味ですらある。
「過去」を葬り去りたいふたりだが、どうもそうはいかない様子。次回作がいよいよ楽しみになってきた。
チャーリー&イーライ・シスターズは、泣く子も黙る兄弟殺し屋。「山師ウォームを殺れ」との雇い主からの依頼を受け、オレゴン・シティからゴールドラッシュに沸くサンフランシスコめざしハチャメチャな旅がはじまる。
暴力、博打、裏切り、復讐、泥酔、皮肉な笑い……
知っているところでは、ブコウスキーの小説、コーエン兄弟やタランティーノの映画とおなじ匂いをもつ小説。破天荒で不思議な彼らの旅は、また家族再生の旅でもある。
事件は次から次に起こるも、そこにミステリー要素はなし。解説にある「ウェスタン・ノワール」という表現がいちばん近いかな。
現実逃避には紀行文がいちばん。できれば、凡人とは目線がズレていて、しかもコミカルなのがいい。『どくとるマンボウ航海記』は、まさしくそんな条件を満たす絶好の一冊。
「掘りだされて一年目のゴボウのごとく疲れ果てた…」(上陸がうれしくてついはしゃぎすぎたマンボウ先生)
「もっとも安くもっとも面白い場所を古ギツネのごとく捜しだす…」(古参乗組員について)
「海と空の中間の色彩で、ほそく一直線におどろくほど起伏なくつづいている」「それはいかにも涯がなく,窺いきれぬほど暗黒なものを蔵しているかのようだ…」(船上から目にしたアフリカ大陸の眺めについて)
こんな独特の表現とともに、いまはもう二度とこの目で見ることはできない60年近くも前の世界が生き生きと立ち上がってくるのだから、なんとすてきなことだろう。
坂の上の小さいおうちとそこに暮らす人たちの世界、さらには、その小さいおうちを取り巻く世界。さいしょは同じだったはずのそのふたつの「世界」は、戦争の足音が大きくなるにつれ次第にズレてゆく。やがて小さいおうちは、まるで荒波にもまれる小さな船のように思わぬ方向へと流されてゆくのだった。
語り手は、この小さいおうちとそこに暮らす人びとに深い愛情を感じている女中のタキ。晩年、タキが綴る手記をもとにストーリーは進んでゆくが、それを「盗み読み」する甥っ子のいかにも現代っ子らしい視点がミックスされているのがこの小説の特徴といえるだろう。おかげで、物語が「昔話」に終わらずに済んでいるからだ。
「謝らなくていいわ。わたしが欲しいのは、心のゆとりなのよ」と奥様の時子は言う。また、巻末に収められた作者との対談で、船曳由美さんは次のように述懐する。「戦争というのは、そういうハイカラな、もっとも大事な心に響くものからなくなっていくんだというイメージがありますね」。
街から、心にゆとりをもたらす物や店が次第に消え、またそうした考え方がなんとなく憚られるようになったら要注意だ。ここ日本にあって、庶民にとっての戦争とはある日突然に火蓋が切られるといったものではなく、平和な日常のすきまからじわじわと浸み込み、気がついたときにはもう手の施しようがなくなっているのだ。
著者は関東大震災による壊滅的な被害からの約10年間、いわゆる「復興期」の建築ラッシュこそが現在の東京の原風景をつくったと考え、昭和10(1935)年に都市美協会が発行した写真集『建築の東京』を手に、そこに収められた500件ちかい建物を地道なフィールドワークによって訪ねあるく。
訪ねあるいた昭和61(1986)年、『建築の東京』発刊から50年を経過した時点で踏査できたのは450軒、すでに半数以上の建築が姿を消していた。建物の現存を確認すると同時に著者は、そのわずかな期間のうちに出現した建築の数もさることながら、そのスタイルの百花繚乱ぶりに驚かされる。
アールデコ、ドイツ表現派、フランク・ロイド・ライト風、インターナショナルスタイル、古典風、日本趣味……そうしたさまざまな様式と思想があたかも当然のごとく並立し、ときに混交しながら乱れ咲いている。その折衷的なあり方こそが、「復興期」の建築のなによりもの特徴であると著者は言う。
建築に限らず、そこには西欧の文化をわずかな時間のうちに受容し消化していった島国「日本」の姿があるのではないか。
読者には早々に犯人とその手口をなんとなく仄めかしておいて、種明かしはジワジワあぶりだしのように時間をかけてというのがこの小説のスタイルなのだろうか?
まんまとじらされてイライラしながら読了。
登場人物の会話のなかに出てくる「イギリス人はかんたんなフランス語の題がつけられた小説を好む」というエピソード同様、この作品からチラチラ顔を覗かせるディレッタントな雰囲気は、ヘレン・マクロイが「意図して」流行小説風の装いをしてみせたということなのだろうか?(他の作品を読んだことがないのでわからない)いや、ただの考え過ぎ?
登場人物や舞台をはじめ、とても洒脱な雰囲気をもったミステリだと思う。そんな中、探偵役のベイジル博士が他の登場人物たちと比べてヒューマンな魅力に欠けるので、なんとなく事件は解決しても物足りない気分になってしまうのだった。笑
「雪や寒い雨の日にコーヒーのうまいのはどういうわけであるか気象学者にも生理学者にもこれはわからない。空気が湿っていて純粋な「渇(かわき)」を感じないために、余裕のできた舌の感覚が特別繊細になっているかもしれないと思われる」。つい先日ネットでみかけたこんな一節をあらためて読みたくて、パブリックドメインにつき無料でダウンロードできるキンドル版で入手した。明治12(1879)年生まれの著者が、昭和8(1933)年に発表したエッセイである。
記憶の「対流」によって、前後に流れる明瞭な時間の感覚を失ったまま、しかしかえって部分的にはさながら映画のように鮮明に思い出される明治の「銀座」の光景が、幼少時代の、青春時代の、著者のまなざしを通して投射される。
「心がにぎやかでいっぱいに充実している人」にはあえて避けて通りたい銀座のにぎわいも、「心の中に何かしらある名状し難い空虚を感じている」人にとっては、そこに行けばさながら「アルプス」のごとく「空虚が満たされそうな気がして」つい足がつい向いてしまう、著者はそう語る。
もういっぽうで、このエッセイが発表された昭和8年当時の銀座について思いをはせる必要がある。関東大震災で壊滅歴な打撃を受けた東京は、国を巻き込んでの大規模な帝都復興のスローガンの下、雨後のタケノコのごとく近代的な建築がつぎつぎと誕生する。
「摩天楼」とまでは呼べないまでも、モダンでノッポの「ビルヂング」を山々の連なる嶺として、また、きらびやかなネオンの輝く様を咲き乱れる草花として、著者は突然姿を現した「銀座」の姿を「アルプス」に見立てたのであろう。そこには、新しく誕生した都市の姿を愛で、称賛する著者の心持ちをうかがうことができる。その証拠に、著者は都市を破壊する地震への備えを訴えてこのエッセイを締めくくるのだ。しかし皮肉なことに、そのわずか10年ほど後に「戦争」がこの美しい「アルプス」を蹂躙してしまうことを、まだこのとき著者は知らない。
流行りに飛びつかない、「変えない」のではなく「変わった」と(お客様に)気づかせないように変えることをもってよしとする……
東京を代表する洋菓子舗「ウエスト」の「ウエストらしさ」をめぐる論考は、また、はからずも「東京らしさ」をめぐる論考にもなっている。その意味で、この本が関西の出版社から登場したということも興味深い。
現社長を中心に、職人やウエイトレスら「ウエスト」を支える人びとの言葉には仕事への愛着がうかがえるが、どこかおっとりとしていて変にこけおどしなところがないのがいい。よくあるカリスマ社長が伝授する成功の秘訣といった趣きは皆無。アクの強さや個性より、社是である「真摯」という言葉を羅針盤にして帆船「ウエスト」号は今日も鷹揚に航海をつづけるのである。
さほどマジックに関心があるわけではないため、たびたび書店で目にしながらも触手ののびなかった一冊。ところがふとしたきっかけで手にし読み始めたところ、思いのほか〝愉しい〟一冊であった。
とある地方都市の、アマチュアマジシャンの同好会「マジキクラブ」。その晴れ舞台ともいえる発表会でのドタバタ騒ぎを描いた第一部。そして、殺人事件の発生。メンバーそれぞれの紹介にもなっている。
第二部は、メンバーのひとりである学究肌の鹿川が11のトリックを小説形式で描いた私家版『11枚のとらんぷ』がまるのまま収められている。主人公はそれぞれメンバーが実名で登場する上、後の謎解きに役立つ伏線が多数ちりばめられている。
ジャックタチの映画を彷彿とさせる、世界中の奇術師や愛好家たちが一堂に会する一大イベント「世界国際奇術家会議」の乱痴気騒ぎの中、ちいさな事実の積み重ねが犯人の姿をあぶりだしてくる第三部。そして、思いがけないシナリオの存在。自身、奇術愛好家として知られ玄人はだしの腕前をもつマジシャンでもあったという著者だけに、この章は愉悦にひたりつつ書いたであることが読者にも伝わってくる。だからこそ、読んでいて楽しい。日本の奇術史の紹介や明治時代にヨーロッパに渡った日本人奇術師の横顔なんてとても勉強になる。
作中、フランス人マジシャンが口にする「私は現象のごたごたした奇術は好みません。その代わり一つの奇術の中にある不思議さを、私は大切にいたします。一人息子のようにね」というセリフは、奇術愛好家である著者の美意識の表明であるとともに、事件の謎を解くひとつのきっかけにもなっている。
昭和9(1934)年の大晦日、三流新聞の記者である古市加十は、ひょんなことから銀座のはずれのバーで安南国の「王様」と引き合わされる。
そのまま「王様」の妾宅へ連れてゆかれた古市は、偶然にもそこで愛人の殺害現場を目撃、さらに「王様」は謎の失踪をとげる。これはたんなる偶然なのか、それともなにかしらの罠なのか。古市はこの「特ダネ」で一発あてようとみずから事件の渦中へと身を投じる一方、その冷徹さから恐れられる警視庁の真名古刑事もまた、そこにとてつもない陰謀の匂いを嗅ぎ取り独自に捜査を開始するのだった。
政治的な思惑や安南におけるボーキサイトの利権をめぐる争い、裏切りや騙し合い、組織の腐敗など、まさに闇鍋のように混沌としたこの時代の空気に充満した傑作探偵小説であると同時に、モダン都市東京を描いた貴重なポートレイトでもある。
物語は、大晦日の宵の口にはじまり年が明けた2日未明に大団円を迎えるまでの1日半ほどの出来事を描いている。初出は雑誌「新青年」昭和12(1937)年10月号から翌13(1938)年10月号まで連載された。ざっくり言うと、一日の出来事を一年間で書くという趣向だったわけである。そのため、あらためて続けて読むとやや冗長だったりご都合主義的に感じ取られる箇所もないではないが、そのあたりの事情を汲めば気になるほどでもない。
じつは、終盤までこれは本邦初(?)の警察小説なのではないか、と興奮しながら読んだ。上層部の権力闘争や組織の腐敗と戦いながら、懐に「辞表」をしのばせつつ真実を突き止めようと孤軍奮闘する刑事の姿は、この小説のもうひとつの読みどころでもある。ところがどうしたわけか、最終章ではいきなり義理人情的な決着がなされてしまう。
「定本久生十蘭全集1」(国書刊行会)に付された解題で、江口雄輔氏は次のようなエピソードを紹介している。「軽井沢の山荘でシャンパンや生卵を摂りながら、『魔都』の最終回を口述筆記させられた、という土岐雄三の証言もある」。もしそうだとすると、この最終章での決着への違和感はやはり執筆当時の「趣向」から生まれたものといえるかもしれないが、震災から10年あまりを経て完全に復興をとげた帝都東京の近代的な「顔」とは裏腹に、いまだ精神的には前近代を引きずっていた30年代の東京の、まさに「時代の気分」といったものが臆せず表出されているようでむしろ興味深くもあるのだ。