
アルヴァ・アールトの代表的な建築のひとつであるパイミオサナトリウム。昨年開催された『アイノとアルヴァ 二人のアアルト』展でもコーナーが設けられ、多くの資料が展示されていました。
展覧会で「モダニズム建築の不動の傑作」と紹介されていたパイミオサナトリウムですが、実際どこがどう優れているのかというところまで理解することはできませんでした。
それから約1年後、パイミオサナトリウムについてより深く知る機会が訪れました。
それは、フィンランドセンター主催のオンラインセミナー「山荘シリーズ〜パイミオサナトリウム」編。お話ししてくれたのは Alvar Aalto Foundation(以下、アールト財団)のヨーナス・マルムベリ(Jonas Malmberg)氏です。建築家であり、スリークロス教会のオンラインイベントでも登壇されていました。
ヨーナス氏が掲げたテーマは、
① アルヴァ・アールトとアールト財団
② 結核とサナトリウム
③ 初期の家具とアルテック設立
そこで今回は、アールトとパイミオサナトリウムについて、上記3つのテーマに沿いながら、くわしくご紹介していきたいと思います。
① アルヴァ・アールトとアールト財団
建築家 アルヴァ・アールト

アルヴァ・アールト(Alvar Aalto, 1898-1976)は、国際的に最も知られたフィンランドの建築家です。また建築だけでなく都市設計や家具デザインなど、その生涯で約300もの作品を生み出しました。
アールトが、ユヴァスキュラに建設事務所を開設したのが、1923年(翌年、妻となるアイノが入所)。南西フィンランド農業協同組合ビルやヴィープリ図書館のコンペティションで1等を獲得するなどして頭角を表します。その後トゥルクに拠点を移し、アールト独自のモダニズムを推し進めていきます。
1930年代、CIAM(近代建築国際会議)のメンバーとなったアールトは、ヴァルター グロピウスやル コルビュジエなど当時のモダニズムの巨匠たちと交流を深めつつ、より人間的なアプローチの建築で世界的な名声を得ました。その最初のきっかけとなったのが、パイミオサナトリウムの設計です。
アアルト財団の設立
そんな世界的な建築家であるアールトの遺産を後世に残すため、そして彼の作品や思想を広く知ってもらうため、アールト財団が設立されました(1969年9月26日)。
初代理事長はアールト自身。1966年設立されたアルヴァ・アールト・ミュージアム(建物の完成は1973年)も、1998年からは財団が管理するようになりました。活動の運営資金はフィンランド政府、ユヴァスキュラ市、そして財団によるものです。

財団では現在、11万以上あるという設計図や模型等のアーカイブ、ミュージアムの運営、イベントや展示会の開催、夏の家やスタジオ、アールト自邸といった施設の管理など、幅広い業務を行なっています。
そのほかアールト建築を保存するため、国の考古学委員会、建物の所有者、デザイナーや建築家などの協力を得ながら、建築物の歴史的調査やデータの収集、重要性の提言などをすることも財団の重要な仕事です。
② 結核とサナトリウム
ここからは、結核とサナトリウムについてお届けします。すこし堅苦しい話が続きますが、パイミオサナトリウムが建設された当時の状況などがよくわかると思います。

結核とはどんな病気か?
肺の病気は、9,000年前の新石器時代からその存在が知られています。19世紀のヨーロッパ各地の都市で大きな問題となり、1882年近代細菌学の開祖とされるドイツ人医師ロベルト コッホ(Robert Koch)によって、この病気が結核菌による感染症であることが明らかになりました。
結核菌は、おもに肺の内部で増殖するため、咳、痰、発熱、呼吸困難等の症状が見られ、さらに他の臓器を冒し、生命の危機を招くこともあります。有効な治療法が確立されたのは1940年代以降のことです。
WHO(世界保健機関)によると、現在でも世界人口の1/3がこの細菌を保有しており、毎年1000万人が新たに感染し、そのうち150万人が亡くなられています。
結核療養所の設立
そんな結核の流行をうけてヨーロッパ各地でサナトリウムが建設されます。当初は私立のサナトリウムのため費用が高く、誰でも利用できる場所ではありませんでした。
- 1854年 ドイツ初のサナトリウム、ゲルバースドルフ療養所(現ポーランド)。ヘルマン・ブレマー(Herman Brehmer)博士により食事療法や衛生療法を行う。
- 1862年 ヴァルター シュペングラー(Walter Spengler)が、ヨーロッパの結核の中心地であるスイスのダボスに最初のサナトリウムを開設。他の医師もそれぞれに施設を開く。
- 1907年 クイーンアレキサンドラ療養所(ダボス)設立。フレガード&へフェリ(Pfleghard und Haefeli)建築事務所による設計。
- 1904年 ドイツの「ハイルシュテッテン計画」により、公共サナトリウム;ベーリッツ・ハイルシュテッテン(Beelitz Heilstatten)が誕生。当時世界最大規模のサナトリウム。
- 1928年 ヨハネス ダイカー(Johannes Duiker)設計によるゾンネストラール療養所(オランダ)が開設。

建築的な観点からもとても興味深いゾンネストラール療養所。
アールトが訪れたという記録は見つけられなかったが、当然知ってはいただろうとヨハネスさんは語っていました。
フィンランドでも1910年代になると結核による年間死亡率が増加し、1929年5月31日に「結核患者の治療と予防のための施設に対する国の補助金に関する法律」が公布されました。この法律により、新しいサナトリウムの建設費の3/4、運営費の2/3を国が負担することになりました。
そして1930年から1934年にかけて8つの新しいサナトリウムが完成し、19のサナトリウムが自治体によって運営されるようになりました。最後に完成したのはラップランドにあるムーロラサナトリウム(1952年)。フィンランド全体では、1960年の時点で6,164人の患者が収容されました。
結核の登場する文学作品など
当時、結核という病気がどのようにとらえられていたのか、文学作品からも推察できます。
- 1924年 トーマス マン『魔の山(The Magic Mountain)』
スイス シャッツアルプの結核療養所が舞台。 - 1937年 ディーノ ブッツァーティ『七階(Seven Floors)』
パイミオサナトリウムが舞台の小説。 - 1899年 徳冨蘆花『不如帰(ほととぎす)』
- 2013年 宮崎駿 映画『風立ちぬ』
日本にも結核が登場する物語がある。
また、絵画作品にも結核をテーマにしたものがありました。
ヘレン・シャルフベックの展覧会図録を読んでいたところ、まず最初にあったのが、佐野直樹氏による『「枕の時代」シャルフベックの《快復期》に見られる病床画の系譜とイギリス美術の影響』というコラムでした。
「枕の時代」というのはエドヴァルド・ムンクが、『病める子 (1886)』という結核で亡くなった姉を描いた作品について語ったときの言葉です。クリスティアン・クローグの『病める少女 (1881)』、アイナー・ニールセンの『病める少女 (1896)』など多くの病床画が描かれたことからも、当時結核が世界的な社会問題であったことがわかります。
パイミオサナトリウムの建設
パイミオサナトリウムの建築コンペティションの締切は1929年1月31日。
サナトリウムに関するコンペティションにそれまで2回応募していたアールトでしたが、いずれもサナトリウムの設計では名の知れたユッシ・パーテラ(Jussi Paatela)に負けていました。今回のコンペティションではユッシが審査員を務めていたため、アールトの案が選ばれました。アールト33歳のことです。
このパイミオサナトリウムの建設においてアールトの大きな理解者となったのが、医師のセヴェリ・サヴォネン(Severi Savonen, 1886-1964)です。
彼はフィンランドにおける結核治療のエキスパートで、アンチ結核協会の事務局長を務めていました。また『Keuhkotaudin Kulku Suomessa 1771-1929(フィンランドにおける肺疾患の経過)』や『Suomen poikien ja tyttöjen oma terveysopas(フィンランド少年少女のための健康ガイド)』といった本の執筆もしています。
1927年に南西フィンランドのサナトリウム建設を提案した彼は、建設地の剪定を行う建設委員会のメンバー、さらには医学専門家として建築コンペティションの審査員も務めました。アールトの建築案とその改築案についての詳細な評価や助言も行っています。
パイミオサナトリウムの建設が始まったのは1930年4月。1933年2月21日に最初の患者が収容されました。落成式が行われたのはその後、1933年6月18日のことです。
しかし当時はまだワクチンが開発されていなかったため、結核に対する効果的な治療はできませんでした。おもにサナトリウムで行われたのは、食事療法と衛生管理。治療期間はとても長く、多くの場合数回に及びました。
新鮮な空気と太陽の光が結核には重要だと考えられていたため、患者たちは日当たりの良いバルコニーで休みます。人工太陽療法や外科手術なども行われましたが、あまり効果はなかったそうです。治療以外では職業訓練なども行われました。また長期入院により患者たちのコミュニティが生まれ、同人誌やフロアごとの旗なども作るようになりました。

治療法の確立とサナトリウムにおける問題
1949年になるとフィンランドでは結核の早期発見を目的に集団検診が開始されました。また、4-アミノサリチル酸(1946)、ストレプトマイシン(1949)などのワクチン接種により新規感染者の減少が見られるようになりました。
さらに麻酔や手術技術の発展により、1950年代から結核患者は大幅に減少していきましたが、多くの患者を抱えるサナトリウムでは治療以外にもさまざまな問題が起こりました。
- 病気の予後(死への恐怖)
- 階層的なコミュニティ
- 若い患者たち
- 大規模な療養施設
- 家庭環境と異なる状況
- 喫煙、アルコール、バケーションの誘惑 など
そこで1953年、全国結核協会によるサナトリウムの問題解決のための委員会が設置されました。
その後のパイミオサナトリウムの変遷
1968年 トゥルク大学病院肺疾患科が移転。
1971年 パイミオ病院と改称。
1973年 第一内科病棟開設。
1970-80年 アールトらによる改築(責任者:ヘイッキ タルッカ)。
1987年 トゥルク大学病院の一部となる。
1993年 国の文化財施設として保護される。
2014年 マンネルヘイム児童福祉連盟によるリハビリテーション利用開始。
2015年 大学病院最後の病棟が退去。
2020年 パイミオサナトリウム財団が新しい管理者となる。
2021年 マンネルヘイム児童福祉連盟が退去。
2022年 新しい利用方法(リサイクル事業、観光事業など)が見つかる?
2026年 アールト建築がユネスコ世界遺産にノミネートされる?
サナトリウムには、結核という世界的な社会問題を解決するという大きな使命がありました。アールトにとってもパイミオサナトリウムの建設を手がけることは、大きなチャレンジだったのではないでしょうか。
③ 初期の家具とアルテック設立

最後は、初期の家具(パイミオチェア)とアルテック設立を紹介しながら、パイミオサナトリウムがどうして傑作と呼ばれるのかをみていきたいと思います。
もしかするといまもアルテックが存在しているのは、パイミオサナトリウムの存在があったからなのかもしれません。
もうひとりのアールト
アルヴァ・アールトは建築だけでなく、家具やインテリアのデザインにも力を注いでいたことはみなさんご存知だと思います。そちらの方面で最も活躍したのがアイノ・アールトだと考えられています。

どこまでがアイノの仕事かという記録はあまり残されていないそうですが、彼女がアルテックの初代アートディレクターの座に就いたという事実は、その証明でもあるのではないでしょうか。
アイノの活躍はパイミオサナトリウムにおいても同様でした。
ちなみに先日開催されたアルテックのオンラインイベントで、アルヴァとアイノの一番のお気に入りの家具はパイミオチェアではないかと、孫のヘイッキさんはおっしゃっていました。
その理由は、合板や曲げ木の技術など彼らが生み出した家具の基礎となっているから。
アールトの協力者たち

またパイミオサナトリウムの建築にあたって、アイノ以外にも重要なパートナーたちがいました。ここではエイノ・カウリア、パーヴォ・テュネル、オット・コルホネンの3人を紹介します。
エイノ・カウリア|Eino Kauria, 1903-1997
パイミオサナトリムの壁や天井がカラフルに色分けされていたのをご存知でしょうか。心地よく過ごすためにアアルトは色彩も重要視していました。
そのパイミオサナトリウムの塗装(1932年7月〜1933年4月)とカラーコーディネートを担当したのが、装飾画家のエイノ・カウリアです。残念ながら結核療養所として使われなくなると、ほとんどの壁は白く塗られてしまったそうです。
▶︎ Paimio Sanatorium – The colours of Alvar Aalto(参考)
パーヴォ・テュネル|Paavo Tynell, 1890-1973
鍛治職人のパーヴォ・テュネルは、フィンランドの主要ランプメーカーであったタイト社の創設者として、1950年代までアアルトに照明を提供していました(その後はヴィルヨ ヒルヴォネンが提供)。パイミオサナトリウムのほか、ヴィープリ図書館やサヴォイレストランの照明も担当しています。
タイト社は1918年11月4日設立。1920年代に教会などの金属照明のデザインを手掛け、1954年にイドマン社に合併されました。
オット・コルホネン|Otto Korhonen, 1884-1935
1910年、大工で家具職人のオット・コルホネンは、仲間たちとトゥルクに大工の工房を共同設立します。1927年にアールトが設計を手がけた南西フィンランド農業協同組合ビル内のレストラン「Itämeri(バルト海)」に家具を提供すると、その後のヴィープリ図書館、パイミオサナトリムなどアールトの初期主要プロジェクトに参加しました。
木の特性を知り尽くしていたオット・コルホネンは、アアルトと共に木材曲げの加工技術を開発し、パイミオチェアの製作にも携わりました。また彼のコルホネン家具工房では、Artekの家具の製造を担当しました。
パイミオサナトリウムが傑作とされる理由は、周囲の自然を生かした建物、内装や家具、照明や音響に至るまで、機能主義建築の総合芸術であると考えられるからです。
結核療養所であるからには衛生面だけでなく、患者の方にとって心地よく過ごせる場所でなければなりません。そこでアールトはパートナーたちの協力を得ながら、様々なアイデアを凝らしました。その結果、パイミオサナトリウムは、アールトに国際的な評価をもたらしました。
アルテックの設立

1929年の世界恐慌以降、不況で新しい建設現場が減少していくと、アールトは家具デザインに力を入れていきます。ロンドン(1933年)やチューリッヒ(1934年)など、海外で展示会を開くまでになりました。
海外のサプライヤーとの連携を取るため、またフィンランド国内でのアアルトの家具の認知度を広めるため、1935年10月、マイレ・グリクセン、ニルス・グスタフ・ハールらと家具販売とモダンな生活文化の普及を目的としたアルテックを設立しました。
アルテック(artek)という名称は「芸術(art)」と「技術(technology)」を組み合わせた造語です。
ヘルシンキに最初の店舗をオープンしたアルテックでは、アールトの家具だけでなく、厳選した輸入品も取り扱いました。さらに併設されたギャラリーではモダンアートの展示会(フェルナン レジェ&アレクサンダー カルダー、ピカソやブラックも)を開催しました。
現在(2022年5月)Artek Tokyo Storeでは、「アイノ・アールト 美しき日常|Kaunis Arki」という展示を見ることができます。パイミオサナトリウムが建設された頃にデザインされた家具が、現在も販売され、人気を博していることは本当に驚くべきことだと思います。
以上、3回にわたってお届けしてきた「アールトとパイミオサナトリウム」いかがでしたでしょうか。
パイミオサナトリウムの価値についてほとんど理解していませんでしたが、今回のレクチャーを聞いて、また自分であらたに調べてみることで、アールトの名が今も語り継がれている理由のひとつであったことを知りました。いつかパイミオサナトリウムを実際に見に行ける日が来ることを願っています。
長くなりましたが、読んでいただきましてありがとうございました。
参考:『アイノとアルヴァ 二人のアアルト』(図書刊行会)
2022年5月31日
text:harada